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2011年6月30日 (木)

世界で一番日付が早く変わる国

Hizuke   南太平洋の中心に位置するキリバスは日付変更線の東側、つまり世界で最も早く日付が変わる国。反対にサモア諸島は、日付変更線の西側(西経171度)、つまり世界でも日付が変わるのが遅い国の一つであった。ロンドンのグリニッジが世界標準時で、ロンドンが正午のとき、地球の反対側の180度付近が真夜中である。日付変更線の西側と東側では1日差がでてくる。サモアでは東側の標準時間を採用しているが、主要貿易国のオーストラリア、ニュージーランド、中国などでは西側のため時間差が不便であった。そこで今年の12月29日の深夜をもって西側の標準時間へ変更し、12月31日とすると議会で決定した。これでサモアも世界で明日が早く来る国となった。しかしサモアの歴史には2011年12月30日は存在しない「空白の1日」となってしまう。むかし学校では「西サモア」と習った。もともとドイツが西を、アメリカが東を領有していた。1962年、西サモアが独立、1997年にサモアと変更。(Kiribati)

猛暑と地震

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   各地で最高気温が30度を超す真夏日が続いている。午前中8時14分頃、松本市で震度5強の強い地震があった。午後2時11分には震度4の地震があった。長野県ではここ数日、地震が続いているが、大震災の影響で牛伏寺断層(松本-塩尻、長さ17km)の地震発生が高まったとする見方がなされている。牛伏寺断層は糸魚川-静岡構造線断層帯の一つでマグニチュード8程度の地震が30年以内に起こる確率は14%といわれている。Ip110610mac000061000

   このほか双葉断層(宮城県亘理町-福島県南相馬市)、立川断層(埼玉県飯能市-東京都府中市)も地震発生確率が高くなっている。また富士山の噴火もいつ発生してもおかしくない時期だといわれている。富士山はプレートとプレートの境界線にある危険な山なのだ。

この夏、日本列島は猛暑と地震と放射線のトリプルパンチを浴びることになる。

2011年6月29日 (水)

アジア歌姫列伝

1930年代から上海を中心に活動した女性歌手といえば周璇(1918-1957)であろう。「天涯歌女」「四季歌」「何日君再来」「夜上海」など。戦後は香港、上海、台湾などで華語歌謡の女性歌手といえば白光、崔萍、葛蘭、美黛、陳和美、鄧麗君、欧陽菲菲、蔡琴などがあげられる。

Photo 周璇Photo_2 白光Photo_3 崔萍Photo_4 葛蘭Photo_5 美黛Photo_6 陳和美Va20e5a49ce6b1bde8bb8ae38080105 欧陽菲菲

Img_1490967_54397738_0 鄧麗君Photo_7 蔡琴Tsai06 蔡幸娟

   現代の歌姫としては、フェイ・ウォン(中国)、hebe(台湾)、宇多田ヒカル(日本)、BOA(韓国)など国際的な活躍がみられる。

Faye_pフェイ・ウォンHebe1410 hebe2713904020_bee6e94ca2 宇多田ヒカル2072503376_e0c514245f BOA

2011年6月28日 (火)

台湾阿敏・呉淑敏

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    台湾歌手の呉淑敏(ウー・シューミン)は1983年生まれ。その不幸な境遇から「台湾のおしん」といわれた。童謡歌手から国民的歌手となった。「傷心是誰的」「無縁的愛」「行船曲」「変色的長城」「少女的期待」「我的真心話」など。

重過失とは何か

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    過失とは、自分の行為から一定の結果が発生することを認識できたのに、不注意でそれを認識しないことと一般に定義されている。過失は不注意あるいは注意義務違反の程度によって、重過失と軽過失とに区別される。重過失とは、善良な管理者の注意を著しく欠く過失のこと。例えば、高所から道路に重量物を投下する際、通行人のために警戒標識も置かず、見張りもおかなかったため通行人を負傷させた場合などをいう。大工が屋根の瓦を下ろす際に、誤って通行人に当たり、死亡させた場合、重過失といえるだろう。

    では、こんな場合はどうだろうか。小学生が校庭でサッカーのフリーキックをしていて、蹴ったボールが門扉を越えて道路へ転がり出た。そこへバイクの男性(87歳)がボールを避けようとして、転び、足を骨折。その後に認知症の症状が出て、翌年に食べ物が誤って気管に入って死亡した。大阪地裁の判決で、田中敦裁判長は「ボールが道路に出て事故が起こる危険性を予想できた」として過失と認定、少年の両親に対し、1500万円の賠償命令を下した。この判決は子どもといえども、結果責任を厳格に捉えた判断といえる。しかし、学校内でのスポーツ中の出来事であり、管理者である学校の責任が不明確な点が腑に落ちない。またバイクの運転手の死因が転倒事故によるものであるという因果関係が明確とはいえない。改めて重過失とは何か考えさせられる事件である。

台湾の歌姫、蔡幸娟

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    台湾の美人歌手、蔡幸娟(ツァイ・シンチュアン)は日本進出しなかったのでその全貌はこれまで我が国ではほとんど知られていなかった。しかし現在ではyoutubeでその全容を知ることができるようになった。1966年、台湾生れ。1977年、歌手デビュー。1980年、初アルバム「夏之旅」は海外でも売れ、シンガポール、マレーシアでは「小鄧麗君」といわれた。「再見我的愛人」「小城故事」「何日君再来」などテレサ・テンと曲目はかぶさることも多い。また日本の歌謡曲をカヴァーすることでも知られている。「別了朋友」(別れても好きな人)、「女性的哀怨(ここに幸あり)」、「恋愛季節(恋の季節)」、「恋におちて」など多数。代表曲は「楊貴妃」「星星知我心」「回想曲」「想通」「只是夢己遠」「晩安曲」「魯氷花」「煙雨斜陽」「落下流水」「西湖春」「真善美」。1998年以降は目立った活動はしていない。テレサ・テンがいなければ、「アジアの歌姫」と呼ばれていたかもしれない。

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ロバート・フラーと竹脇無我

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    1960年代、日本のテレビ番組は米国ドラマがゴールデンタイムを独占していた時期がある。「ベン・ケーシー」「スーパーマン」「ローハイド」なかでも「ララミー牧場」は家族揃って楽しんだ。ロバート・フラーが来日したときはスゴイ人気だった。だがロバート・フラーは米国では決して大スター級ではなかった。やがて日本の放送局も自前で製作できるようになると、米国ドラマの本数は減った。1970年代になると、逆に日本ドラマがアジアで放送されるようになる。香港から来たアグネス・チャンは本物の竹脇無我に会って感動したという。竹脇が海外でよく知られた俳優であることは意外な気がするかもしれない。彼の主演作「姿三四郎」「二人の世界」は香港はじめ中国で絶大な人気を得ていた。これ以降、日本の番組の多くは香港で放送された。「俺は男だ」「サインはV」「子連れ狼」「木枯らし紋次郎」「Gメン75」。エンディングテーマ「面影」は香港歌手によってよく歌われる。日本製アニメがアジアを席巻する前提には、竹脇無我のソフトな姿三四郎が女性ファンのハートを鷲づかみにしたからといってよい。むかしローバート・フラーが日本で子どもたちに人気だったようにテレビ界の初期の段階は海外放送がまずヒットするという事例も似ている。

テレサ・テンが歌う懐メロ

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  アジアの歌姫テレサ・テンの歌は日本語・中国語その広範な活動をyoutubeで聴くことができる。たとえば若い頃のアルバム(1970年頃)に収められた「昨夜夢醒時」。香港、台湾の人ならよく知られているが、原曲は日本の歌謡曲。北原謙二の「夢で泣け」である。本国でそれほど知られていないが、何故かアジアでヒットした。創唱はテレサではなく、誰か他の歌手だろう。

   テレサが一番好きな歌は「何日君再来」である。日本人は李香蘭の歌と思っている人がいるが、実は上海で製作された映画「三星伴月」の挿入歌。創唱は周璇。日本統治下で流行した歌曲なので、中国政府としては好まれなかった。1980年にテレサ・テンが「何日君再来」が歌って大ヒットしたが、黄色歌曲として禁止となった。日本、中国、香港、台湾、それぞれに歌にまつわる感情や思い出はつきない。

2011年6月27日 (月)

ミスUSAは神の創造を信じない?

    キリスト教国であるアメリカでは今日でも、神の天地創造を信じるべきか、否か、議論が分かれている。チャールズ・ダーウィンが「種の起源」を発表したのが、1859年であるが、以来150年を経過しても、学校で進化論を教えるべきか、否か、両論に分かれる。ミス・ユニバースの代表の選考会で「進化論を学校で教えるべきか?」という質問が出された。ミスUSAに選ばれたアリッサ・カンパネラは進化論の信奉者だったことから、これが決め手になったのではないかと憶測が呼んでいる。反進化論が根強い保守層では出場者の信念や見解で差別するのは問題であると反論している。

薄毛の魅力

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 薄毛の男たちはタフでセクシー。堂々自分の人生をありのままに示している。鶴瓶も拓郎もかつて若い頃にはふさふさしていたが、薄毛には成功の歴史が刻まれている。

星になったパク・ヨンハ

夜空を見上げて思ったんだ

あの星から見れば僕も星に見えるだろう

どれだけ高く手を伸ばしたって届かない

だけどいつも見守ってる

見上げれば天の川に浮かぶ

引かれ合う星たちが

これからもこの夜空に同じように輝き続ける

目を閉じて聞えてくる

星屑たちのざわめきにも

いつだって君を感じてる

 アフリカ中部の内陸国チャド。バシャアテレ地域は農村地帯で、学校がなく、子どもたちは教育を受けることが困難だった。2009年、NGOグッドネーバーズの広報大使となったヨンハはチャドを訪問し驚いた。彼自身、学校建設の寄付をし、募金を呼びかけた。そしてヨナスクールは完成した。星となったヨンハは空から見守り続けているだろう。

121934_l Pic_20100607 Pic_20100607_2 学校建設用のレンガを運ぶパク・ヨンハ

2011年6月26日 (日)

アゴ系の人々

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    顔をパーツでみると、アゴの部分が大きい人は目立つ。長身の人に多い。アントニオ猪木が一番有名だろう。野球選手にも多い。巨人の久保裕也投手と阪神の平野恵一が対戦するときはアゴの勝負だ。門倉健のアゴも有名だ。お笑い系には昔から多い。タイヘイトリオの夢路、阿吾寿朗、辻本茂雄、テッちゃん(テツandトモ)、瀬戸洋祐(スマイル)、山田邦子、アゴ勇(ザ・ハンダース)、文化人では永六輔。歌手の河島英五。

少しもの悲しい歌謡曲を聴く

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 近頃、毎日のように西島三重子の「池上線」を聴く。ご本人もテレビ出演したり、なにか再ブームみたいだ。当時とくに大ヒットしたという印象はないが、何か隠れた名曲といわれてジワリジワリと聴き次がれてきた感じがする。Jポップ全盛の時代、青春をすごした昭和を思い出すには、少しもの悲しい歌謡曲を聴くと癒される気がする。youtubeで探すと、同時代を生きても知らなかった曲もある。北野ルミ「ギターのように愛されたい」、久美かおり「くちづけが怖い」、アン真理子「悲しみは駈足でやってくる」、カルメン・マキ「時には母のない子のように」、森田由美恵「潮風の吹く町」、中島まゆこ「夢でいいから」、しまざき由理「面影」、ベッツィ&クリス「花のように」、国友友里恵「ただ泣きたくなるの」

2011年6月25日 (土)

