会津のナイチンゲール・瓜生岩
慶応3年8月20日、薩摩・長州・土佐の3藩を主力とする3000人の倒幕軍は、二本松を出発して、猪苗代城を占領し、8月23日には、会津の城下町若松になだれこんだ。会津藩の士族は、老幼・婦女子1100人をふくめて、若松城に籠城した。倒幕軍は、越後口から進んできた兵もふくめ、総数1万数千人で若松城を包囲し、集中砲火を浴びせた。城中には火災が起こり、天守閣もこわれ、死体がみちあふれた。民家に火をつけ、財産をうばい、老幼の男女を殺し、婦女子に乱暴した。
瓜生岩(1829-1897)は両軍のおびただしい傷病兵を見て、放置しておくに忍びず、傷兵や窮民の介抱に努めた。このときの活躍ぶりは人々の胸をうち、「会津のナイチンゲール」と称された。なりふりかまわず行動する頼りがいのある女として、西軍の板垣退助の目にもとまった。会津若松城開城後、一藩家中の子女を教育するため旧会津藩校日新館を再興しようとした。明治5年、東京に出て、深川の救養会所の救貧事業を実地に研修し、荒廃と貧困に苦しんでいる会津の人たちを救おうとした。帰国するときには、有り金をはたいて魚の干物を買い、行商しながら街道をくだった。帰ると無住の庵を借りうけ、窮民救済に着手し、堕胎の悪習の矯正にのり出し、「仏の岩」とありがたがられた。
明治10年、福島救育所を設立し、水飴製造法を改良して、飴糟からさらにパンや糟飴をつくることも考案し、県下に指導・普及させた。板垣退助らの協力を得て「瓜生会」をつくり、日清戦争の傷病兵の救助にも力を入れた。明治26年、福島育児院と済世病院を設立した。瓜生岩は、夫の佐瀬茂助と死別し、3人の子どもをかかえ、敗戦で故郷を追われる身でありながら、女性社会事業家への道を歩んだ。
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