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1982年6月、東北新幹線が開業した頃の話。西村京太郎と斎藤栄は共にタイトルに「○○殺人事件」とつける。つまり二人はともに「東北新幹線殺人事件」を同じ頃に執筆していた。光文社と徳間書店は同じタイトルでは具合が悪い。そこで片方を「東北新幹線殺人旅行」として、書名の衝突を回避することが出来た。
1994年にはタイトルが「人間失格」というドラマの企画があった。太宰の小説とは全く別の話である。これが太宰治の遺族の耳に入り抗議があり、局ではタイトルを「人間・失格」とした。同じであれば権利の侵害になるのかどうかはしらない。過去には、同じタイトルの小説やドラマは多くある。今後も出てくると思う。郷ひろみ主演の映画「聖女伝説」(1985)と多和田葉子の小説「聖女伝説」(1996年)とは全く別の話である。
読書にとってよい季節となった。阪本一郎(1904-1989)の「速読のすすめ」(1969年)という本が手元にある。アメリカで速読術のブームが起きて、日本にもサラリーマン向けの速読法の本が出たしたのは1960年代になってからだろう。馬淵時彦・藤田拓司「速読術」(1962年)、佐藤泰正「速読法」(1969年)。阪本一郎の本には「速読法などと言うと、軽べつする人がある。そのために精確度が落ちるという先入観をいだいている人である。たしかに速度と確度とが反比例する事実はある。しかしそれは不熟練者の層においてであって、やや熟練した読者層以上にあっては、両者はあいいれないものではないのである」とある。面白いのは食堂での話。職員食堂で、阪本は軍隊で鍛えられていたほうだから、食事は早い。あっという間に平げてしまう。あとは、タバコをふかしながら、めいめいの食べ癖を観察する。食事にも無くて七癖。読書にも悪い癖があるという話。これは40年以上の前の本である。いまは食事は腹八分目で、ゆっくりとよく噛んで食べるのがよいとされている。糖尿病の予防と治療にも効果がある。読書と食事とは無関係なのか、関係するのか、それが問題だ。
西堀栄三郎(1903-1989)の専門は化学。国立国会図書館で検索すると、本はだいたい品質管理、南極越冬、創造性開発などに分かれる。原子力エネルギー開発の本まである。南極探検と原発がどのようにつながるのだろうか。
東京大学の山根章弘はもっと広がっている。もともと美学が専門らしいが、アニメから世界映画芸術史、羊毛文化物語、「知的マナー」「葬儀・法要・墓石の知識」と礼儀作法。懐紙の折り方など変化が激しい。
これだけ情報が公開されている時代だから、若い人にはもっと多様なジャンルを研究することをオススメする。
朝ドラ「おひさま」を見ていたら、「甘辛しゃん」を思い出した。樋口可南子が出演していた。主演の佐藤夕美子はあまりテレビでは見ないが、舞台に出ているのだろうか。東海テレビ制作の「はるちゃん」のヒロイン中原果南もどうしているのだろう。
1997年のTVガイドを読むと最近見かけなくなったタレントも多い。越前屋俵太は書家になっている。料理バンザイの中村あづさは引退。「ノックは無用」の横山ノックは故人・上岡龍太郎は引退。「正月映画大百科」の今野雄二は2010年に自殺、岡部まりは同年参院選落選。「真昼の決闘!どっちやねん」の大桃美代子は復帰しているのだろうか。「報道スクープ」の料治直矢や筑紫哲也は故人。女子アナでは久保純子、進藤晶子、八木亜希子が人気だった。「成田離婚」の緒沢凛、「ねらわれた学園」の村田和美は芸能活動休止。「めざましテレビ」の菊間千乃は2007年にフジテレビを退社。当時、人気の華原朋美、篠原ともえ、鈴木蘭々、遠藤久美子、榎本加奈子(佐々木夫人)、雛形あきこ(水戸黄門に出演)、菊池麻衣子もあまりテレビで見ることはない。浮き沈みの激しいテレビの世界。1997年、この年は山田まりやが「スーパージョッキー」の司会デビューしている。今もNHK「あさイチ」にゲストでよく見かける。やはり場の空気を読む頭の回転の速さで生き残れたのだろう。
日本列島を襲来した台風の影響で奈良県の十津川村、野迫川村、五條市大塔町などが堰き止め湖の土砂災害のおそれれがあるという。ニュースには「おおとう」と言っていたが、あの南北朝の大塔宮(だいとうのみや)にゆかりがあるのだろうか。調べると奥吉野の秘境十津川は大塔宮護良親王(1308-1335)が落ち延びた地である。宮はこの地に潜伏し、竹原八郎、戸野兵衛らが匿った。「太平記」によれば、宮は竹原滋子という娘と恋に落ちたとか。宮は気性の激しい性格ながら、女性とのロマンスもさかんで、立花姫(北畠親房の娘)、鎌倉での雛鶴姫との間にも一子をもうけている。宮は鎌倉へ送られ、淵辺義博に殺害された。村名は「だいとうむら」としては宮に対して恐れ多いとの思いから、読みは「おおとうむら」としたと言われている。
モゴール(左)とドニーダ(右)
1960年前後、日本ではイタリアのカンツォーネ・ブームに沸いた。背景にはイタリア映画の影響もあるが、アメリカからの影響もある。というのは、フランク・シナトラ、ディーン・マーチン、ペリー・コモなど当時の大物歌手はイタリア系が多かった。「アルベデルチ・ローマ」はディーンで、「アルディラ」はコニー・フランシスで聴く、という調子である。もちろんサンレモ音楽祭の入賞曲は日本語カバーで発売された。布施明のデビュー曲はボビー・ソロのサンレモ優勝曲「君と涙とほほえみを」である。日本でよく流行したカンツォーネの名曲の一つに「アルディラ」がある。イタリア語で「世界の彼方」の意。原曲はルチアーノ・タヨーリとベティ・クルティスであるが、映画で歌ったエミリオ・ペリコーリが世界では広まった。日本ではトニー・ダララの曲がヒットした。作曲はカルロ・ドニーダ、作詞モゴールの黄金コンビ。ウィルマ・ゴイクの「花のささやき」「夢の誓い」「ささやく瞳」などがある。