デンデラ

    映画「デンデラ」(天願大介監督)が本日から公開される。天願は「楢山節考」でカンヌ映画祭で最高賞を受賞した今村昌平の息子だそうだ。浅丘ルリ子、草笛光子、倍賞美津子、山本陽子、山口果林、白川和子、山口美也子、角替和枝、田根楽子、赤座美代子ら50人の女優が老婆となって出演する。なにやら女優魂を感ずる。そういえばドラマの中でも最近、ベテラン女優がずいぶんと活躍している。「おひさま」でも若尾文子、渡辺美佐子、白川由美、吉村実子らが印象的である。原節子や山口百恵、ブリジット・バルドーのように早く引退するというのは少数派なのだろう。

E0042361_02256 Photo Photo_2 Photo_3 草笛光子はブリジット・バルドーと同世代だ

2011年6月24日 (金)

俺たちの旅

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    日本のドラマがアジア諸国でどのように観られたのか包括的に研究した人はいない。中国、韓国、台湾、香港、フィリピン、タイ、ベトナムなどでどれだけ見られたのか不明である。YouTubeでみると、「俺たちの旅」(1977)は香港で「前程錦繍」(1989)という題で放送され人気が高かったことがわかる。日本でも鎌田敏夫脚本の傑作と評価される。それまでの学園ものではなく、社会に出てからの青春群像。カースケ(中村雅俊)、オメダ(田中健)、グズ六(秋野太作)。羅文、張偉文、尹光など多くの歌手が主題曲を歌っている。もし香港へ旅行したとき、余興で歌えば受けるかもしれない。

原曲を聴こう

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    椎名恵が歌う「Love is all」(愛を聴かせて)。誰もが1度は耳にしたことがある名曲である。原曲が聞きたいとして探したがなかなか見つからない。やっと見つけた。シャーリーンが1976年に発表した「Ⅰ've Never Been to Me」邦題は「愛はかげろうのように」とある。むかしコマーシャルで使われていた。麻生圭子の訳詩では、愛をさがすという一般的なラブソングだが、原詩は、年をとった女性が若い頃の奔放な生活を悔いて「私はだれもが羨むような幸せを手に入れたけど本当の私がみつからないの」と嘆くというかなり切実な歌だった。やはりオリジナルの原曲が一番いいようだ。

2011年6月23日 (木)

タイミング

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  J-POP青春の'80を観ていると、中西圭三が「タイミング」を歌っている。この曲が彼の作曲であると知る。ブラックビスケットつまりビビアンの曲だと思っていた。かなり企画もので、なぜか200万枚という大ヒットになった。NHKの番組の中ではビビアン・スーの名前もブラック・ビスケットの名もでなかった。中国に政治的な配慮をしているのか。ビビアンで聞きたいが、ビビアンは1人では歌わない、いつか3人で歌える日がくるといい、といっていた。今では「少女隊」時代の映像もyoutubeで観れる。

ビビアン・スーのいる国、台湾大好き

   台湾では東日本大震災の発生で、テレビ番組のチャリティー・ショーなどを通じて官民あわせて義援金100億円を突破したという。日本でもお馴染みのビビアン・スーやジュディ・オングなども参加。九州ほどの面積の台湾からの義援金が100億円を超えるというのは驚きである。いかに台湾が我がことのように日本の被災者を心配し、親日的であるかという現われであろう。(正確な額ではないが、台湾130億、米国90億、韓国90億、中国3億というデータがある)だが中国との承認問題を考えると難しい課題がよこたわっている。昨年10月、東京国際映画祭が開かれた。中国代表団が台湾代表団に対し「中国台湾」の名称を使用せよと要求し、台湾側がこれを拒んだため、ビビアンは開幕式に出場できずに泣き崩れた。可愛そうなビビアン。日本人にできるのは台湾旅行をしたり、華流ドラマを観たり、ビビアン・スーを応援することくらいかな。ともかく台湾に感謝、感謝。

そっくりな人はいない

人間おなじ顔の人は3人いるというが、双子のようにそっくりな人はいない。すこし似ているという程度である。次の2人の女優さんも似ているが誰かわかるだろうか。

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原発より愛をこめて

    今日の新聞広告で驚いたのは週刊新潮の記事「美人職員を弄ぶ西山審議官」だろう。真面目で堅物の印象がある人物だけにスキャンダル度は高い。将棋の中原名人の場合のように。だがついに原発報道も色物、不倫スキャンダルに関心がうつるようになったのか。新潮社は「国家の品格」「誇りある日本人」など偉そうな書名の本をだしているが、下品で下劣な売文業者だ。

歴史にもしもがあったなら

    歴史に「もしも」は無いと言いますが、後悔はあとでするものです。モーセがカナーンに行って、パレスチナに住まずに、アラビア方面へドバイかカタールの石油産地に行ってたら、子孫は石油長者だったろうに。ナポレオンが戦争嫌いで平和主義者だったら世界中はみなフランス語を話していたかもしれない。もし日本がアジアを侵略せずに、貧しくとも堅実に歩んでいたらどうなったろう。もし原子力発電所を作らずに自然エネルギーで暮していたらどうだろう。地震大国とか台風とか毎年のように襲来するのに、すぐに過去を忘れ、反省しない国民性なのだろうか。「もしも」と問いかけることも無意味ではない気がする。

2011年6月22日 (水)

巨人の澤村はデビューまもない頃のヨンさまに似ている

Tamlyn_tomita_33734_medium タムリン・トミタPhoto 田代みどり 

    最近よくテレビで見る又吉直樹は、筧利夫と区別がつかないくらいよく似ている。むかし本田美奈子がデビューしたときも工藤夕貴とよく似ていた。そっくり芸能人を集めてみる。綺麗どころでは、藤原紀香と木暮実千代、浅丘ルリ子と笹森礼子、国仲涼子と加藤ローサか。お笑いでは大村崑とチャーリー浜、宮迫博之と遠藤憲一、原田泰造とイ・ビョンホン、三遊亭円楽と瀬古利彦、槇原敬之と牧伸司、ジミー大西とマット・デーモン、中山秀征と香田晋、阿部寛と田宮二郎、沖雅也と仲雅美、長門裕之と桑田佳佑。田代みどりとタムリン・トミタはエクボが似ている。オリックスのイ・スンヨプと「ドクターズ」のソン・チャンミンも感じが似ている。

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マウンドでの澤村拓一はデビューまもない「初恋」の頃のペ・ヨンジュンに横顔が似ている。上地雄輔に似ているという人もいる。ベンチで帽子を脱いだときは、波田陽区にも似ている。

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2011年6月21日 (火)

スターの限界

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  プロ野球交流戦がやっと終了した。巨人阪神が不調だった。やはり小笠原とか金本、城島など看板選手の不振は大きい。限界説も囁かれるが、必死にやっている姿をみると声援したくなる。6番小笠原を原監督は「断腸のおもい」と語った。長嶋や王は引退の年でもホームランを、長嶋は15本、王は30本を打っているから驚きである。スーパースターは引き際が見事だった。勝負事の野球は厳しいが、美を売り物にする女優の場合も微妙なものがある。サユリストと呼ばれるファン層の多い日本社会ではタブーかもしれないが、吉永小百合の映画出演のペースが減っている。「つる」(1988年)が100本記念作だったが、23年間にわずか13本。「おとうと」から2年間、新作がない。共演者や監督など高齢者が多く、若い世代に受けるとは思えない作品企画で、このまま決定打がなく、晩節を過ごすのは惜しい。健康的に恵まれている彼女にふさわしい脚本を書く作家はいないだろうか。

節電の夏、うちわが活躍するぞ

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    雨上がりの今日、夏の到来を思わせるほど、蒸し暑かった。扇風機もいいけど、今年の夏は風鈴や団扇が活躍しそうだ。丸亀うちわは、全国の竹うちわの生産量の9割のシェアを占めている。江戸初期からその技術は確立しており、金毘羅参詣の土産物として作られたのが始まりである。

2011年6月20日 (月)

前田正名の著作目録

前田正名(1921-1984)。和歌山県生。駒沢大学文学部教授。東アジア歴史地理。

   <単行書>

東洋史学論集1 清水書院 1953

東洋史学論集2 不昧堂書店 1954

東洋史学論集3 不昧堂書店 1954

陝西横山の歴史地理学的研究 教育書籍 1962

河西の歴史地理学的研究 吉川弘文館 1964

開発の歴史地理 日本歴史地理学研究会 1965

東アジア史概説 文化書房博文社 1977

平城の歴史地理学的研究 風間書房  1979

アジア諸民族における社会と文化 岡本敬二先生退官記念論集刊行会 国書刊行会 1984

   <論文>

紀南漁村聞書 民間伝承14(10)  1950

吐蕃侵寇に関する人文地理学的考察 歴史学研究176  1954

北魏官営貿易に関する考察 東洋史研究13(6)  1955

続資治通鑑長編に現われた宋初の秦州について 史学雑誌67(6)  1958

五代及び宋初における「六谷」の地域構造における論考 東洋学報41(4)  1959

甘州回鶻集団の成立に関する論考 史学雑誌71(10)  1962

10世紀および11世紀における河西東廊の地域構造に関する論考 史潮86  1964

7世紀および8世紀における(中国)河西通廊地帯の農耕地拡大について 歴史地理紀要7 1965

後漢書に現れた1世紀前半の河西 立正史学31  1967

4世紀の仇池国 立正大学教養部紀要1 1967

五胡十六国と河西 前涼を中心として 歴史教育15(5・6) 1967

4・5世紀の姑蔵城 史学雑誌78(4)   1969

北魏時代柔乾河流域の自然地理と住民構造に関する論考 立正大学教養部紀要3 1969

北魏時代柔乾河流域の自然地理と住民構造に関する論考 続 立正大学教養部紀要4 1971

姑蔵城の城郭景観について 東方学44   1972

5世紀後半・6世紀の河西 立正大学教養部紀要5 1972

4~6世紀における中山城付近の交易について 立正大学教養部紀要8 1974

4~5世紀のオルドス沙漠東南縁辺地域 河西 立正大学教養部紀要7 1974

3~5世紀における太行山脈 東麓の地域構造に関する論考 立正大学教養部紀要10 1976

平城より漠北に赴く交通路 立正大学教養部紀要9 1976

平城における珍宝類の流通  社会文化史学17  1979

4・6世紀における太原盆地より河北平野に出る交通路 井稽陘路と濁漳水路 駒澤史学26   1979

前涼国の境域について 駒澤大学文学部研究紀要39   1981

6世紀以前における河西の産業について:遺稿 駒澤史学32   1984

北魏平城時代における定州の地域構造に関する論考 中山城付近の地域性 1 史学雑誌84(6)   1975

北魏平城時代における定州の地域構造に関する論考 中山城付近の地域性 2  史学雑誌84(7)   1975

2011年6月19日 (日)

