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2011年8月12日 (金)

神として祀られた極悪人

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  三田村鳶魚によると「江戸は泥棒に始まり、泥棒で終わる」という。江戸時代初期、庄内甚内、鳶沢甚内、幸坂甚内、この三人を江戸の三甚内といった。いまも浅草にある甚内神社に祀られているのが幸坂甚内(こうさかじんない)である。高坂、向坂、向崎、勾坂などいろいろ書く。どれが本当か誰にもわからない。(以下、史実でないことをお断りしておく)巷説によると、槍で有名な武田の臣高坂弾正の子息という。幼名を甚太郎といい、武田家没落後は祖父の高坂対馬に育てられたが、11歳の時に宮本武蔵が、その閑居に一夜の宿を乞うたのが縁で武蔵の弟子になった。武蔵に従って諸国遍歴すること10年、武蔵が江戸お玉が池に町道場を開く時はその代稽古をつとめるほどの腕になっていた。当時の気風はまだ戦国の殺伐が消えず、腕だめし新刀だめしの辻斬りが盛んに行なわれていた。一夜斬殺した飛脚の懐から50両の大金が出てきた。それを持って鎌倉河岸に湯女買いに出かけたことから酒と女に病みつき、これまでの腕だめしの辻斬りが強盗のための辻斬りに変わる。まもなく師の武蔵もそれに気づき、一日彼を大川の舟遊びに誘い、こんこんと戒めて自決を促したが、まだまだ酒色に未練たっぷりの甚太郎は師の隙を見て大川に飛び込み、得意の水練で川底を歩いて逃げ、武州高尾山に登って朝日を拝み、「われをして日本一の大盗賊になさしめ給え」と悪運長久を神に祈り、やがて箱根山中に同類を集め頭目となった。その後、江戸から東海道にかけて荒らしまわったが、持病のオコリにかかっている時に、青山主膳の密偵に見つかってしまい、捕縛された。三浦浄心の『慶長見聞集』によると幸坂甚内は慶長18年(1613年)8月12日、江戸市中引廻しの上、鳥越明神脇の刑場で磔刑になっている。その時に、「我にオコリの持病なくば何ぞおめおめと捕らわれんや。今後、我を念ずる者あらば、たちまちにオコリの難病を癒しめん」と言い残して死んだ。死骸は刑場の穴に埋められ、その跡が病気平癒の霊神として祀られた。甚内神社は今も鳥越神社南西にひっそりと鎮座している(浅草橋3丁目11-5)。縁日は毎月12日、例祭は甚内の命日の8月12日で、なかなかの賑わいであるという。大泥棒が神様に祀られるとは、めずらしい話であろう。(参考:大隈三好「幸坂甚内」、『任侠の群像』暁教育図書所収)

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