下司次郎ゆかりの来迎寺
小野市にある浄土寺の開祖は重源(1121-1203)である。1180年、平清盛の子、重衡が東大寺を焼き討ちしたが、1181年に朝廷から東大寺勧進職に任じられ、1195年落成したことはよく知られる。これらの歴史的事実をふまえて小野市には下司次郎なる人物の伝承が残っている。『加東郡誌』には、小野市市場町にある来迎寺の縁起を伝えている。開基は播磨福井庄の下司次郎の妹の子の善阿という。下司次郎は南都焼討の仏罰によって熱病に罹り一族滅亡したが、次郎の妹は子を重源に托して出家せしめて善阿となる。善阿は重源に仕えて観阿弥と相弟子となり、後、観阿は浄土寺を開き、善阿は南山に来迎寺を開いたとある。
下司次郎は、福井庄の荘園の荘官であったが、なぜ平家の一手となって、南都の焼討に加担したのか謎であるが、小野の地の重源伝承と結びついて来迎寺伝承が成立したものと考えられる。小野市市場町には下司次郎の居館とされる「城跡」も発掘されている。
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