スキーター・デイヴィス ジュリー・ロンドン
ボビー・ヴィントン エディー・アーノルド
ナンシー・シナトラ パティ・ペイジ
「エンド・オブ・ザ・ワールド(この世の果てまで)」(1963)はスキーター・デイヴィスの最大のヒット曲だが、失恋の悲しみを歌った美しいバラードは竹内まりやも歌っているほどスタンダード曲になっている。発売当時もたくさんの歌手がカバーした。ボビー・ヴィントン、エディー・アーノルド、ナンシー・シナトラ、パティ・ペイジ、ブレンダ・リー、クロディーヌ・ロンジェ、ツイギー。日本ではジュリー・ロンドンでヒットした。ジュリーは1926年9月26日カリフォルニア州サンタクララ生れ。両親が芸人だったので幼い頃から歌っていた。18歳のとき、アラン・ラッドの二番目の夫人スー・キャロルに誘われて映画界入り。(「いるかにのった少年」をカバーしている)1955年にレコーディングした「クライ・ミー・ア・リバー」がヒットして、ジャズ歌手して活躍。その後、映画音楽やラテンなどセクシーな歌い方で人気があった。最大のヒット曲は「世界残酷物語」のテーマ曲「モア」。
柏原藩(かいばらはん)は丹波国氷上郡橿原(現在の兵庫県丹波市柏原)に本拠を定めた外様小藩である。慶長3年6月、伊勢国安濃津城主であった織田信包(織田信長の弟)が柏原に移封されて藩が始まる。信則、信勝と続き、慶安3年、信勝の没後途絶し45年間幕領となっていたが、元禄8年同族の織田信休が大和国郡山から2万石で入部して復活した。信包時代の居館の位置は不明だが、信休は陣屋構えの居館をつくり大書院などの御殿、長屋門、侍屋敷を配置した。市街地は中世以来形成されていた柏原八幡宮の門前町と陣屋前面の屋敷町が統合したもので、寛政6年の家数700軒ほどの小規模な都市であった。しかし元禄期に俳人・田捨人をうみ、幕末期には藩校又新館(ゆうしんかん)や崇廣館(すうこうかん)がつくられるなど文化や教育の中心地となっていった。両館の蔵書は現在・柏原町歴史民族資料館に約6000冊が保管されている。
MGMの少女スター、ディアナ・ダービンとジュディ・ガーランドは何もかも対照的だった。共に歌が得意だがオベラとジャズ。年齢はわずか6ヵ月だけダービンのほうが上だった。だがジュディはガム・シスターズとして映画デビューは早かった。二人は「アメリカーナの少女」(1936)で共演している。日本でも人気はダービンのほうが高かった。「オーケストラの少女」は戦前、日本で大ヒットした。ジュデイの「オズの魔法使い」(39)は大戦のために、戦後に日本公開された。終戦直後は日本ではダービンのほうがスターだったが、本国アメリカではミッキー・ルーニーとのAndy Hardyシリーズが大ヒットし、本格的ミュージカルスターとして歩みはじめていた。ジュディは一時スランプにおちいるものの「スタア誕生」(54)でカムバックし、アカデミー主演女優賞を獲得。1969年睡眠薬の飲みすぎで47年の短い生涯をとげる。一方のダービンは49年には引退し、89歳の現在パリで悠々自適の生活。まことに二人は対照的である。
「シーザーとクレオパトラ」(1945)と「バス停留所」(1956)を見る。ヴィヴィアン・リーとマリリン・モンローの主演作豪華二本立て。ヴィヴィアンは「風と共に去りぬ」でオスカー女優となり、1940年にオリヴィエと結婚、舞台女優としても充実していた頃。バーナード・ショーの脚本がベースになっているので、セリフ中心で歴史スペクタクルを期待すると物足らない。しかし、ヴイヴィアンの声の美しさや華奢なクレオパトラは必見に価する。1945年という年は日本では終戦だが、すでにドイツは降伏しており、イギリスには平和がもどってきた時代。スチールではモノクロだが、実際の映画はカラー作品。「ナイアガラ」でセックス・シンボルとなったモンローが「七年目の浮気」で人気は頂点に達した。「バス停留所」はハリウッド女優にあこがれる場末のショー・ガールがモンタナの純朴な青年からのプロポーズを断りながらも、真実の愛に目覚めるという元祖ラブコメ。原作はウィリアム・インジなので「ピクニック」と似ている。演技派女優をめざすモンローだが観客の期待はセクシーなモンロー。そのギャップに悩むのは数年先のことか。モンローが62年、ヴィヴィアンが67年に天使たちが昇天した。ドン・マーレーは82歳で健在。
物の値段には相場というものがある。たとえば世界一周にいくらかかる、とか車一台いくら、といっても旅行日程や車種で大きくことなる。入院費用にいくらかかるといっても病気の症状や病室で異なる。だがこの世の中を生きているにはざっくりした相場を知っておいたほうがよい。
小額から見てみよう。大相撲の入場料は?マス席なら高いが自由席なら2100円。東京ドームの外野席2000円とほぼ同等。
ホテルや旅館の一泊宿泊料は?だいたい1万円以下のところが多い。
東京・新大阪新幹線の自由席は?ひかり・のぞみとも10070円。新車の販売価格は?国産車で200~300万円。外車ベンツなどで2500万円以上のものもある。
入院費用。健康保険適用で軽い病気の場合、公立で1ヶ月10万。民間で12万円。(個室だともっと高い)
