佐野七五三之助の墓
佐野七五三之助の墓
佐野七五三之助は元治元年の江戸での隊士募集に応じて新選組に入隊。慶応3年3月、伊藤甲子太郎ら御陵衛士となるが、佐野ら4人は密名を受けて新選組にとどまる。しかし佐野七五三之助、茨木司、中村五郎、富川十郎ほか6名は、幕府召抱えに反対し、6月には会津藩邸で近藤らと話し合いがもたれた。14日に佐野は亡くなっているが死因には諸説ある。切腹説と斬殺説。佐野らは「我々4人は残るが、残りの6名は離隊させてほしい」といい、退席したが、数時間後、4人は切腹したという説。もう1つは、土方は4人をたちどころに斬殺したというのである。ドラマ「新選組血風録第9回謀略の嵐」でももちろん暗殺だった。ウィキペディアでは大石鍬次郎に惨殺されたとある。佐野の遺体は京都壬生の光縁寺に埋葬されたが、明治になって伊東甲子太郎らと共に戒光寺(東山区泉涌寺)に改葬された。第24代総理大臣加藤高明は佐野の甥(妹の子)にあたる。新選組は暗殺集団であって政治集団ではないと考えられがちだが、実はさまざまな変革思想を個々の隊士はいだいていたのではないだろうか。
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