楠山修作の著作目録

楠山修作(1933-  )和歌山県立海南高等学校 追手門学院大学教授 東洋史

  <単行書>

中国古代史論集 著者自印 1976

中国古代国家論集 1990

中国史論集 2001

  <論文>

算賦課徴の対象について 和歌山県立海南高等学校研究紀要1 1967

更賦と軍賦 和歌山県立海南高等学校研究紀要2 1968

漢代の賦の意味について 和歌山県立高等学校社会科研究協会会報21   1968

秦漢時代の租税制度 歴史教育17(6)   1969

阡陌の研究 東方学38   1969

古代中国の居住形態 和歌山県立高等学校社会科研究協会会報26   1972

商鞅の轅田について 東方学46    1973

晋書食貨志の一考察 東方学51   1976

漢代の算銭 東方学64   1982

阡陌の研究再論 東方学 1983

晋書食貨志記載の遠夷の2字について 東方学  1986

漢代における国家財政について 史林69(3)   1986

中国古代国家の成立 商鞅変法の一考察 歴史学研究571  1987

青川秦墓木牘を読む 東方学79   1990

牢盆考 古代文化45(5)   1993

呂公についての一考察 東洋文化学科年報10   1995

漢代女性力役不課論 東洋文化学科年報11   1996

「養老」とは何か 中国における養老の系譜 「アジア・老いの文化史」(新泉社) 1997

商鞅の変法について 「アジアの歴史と文化 阿頼耶順宏・伊原沢周両先生退休記念論集」(汲古書院) 1997

陸奥宗光論 追手紋学院大学創立30周年記念論集文学部篇 1997

女子百戸牛酒について 東洋文化学科年報12  1997

占田・課田論 アジア文化学科年報1-13  1998

頻ニ無辜ヲ殺傷シ 追手門学院大学文学部紀要34  1998

東洋史概説の講義について 追手門学院大学文学部紀要35 1999

秦漢爵制に関する一考察 アジア文化学科年報2-14   1999

算と賦との研究 アジア文化学科年報3-15   2000

企業の騙しのテクニック

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  「一番、満足。二番、満足、三番、満足。えーッ、満足って誰れ~」というコマーシャルを見たことありますか。野球中継でよく流れています。ついつい野球放送かと思って、見てしまいます。最近はさらにエスカレートして、審判がマイクをもって放送するようないろいろなパターンのCMもあります。いずれも野球と思わせて、注意を惹きよせるという、ある種の騙しのテクニックです。企業は知恵をしぼって、うまく顧客をだましたと喜んでいるようですが、銀行にとって一番大切な信用を失っているように思います。公共広告機構をという組織もあるようですが、このような広告が問題視されないならば、つまりは何でもあり、騙したもん勝ちの世界ということです。メガバンクには逆らえないということなのでしようか。

もう風評被害と言って誤魔化すのを止めようよ

   18日、静岡知事が静岡茶が放射性セシウムが検出された問題で、NHKに対して抗議した。川勝知事は「ほんの一局所部分を全体であるかのごとく報道した」と言う。真実はどちらにあるのか。19日、フランスのシャルル・ドゴール空港で日本から輸入された静岡の緑茶を検査したところ、基準を超すセシウムが検出され、廃棄処分にするという報道があった。川勝のいうような風評被害なのか、放射能汚染はさらに拡大しているのか、科学的な検査が待たれる。国内の権力者は風評被害という言葉を多用することで、自分にとって都合の悪い発言を封じ込める姿勢があるが、もう世界では通用しない。川勝のとった行動は単にお茶だけの問題ではなく、農家や漁業、あるいはすべての生産者たちにかえって悪影響を及ぼしているということを本人は少しも理解していない。日本は世界からの信用を失ってしまったのだ。

相川佳予子の著作目録

相川佳予子(1934-  ) 広島女学院大学、奈良女子大学、国立民俗学博物館外研究員。東アジア服飾史

   <単行書>

カラー日本の工芸2 刺・繍 淡交社 1978

服装史 相川書房 1982

「中国の刺繍技術」 東洋の科学と技術 1982

「衣」の文化人類学 続 PHP研究所 1983

「博覧会と染織」 万国博覧会の研究 1986

「明代の服飾」 明清時代の科学技術史 朋友書店 1997

「深衣再考」 中国技術史研究 1998

モノの見る生活文化とその時代に関する研究 国立民族博物館 2007

   <論文>

宋代の服飾について・かぶりものの変遷 家政学研究13(1・2) 1966

高松塚古墳壁画人物の服飾と持物 服飾(高松塚壁画古墳特集) 仏教芸術87  1972

漢代衣服史小考 東方学報47  1974

「帛書」とその周辺 古代文化43(9)  1991

中国服飾史研究の現状 衣生活39(5)  1996

フィールドノートから3 矢羽根の意匠 民博通信101  2003

アブラハムとイサク

10006200824 カラヴァッジョ「イサクの犠牲」 1603

  今日は「父の日」。聖書の世界における父といえば、アブラハム。アブラハムにはサラという妻がありました。2人は長い間、子どもに恵まれなかった。ところがアブラハムが99歳になったとき、神が彼にのぞんでいわれた。「彼女によってあなたに1人の男の子を授けよう」アブラハムは、自分が100歳近く、サラは90歳にもなってどうして子が生れようか、心のなかで笑いました。けれども、実際に男の子が生れて、イサクと名づけました。イサクとは「笑い」という意味である。数年後、神は子を神にいけにえに捧げよ、言われた。アブラハムは神の命令に従い、祭壇の上にイサクをのせ、刃物で殺そうとした。そのとき「子に手をかけるな」と神の声が響いた、神はアブラハムの信仰の確かなことを認め、1頭の雄羊をあたえ、それを生贄とした。イサクが結婚する年齢になった時、アブラハムは彼のために妻を見つけさせた。これがリベカである。イサクとその家族はカナンとネゲブとの間を往来した。イサクの羊飼いが、ある井戸のことで争いを起こしたので、「7つの井戸」と呼ばれるベエル・シバに移った。イサクが死んだ時、彼もまたマクペラの洞穴のなかのアブラハムのそばに葬むられた。

アニメキャラで一番カッコイイ父親はやはり星一徹だ!

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    一徹の地獄の特訓はスゴイ!雪のキャッチボール。大リーグ養成ギブス。ガソリンを浸したボールに火をつけ、ノックする。飛雄馬は逆立ちから足の裏に当てて跳ね返すという荒業をやってのけた。百獣の王ライオンはわが子を千尋の谷底に突き落とし、くじけず這い上がった子だけを王者の後継ぎにする。一徹の果たせない夢のため、巨人の星への道に向かって飛雄馬をスパルタ特訓するたくましい父親像こそ理想である。「巨人軍という星座のど真中で、一際輝くでっかい明星となれ!」と人生目標を父親が勝手に設定しているけど、ど根性が入っているので、お許しあれ。

2011年6月18日 (土)

バッドエンディング

   駅を降りて、商店街があって、パチンコ屋から流れる流行歌を聞きながら、路地から路地へと抜けると、小さな本屋がある。僕はここの経営者だ。いや経営という大げさなものじゃない。本は売らないし、貸さない。店内で読むだけの地域文庫のようなものである。古い本ばかりなので、めったに客はこない。1人でぽつんと考えでいるとこが多い。死んだ父のことや母のことを思い出す。そしていつかは自分もこの世から消えてしまうといことを何度も考えている。

   うだるような暑い日だった。伯父さんが急に容態が悪くなって、病院に連れて行った。年中無休の店だが、少しの間は店を閉めたままにした。昼過ぎに店に戻ると、店の前に若い女性が立っていた。「おじさん、ずいぶん待ったわ。こんな時間まで閉めるなら、一言書いといてくれたらいいじゃない!」近所の米屋の娘のナツコだった。「ゴメン、ゴメン。今すぐ開けるから」僕は電気を点けて、シャツターをあげた。そして駄菓子屋で買ってきたアイスキャンデーを娘に差し出した。ナツコは黙って受け取り、ソファーにもたれてカリカリとかじった。「おじさん、GEの新しいのない?」ナツコは流石景の「GE グッドエンディング」の愛読者だった。「ああ、8巻が入ったよ」というと、ナツコは取り出して、黙って30分ほど読んで帰って行った。

2011年6月17日 (金)

砂漠を緑に変えた男

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   中国内モンゴル自治区の広大な砂漠を緑化しようとした日本人がいる。遠山正瑛(1906-2004)はトングリ砂漠にブドウ園をつくり、モウス砂漠にポプラ100万本を植林した。恩格貝の砂漠開発規範区には遠山の銅像が立っている。

遠山正瑛の著作目録

  <単行書>

砂丘の幻想 淡交社  1970

よみがえれ地球の緑 佼成出版社 1989

沙漠緑化に命をかけて TBSブリタニカ  1992

    <論文>

山陰地帯のナシの栽培1・2 農耕と園芸5(7)(9) 1950

ナシ栽培の今後経営についての問題 富民22(7)  1950

梨の樹型 果実日本 1950

トマト青枯病の発生 育種と農芸5((8)  1950

躍進する砂丘地園芸 農耕と園芸7(11)  1952

果樹の砂丘地栽培法 農業および園芸28(1) 1953

二十世紀梨果実の発育に就いて 鳥取農学会報10(1,2)  1953

砂丘地の園芸的利用に関する研究 1 鳥取農学会報10(3) 1954

砂丘地の園芸的利用に関する研究 2 農業および園芸29(6) 1954

砂丘地農業と畑地灌漑法 1・2  農業および園芸31(8)(9)  1956

和梨果実の発育に関する研究1,2 園芸学会雑誌25(4)  1957

砂丘地高度利用の実例 農業および園芸33(1)   1958

砂丘地の天恵と開発の推進 農業技術21(2)   1966

シルクロード、タクラマカン沙漠の農業開発 砂丘研究27(2)  1980

中国山地の地域開発を実践する 地域開発182  1979

砂丘利用開発研究の軌跡 砂丘研究30(1)  1983

ポプラ100万本中国・クブチ砂漠を緑に変えよう 省エネルギー47(8)  1995

NGO第一線 第116回中国 日中に緑の懸け橋を 世界週報78(41) 1997

幕末藩政改革者、周布政之助

   長州藩の周布政之助(1823-1864)は、山陰地方の一代官にすぎなかったが、尊攘改革派となって藩政の中枢におどり出た。性格は豪放で酒を好み、学問にも造詣が深かったが、多少の奇行癖も伝えられている。高杉晋作が京都で「将軍を斬るから刀を貸してもらいたい」と、政之助のところへ行くと、藩主から拝領の名刀を取り出してきた。毛利の紋があるのでまずいというと、ヤスリを持ってこさせ、ゴシゴシ削ったという。また土佐藩士の前で、酔って山内容堂の悪口をならべ、物議をかもして、それ以後、麻田公輔と改名した。元治元年9月、山口郊外の吉富藤兵衛宅において自刃した。ノイローゼだったという。

2011年6月16日 (木)

富沢霊岸の著作目録

  富沢霊岸は大正15年3月21日、大和郡山市に生れる。専門はイギリス中世史。実直な研究姿勢を継続すれば巨大な成果をもたらすというお手本であろうか。学術誌の書評が多くてすべてを紹介できない。