新築注文住宅はいくらかかるか?建物本体工事を坪単価60万円として35坪で2100万円。ただし風呂とか台所とか内装、電気などすべて即入居できるようにするのが普通なので3000万以上とられる。さらに土地取得に都市部だと同額ぐらいかかる。さらに住宅取得に税金、保険料がかかる。不動産登記に出費。さらに毎年、高額の固定資産税がかかる。結論をいえばマイホームは持たないで賃貸生活のほうがいいと思う。
秋場所、終盤にきて優勝の行方がもつれてきた。それにしも新しい力士が増えた。若荒雄、磋牙司、臥牙丸、翔天狼、寶智山、正しく読めるだろうか。むかしのように「山」「川」「海」のしこなが減った。それでも幕内では山は6人、海は2人いる。「川」のしこなは幕内、十両には一人もいない。大正中期、大阪相撲で猫又三吉という珍名力士がいた。奇襲が得意で「猫だまし」で相手の体勢をくずした。阪神大震災の後、「福興山」(ふっこうやま)という力士もいたが2007年に引退。外国人力士も増えたので珍名も多い。「戦闘竜」(せんとりゅう)はセントルイスの出身だった。「星誕期(ほしたんご)」はアルゼンチンの出身。プロレスに転向。「星安出寿(ほしあんです)」も2000年に引退。琴光喜は「光り輝く相撲で観客を喜ばす」という願いが込められていたが、なんと野球賭博で解雇された。海苔と同じ名前の山本山は八百長で引退。
中嶋美千代、渡辺典子、松本典子、仲根かすみ、瀬能あずさ、姿美千子
サブローこと大村三郎の奥さんはアイドルの中嶋美千代。今年、巨人に移籍。甲子園にはPL学園でベスト4まで進出している。広島の石井琢朗は甲子園出場とアイドル瀬能あずさと結婚したことがある。巨人の高橋一三や倉田誠は橘和子、姿美千子とそれぞれ女優だが甲子園の活躍はない。いわゆる男の子の夢、①甲子園で優勝、②巨人、③アイドルと結婚、という高いハードルを2つまではクリアした人はいるが3つを完全制覇した人はいない。
いや3つをクリアした選手は過去に清原和博だけだろう。奥さんはセブンティーン・クラブの木村亜紀。芸能活動がイマイチなので、パーフェクトとは言い難い。西村健太朗も広陵で優勝、巨人入団だが奥さんは一般女性。元木大介は巨人に移籍し、アナウンサーの大神いずみと結婚したが、甲子園で優勝はしていない。王、長島、原、江川、桑田でも果たせなかった。金田正一は巨人で歌手の榎本美佐江と結婚していたが甲子園には出場せず。
3条件でアイドルとの結婚が一番困難な要素か。過去に歌手、女優、グラビアアイドルなどと結婚した選手は、藤本勝巳(島倉千代子)、笘篠賢治(松本典子)、西岡洋(渡辺典子)、和田毅(仲根かすみ)、佐々木主浩(榎本加奈子)など。アナウンサーまで広げると多数いる。現実面を考えると、スタミナがつく手料理が不可欠な野球選手にとって女優・アイドルがふさわしいかやや疑問。ディマジォとマリリン・モンロー、ダルビッシュとサエコの例のように。よけいなお世話でした。
「プロ野球選手名鑑2009」をみる。巨人の選手で名が「○也」をさがす。内海哲也 久保裕也 山口鉄也 松本哲也 深田拓也 木村拓也 隠善智也 岸川勝也 以上8人。いま「○也」は人気名だが、いつごろからか。明治・大正生まれの人に「○也」はすくない。「○也」ブームが起きたのは昭和40年のことである。岸川勝也は昭和40年生れである。渡哲也が日活デビューし、石原裕次郎と「泣かせるぜ」で共演したのが昭和40年。南海ホークスの野村克也が三冠王に輝いたのが昭和40年。藤竜也は昭和37年に「望郷の海」でデビューしているが広くその名が知られたのは「愛のコリーダ」(昭和51年)からである。すると、「○也」の影響が最も大きかったのは、野村克也ということになる。字をかえれば城卓矢の「矢」が「骨まで愛して」(昭和41年)の大ヒット。これが昭和40年頃、「○也」「○矢」が命名のブームの追い風になった。「○也」は青年のイメージがある。映画スターによる印象が大きい。戦前戦後に活躍した二枚目、宇佐美淳(1910-1980)がいる。実は、「宇佐美淳也」のほうがよく知られた芸名だ。三橋達也(1923-2004)は松竹→日活→東宝と移籍したが、男のダンディズムを発揮し、和製ケーリー・グラントといわれた。明治35年生まれに図書学の権威、長澤規矩也がいる。
この話をある人にしたら、「否、也のルーツは児雷也(自来也)だ」といわれた。
明るい藍地に目も醒めるばかりのあやめの大柄模様、それから脱け出た若い女性の肌の清らかな香気、さらにバラ色に染まったような耳のあたりの艶っぽさ、そんな構成と色彩感覚が見事である。
岡田三郎助(1869-1939)は、佐賀県佐賀町八幡小路に石尾孝基の4男として生まれる。はじめ曾山幸彦に、のち黒田清輝に学んで白馬会の創立に参加、東京美術学校西洋画科の新設に際し助教授となった。フランスに留学してラファエル・コランに師事、帰国して美術学校の教授になり、明治40年東京勧業博覧会で「某夫人像」が一等賞となった。のち藤島武二と本郷絵画研究所を設立、帝国美術院会員、帝室技芸員になり、昭和12年には第1回文化勲章を受賞したが、昭和14年9月23日没した。
「アンチェインド・メロディー」はアレックス・ノース(1910-1991)が1936年に作曲した。刑務所映画「アンチェインド」の主題歌としてこの曲が使われたが、詩の中には、「unchained(解放される)」という語は使われていない。長い間ひとりぼっちで会えなかった恋人への愛をハイ・ザレットは歌詞にした。その後、リッキー・ネルソン、エルヴィス・プレスリーらがカバーしたが、もっとも有名なのはライチャス・ブラザーズが1965年に録音したバージョンだろう。これは映画「ゴースト ニューヨークの幻」の主題歌として世界的にリバイバル・ヒットした。だが「アンチェインド」が囚人の歌なのか、会えない恋人への愛をうたった歌なのか曲名と歌詞とが一致しない不思議な曲である。
