室生犀星と金沢
両岸に造り酒屋が多かった犀川は今も蒼き水をたたえて流れる
故郷金沢は室生犀星(1889-1962)にとって、出生と生い立ちと学校と職場と失恋の屈辱を思い起こさせ、魂を傷つけずにおかない、というべき土地でもあった。そして犀星は小説において地の文はもちろんのこと、会話にも金沢弁を使ったことがない。また金沢の具体的な地名や建物の名をあげて描くことも比較的少ない。
しかしそれにもかかわらず犀星の文学というと先ず金沢を思い浮かべる人は多い。つまり犀星がいかに金沢を嫌ったにせよ、内心では自家中毒を起こすほど故郷金沢を意識し、心から愛しかつ憎んだのである。
「北陸道の曲りくねった小さい都会金沢も、西北の郊野をうしろにした、ひょろ長い町裏に、足軽小畠弥左衛門の屋敷があった。家禄二百石の足軽組頭は畠に果樹を植え、野菜を作ってやっとその日を暮らしていた」
これは小説「杏っ子」の冒頭に近い部分の描写である。犀星、室生照道は明治22年8月1日、石川県金沢市裏千日町の旧金沢藩士小畠家に生れたが、母ハルがその家の女中であったために生後間もなく赤井ハツという女性にもらわれた。この人が雨宝院の住職室生真乗の内妻であったために13歳の時、その室生家の養子となった。
のちに犀星は養母から「女中の子」としてさげすまれ、「出生の秘密」をのろわずにはいられなかったが、逆にこのことが、犀星を文学の道へ走らす一つの要因になったのである。
大正12年9月の関東大震災に遭遇し、犀星は家族とともに郷里金沢に帰った。しかし金沢滞在はわずか1年3ヵ月余りであった。「故郷の古い庭を見てゐるうち予の心には寂寞が住居した」と書いている。
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