赤穂義人纂書
今日、赤穂事件に関しては映画やドラマで何度も上演されるが、その背景には詳細な記録が伝えられたことも関係している。天保頃、赤穂事件の記録は散逸していたが、鍋田三善(1778-1858)が細大漏らさず書き写して集めていた。これが「赤穂義人纂書」全18巻(1851)と呼ばれるものである。鍋田三善は陸奥国磐城平藩士であるが、父三房の江戸詰めにより、大塚に住み、兵学者清水赤城(1766-1848、4男は大橋訥庵)の門に入る。清水は、小野寺十内がその妻に与えた書簡をたまたま得たところ、感激し、忠孝の実践のために「涙襟集」を編纂した。弟子の鍋田三善はその師の志を継いで、赤穂事件に関するあらゆる記録を筆者し集めた。死後、その原本は散逸したが、明治になって歴史学者の重野安繹が講演で「赤穂義人纂書なる貴重な集大成があると仄聞したが未だ見る機会なし」と述べたところ、大塚義(清水赤城の孫)が聞き、国立国会図書館に伝わり、国書刊行会から明治43年から44年にかけて刊行されることになった。
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