「がんばろう!!日本」がいまは国民の間のスローガンとなっているので、東北地方や福島の方に対して失礼な言動は慎むべきであろう。4月の花見などの宴会を止めるべきだという自粛ムードが全国で広がった。中止したところもあるし、例年どおりやるほうが活性化になると実施したところもある。福島産花火中止問題で日進市の市長が謝罪した。電話などの抗議が約3000件以上あったという。ベルギー・サッカー協会はケルミナルのサポーターが「フクシマ、カワシマ」と野次を飛ばしたことで同クラブに約270万円の罰金を科すという。韓国で全北サポーターが「大地震をお祝い」の幕を掲げた問題で、C大阪が抗議、全北側が謝罪をした。不謹慎シンドローム、極めつけは、鉢呂吉雄の「死の町」「放射能つけちゃうぞ」発言。世界のテレビ局で福島原発をネタにした不謹慎な内容のものも出てくるだろう。いまは第三者であってもこれらに目を光らせて抗議するご時世である。やはり不謹慎な言動は注意すべきか。
徳川家康は兄弟に恵まれなかった。祖父の清康は26歳で、父の広忠は24歳で、それぞれ暗殺された。このため母伝通院が久松俊勝と再婚した子、異母兄弟である、康元、康俊、定勝などに松平姓を与え、徳川一門を強固なものにしようとした。
徳川家康には17人の子が知られており、そのうち男子は11人であった。そのうち2代将軍に補任されたのは秀忠である。ほかの男子のうち9男義直、10男頼宣、11男頼房は徳川姓を許され御三家を創出した。秀忠の血統は7代家継までである。吉宗は紀州家の出で家康の曾孫にあたる。
寛政の改革で知られる松平定信(1758-1829)は徳川宗武(田安宗武)の7男で吉宗の孫にあたる。御三家・紀州吉宗の血を継ぎながら何故に徳川姓を名乗れなかったのか。宗武は父が将軍就任にともない、西の丸に入った。田安門内に邸地を与えられたことから田安と通称された。定信もこのままであれば徳川姓を拝領するところであるが、不運にも1774年に久松松平家の庶流で白河第2代藩主・松平定邦の養子とされてしまった。定信は1783年に白河藩主に就任した。定信は徳川家康の異母兄弟である定勝から数えると9代にあたる。(7代定賢のとき白河に転封された)。アナウンサーの松平定知は定勝を祖とする久松松平家の子孫にあたる。
ニューベリー賞は、アメリカで出版された児童書の中で、もっともすぐれたものに対して年に一度贈られる、権威ある児童文学賞。1922年にアメリカ図書館協会によって創設され、世界で最初の児童文学賞。賞の名前は、18世紀イギリスの出版業者ジョン・ニューベリー(1713-1767)にちなんでいる。
1922 人間の歴史の物語 ヴァン・ルーン
1923 ドリトル先生航海記 ヒュー・ロフティング
1924 黒いフリゲート船 ホーズ
1925 銀の国からの物語 チャールズ・フィンガー
1926 海のシェン クリスマン
1927 名馬スモーキー ウィル・ジェームズ
1928 ヒマラヤの伝書はと ムカージ
1929 100まんひきのねこ ワング・カアグ
「こうせつと仲間たち」というNHK第一の放送を聴く。ゲストは森達也という作家。2010年に「A3」で講談社ノンフィクション賞を受賞したいる。南こうせつ「Aとは何ですか?」森「これを聴くとラジオを消されるかもしれない」
森はこれまでドキュメンタリー映画「A」「A2」を制作している。Aとは麻原彰晃のこと。森はオウム真理教に対するマスコミの一方的な報道を批判している。彼は言う。「日本はオウム事件から変わった」と。一人が怖いから集団化が進んだ。日本人全体が一人で考えないといけない。「がんばろう!日本」のスローガンも批判的である。団塊の世代も何かしらのうしろめたをもっている。地震大国と知りながら原発を容認してきた。日本人の品格とか誇りという国家主義的傾向にも批判を向けている。一個人を大切にし、うしろめたさを固持しながらも、現実に目をそらさないで日常をおくることをのべる。NHKのトーク番組としては過激な内容かもしれないが発言に対して評価したい。
1810年代からイギリスに若干遅れて現れはじめたアメリカの鉄道は、クーパーがトムサム号で1830年にボルティモア・オハイオ鉄道で本格的建設を始めた。1840年には、東部および中部大西洋岸からイリノイ州の地域に広がった鉄道網は2800マイルに達し、すでに将来の鉄道王国を予想させた。1850年には9000マイルが敷設されるが、その後の10年間の伸びはいちじるしく、1860年には約3万マイルに達した。このころボストン、ニューヨーク、フィラデルフィア、ボルティモアとシカゴを中心とする西部を結ぶ東西諸幹線が貫通し、1851年のイリノイ・セントラル鉄道をはじめとして、鉄道建設援助のための公有地が各鉄道会社に与えられて、西部での建設も本格化し、東部の工業地域と西部の農業生産地域を結ぶ大動脈を形成しはじめた。南北戦争中の混乱期を経て、戦後には大陸横断鉄道(1869年5月10日にユニオン・パシフィック鉄道とセントラル・バシフィック鉄道がユタ州プロモントリーで結合し完成する)をはじめ西部の未開地へ鉄道が伸長し、東部のすでに鉄道を持っている地域でも間隙を埋めるかたちの建設が続き、1880年代には毎年7000マイルが増えるという最高の建設期を迎えた。この間、鋼レールの普及、機関車の大型化を中心とする技術革新が続いた。南部の鉄道網は南北戦争前には貧弱であり、戦後は北部の資本の支配を受けることになるが、80年代以降いちおう整備された。これを含めて全国的にウォール街が鉄道金融を支配することになり、鉄道経営者のなかからC.バンダービルト、A.L.スタンフォードらの富豪が続出することになった。