封建制と王政 ミネルヴァ書房 1968

イギリス中世史概説 ミネルヴァ書房 1970

イギリス荘園の成立 ポール・ヴィノグラードフ 創文社 1972

原弘二郎先生古稀記念東西文化史論叢 1973

イギリス中世国制史の研究 関西大学出版会 1978

原弘二郎先生を偲ぶ 史泉54  1980

前近代におけるイギリスと大陸諸国 関西大学 1981

イギリス中世社会の研究 イギリス中世史研究会 山川出版社 1985

イギリス中世史の研究視点を求めて 史泉61  1985

イギリス中世史 ミネルヴァ書房 1988

中世ナイト像の形成と展開をめぐる諸問題 史泉69  1989

関大西洋史論集 富沢霊岸先生古稀記念会 1996

<講演>イングランド中世前期の教会と国家 史泉85  1997

ヴィノグラードフから学んだことども 創文508   2008

英国における封建的土地所有への推移に就いて 島根大学論集 人文科学(4) 1956

イギリス封建王政の展開について 史林41(4) 1958

イギリスにおける封建的所領形成への一過程 史林45(6) 1962

北西英国における非典型的マナー 金沢大学法文学部論集 哲学史学編10 1963

アングロ・サクソン期のgafolについて 史林47(4) 1964

Frankpledge Systemの成立とイギリス王政 金沢大学法文学部論集 史学編12 1964

自由農民とソックマン 金沢大学法文学部論集 哲学史学編11  1964

アングロ・サクソン時代の軍役Fyrdについて  西洋史学71  1966

ウイリアム征服王の騎士役賦課 金沢大学法文学部論集 史学編14  1967

イングランド封建制の発展に関する一試論 史林52(1) 1969

中世イギリス憲制史の問題点 大阪樟蔭女子大学論集8 1970

イギリス封建制展開への試論 史林54(5) 1971

米川伸一著「イギリス地域史研究序説」 史林56(1) 1973

松垣裕著「イギリス封建国家の確立」 史林56(2)  1973

イギリス中世王権の発展系譜 西洋史学91   1973

イギリス中世王権とコモンロー 関西大学文学論集25(1.2.3.4)  1975

ヨーロッパ中世の世俗主義 関西大学文学論集27(1) 1977

会議の歴史 ヨーロッパにおける人民集会の伝統 年報社会心理学18   1977

青山吉伸著「イギリス封建王朝の成立過程」 史林61(5) 1978

中世イングランドにおける司教管区組織成立の一局面29(3) 1980

青山吉伸著「アーサー伝説 歴史とロマンスの交錯」 史林69(2) 1981

アンジュー伯家の興起31(2) 関西大学文学論集31(2) 1981

アンジュー王朝の成立とアンジュー帝国統治の特色 関西大学文学論集32(1) 1982

ヘンリー2世時代の財政政策 関西大学文学論集36(1-4) 1986

「西欧前近代の意識と行動」 史林70(4) 1987

ヨーロッパ:中世・イギリス 1987年の歴史学界・回顧と展望 史学雑誌97(5) 1988

書評:赤沢計真著「イギリス中世国家史研究」 歴史学研究592  1989

12世紀イングランドの統治と王のパトロネジ 関西大学文学論集40(3)  1991

イギリス中世文化史 社会・文化・アイデンティティー 1992

中世イングランドにおける貨幣流通と社会変動 国民経済雑誌168(3) 1994

書評「J・C・ホウルト歴史学論集 中世イギリスの法と社会」 史学雑誌103(2) 1994

ノルマン貴族のイングランドへの同化過程 関西大学文学論集44(1-4)  1995

ノーサンブリアの歴史的風土 関西大学西洋史論叢10  2007

隠れキリシタンの里

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  日本の、とくに戦後の教育は、宗教とか信仰とかいったものにはできるだけ触れない方針を堅持している。シュヴァイツァー博士を紹介するときでも、NHKは決して伝道師、神学者、宗教音楽家とは言わない。医師、オルガン奏者でとどまる。日野原重明を紹介するときも、医師であり、キリスト者の面は強調されない。政治家がクリスチャンでも宗教は明らかにはしない。いつまでも隠れキリシタンの風潮が日本列島には残っている。

伊藤義清牧師の著作

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  「キリスト教ジャーナリスト」として知られた伊藤義清(1932-2008)は、昭和7年、兵庫県西宮市の生まれ。昭和30年、同志社大学神学部卒業。昭和33年から44年まで日本キリスト教団「働く人」編集主任。以後、牧師として活躍。

青年と政治 日本YMCA同盟出版部 1969 

現代をいかに生きるか 創元社 1970

教科書解説高校倫理 清水書院 1973

キリストの証人たち 抵抗に生きる2 日本キリスト教団出版部 1974

聖書クイズ・ブック D・カリンスキー 新教出版社 1978

解放の神学 燦葉出版社 1985

教界人物地図 牧師の子供たちアジアとかかわった人々 教友社 2004

2011年6月15日 (水)

近江古寺巡礼

Dscn15812 常楽寺本堂

   滋賀県には古寺や文化財が多い。常楽寺(滋賀県湖南市)は和銅年間に良弁僧正の開基になる阿星山三千坊の随一と伝え、平安末期に行胤が重創、1360年に全焼したが、観慶が再興した。本堂と三重塔が国宝に指定されている。

   長寿寺は天平年間、聖武天皇の勅願による良弁の開基となる。歴朝の祈願所として隆盛をきわめたが、のちに焼失、良観年間に再建され、中世には源頼朝や足利氏の祈願所となり今日に至る。

巨人は重病だ

   巨人ロッテ戦。9回昨日に続いてアルバラデホの登場で嫌なムード。いきなり里崎に痛打を浴びて、バント処理をミスして一三塁のピンチ。本塁アウトで逃げ切れるかと思ったが、伊志嶺に逆転ホームランを打たれ、3-2ゲームセット。「あるいは昨年までのボールなら本塁打だったかも」というアナウンサーの言葉を3度は耳にする。だが巨人の貧打はボールのせいだけではない。原采配とプレーする選手とが回っていない。ベストメンバーを揃えたがさらに悪くなった。阿部の緩慢なプレーで三塁まで走らせたこと。アルバラデホ、ロミロのストッパーの起用法が不統一。走塁ミス。守備の乱れ。バントができない。ラミレスを守備固めで交代するので終盤打線が弱くなる。原監督の采配ミスで落とした試合が多い。

前川峯雄の生活体育論

    前川峯雄(1906-1981)は香川県生まれの体育学者。東京教育大学教授。戦後、「生活体育論」を提唱し、レクリエーションと精神衛生に関する先駆的な論文が多数ある。著書に「体育学原論」(中山書店)など。

体育のガイダンス 教育社会4(9)  1949

夏季における児童の疲労と休養 児童心理4(7) 1950

体育とレクリエーション指導 中学教育技術2(4)  1952

少年野球の研究 体育学研究1(3)  1952

身体発育と運動練習 児童心理7(5) 1953

新教育と体育 教育じほう86 1955

運動会の意義とあり方 教育じほう105  1956

スポーツ才能の伸ばし方 児童心理14(5) 1960

レクリェーションの新しい意義 経営者16(7) 1962

学校におけるレクリエーションの計画と指導 児童心理18(10)  1964

体力づくりの教育的意義 児童心理21(6) 1967

多様化する大学の課外体育 厚生補導54  1970

スポーツか体育か 体育の科学26(1) 1976

民主体育の原点をもとめて 国士舘大学体育学部紀要4 1978

実践に即した体育研究への提言 体育の科学29(2) 1979

生活スポーツにおける老年期 体育の科学29(6) 1979

武道を考える 体育の科学30(9) 1980

再度の中国体育を視察して 体育の科学30(1) 1980

この国の元首はだれ?

   日本の元首は誰なのだろうか。明治憲法には、「天皇は国の元首」であると明定していたが(4条)日本国憲法には「元首」という言葉は全く用いられていない。考えられるのは次の3者であろう。

A.内閣を代表する内閣総理大臣

B,天皇

C.主権在民の下、一般国民

  おそらく、内閣総理大臣と考える人が多いだろう。だが、国際関係にあって、諸外国は、事実上、天皇を元首として処遇している。「象徴天皇は元首ではない」とする天皇非元首説もある。だが憲法1条の、「天皇が日本国および日本国民統合の象徴である」が天皇が国家元首であることを表現したものであるとする説もある。政治的リーダーは内閣総理大臣であるものの、「なんらかの伝統的ないしカリスマ的威厳が伴うこと」という要件からみると内閣総理大臣を元首と呼ぶには些か無理がある。つまりこの国には元首と呼べる者がいないのである。昭和48年6月28日、参議院内閣委員会吉國一郎内閣法制局長官は次のように答弁している。「共和制でないことはまず明らか」「立憲君主制と言ってもさしつかえない」天皇が元首であるかどうかについては、「かつてのように元首とは内治、外交すべてを通じて国を代表し行政権を掌握をしている、そういう存在であるという定義によるならば、天皇は元首ではない。しかし、今日では、実質的な国家統治の大権を持たなくても国家におけるいわゆるヘッドの地位にある者を元首と見るならば、天皇を元首であると言ってもよいと考えている」(要約)と述べている。

芳賀幸四郎の著作

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  芳賀幸四郎(1908-1996)。山形県寒河江に生れる。日本史の教科書、参考書など多数。専門は東山文化、茶道、禅などの研究。

東山文化の研究 河出書房 1945

近世文化の形成と伝統 河出書房 1948

日本史新研究 池田書店 1950

日本歴史講座 第3巻 河出書房 1950

史料による日本史研究 池田書店 1951

日本史の重点的研究 桜井書店 1953

新日本史大系 第3巻 朝倉書店 1954

歴史(らいぶらりい・しりいず) 有斐閣 1955

日本のれきし 偕成社 1956

中世日本の形成(アテネ文庫) 弘文堂 1956

中世禅林の学問および文学に関する研究 日本学術振興会 1956

茶道古典全集 第6巻 淡交新社 1958

三条西実隆(人物叢書) 吉川弘文館 1960

東山文化 塙書房 1962

千利休(人物叢書) 吉川弘文館 1963

禅入門(ミリオン・ブックス) 講談社 1963

安土桃山時代の文化(日本歴史新書) 至文堂 1964

精鋭日本史研究 中教出版 1969

大徳寺と茶道 淡交社 1972

わび茶の研究 淡交社 1978

芳賀幸四郎歴史論集 全5巻 思文閣 1981

   *   *   *

中世末期における一公卿の経済生活 人文科学委員会第2回大会歴史学研究会(要旨)2(1)

「桃山的なるもの」の崩壊 日本歴史14  1949

目きき 戦国文化の様相 日本歴史22  1950

利休切腹の原因について 日本之茶道196-201   1951

中世禅林における荘子研究 日本歴史44  1952

日本文化と「模倣」について 社会科歴史2(2) 1952

利休の切腹とその時代 史潮47  1952

中世の公家・武家・僧侶の生活 国文学解釈と鑑賞17(8) 1952

日本教育を動かしてきたもの 明治以後の教育とその背景 教育技術8(5) 1953

中世文学論の新展開と宋代詩話 史潮48  1953

安土桃山文化について 社会科歴史4(4) 1954

日本文化の無的性格とその成立基盤 日本及び日本人5(11)  1954

禅僧の文学的教養 国文学解釈と鑑賞20(4) 1955

朝鮮の役と民心の動向 日本歴史80  1955

中世末期における三条西家の経済的基盤とその崩壊 日本学士院紀要13(1)   1955

五山文学の展開とその基本的動向 国文学解釈と鑑賞21(6) 1956

五山文学の展開とその様相 国語と国文学34(10)  1957

道元と現代人1・2 大法輪24(4,5)  1957

「室町文化」指導上の留意点 日本歴史147  1960

仁清の芸術と「槐記」の世界 日本歴史156  1961

非合理の世界と中世人の意識 多聞院英俊の夢 東京教育大学文学部紀要36  1962

曲直瀬道三のキリシタン入信 日本歴史188  1964

中世末期における都鄙文化の交流について 地方史研究14(4)  1964

室町文化の一特色とその成立基盤 季刊文学・語学32 1965

九条兼実と夢 日本歴史260  1970

胆大心小=安土・桃山時代の人間像 博多町人・島井宗室を中心に 日本及び日本人1485  1970

幕末・維新の落書 日本歴史329   1975

日本文化の模倣性について 季刊日本思想史4 1977

宗旦と沢庵 日本歴史383  1980

少女ローラ、リーガン、そしてルーク青年

Photo_4 Photo_5 Photo_6 私は誰でしょう?「大草原の小さな家」のメリッサ・ギルバート、「エクソシスト」のリンダ・ブレア、「スター・ウォーズ」のマーク・ハミル。

クレオパトラと楊貴妃

    サトウVS越後製菓の切り餅訴訟にみられるようにライバルの攻防戦は熾烈をきわめる。項羽と劉邦、李白と杜甫、ダ・ヴィンチとミケランジェロ、ピカソとマチス、金太郎と桃太郎、最澄と空海、和気清麻呂と道鏡、紫式部と清少納言、武田信玄と上杉謙信、宮本武蔵と佐々木小次郎、お江与と春日局、清水次郎長と黒駒勝蔵、岩倉具視と三条実美、西郷隆盛と大久保利通、乃木稀典と東郷平八郎、内村鑑三と新渡戸稲造、柳田国男と南方熊楠、森鴎外と夏目漱石、高浜虚子と河東碧梧桐、吉田茂と鳩山一郎、古橋廣之進と橋爪四郎、大鵬と柏戸、村田英雄と三波春夫、勝新太郎と市川雷蔵、ピンク・レディとキャンディーズ、モーニング娘とAKB48、少女時代とKARA、蓮舫と丸川珠代、高村薫と宮部みゆき、木村拓哉と福山雅治、浅田真央とキム・ヨナ、上戸彩と深田恭子、天地真理と小柳ルミ子、山口百恵と桜田淳子、松田聖子と中森明菜、南野陽子と中山美穂、酒井法子と西田ひかる、菊池桃子と岡田有希子、新田恵利と国生さゆり、宮沢りえと後藤久美子、成海璃子と川島海荷、林芙美子と平林たい子、溝口健二と小津安次郎、藤堂明保と白川静、石原慎太郎と大江健三郎。同時代に活躍しながら対立的、対照的なケースが多い。

    また親友のような2人でもライバルとなる場合も多い。志賀直哉と武者小路実篤のようにお互いの意見の違いを理解しつつ、友情が続く場合もある。「仲良きことは美しき哉」

私は誰でしょう?

