漱石の阿蘇登山
夏目漱石(1867-1916)が松山中学を辞任して、第五高等学校に月給100円で熊本に赴任したのは明治29年4月のことであった。はじめ菅虎雄の家(熊本市薬園町62番地)に同居。やがて明治29年5月4日、熊本市通町103番地、現在の下通町、光琳寺に一戸を構えた。ここで6月、中根鏡子(1877-1963)と結婚式をあげた。9月20日、熊本市合羽町237番地(現・坪井町)に移転。家賃13円の広い家だった。明治30年9月10日、熊本県飽託郡大江村401番地(現・新屋敷)に移転。明治31年3月、井川淵町8番地に移転。明治31年7月、熊本市坪井町78番地に移転。明治33年3月末、熊本市北千反畑78番地に移転。そして明治33年5月12日に英語研究のため、イギリス留学を命ぜられ、熊本を去る。4年3ヵ月の熊本滞在中に6回も引越ししている。またこのころ30歳から34歳の漱石は身心壮健で、小天温泉、山鹿温泉、久留米、耶馬溪、内牧温泉(阿蘇)など旅行をよくしている。まだ交通の整備されていない時代であろうから、かなりの健脚であったと思われる。ちなみに漱石は身長158,8cm、体重53.3㎏(明治23年の測定)で当時としては平均よりやや良好な体格であった。
明治32年9月には、山川信次郎と共に、阿蘇中岳へ行く。最初の日、戸下温泉を経て、内牧温泉養神亭(現・山王閣)に泊まり、阿蘇神社に詣で、現在の仙酔峡道路で高岳まで登ったと思われる。この旅行が「二百十日」の素材となっている。
明治30年頃の阿蘇中岳への登山道はこのように整備されていなかったであろう
« 国立国会図書館にない本 | トップページ | 粟島海員学校 »
「日本文学」カテゴリの記事
- 畑正憲と大江健三郎(2023.04.07)
- 青々忌(2024.01.09)
- 地味にスゴイ、室生犀星(2022.12.29)
- 旅途(2023.02.02)
- 太宰治の名言(2022.09.05)
コメント