一方、すでに1870年代から鉄道業においても大ストライキが起こり、グレンジャー運動などの農民の反鉄道運動もみられたが、90年代の鉄道独占形成の時代には各方面で鉄道批判が行なわれた。アメリカ鉄道業は、1916年に25万マイルに達してピークを迎え、その後第2次大戦期まで黄金時代であったが、その間石油の大量生産と低価格化、内燃機関の技術革新によって大衆化した自動車、飛行機に徐々に地位を奪われ、70年代には20万マイルに減って、旅客輸送は激減し、アムトラックと呼ばれる半国鉄制度に移行した。日本と異なり、貨物輸送ではいまだに三分の一が鉄道によっているが、長距離輸送が必要なことがその原因である。(参考:小沢治郎「アメリカを知る事典」平凡社)
米国では20世紀前半から児童書に対する関心が高く、質の高い絵本が数多く出版されている。世界には優れた児童文学作品に対し各種の賞が贈られている。ニューベリー賞、国際アンデルセン賞、ケイト・グリーナウェイ賞、ボローニャ国際児童賞。なかでも米国のコルデコット賞は1937年の創設以来、絵本の発展に大きく貢献してきた。賞に名前を冠されたランドルフ・コルデコット(1846-1886)は、19世紀後半のイギリスの挿絵画家・絵本作家である。受賞作品には「聖書の中の動物」「メイリイとおまつり」「アブラハム・リンカーン」「かれらは強く善良だった」「かもさんおとおり」「ちいさなおうち」「たくさんのお月さま」「子どものためのお祈り」「カラスが鳴く」「ちいさい島」「大雪」「ツバメの歌」「大きな木」「見つけたものが持主」「いちばん大きなクマ」「マダリンが助ける」「シンデレラ」「かえるの求婚」「木はすてき」「驚異のとき」「おんどりときつね」「クリスマスまであと九日」「バプシェカと三人の王さま」「むかし、ねずみが」「ゆきのひ」「いるいる、おばけがいる」「友だちをつれてきてもいいの」「いつでもおへやがあいてる」「サムと月の光」「ドラマーのホフ」「おろか者と空とぶ船」など。
哲学者の中島義道がこのようなことを述べている。(要約)
「志」というと、何か具体的なことを目指すという響きをもっている。弁護士になる、プロ野球選手になる。こうした具体物には必ず技術が伴う。だが、同じ意味で哲学者になるのに「志」が必要だろうか?その志というのは、哲学でメシを食うとか、立派な哲学書を書くとか、大学の教授になるとかの非哲学的具体物に置き換えて了解している。こうしたことから、哲学に関しては「志」はいらない。「志」がはっきりしていればいるほどニセモノである。
(参考:「世界思想」1997春 24号 「志」ということ)
鳥濱トメ(1902-1992)は知覧町(現南九州市)で富屋食堂を営み、多くの特攻隊員の面倒をみて、隊員から「お母さん」と慕われた。フジテレビ・ドラマ「なでしこ隊、秘密基地・知覧、少女だけが見た特攻」(2008年9月20日放送)で薬師丸ひろ子が演じた。トメは「明日には命を捧げていく方からはお金はいただけない」という気持ちからほとんどお金をとることがなかった。そのため自分の持っていた家財道具を売り払って特攻隊員を世話していた。戦後、トメは一人で飛行場の片隅に小さな棒切れを立て、墓参りを続けていた。やがて遺族や関係者を動かし、昭和30年9月には自身の尽力で「特攻平和観音堂」を建立。昭和60年には「知覧特攻平和会館」が建設された。トメは、平成4年、89歳で亡くなった。
日本に初めてバーネットの「小公子」を翻訳し、紹介したのは若松賤子(1864-1896)である。姉妹編「小公女」は「セイラ・クルーの話」という題で、明治26年から27年にかけて雑誌に発表したが、翻訳の途中で、結核で32歳の若さで亡くなった。次いで菊池寛が昭和2年に文芸春秋から出した小学生全集に菊池自身の翻訳で、「小公子」「小公女」が収められている。しかし「小公女」が広く普及したのは、昭和14年の講談社「小公女」であろう。このときの翻訳は水島あやめ(1903-1990)という36歳の児童文学者だった。
水島あやめ。本名は高野千歳といい、新潟県六日町(現・南魚沼町)出身。彼女は日本初の女性映画脚本家で後に児童文学作家となって多数の作品、翻訳を残している。
シャンソンで世界中に知られた「枯葉」は1945年に初演されたローラン・プチのバレエのために作られた曲だった。1946年の映画「夜の門」の中でイブ・モンタンがうたったが、ヒットしなかった。その後、ジュリエット・グレコ、レオ・マジャールらが歌ったが、ラジオを通じて「枯葉」を広めたのはコラ・ヴォーケールである。秋の枯葉によせて、うつろいゆく恋や人生の姿が、しみじみとえがかれている。
コラ・ヴォーケール(1918-2011)は1918年7月22日、マルセイユで生まれた。本名はジュヌヴィエーヴ・コラン。子供のころ家を飛び出してパリへ来て、まず俳優となって、サラ・ベルナール座やコメディ・フランセーズに出演した。1939年、パリの放送局のコンクールに優勝して歌手を志す。1941年、新人コンクールで1位となる。「枯葉」のほかには「小さな三つの音」が知られている。映画「かくも長き不在」の主題歌で、ある女性が、戦争で行方不明になった夫をさがし、やっとそれらしき人を見つけ出したとき、彼は記憶喪失にかかっていた。そこで、彼女は、昔を思い出させようと、この歌のレコードをかけて、夫が好きだったダンスを踊る。コラ・ヴォーケールは今年9月17日、パリで逝去された。享年93歳だった。