   京都神護寺蔵の伝源頼朝像は肖像画の傑作として国宝に指定されている。しかし平成7年に米倉迪夫は源頼朝説を否定し、足利直義とする説を発表した。(「伝源頼朝像再論」)発表から15年以上が経過するが、未だ像主比定の論争は続いている。高野山所蔵の「武田信玄像」(長谷川等伯)の肖像画も藤本正行により畠山義続ではないかという新説が出されている。ほかにも足利尊氏が高師直、平重盛が足利尊氏。そして宮内庁にある聖徳太子像も亡くなってから100年以上に描かれたもので、本当に聖徳太子であるという確証はないという。(参考:黒田日出男編「肖像画を読む」角川書店 1998年、藤本正行「戦国武将画像のイメージ」本郷61  2006年)

250pxminamoto_no_yoritomo 源頼朝?足利直義?

Photo_3 平重盛?足利尊氏?

Img_1773646_62504790_3 足利尊氏?高師直?

Trd0711050918003p2_p 武田信玄?畠山義続?Taisi01 私は誰でしょう?

彼女が使った後の便座に座りたい

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    国生さゆりと新田恵利、板野友美と秋元才加、いつの時代も女性には気になるライバル的存在がある。かつてベティ・デイビスは生涯のライバル、ジョーン・クロフォードについて、「彼女が使った後の便座にだけは座りたくない」と語った。オードリー・ヘプバーンのライバルはグレース・ケリー。キャサリン・ロスのライバルはキャンディス・バーゲン。ジュリア・ロバーツのライバルはメグ・ライアン。キーラ・ナイトリーのライバルはスカーレット・ヨハンソン。チェ・ジウのライバルはイ・ヨンエ、と常に気になる存在がいるものである。

2011年6月14日 (火)

日露関係史

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    1895年、下関条約に対する三国干渉で日本に遼東半島を還付させたロシアは、代償として旅順・大連を租借し、東清鉄道を敷設して、着々と満州へ進出していたが、1900年に義和団の乱が起こると、いよいよ兵力を増強した。日本は、ロシアの南下に同じ脅威を抱く英国と日英同盟を結ぶとともに、内に軍備の増強に努めて、1904年に日露戦争を戦い、翌年のポーツマス条約では、南満州の諸権益を譲渡させたほか樺太南半を割譲させた。戦後は欧州の国際政局の変動もあり、両国は1907年に日露協約を結んで接近し、鮮満蒙の勢力範囲を協定した。大正時代には第一次世界大戦中に日本は大陸で帝国主義政策をすすめ、ロシア革命に際してはシベリア出兵を敢行したが、1925年の日ソ国交回復とともに撤兵した。昭和時代に入ると、日本の政策は軍国主義に傾き、1931年には満州事変を起こして、1933年に国際連盟を脱退したのち、翌年から日華事変を戦って米英との対立を深めると、1941年には日ソ中立条約を結んで南進策に転じた。その結果、太平洋戦争が起こったが、ソ連は米英と1945年にヤルタ協定を結んで突如参戦し、樺太・千島を占領した。戦後のサンフランシスコ講和条約にソ連は調印せず、1956年に日ソ協同宣言が採択されて国交は回復されたが、ロシアとなった現在も南千島を固有の領土と主張する日本との間に北方領土問題がまだ懸案として残っている。

アイドルに夢中

   今年のAKB48の選抜総選挙は社会的現象といえるほど過熱した。反対にモー娘OB10人が新ユニットを結成したが、メディアの話題性は少ない。キャンディーズのベストCDが33年ぶりオリコンのトップ20入り。つまり10年すると飽きられるが、30年以上経つと再びブームになる。終戦直後の童謡ブームは60年以上を経て、心に郷愁を感じるが、音羽ゆりかご会こそ元祖アイドル集団だったのだろうか。

絵画は絵画であって、その以上でもそれ以下でもない

Photo_2 小絲源太郎「雪後」

    あなたはどんな絵が好きですか?写真のように緻密な写実的な絵。それともインテリアに飾るマチスのような明るい絵?一般に美術愛好家といわれる人口は多いが、各人の好尚は千差万別である。横山大観の剛、竹内栖鳳の柔、アンディ・ウォホールのようなポップなもの、つまり人によりけり、美術館に飾っている絵なら、一定の評価が定まっているとして、鑑賞するだけである。もしもゴッホやピカソが世に認められていなかったならば、その絵がゴミ捨て場にあっても誰も拾う人はいないだろう。それがいまでは時価1点数億円で売買されているという。芸術が投機対象となったとき、作品は「つまらないもの」になってしまう。

「バージン・ブルース」「裸の天使」

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    藤田敏八監督「バージン・ブルース」(1974)を見る。予備校女子寮生たちは灰色の浪人生活のうっ憤を晴らすため集団万引をしていた。まみ(秋吉久美子)ちあき(清水理絵)は、平田(長門裕之)という中年男と脱走し、2人の実家のある岡山へ行く。平田の「俺にはバージンを守る義務がある」という陳腐なセリフが印象的だ。当時、「○○を守る会」というのも流行った。「アン・ハサウェイ裸の天使」(2005)は真逆の映画。裕福な娘が退屈でメキシカンのヤクの売人グループに近づく。危険な目にあうが好奇心とセックスを体験。「バージン・ブルース」と「裸の天使」は好対照の青春映画ながらも処女喪失譚ということでは共通したテーマである。世相、風俗、貧乏に焦点がある日本映画に対して、階層、人種、富裕層などに焦点があるアメリカ映画。二作品は凡俗な道徳観に基づかず、異端的な行動と青春の喪失感を映像美で表現している。ジェームズ・ディーン「理由なき反抗」の女性版。

初夏のユリ

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9661  +12

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2011年6月13日 (月)

ダイダラボウ伝説

126710783960116319879_20100225j_2 ダイダラボッチ(大多羅法師)像 武蔵村山市

  日本の各地には巨人伝説が伝わる。ダイダラボウ伝説といわれ、風土記の説話を共通の基盤にもつものである。かつて柳田国男はダイダラボッチは「大人(おおひと)」を意味する「大太郎」に法師を付加したものとした。今日ではダイダラとは踏鞴(タタラ)の神、つまり製鉄神と見なされる。「法師」は山伏で、山伏は鍛治技術集団と深い関係を有していた。(参考:柏原俊子「巨人伝説:ダイダラボウ伝説の成立に関して」日本文学1-16 1971年)

承徳 避暑山荘

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    清代の初め、小さな山村にすぎなかった承徳だが、景色がよく気候もさわやかだったことから、清の皇帝が北へ巡幸するさいに立ち寄る場所となった。1703年、康熙帝が行宮の造営をはじめて以来、89年の歳月を費やして建造され、中国に現存する最も大きな皇室御苑である。

一発屋女優列伝

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   アンヌ・ドア。1936年、フランス・ヌーイ・シュル・セーヌ生まれ。子役を経て1955年、ジャン・ドラノワ監督に認められて「首輪のない犬」でデビュー。57年には新人賞を受賞して将来を大いに期待されたが、日本ではほとんど知られることはなかった。

2011年6月12日 (日)

ベトナム現代絵画

Photo フィン・ヴァン・ガム「リエン嬢」 1962年

    少し物憂げに座るアオザイを着た若い女性。ベトナム伝統の漆絵の特性を生かし、見る角度により、光の当たり方が違うので、雰囲気も変わるという。

2011年6月11日 (土)

食いしん坊万歳

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美しい顔で楊貴妃ぶたを食い

   おそらく楊貴妃は大食いで、ふくよかな美人だったのだろう。テレビ番組にはなぜか女性が食事する映像が多い。だぶん豪華な食事と美女は視聴率を稼ぐもっともたやすい手段なのだろう。

巨人オールスターズ

    巨人・オリックス戦。45日ぶりに巨人はベストメンバーだった。先発内海。亀井、高橋由伸が帰ってきた。初回いきなり亀井のホームラン。切れ目のない打線で6-2で久しぶりの快勝。これからは怪我せずにこのメンバーで戦ってほしい。

女優一発屋列伝

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    グリニス・オコナー。1956年生まれなのでもう54歳になる。母はレンダ・ピータースンといい、舞台女優だった。彼女も小さい頃から俳優を志してウェストチェスター・ヤング・アクターズ・シアターで学んでいた。16歳のとき、映画「ジェレミー」(1973)で主役に抜擢された。厳密には一発屋ではなく、ロビー・ベンスンとの共演の「ビリー・ジョー愛のかけ橋」(1976)もある。「リトル・モー」(1978)「カリフォルニア・ドリーミング」(1979)などあるが、ある世代の男子にとっては永遠の青春スターだ。

女優一発屋列伝

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    元祖小悪魔的妖精のセシル・オーブリー(1929-2010)。父は実業家、母はソルボンヌ大学の教授という家庭に育ち、古典舞踊、演劇を学ぶ。アンリ・ジョルジュ・クルーゾー監督に見出され、「情婦マノン」(1948)で国際スターになる。ハリウッド進出に失敗し、翌年帰仏。数本に出演したのち、モロッコの王族と結婚し引退。離婚後、童話作家として活躍。

永作博美は田中絹代になれるか

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    ribbonのアイドルユニットから演技派女優としての風格すら出てきた永作博美。チャームポイントの人懐っこい笑顔は健在なれども童顔の彼女も40の大台。新作「八日目の蝉」では作品よりも彼女の劣化がネット上で話題になっている。昨夜のドラマ「11文字の殺人」でも安達祐実に美人度では明らかに劣っていた。

    むかし田中絹代がハワイから帰国しての第一作「婚約指輪」が公開されるや、「老醜絹代」と評された。大正13年、松竹キネマに入社してから26年、純情可憐の娘役から「愛染かつら」の美人妻で、トップ女優と自負してきた彼女だけに、「鎌倉山に籠り、死んでしまいたい」とまで思いつめた。だが、これが彼女の女優人生の転機になった。絹代もこのとき40歳。いつまでも若く化けようとしても、もう化けられないぞ、と観念した絹代は溝口健二との「西鶴一代女」で老醜をさらけだし、女性監督にもチャレンジしたり、映画人としての飛躍をめざした。百万ドルのエクボ乙羽信子が「裸の島」(1960)で変身したときはまだ36歳だった。永作にとって「八日目の蝉」が演技派女優として道への作品となるだろうか

