「暗夜行路」成立の過程、尾道から松江
志賀直哉の「暗夜行路」の原形は、夏目漱石の「心」にあとを受けて朝日新聞に連載されるはずであった。「心」は大正3年4月から8月まで続いた。漱石は「武者小路君を通して御依頼した事につき後承諾のよしを御洩し被下まして有難存じます」と述べている。これは「心」につぐ、朝日新聞の連載小説のことである。それが「暗夜行路」の原形「時任謙作」であった。だが実は志賀はそれ以前から自伝的長編に取り組もうとしており、それは大正元年秋からであった。大正元年11月10日に尾道に移り住んだ。千光寺の中腹の棟割長屋を借り、ここで「暗夜行路」の前身ともいうべき草稿が書かれていた。しかしついに完成するにはいたらなかったが草稿はずっと志賀の手元にあった。志賀は、後年「続創作余談」のなかで次の如く述べている。
夏目さんはその年、春頃から、「心」という小説を朝日新聞に出していた。私のものはそれが終わったところで直ぐ連載されるはずで、私は松江に行ってそれを書いていた。(中略)「心」の方は一日々々進んでいるのに、私の長篇はどうしても思うように捗らない。私は段々不安になってきた。若し断るなら切羽詰まらぬ内と考え、到頭、その為め上京して、牛込の夏目さんを訪ね、お断りした。
当時の流行作家漱石から寄せられた期待は、志賀の心に重い負担となった。この頃は、志賀にとってはまったくのシュトルム・ウント・ドランクの時代であった。好転の見込みのない父との不和、山手線の電車にはねられての重傷、脊椎カリエスの不安、父のいれない結婚につづく除籍、妻の神経衰弱、創作活動の中絶、長女の死と続く苦悩の跡をそこ見ることができる。
苦悩にあえぐ志賀を解放したものは、大正6年の父との和解であったが、いま一つ大きな因子は前年の12月における漱石の死であった。志賀は漱石へのひけめという精神的負担から解放された。大正8年4月、中央公論に「憐れな男」、大正9年1月、新潮に「謙作の追憶」が発表された。長篇の構想はおもむろに醸された。そして「時任謙作」は、新聞向きの題に改められ「暗夜行路」として「大阪毎日新聞」に連載されることになった。「ところが、或るところまで書いた時、大阪毎日から、関西の読者は遅れているから、なるべく調子を下げ、読者を喜ばすように書いて欲しいといふ註文が来た」(「暗夜行路」覚え書)のである。この申し入れによって、約束は破棄された。そして「暗夜行路」は大阪毎日の手を離れ、「改造」に連載されることになった。大正10年から昭和12年まで17年かかって完成する。
« 「草枕」と日露戦争 | トップページ | 室生犀星と金沢 »
「日本文学」カテゴリの記事
- 畑正憲と大江健三郎(2023.04.07)
- 青々忌(2024.01.09)
- 地味にスゴイ、室生犀星(2022.12.29)
- 旅途(2023.02.02)
- 太宰治の名言(2022.09.05)
コメント