関東大震災後、東京に変化がおきた。盛り場はそれまで日本橋・神田が一番だったが、かわって銀座が東京一になる。カフェー、バーがニョキニョキ出現。モガが銀座八丁をそぞろ歩く。女性の髪形は「耳かくし」が流行。大正末期から、ズンドウのワンピースみたいな「アッパッパ」が全国に広がった。昭和7年におきた白木屋の火事をきっかけに「ズロースをはこう」の声がおこり、洋装も広まった。戦後は「美しくなりたい」と洋裁学校がブームだった。昭和30年、落下傘スタイルのスカートが大流行。シームレス・ストッキングが昭和36年に販売されて脚線美を競うようになる。そして昭和40年にはミニ・スカート到来、しかしブームはそう長く続かなかった。バブルのお嬢様ブームやワンレン・ボディコンを経て、いまは萌え系ロリータ・ファションや東京カワイイが世界的ブーム。レジャーは多様で山ガール、釣りガール、歴女、サッカーからラグビーまでスポーツ女子が全開である。
なぜか忘れぬ人ゆえに
涙かくして 踊る夜は
ぬれし瞳に すすり泣く
リラの花さえ 懐かしや
楠木繁夫の「緑の地平線」(昭和10年)である。映画主題歌であるが映画は未見。原作は横山美智子(1895-1986)であるが絶版。思えば吉屋信子(1896-1973)が大正5年に「花物語」で人気作家となって以来、戦前戦後は少女小説の全盛期であった。北川千代、森田たま、水島あやめ、城夏子、三木澄子、大谷藤子、由利聖子、堤千代が登場した。堤は昭和15年「小指」で直木賞を受賞している。これは女性初の直木賞であり、22歳10ヵ月の受賞年齢は、現在でも最年少記録である。病弱の身ながも夫の支えにより、昭和20年代に多くの作品を残している。
野球の塁間は90フィート(27.431m)である。「打者がきれいに打った球を内野手が的確にさばいた場合、打者が世界一足の速い男であろうと、球より早く一塁に到達することはできない。ただし、野手が一瞬でも球をジャッグルしたり、送球が一瞬でも遅れたりすれば、打者はセーフになる。90フィートは完璧を要求する」とスポーツ・ライターのレッド・スミスはのべている。一塁から二塁へ盗塁するわずか3.3秒の瞬間もまことに微妙な長さである。近年は投手がモーションが盗まれることは少なくなり、盗塁数は激減している。現在、聖澤諒が45個、藤村大介はわずか24個だ。昭和47年、阪急の福本豊は106個の盗塁を記録し、シーズン最多は40年後も破られていない。福本が盗塁王になる数年前、陸上競技のランナーが代走専門としてプロ野球にスカウトされたことがある。飯島秀雄という東京五輪に出場し、100m10.1秒の日本記録保持者である。だが実働3年の成績は盗塁成功23、失敗17で、117試合で一度も打席に立つことなく引退した。100試合以上出場しながら、守備でも、打席でも記録がない選手は他にいない。
知らないことほど恐ろしいことはない。私はながい間、ザ・ベンチャーズの「パイプライン」は石油などを輸送する砂漠に設置された送油管のことだと思っていた。これがウィンドサーフィンでいうところの巨大な波のうねりのことだと知ったのは昨年のことだった。砂漠と海との違いは大きい。
ザ・ベンチャーズは日本にエレキ・ブームをもたらしたバンドである。「ダイヤモンド・ヘッド」「キャラバン」「パイプライン」「テルスター」などインストゥルメンタル、つまり歌詞がない。「テルスター」とはアメリカとイギリスのTV中継をつなぐために打ち上げられた通信衛星のことである。原曲はイギリスのバンド、ザ・トルナドース。「パイプライン」も原曲はシャンティズである。
聖書に登場する数字にはすべて何らかのシンボリカルな意味が込められている。よく知られるのは獣の数字666。数字は人間を指しているが、ネロ帝を表すヘブライ文字の和が666になるという。
反対によい数字もある。たとえば144。12×12、つまり完全な和解である、寸分の穴がない数。12とはイスラエルの12部族の数とキリストの十二使徒。1144年に完成したサン・ドニ大聖堂には天国の城壁の高さである144ペキスを建築に取り入れている。ノートルダム大聖堂にはソロモンの神殿の30ペキスが、アミアン大聖堂にはノアの箱舟の50ペキスが取り入れられている。7も神聖に数と考えられている。物理学者のニュートンが虹を7色と決めたのは光学的な見地よりも聖書(神は7日間で天地創造をなした)や宗教的理由によるものである。(数秘術)
日本では江戸時代以来、司馬遷「史記」の底本といえば「史記評林」に拠っていたが、現在では商務印書館の百衲本、中華書局本などを使う。そのほか瀧川亀太郎が昭和7年から9年まで東方文化学院から刊行された「史記会注考証」がある。瀧川の名著はなぜか戦前の学界で評価をうけなかったが、中華人民共和国、それから台湾、香港などで続々復刻され日本にも逆輸入され、日本人研究者も史記研究には必読の書となっている。瀧川亀太郎(1865-1946)。字は資言(すけのぶ)。島根県松江の人で、松江中学から東京大学附設古典講習科(漢書課)を卒業、法制局雇となり、内閣に転じ、明治26年4月、文部大臣井上毅にその文才を認められ、大臣官房属として出仕、明治30年から30年、仙台の第二高等学校の教授を勤めた。その後、20年の歳月を費やして、「史記会注考証」を著した。その祖は戦国武将・瀧川一益の兄であった瀧川範勝で、亀太郎は10世にあたる。