双子のリリーズ~♪

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   森羅万象、宇宙のあらゆるものは、陰と陽の二気がある。ひなたあるところ影がある。木次文夫は王貞治と同期で巨人に入団した。しかも同じ一塁手。王との争いに敗れた木次は3年後に引退している。芸能界も厳しいライバル争いがある。日活時代の十朱幸代は吉永小百合と青春映画に出演したが、いつも脇に回された。スーちゃんが亡くなり、いま再びキャンディーズに脚光が浴びているが、陰で泣いてた女性アイドルも多い。キャンディーズは「あなたに夢中」(昭和48年9月)でデビューしたが「年下の男の子」(昭和50年2月)でブレイクして全盛期を迎えた。同年に同じ渡辺プロから双子姉妹のザ・リリーズが「水色のときめき」でデビューした。二曲目の「好きよキャプテン」はヒットしたものの、以後一曲も売れなかった。キャンディーズとの差はあまりにも大きかった。2人の声質がよく似ているので低音部がなく、単調なきらいはあるが、少女特有の高音部がとてもきれいだった。いま聞くと、フォークソング調の曲がとても爽やかで絶品である。インパクトではキャンディーズに及ばぬが、何度も聴いて味わうにはリリーズの曲が優る。ザ・リリーズは数年前から最結成して活動している。がんばれ!リリーズ。

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マートン・アビー

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    工芸家ウィリアム・モリス(1834-1896)は1881年、ロンドン郊外、ハマースミスの南8kmのウォンドル川岸にある絹織物工場を借り受け、マートン・アビーという染色工房を造った。

銃弾に斃れた歴史学者

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    フランスの優れた歴史学者マルク・ブロック(1886-1944)は教職をすてて抵抗運動に加わり、リヨンにおいてドイツ軍に捕縛され、銃殺刑に処された。ブロックの著書「奇妙な敗北」にある次の言葉が知られる。

   歴史家の第一の義務は、「人生に」関心をいだくということである。・・・・現代のうえに身をかがめてみることなしには、過去を理解することはできないのだ。

2011年6月 9日 (木)

一冊の本

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    「あなたにとって一番大切な本は何ですか?」このような質問に対して、河上肇(1879-1946)ならマルクスの「資本論」と答え、池田亀鑑(1896-1956)なら「源氏物語」と答え、今西錦司(1902-1992)ならダーウィンの「種の起源」と答え、犬養孝なら「万葉集」と答えるだろう。だが一冊に傾倒して偉業をなしとげた「一冊の人」は、昭和までで、現在は少なくなっている。価値観が多様化しているからだろうか。そのような現代においても聖書だけは例外で、一冊の人は多くいる。「聖書全体は神の霊感を受けたものです」(テモテ第二3-16)宗教に関心があるかないかは別として、聖書はあらゆる書物の中で特別なものである。全体を完全に読み通すことは困難なことかもしれない。もし1日に3章から5章を読んでゆけば、聖書全体を1年で読むことができる。

デイヴィッド・コパーフィールド

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    チャールズ・ディケンズ(1812-1870)は「クリスマス・キャロル」と晩年の作を除いて、大体において構成がルーズである。これは雑誌に連載されたということもあるが、彼が構成にあまり気を配らなかったということもある。晩年の作は、親友の小説家ウィルキー・コリンズの忠告を容れて、構成のある小説を書くことを心がけた。しかし、こうした小説よりも、自由奔放に書いた「デイヴィット・コパーフィールド」の方が、おもしろい。

一発屋女優列伝

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    ハイヤ・ハラリート。ベン・ハーの恋人エスター。1931年、パレスチナのハイファに生れテル・アヴィヴで育った。映画デビューはイスラエル作品「24高地応答なし」次いでイタリア映画「現代の女性」に出演、これが機縁でウィリアム・ワイラーに認められた。「ベン・ハー」の後、「アトランタイド」「インターン」に出演したが引退している。現在79歳。

十年昔日

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    2002年のプロ野球選手名鑑をみる。巨人で現役選手はわずか4人。阿部慎之助、高橋由伸、鈴木尚広、そして捕手の加藤健。当時は投手には上原浩治、高橋尚成、桑田真澄、岡島秀樹、工藤公康がいた。打者には松井秀喜、清原和博、元木大介、仁志敏久、二岡智宏、清水隆行、江藤智ら顔ぶれをみるだけでも豪華である。

一発屋列伝(洋画女優篇)

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    ルイーズ・プラット(1915-2003)。ニューヨーク生まれ。わずかの舞台出演の後、1938年より映画出演。ジョージ・ラフト「北海の子」、ヘンリ・フォンダ「再会」、ヴィクター・マチュア「海洋児」があるが、なんといってもジョン・ウェイン「駅馬車」の身重の将校夫人ルーシーしか記憶にない。1940年から舞台に立ち、50年代にはテレビにもときおり顔を出していたらしい。

帝銀事件死刑囚

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    熊井啓監督の「帝銀事件」を見る。「隠し井戸」の問題が印象に残った。実際に、平沢貞通の死刑が確定して宮城拘置所に移送されてから、熊井は平沢に面会している。この時、熊井は無実だと確信したのであろう。平沢は犯行を否認したまま、刑は執行されず1987年獄死。熊井は2007年に病死。

映画には笹森礼子が主演の新聞記者の恋人役だが、新人山本陽子が初々しい。

2011年6月 8日 (水)

古代人の地理観

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    古代の人びとは、自分たちの考える世界像を世界地図として表現した。紀元前十数世紀のころ、バビロニアで作られた地図では、地球は円盤状で、天空がこれをおおい、自分たちはその中心に住んでいると考えていた。ギリシア時代にも同じような考えがあり、陸地はオケアノスとよばれる大洋に囲まれ、ギリシア神話の神アトラスがこの天空を支えていると考えていた。しかし、当時の世界はバビロニアの地図と違い、地中海をめぐる国々に拡大されていた。アレキサンドリアのエラトステネスは地球の大きさを推定した。さらにローマ時代にはいると、トレミーはアリストテレスの地球球体説に基づき、経緯線を描いて、世界最初の科学的地図を作成した。その範囲は、地中海沿岸から、イギリス・ドイツ、東はインドまで含まれていた。

昆虫学者カットビンケン

    いまでは「人類揺籃の地」として知られている東アフリカのオルドヴァイ(Olduvai)峡谷を最初に発見したのは、ドイツの昆虫学者カットビンケンである。1911年、蝶の採集のためにオルドヴァイを訪れ、案内のマサイにこの地名をたずねた。マサイは質問の意味がよく分からないまま、一帯に繁茂している植物名を聞かれたのだろうと思って「オルドパイ(Oldupai)」と答えた。東アフリカ野性Sisal(リュウゼツランの一種をマサイ語でこう呼ぶ。これをカットビンケンはオルドヴァイと聞き間違えたのである。ルイス・リーキー(1903-1972)がアフリカを人類の誕生の地と考えてオルドヴァイを探検したのはそれから20年後のことである。

    「サルからヒトへ」という見出し語をみかける。これはきわめて比喩的な表現で、ニホンザルのようなサルがヒトへと進化したとは、誰も考えないだろう。しかしダーウィンの進化論以降、ウェルズの啓蒙的な著作「世界史体系」(1920)などが広く読まれ、人間は単純なアミーバから複雑なヒトへと進化したと漠然と思うようになった。だがキリスト教信仰の強いアメリカでは、「進化論」と聖書の説く「創造説」とには大きな隔たりがある。ビクター・マチュア、キャロル・ランディス主演の「紀元前百万年」(1940)という娯楽映画もある歴史的意味をもつ作品かも知れない。

戦艦陸奥、謎の爆沈

    陸奥は大正7年6月1日から横須賀海軍工廠で建造が開始され、大正10年10月24日に竣工した。この直後の11月から、ワシントンでは軍縮会議が行われていた。このとき問題となったのは、陸奥の処遇である。陸奥はアメリカの提案によると廃艦のリストに入っていた。陸奥の完成は10月24日であるから日本は当然「陸奥は完成品である」と主張した。だが、未工事の部分を少なからず残していた陸奥を米英は完成品とは認めなかった。結局、アメリカには、コロラド、ウェストバージニアを、イギリスには、ネルソン、ロドネーの建造を認めて妥協がなった。この後、昭和11年末まで新たな戦艦の建造が禁止されたため、41センチ砲搭載艦は世界に7隻しかなく、「世界七大戦艦」(7艦とは長門、陸奥、米のメリーランド、コロラド、ウェストバージニア、英のネルソン、ロドネー)と呼ばれた。

   こうして辛くも命をとどめた陸奥は、長門と同じく昭和9年から11年9月にかけて近代化改装工事を行った。その結果、軍縮条約明け後の新戦艦に対抗できる性能を持つ艦に再生した。

    陸奥の最初の出撃は昭和17年6月のミッドウェー海戦だった。大敗北を喫した後、日本に帰還したのち、ガダルカナル島をめぐる作戦を支援するためトラック島に進出した。その後、昭和18年1月、陸奥は横須賀に帰還し、修理を行い、江田島に近い柱島泊地に回航されて訓練に励んでいた。

    ところが昭和18年6月8日午後12時10分過ぎ、柱島に係留されていた陸奥は第三砲塔付近から突然白煙を吹き上げ、火薬庫が大爆発を起こして巨体は海中に没した。

    このとき艦には、1474名の乗員がいたが、救助されたのはわずかに353名であった。爆発の原因調査に査問委員会が設置されたが、原因は分からず。「謎の爆沈」として今日にいたっている。

2011年6月 7日 (火)

プルトニウムの発見者

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    1941年2月、グレン・シーボーグ(1912-1999)は加速器を使った研究で核分裂物質であるプルトニウムを発見した。1951年、プルトニウムを含む10種類の新元素の発見で、ノーべル化学賞を受賞している。グレン・シーボーグは既に亡くなったが、日本では原発敷地外でもプルトニウムが微量ながら検出されるので、何をか言わんや、という心境である。シーボーグは面白半分に「糞」を意味する俗語「Poo」に通じる「Pu」の文字を選んだが、特に問題にならずに周期表に採用された。因果は後の世代が負わされるのであろう。

われら地球家族

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    オーストラリアのシドニーでは南北が逆さまの世界地図が観光みやげに売られている。見なれた世界地図も南が上にあるとまた違ってみえる。

    政治不信、少子高齢化、情報格差、原発事故と放射能汚染、地球環境問題の深刻化などさまざまな課題がクローズアップされている。従来のモノ・カネ中心の消費的価値観ではなく、これら広範な環境の変化に対応できるように、われわれはより広く深い、価値観を持つことが求められている。世界に目を向けると、民族・宗教などのちがいから依然として紛争が絶えない。一つの価値観に固執することなく、グローバルな考え方を持った地球人として世界と関わる時代が来ている。われわれが自分の家族を愛するように、民族・宗教が異なる人々をも愛することが今求められている。

梅娘が来たりて総理が変わる!? 

