松平定信と谷文晁
応挙、探幽のような殿上出仕の絵師でない谷文晁(1763-1840)が、法眼にまで上りつめたのは白河楽翁公、松平定信(1758-1829)の庇護によるところのものであろう。定信の古美術や絵画への関心は並々ならぬものがあった。そのため各地にある絵巻を絵師に命じて模写させて収集していた。京都の石山寺に伝わる「石山縁起絵巻」の巻6と7は詞書のみで絵画が欠損していた。石山寺の尊賢僧正は絵巻の補作を頼んだ。定信はこの要望に応え、補作を谷文晁に命じた。谷文晁が絵画を完成したのは文化元年からおよそ2年をかけてのことである。
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