ガブリエルはダニエルにこう告げた。「あなたの民とあなたの聖なる都市に関して定められた七十週がある」70週とは490日のことではない。7年の70倍、つまり490年である。預言者ダニエルはイエスが誕生する500年以上前の人である。罪を終わらせるための七十週とは何か。
70週のはじまりは、ペルシアのアルタクセルクセス王(クセルクセス1世の息子のアルタクセルクセス・ロンギマヌス)の治世の第20年を起点として計算する。アルタクセルクセスの治世は、西暦紀元前474年に始まったので、治世20年は紀元前455年。エルサレムが立て直されたのが紀元前406年。メシアの到来が紀元後29年。メシアが断たれたのが紀元後33年。70週の終わりが紀元後36年で、49+434+7=490年となる。
エイブラハム・リンカーンは聖書に登場するユダヤ人名、アブラハムに由来することはよく知られている。欧米人名には聖書に由来する名をつけることは今日でも一般的である。マシュー・アーノルドのマシューはマタイである。マイケル・ジャクソンのマイケルとはミカエルである。ルーク・ウィルソンのルークはルカ。ピーター・セラーズのピーターはペテロ。ポール・ニューマンのポールはパウロ。ダニエル・ラドクリフのダニエルはそのままダニエル。ジョン・トラヴォルタのジョンはヨハネである。そしてアダムは多い。アダム・ゴールドバーク、アダム・サンドラー、アダム・ブロディーなど。
なでしこジャパンのエース澤穂希。「穂希」と書いて「ほまれ」と読むその名は、生まれた年が凶作だったので、お米がいっぱい獲れますようにとお父さんが名付けたそうだ。美しい名前だ。若い人には読めずに、「ホキちゃん」と読むそうだ。だが年輩者なら、日露戦争の軍神、乃木希典を思い出す。「まれすけ」の「希(まれ)」だ。戦いに勝利する字である。またなでしこメンバーには「穂」の字がつく選手が多い。川澄奈穂美、阪口夢穂、福元美穂。
朱子学の創始者・朱熹の父は朱松(1097-1143)という。朱熹の父親だけのことはあって、優れた学識を持ったなかなかの文化人であった。朱松は息子に蘇軾の「昆陽城の賦」を書き与えている。この賦は王莽の大軍を破って、漢の王室を再興した後漢の光武帝を歌ったものである。そのころ宋は靖康の変で都を臨川に移した。講和派と抗戦派に対立した時代だが、朱松は我が子に自分が果たせなかった国家再興の悲願を託したのであろうか。
陶侃(259-334)は東晋時代の武将。荊州、雍州、益州、梁州の都督をかね、南蛮校尉、征夷大将軍となった。陶侃は軍政の実務家であるから、当時の士人の間に流行していた老荘の思想は好まなかった。ある時、未熟な稲を手に持っている人を見つけて、陶侃がたずねた。「それを何にするつもりか?」「道ゆくままに、気まぐれに引き抜いたまでさ」陶侃は真っ赤になって怒った。「おぬしは自分で田も作らず、たわむれに人さまの稲を盗んだのか」と。このとおり真面目な人間だった。76歳で病没するまで、「妾数十人、召使千余、珍奇なる宝貨は、朝廷よりとめり」といわれた。力も富も並はずれたほどの豪族だった。曾孫の陶淵明が「帰りなんいざ」と官を辞して郷里に帰ったとき、そこには田園があり旧宅があって、温かく迎えてくれたのは、やはり陶家の子孫だったからであろう。
日曜日の朝、TBSテレビの人気番組、関口宏の「サンデーモーニング」。球界のご意見番、張本勲の「褐!」は名物コーナー。なでしこジャパンの澤穂希の長い髪に関して「暑苦しいから、髪を切れ」と苦言。側の長い髪の女子アナも何もいえなかった。本心は何か言いたいのだけれども、張本には逆らえない雰囲気。なにかこの番組は男尊女卑のムードがただよう。張本に逆らった江川紹子も出演しなくなった。ゲストの中村桂子も沈黙。科学者は自分の領域しかコメントしないらしい。でも澤選手が好きで伸ばしているのだから、誰も何も言わないのがよろしい。世界一のチームリーダーで国民栄誉賞だ。格好なんかで文句つけるな。髪を伸ばして、あの闘争心とスタミナ、パワーの源は長い髪にあるかも。張本は聖書にでてくるサムソンが髪を切られて、怪力を失ったことをご存知か。
夏目漱石(1867-1916)が松山中学を辞任して、第五高等学校に月給100円で熊本に赴任したのは明治29年4月のことであった。はじめ菅虎雄の家(熊本市薬園町62番地)に同居。やがて明治29年5月4日、熊本市通町103番地、現在の下通町、光琳寺に一戸を構えた。ここで6月、中根鏡子(1877-1963)と結婚式をあげた。9月20日、熊本市合羽町237番地(現・坪井町)に移転。家賃13円の広い家だった。明治30年9月10日、熊本県飽託郡大江村401番地(現・新屋敷)に移転。明治31年3月、井川淵町8番地に移転。明治31年7月、熊本市坪井町78番地に移転。明治33年3月末、熊本市北千反畑78番地に移転。そして明治33年5月12日に英語研究のため、イギリス留学を命ぜられ、熊本を去る。4年3ヵ月の熊本滞在中に6回も引越ししている。またこのころ30歳から34歳の漱石は身心壮健で、小天温泉、山鹿温泉、久留米、耶馬溪、内牧温泉(阿蘇)など旅行をよくしている。まだ交通の整備されていない時代であろうから、かなりの健脚であったと思われる。ちなみに漱石は身長158,8cm、体重53.3㎏(明治23年の測定)で当時としては平均よりやや良好な体格であった。
明治32年9月には、山川信次郎と共に、阿蘇中岳へ行く。最初の日、戸下温泉を経て、内牧温泉養神亭(現・山王閣)に泊まり、阿蘇神社に詣で、現在の仙酔峡道路で高岳まで登ったと思われる。この旅行が「二百十日」の素材となっている。
明治30年頃の阿蘇中岳への登山道はこのように整備されていなかったであろう