Photo_2 あれ、海外の報道のように首相の顔を間違えた

    6月6日、和歌山県から梅娘が永田町に現れ、退陣に追い込まれそうな菅首相に梅干しを差し入れしたというニュース。昨年は鳩山が辞任を表明した翌日だった。旬といえば、隠元、紫蘇、新茶、馬鈴薯、大蒜、茗荷、夏大根、梅、桜桃、李、枇杷、辣韮、梅桃、蒪菜。政治も国民は旬の人を待望しているのだろうか。

2011年6月 6日 (月)

保科正之生誕400年

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  会津初代藩主保科正之(1611-1673)は徳川秀忠の四男。秀忠が正室の江(崇源院)以外の女性に産ませた(お静の方)唯一の子といわれる。信濃国高遠城主として21歳から26歳まで在城し、山形最上に転封し、さらに陸奥会津藩主となる。

   秀忠の死後、家光は正之をことのほか可愛がった。家光は死に臨んで正之を枕元に呼んで徳川家の行く末を頼んだ。これに感銘した正之は会津家訓十五箇条を定めた。幕末の藩主・松平容保はこの遺訓を守り、最後まで薩長軍と戦ったのである。

巨人原監督の焦りの采配

    巨人・沢村、日本ハム戦に力投も打線の援護なく4敗目を喫した。4回一死二塁、二走の鈴木が盗塁死。投手の打席で三盗という奇策が裏目にでた。打者出身の監督、原は貧打線に苛立ちを覚えている。こんなときはコーチ陣がしっかりしなくてはいけない。イエスマンのコーチ陣では大勢いても意味がない。ワンマン原の暴走が敗因を招いたのだ。投手の沢村に負担かけずに三振させて坂本の一打に期待すれば得点の可能性もあったろうに。バタバタするとチャンスが逃げる。

手塚治虫VS司馬遼太郎

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    手塚治虫と司馬遼太郎は同時代人(司馬が5歳年上)で同じ関西人という共通性をもちながらも、作品には接点がほとんど見られない。科学と歴史との相違であろうか。戦後派と戦中派との相違であろうか。お互いの作品を読んだという話もしらない。もちろん著名人なのでパーティとか面識があるかもしれないが、不思議なほど世界が異なるように感じる。唯一の接点として手塚が昭和38年に「新選組」(少年ブック1963年8月~10月)を描いていることである。司馬が「新選組血風録」を発表したのは昭和37年であるから(小説中央公論1962年5月~12月)、手塚がこれを読んだことは考えられる。しかしながら手塚作品を読むと、血風録の影響は全くといってよいほど見られない。手塚の新選組は従来のチャンバラ映画に出てくる新選組と五十歩百歩で、新鮮味が感じられない。司馬作品は短編を集めたものであるが、どれもユニークな現代的な視点が感じられた。昭和37年前後、西部劇ブーム、忍者ブーム、戦記ブームと次々と創作の世界に起こってきたが、いずれも手塚の趣味ではなく、新選組もブームの企画物として、心ならずも描いたものの一つかもしれない。深草丘十郎と鎌切大作という若者が新選組に入隊するが、芹沢鴨を殺し、やがて深草は長州の間者であった鎌切までも斬らねばならなくなる。深草はアメリカへ行くところで終わる。結局、タイトルにある新選組がなんだったかは、子どもには判らないで終わってしまった。もちろん、「誠」の旗のもとに集まった幕末の若者たちの内面などは、到底漫画では手塚の画力をもってしても描ききることはできないテーマであろう。「ブラックジャック」のような生命倫理のテーマの所在が明確ならば成功するし、「どろろ」や「0マン」のような荒唐無稽なものであれば、手塚の真価が存分に発揮しうるであろう。やはり歴史に制約されると、手塚の創造力が失われるであろう。科学の手塚と、歴史の司馬、対極の天才であろうか。

マーゴとマリエル

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    文豪へミングウェイの長男で株式仲買人をやっていたジャック(1923-2000)には3人の娘がいた。長女ジョーン(1950年生れ)は小説「ローズハッド」で知られた流行作家。次女マーゴ(1954‐1996)はトップモデル。三女のマリエル(1961年生れ)は姉マーゴーが「リップスティク」(1976)で主役したとき妹役で映画デビュー。マーゴーはアルコール依存症や過食症に苦しみ、1996年7月2日自殺した。この日は祖父ヘミングウェイが猟銃自殺を遂げた日と同日だった。現在マリエルは演技派女優として活躍している。

2011年6月 5日 (日)

黄金期の女優たちのポートレイト

   1930年代、1940年代はスターで映画を見る。女優で映画を見る。まあ、なんと綺麗な女優がそろっていたでしょう。ここでは個人的な好みで二人だけ紹介する。

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ジョーン・ベネット(1910-1990)はコンスタンス、バーバラの二人の姉も女優。でもジョーンが一番きれいだった。代表作は「若草物語」(1933)、「飾り窓の女」(1944)、「花嫁の父」(1950)。

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   マーガレット・ロックウッド(1916-1990)。「バルカン超特急」(1938)のときは若くて綺麗だった。

ペルー大統領

Belaunde_0 フェルナンド・ベラウンデ・テリー(1912-2002)

   フジモリ元大統領の娘ケイコとウマーラの決選投票の結果が明日判明する。アルベルト・フジモリの前がアラン・ガルシア、その前がベラウンデ・テリーだった。テリーは2度大統領になっている。1963年6月に就任したが、ベラスコの軍事クーデターで追放された。1980年から1985年、2度目の大統領に就いている。ハンサムで女性に人気があった。

キャロル・ランディス

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    マリリン・モンローが亡くなって来年で半世紀を迎えるが、ハリウッドにはモンローと同じような人生の軌跡をたどった女優は多い。1940年代の女優キャロル・ランディス(1919-1948)は戦時下であったため日本では全く無名であるが、アメリカでは兵隊たちに人気が高かった。モンローより7つ年上である。ウィスコンシン州フェアチャイルドに生れる。12歳で美人コンテストに参加、15歳の時に作家と駆け落ちする早熟ぶりだったが、たった3週間で別れ、その後も4度の結婚・離婚を繰り返した。地元で店員、ウェイトレス、劇場の案内係をつとめたのち、サンフランシスコに出て、16歳でナイト・クラブの歌手兼フラ・ダンサーとしてデビュー。1937年には「マルクス一番乗り」のエキストラとして映画界入り。1940年に20世紀フォックスと契約、脚線美と明るい性格、ユーモアのセンスが認められて急速に売り出した。「スウェーター・ガール」と呼ばれ、「ピンナップ・ガール」としても知られ、戦時に米軍慰問隊に参加した経験を書いた「Four Jills in a jeep」は1944年に映画化され、自ら主演した。1948年、睡眠薬を飲みすぎで死亡、レックス・ハリスンとの失恋が原因の自殺といわれる。あまりにもモンローに似すぎた人生だった(否、モンローがキャロル・ランディスに似すぎたのだろう)。

室生犀星と金沢

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両岸に造り酒屋が多かった犀川は今も蒼き水をたたえて流れる

    故郷金沢は室生犀星(1889-1962)にとって、出生と生い立ちと学校と職場と失恋の屈辱を思い起こさせ、魂を傷つけずにおかない、というべき土地でもあった。そして犀星は小説において地の文はもちろんのこと、会話にも金沢弁を使ったことがない。また金沢の具体的な地名や建物の名をあげて描くことも比較的少ない。

    しかしそれにもかかわらず犀星の文学というと先ず金沢を思い浮かべる人は多い。つまり犀星がいかに金沢を嫌ったにせよ、内心では自家中毒を起こすほど故郷金沢を意識し、心から愛しかつ憎んだのである。

   「北陸道の曲りくねった小さい都会金沢も、西北の郊野をうしろにした、ひょろ長い町裏に、足軽小畠弥左衛門の屋敷があった。家禄二百石の足軽組頭は畠に果樹を植え、野菜を作ってやっとその日を暮らしていた」

    これは小説「杏っ子」の冒頭に近い部分の描写である。犀星、室生照道は明治22年8月1日、石川県金沢市裏千日町の旧金沢藩士小畠家に生れたが、母ハルがその家の女中であったために生後間もなく赤井ハツという女性にもらわれた。この人が雨宝院の住職室生真乗の内妻であったために13歳の時、その室生家の養子となった。

    のちに犀星は養母から「女中の子」としてさげすまれ、「出生の秘密」をのろわずにはいられなかったが、逆にこのことが、犀星を文学の道へ走らす一つの要因になったのである。

    大正12年9月の関東大震災に遭遇し、犀星は家族とともに郷里金沢に帰った。しかし金沢滞在はわずか1年3ヵ月余りであった。「故郷の古い庭を見てゐるうち予の心には寂寞が住居した」と書いている。

国立国会図書館のOPACは便利だ!

    社会を構成するものは人であり、この社会を動かすのも人である。歴史研究で人物伝が必要なことは、司馬遷やプルタークといった東西の偉大な史家がすでに気がついていた。ところが日本の史書には天皇を中心として記載されるものが多く、個人の伝記は度外視されることが通例である。たとえば坂本龍馬のように死後数年は世に知られていなかったが、明治16年に坂崎紫瀾「千里汗血駒」という書が出て知られるようになった例がある。最初の伝記というのは、特別な意味をもつものであろう。国立国会図書館のNDL-OPACは何かと便利である。たとえば夏目漱石を検索すると953件がヒットする。次に出版年順、逆順(刊行年の古い本から表示される)と再設定して、再検索すると、

最近の小説家 生田長江 春陽堂 明治45年

夏目漱石氏の鶉籠 川路柳虹 名著評論社 大正4年

と出る。次に福沢諭吉に関して調べると、699件がヒットし、「学商福沢諭吉」(明治33年)が表示される。もちろん国立国会図書館所蔵資料の中で最も古いというだけである。未所蔵と思われるが、徳富猪一郎「文字之教を読む 文学者としての福沢諭吉君」(民友社)明治25年が古い。

   ちなみに、国立国会図書館の蔵書検索からこんな遊びもできる。日本人で一番、伝記がたくさん書かれたのはだれか?もちろん正確な統計は無理だが、タイトルに人物名があれば検索からヒットする。国立国会図書館のOPAKのヒット件数第1位は「日蓮」だった。

日蓮        2169

芭蕉        2155

義経        1544

信長        1423

家康        1104

秀吉        1063

夏目漱石   953

太宰治     868

聖徳太子  867

三島由紀夫 803

福沢諭吉  699

西郷隆盛   537

坂本龍馬   528

一休      516

このほか卑弥呼で検索すると、384件であるが、邪馬台国とすれば、681件ある。

2011年6月 4日 (土)

「暗夜行路」成立の過程、尾道から松江

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    志賀直哉の「暗夜行路」の原形は、夏目漱石の「心」にあとを受けて朝日新聞に連載されるはずであった。「心」は大正3年4月から8月まで続いた。漱石は「武者小路君を通して御依頼した事につき後承諾のよしを御洩し被下まして有難存じます」と述べている。これは「心」につぐ、朝日新聞の連載小説のことである。それが「暗夜行路」の原形「時任謙作」であった。だが実は志賀はそれ以前から自伝的長編に取り組もうとしており、それは大正元年秋からであった。大正元年11月10日に尾道に移り住んだ。千光寺の中腹の棟割長屋を借り、ここで「暗夜行路」の前身ともいうべき草稿が書かれていた。しかしついに完成するにはいたらなかったが草稿はずっと志賀の手元にあった。志賀は、後年「続創作余談」のなかで次の如く述べている。

   夏目さんはその年、春頃から、「心」という小説を朝日新聞に出していた。私のものはそれが終わったところで直ぐ連載されるはずで、私は松江に行ってそれを書いていた。(中略)「心」の方は一日々々進んでいるのに、私の長篇はどうしても思うように捗らない。私は段々不安になってきた。若し断るなら切羽詰まらぬ内と考え、到頭、その為め上京して、牛込の夏目さんを訪ね、お断りした。

   当時の流行作家漱石から寄せられた期待は、志賀の心に重い負担となった。この頃は、志賀にとってはまったくのシュトルム・ウント・ドランクの時代であった。好転の見込みのない父との不和、山手線の電車にはねられての重傷、脊椎カリエスの不安、父のいれない結婚につづく除籍、妻の神経衰弱、創作活動の中絶、長女の死と続く苦悩の跡をそこ見ることができる。

