戦艦陸奥、謎の爆沈
陸奥は大正7年6月1日から横須賀海軍工廠で建造が開始され、大正10年10月24日に竣工した。この直後の11月から、ワシントンでは軍縮会議が行われていた。このとき問題となったのは、陸奥の処遇である。陸奥はアメリカの提案によると廃艦のリストに入っていた。陸奥の完成は10月24日であるから日本は当然「陸奥は完成品である」と主張した。だが、未工事の部分を少なからず残していた陸奥を米英は完成品とは認めなかった。結局、アメリカには、コロラド、ウェストバージニアを、イギリスには、ネルソン、ロドネーの建造を認めて妥協がなった。この後、昭和11年末まで新たな戦艦の建造が禁止されたため、41センチ砲搭載艦は世界に7隻しかなく、「世界七大戦艦」(7艦とは長門、陸奥、米のメリーランド、コロラド、ウェストバージニア、英のネルソン、ロドネー)と呼ばれた。
こうして辛くも命をとどめた陸奥は、長門と同じく昭和9年から11年9月にかけて近代化改装工事を行った。その結果、軍縮条約明け後の新戦艦に対抗できる性能を持つ艦に再生した。
陸奥の最初の出撃は昭和17年6月のミッドウェー海戦だった。大敗北を喫した後、日本に帰還したのち、ガダルカナル島をめぐる作戦を支援するためトラック島に進出した。その後、昭和18年1月、陸奥は横須賀に帰還し、修理を行い、江田島に近い柱島泊地に回航されて訓練に励んでいた。
ところが昭和18年6月8日午後12時10分過ぎ、柱島に係留されていた陸奥は第三砲塔付近から突然白煙を吹き上げ、火薬庫が大爆発を起こして巨体は海中に没した。
このとき艦には、1474名の乗員がいたが、救助されたのはわずかに353名であった。爆発の原因調査に査問委員会が設置されたが、原因は分からず。「謎の爆沈」として今日にいたっている。
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