キリストが生まれたのは西暦何年か?このような疑問にすぐに応えられるように手元に年表を備えている。諸説あるものの紀元前4年とする本が一般的である。わたしが中学2年生のときに使った副読本にも「BC4年 キリスト生まれたといわれる」とある。明治図書の「新訂歴史年表」(岩浅農也編)である。80頁で1966年までの事項が記されている。昭和42年の出版物。40年以上使ってきたことになる。書名や岩浅農也で検索するが該当図書はヒットしなかった。国立国会図書館の蔵書検索で調べてみたが、所蔵していない。なぜ明治図書という大手出版社なのに所蔵していないのか。納本制度に疑問がでてくる。もちろん個人の自費出版物や会社・役所の印刷物のなかには国立国会図書館に納本しなかったものもあるだろう。一般の取次ルートで市販されていた本が国立国会図書館にないというのは、果たして全点収集がなされていたのか疑問が生じている。もっといろいな本で調べてみよう。「新訂歴史年表」は学参扱いで除外か。
ケース2.「わたしの論語」 大前誠二著 文教書院 昭和39年も国立国会図書館に所蔵せず。同著書の「わたしの易」(昭和41年)も所蔵せず。自費出版のためか。
菅首相は所信表明で、「最小不幸の社会をつくることが政治の役割だ」と述べたが、日本は最大の不幸を味わった。続く野田新首相が就任するや、台風12号が襲来して、また多くの国民が不幸に襲われた。天災は政治家の責任ではないと思う人もいるかもしれない。しかし、過激化する土砂災害は過疎化、高齢化の進む地域に多発している。専門家からは都市の人口集中に起因する問題とする指摘がなされている。具体的な措置がとれないのは政治の責任である。
瀬川伸
芸能界では2世俳優が多い。最近では松田龍平、翔太(松田優作)、降谷建志(古谷一行)、北村有起哉(北村和夫)、柄本佑・時生(柄本明)、篠山輝信(父篠山紀信、南沙織)など。過去、大物では阪東妻三郎の子供、上原謙・加山雄三、長嶋茂雄・一茂、貴乃花、佐野周二・関口宏…。ところが親子で紅白歌合戦に出場したとなると意外と少ない。長い歴史のなかで瀬川伸・瀬川瑛子、森山良子・森山直太朗の親子しかいない。ヒット曲を出すことがいかに至難なことか。
原巨人はラミレスの四番復帰でヤクルトに勝ち、なんとか優勝の可能性を残した。だがあれほどの選手層がありながらなぜ巨人は弱いのか。その一因は不安定な選手起用にあると考える。①東野のストッパー②一番坂本、藤村?③四番ラミレス、長野、高橋由④補強、高橋信、大村いずれも出番少なし⑤新外国人、アルバラデホ、ロミロは敗戦処理、ライアルは貧打で守備力なし⑥谷、松本、矢野といった攻守好打の選手が飼い殺し⑦ローテは1週間。むかしは中4日が普通。決戦の9月に入ってもまだのんびりムード。つまり全員野球は固定せず責任も少ないので楽ちん、ぬるま湯で盛り上がらない。ヤクルト戦で高橋信二が捕手したのには驚いた。翌日、高橋は一塁を守ったが、青木のなんでもない一塁ゴロをエラーしていた。不慣れなポジションは無理がある。9月になってもベストメンバーが固定できないチームが優勝できるだろうか。巨人の試合に注目したい。
豊臣秀吉から徳川三代将軍の頃まで大名の転封、すなわち国替(くにがえ)が頻繁におこなわれた。幕藩支配体制の確立を目的とするものであったが、結果的には、日本全土にわたる均等な開発、国土保全など大きな効果が上がった。NHK大河ドラマを見ていても、「功名が辻」では山内一豊が遠州掛川から土佐へ、「天地人」では上杉景勝の越後から会津への転封など当時の様子がよくわかる。忠臣蔵でお馴染みの播州赤穂は元来、常陸笠間であった。左遷ともいわれる国替であったが、浅野藩は塩田開発など領国経営に成果があった。
ひるがえって現代日本の政治状況をみるにつけ、地方は荒れ、秀吉、家康のような政治力が望まれる。田中角栄が日本列島改造論を唱えたのも、そのような意図があったのだろう。菅や野田のような宰相では、地方出身者であったかもしれぬが都会生活に享楽しただけで、本当に国土再建が念頭にあるとは思えない。国土は荒れ、自然災害は繰り返される。
俳句の世界は「ホトトギス」の影響で、有季定型の伝統俳句がいまだ勢力を保っている。そして無季俳句といえば種田山頭火、尾崎方哉ばかりが知られるが、秋山秋紅蓼(1885-1966)など芸術性は認められてよい。「あきやましょうこうりょう」と読む。本名は秋山鉄雄。富士川舟運とともに栄えていた呉服問屋大黒屋の二男として、山梨県南巨摩郡鰍沢町に明治18年12月、生まれた。秋紅蓼は無季自由律の論客として荻原井泉水を支えた。句集に「夜の富士」「梅花無限」など。
春の白い富士に犬が来ている野の道
夕べ吹かれているみんなふるさとの草
僧一人わたりゆき長き橋夕空
船を満月の町につける
虫一つ鳴けり鳴きつづく虫ら
NHK大河ドラマ「江 姫たちの戦国」では秀忠や江は愛すべき人物として描かれている。だが後水尾天皇との確執をみるとドラマには出てこない悲劇がある。後水尾天皇は秀忠の娘和子の入内が決まりながら、およつとの間に男子をつくっていた。女子を懐妊。それが梅宮、のちの文智女王(1619-1697)である。和子入内の影響をうけ、梅宮は皇女でありながら内親王にもなれず、大和へ隠棲した。山の辺の道の付近にある円照寺は文智女王の開基で、本堂には如意輪観音と後水尾天皇の肖像をまつる。境内は非公開であるが、閑静で江戸時代の庭や二十五菩薩の楽器を石で表現した珍しい庭などがある。三島由紀夫の「豊饒の海」の月修寺は円照寺がモデルである。
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