   苦悩にあえぐ志賀を解放したものは、大正6年の父との和解であったが、いま一つ大きな因子は前年の12月における漱石の死であった。志賀は漱石へのひけめという精神的負担から解放された。大正8年4月、中央公論に「憐れな男」、大正9年1月、新潮に「謙作の追憶」が発表された。長篇の構想はおもむろに醸された。そして「時任謙作」は、新聞向きの題に改められ「暗夜行路」として「大阪毎日新聞」に連載されることになった。「ところが、或るところまで書いた時、大阪毎日から、関西の読者は遅れているから、なるべく調子を下げ、読者を喜ばすように書いて欲しいといふ註文が来た」(「暗夜行路」覚え書)のである。この申し入れによって、約束は破棄された。そして「暗夜行路」は大阪毎日の手を離れ、「改造」に連載されることになった。大正10年から昭和12年まで17年かかって完成する。

 

「草枕」と日露戦争

    「草枕」(明治39年9月発表)は夏目漱石(当時39歳)の東洋趣味が横溢した作品として知られる。しかし時代は日露戦争と重なっている。(明治37年~明治38年9月)作品には那美の弟が出征する話がでてくる。いわば戦時にあって、逸民思想を賛美し、忠君愛国を揶揄する箇所も随所にみうけられる。明治41年9月から東京朝日新聞に連載した「三四郎」には、もっと明確に戦争批判した箇所がある。「草枕」に見られる陶淵明、王維などの田園詩の引用は秀逸だが、隠逸思想であり、時局柄、不適当だろう。これらをどのように考えたらいいのだろうか。つまりは明治当局の「一種の大らかさ」とでも考えよう。昭和期と違ってまだのんびりしていた時代だった。たとえば日露戦争のために発せられた99万5696通の召集令状に対して、病気などを理由に応じなかった者が2万3000名もいたという。国家主義と言いながらも、戦争に行かなかった庶民も多くいたのである。しかし特段に罰せられることはなかった。昭和期ほど狂信的ではなかった。平成のネトウヨなど天皇崇拝者もさらに質が悪い。漱石も余裕派と呼ばれ、右翼からは国賊呼ばわりされたであろうが、「草枕」の天然自然の即するところに美が存するという自己の芸術観をさらに高め、後年、この即が則と変わって、漱石の「則天去私」が完成する。

不拡大派と拡大派

    昭和12年7月7日、北京西南の盧溝橋で起きた日本軍と中国軍との衝突事件は、もともとは銃が聞こえただけの小事件だった。陸軍参謀本部作戦課長の河辺虎太郎(1890-1960)の元に届いたのは8日早朝のことだった。「厄介なことが起こったな」それが軍務課長・柴山兼四郎の電話の第一声だった。第三課長・武藤章は「愉快なことが起こったね」と言っていた。一方はこれを何かもみ潰しをしなければならなぬという風に思い、一方では此奴は面白いから油をかけて燃やそうという気持ちの違いがある。(「河辺虎太郎少将回想応答録」)

   不拡大派と拡大派の対立を象徴するような言葉だった。小事件が全面衝突に発展して、日本が破滅への道を歩んだのは、後の歴史が語る通りである。

2011年6月 3日 (金)

スターもやがては色褪せる

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   1980年代、ティーンのアイドルだった田原俊彦はもう50歳になった。「哀愁でいと」の原曲「ニューヨーク・シティ・ナイト」のレイフ・ギャレットは近年ヘロイン所持で逮捕されたものの元気で芸能活動しているらしい。ハリソン・フォード、メグ・ライアン、ケヴィン・コストナー、スターたちもいつまでも輝き続けることはできない。サイレント時代、ジョン・ギルバートという美男俳優がいた。代表作はグレタ・ガルボと共演した「肉体の悪魔」。だがトーキーの時代になって、悪声のため人気は凋落、36歳の若さで没した。「ハワイアン・アイ」「サーフサイド6」で日本でも大人気だったトロイ・ドナヒュー。ブロマイドが氾濫した。だが酒とドラッグで身を滅ぼし、一時はニューヨークのセントラル・パークでホームレスをしているという噂が流れた。スターの凋落ぶりは凄い。

世界で日本の首相の知名度はあるのだろうか?

Photo_9 ドイツ週刊紙のイラスト

  ドイツの週刊紙ツァイトが掲載しているG8のイラストが菅直人ではなく、なんと麻生太郎に見える人物が描かれている。日本の首相は毎年のように交代するのでジョークで確信犯か、あるいは本当に日本に無関心で知らなかったのか。日本のマスコミも他社のミスは大喜びで取り上げるが、これも自虐的な日本人の体質であろうか。

ああ、戦中派

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  日本で戦中派といえば、第二次大戦という最も困難な時期に青春を送った世代という意味であろう。いまだいたい88歳から上の世代。このような言葉はドイツはじめ諸外国にはあまりないらしい。日本における戦中派の特色としては、「戦争責任という道徳的な問題から触発されて生まれている。戦争中のギリギリの体験が、戦後になるとすべてむなしくむだになことに思える。それまでの鬼畜米英といっていたかと思うと、8月15日以後は一億総懺悔ということになる」(石田英一郎「日本文化論」)このような思いを一様に抱いて戦後を生きてきたといえよう。ドイツ人には、戦中派意識などは微塵もない。戦争に加担したといいだせば、なにが責任だ、戦争に協力するのが国民として当然である、と割り切ることができる。戦争についてはドイツ国民が一枚岩の感情を持つ続けていたという。ところが日本人は複雑である。ドラマ「泣いてたまるか」の一編に「ああ軍歌」という話がある。渥美清が扮するサラリーマンは宴会で軍歌を歌うことを拒否する。彼には戦争体験があるからだ。しかし同僚のなかにも軍隊経験者はいるが、平気で懐かしんで歌っている。日本人の戦争への感情は一枚岩ではなく、それぞれが複雑な思いを持ち続けている。たとえば戦中派といわれる作家や著述家をみてもそのスタンスはさまざまである。松本清張(1909年生れ)、丸山真男(1914年生れ)、司馬遼太郎(1923年生れ)。だが「一億総懺悔」という言葉には抵抗があるであろう。戦争指導者の国民に対する責任を国民にすりかえるだけで終わってしまった。そして天皇陛下にお詫びしなければならない・・・という奇妙な論理までがつくりだされてしまった。いまや戦後派、あるいは戦無派の時代となってしまった。

大正人道主義の限界

Photo_4 朝鮮総督府

   戦前に植民政策学というのがあった。新渡戸稲造(1862-1933)は台湾、朝鮮を、矢内原忠雄(1893-1961)は南洋諸島などを専門に研究した。新渡戸は日本の武士道精神が西洋のキリスト教精神との共通する部分があるとして、クェーカー教徒の植民主義を参考に、植民が「文化の伝播」であるとして日本の帝国主義を擁護する思想家となった。弟子の矢内原は満州国が建設するようになってこれまでの植民政策が誤りであることに気づくが時すでに遅く、日本軍国主義は次々と中国大陸をも侵略していく。浮田和民(1860-1946)も「倫理的帝国主義」を標榜し、キリスト教的道徳倫理によって帝国主義・膨張主義を肯定している。

関係文献

新渡戸稲造の植民思想 森上優子 人間文化創成科学論叢10 2007年

Photo_5 花巻新渡戸記念館

「お陽気漫才」末子・花子

Photo_3

    お笑い芸人が人気である。女性初の漫才コンビは1923年に結成した「末子・花子」であろう。桜川末子(1901-1987)は1921年に荒川竹丸とコンビを組み、天満朝日座で漫才初舞台、これが吉本興業の目にとまり、「末子・花子」が誕生した。1930年のエンタツ・アチャコの漫才コンビが現れるや、漫才ブームが到来した。ウグイス・チャッブリン、種春・力春、千代丸・政夫、千代若・千代菊などが客を笑わせた。

ラモン・ノヴァロ

Ramonnovarro

    ラモン・ノヴァロ(1899-1968)といえばヴァレンティノの死去により、映画界のトップスターだった。剣戟スター羅門光三郎の芸名「ラモン」が彼のあやかり名であることすら知る人も少なくなった。かつての大スターも晩年はわずか週45ドルの失業保険で細々と暮していた。「ベンハー」のスター、ラモンは生涯を通じてキリスト教への信仰心と同性愛で悩んでいた。ポール・ファーガソン(22歳)とトーマス・ファーガソン(17歳)も性的目的で自宅に呼んだものだった。兄のポールは酒を飲むと凶暴になり、ラモンは1968年10月30日、自宅で兄弟に撲殺された。兄弟はラモンが大金を所持していると思っていたが、わずか20ドルの小金のために殺人を犯したのだった。

2011年6月 2日 (木)

新井奥邃と田中正造

    新井奥邃(あらいおうすい 1844-1922)は明治の伝道師トマス・レイク・ハリスからキリスト教について学び、生涯を貧窮のなかで過ごした。明治36年、巣鴨に私塾「謙和舎」を開き、伝道生活に入る。名誉欲など微塵もない人で、一枚の写真も残さず、隠棲し、大正11年、没している。享年77歳。彼の塾に出入りした者には内村鑑三や田中正造がいる。とくに田中は大正14年7月に入獄中にはじめて聖書を読んで以来、キリスト教へ接近し、新井奥邃の影響を強く受けた。足尾銅山鉱毒問題で田中が谷中村に入って、農民たちと生活を共にし、半生をかけて闘ったという行動には、少なからずキリスト教信仰がみとめられる。死ぬとき田中の枕元にあった遺品の中には、新約聖書があった。

関係文献

田中正造の聖書観 竹中正夫 キリスト教社会問題研究 1989

田中正造と新約聖書、そしてキリスト教? 大竹庸悦 流通経済大学論集28(2) 1993

セーブルへの道の眺め

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 シスレー「セーブルへの道の眺め」1873年

    セーブルは陶磁器で知られるパリ近郊の田舎町。シスレーはパリ・コミューンを避け、ルーヴシエンヌに移住したルーヴシエンヌ時代(1871-1874年)に制作した作品。光と影の効果を繊細な感受性をもって遠近法という構図で表現している。ホッベマの「ミッデルハルニスの並木道」の影響を受けている。また敬愛するコローにも「セーブルの田舎道」という作品がある。

7つの不安と恐怖

①巨大地震、津波、台風などの自然災害が再来②全国各地で高濃度セシウム検出、終わりのない放射能汚染③世界中から巨額の原発賠償責任を負わされる経済的不安④「教員の思想の自由」制約に最高裁が合憲。日の丸、君が代強制、思想弾圧の恐怖⑤「集中検討会議」消費税率を2015年までに段階的10%に引き上げ、増税生活苦への不安⑥原発がテロリストの標的となる恐怖⑦内閣不信任案による政治的混迷への不安。

「謀反の日」の主役はルーピー鳩山だった

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    今日は何の日。天正10年、明智光秀が織田信長を急襲、いわゆる本能寺の変があった。429年後、永田町では菅内閣の不信任案が採択されるのか、否決されるのか。民主党代議士会で菅首相は「一定のメドがついた段階で辞める」と表明したが、つまりは即時辞任はない、と言ったまでのこと。そんな中、新潟中越では震度5の強い地震が起きた。菅にはピンチになると地震を呼ぶパワーがあるようだ。今日は「裏切りの日」だ。前日、不信任案「否決」を明言していた鳩山は菅と談合し豹変、「否決」にまわった。結局、小沢派の議員も反対に転じ、不信任案は大差で否決された。味方を欺き、国民を騙す。いずれにしても国民にとっては地獄の日々が続く。

2011年6月 1日 (水)

ジューン・ブライド

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    今日から6月。英語のJuneは、ラテン語のJunisからきたといわれる。またローマ神話の最高の神であるジュピターの妻Junoの祭典が、6月初めに行われたところから、Junoと関係があるといわれる。Junoは婚姻の保護者であるところから、次のような諺がある。

June marriage are happy.6月の結婚はしあわせ。

   これはローマ以来の言い伝えであるが、欧米で結婚がとくに、この月に多いということは今はないそうである。

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