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2011年5月10日 (火)

米穀通帳と戦中戦後の配給事情

    昭和12年に始まった日中戦争の長期化は、生活必需物資の不足と物価の高騰をもたらした。政府は国家総動員法に基づく経済統制に踏み切り、昭和14年には、9・18停止令により、国内のすべての価格が昭和14年9月18日の水準に抑えられた。しかし、価格と消費を一方的に抑えたため闇取引が横行し、闇物価も高騰した。そこで、すでに綿糸配給統制で実施した切符制を昭和15年6月に砂糖とマッチをはじめとして、昭和16年4月には米穀、小麦粉、昭和17年には味噌、醤油など生活必需物資に次々と適用した。

   米の配給には家庭用米穀通帳を年1回発行し、これより各家庭の割当て量は、大人1人1日当り2合3勺(330グラム)とされた。これは通常の大人の消費量を約2割も下回っていた。国民は指定された日時に自治会や隣組の配給所に取りに行く。配給といっても、お金を払って行列買いするのである。しかし、昭和18年以降は、配給量自体が不足しはじめ、国民は闇物資をもとめて買い出しにいかざるをえなかった。主食の米の配給量は、昭和20年5月までは1人1日2合5勺は一応不変であったそうだが、戦後は2合1勺となり、欠配が何日も続いた。ヤミ市は違法である。しかし、それを買わなければ餓死する。すべての人がヤミの買い手であった。しかし、自分の信じた道徳でヤミ米を食わなかった人もいる。東京高等学校の亀尾英四郎教授が配給食糧のみで生活していたため栄養失調で死んだのは、昭和20年10月11日のことである。東京地裁の判事・山口良忠は昭和22年10月11日に亡くなった。その後、2合5勺の配給基準は昭和24年まで続いた。食糧管理法は戦後も長らく存続し、米穀通帳がないとお米が買えない時代は続いた。お米は布の袋と米穀通帳を持って米屋で印鑑をもらって量り売りで買うというのが普通である。次第に食生活の変化の影響で米が余るようになり、食糧管理法が改正され、米穀通帳が廃止されたのは昭和57年のことである。

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コメント

そして、この倫理を無視した政策を行った機関は、
その役目を失った現在まで行政に居座り、現在
JAS法の係を担っている。こんな素人集団が仕切っているため、すべてが中途半端、真面目に取り組めば取り組むほど会社の業績は下がり、嘘つきだけが儲かるシステムになってしまっている。彼らは情報提供と言う垂れ込みが無い限り事を起さず、【へ】の役にも立っていないのが現状!

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