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2011年5月31日 (火)

沢村プロ初完投

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  巨人のルーキー沢村一拓。西武の主砲中村に一発を浴びたものの、その後粘りをみせて初完投で2勝目。14番と16番の永久欠番の間にはさまれた15番はようやく大器の片りんをみせだした。

鴨なんばと関東煮

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   「トイレの神様」にでてくる「鴨なんば」。鴨とネギが入ったそば。「なんば」はもちろん地名の「難波」。昔、この地はネギ畑で「なんばねぎ」のことを「なんば」と略した。関東の「鴨南蛮」はこれを聞き違えのではないか。

    関東では「おでん」だが、大阪では「関東煮」(かんとうだき)。だが関東地方ではなくて、中国の広東という説がある。松島遊郭周辺の露店の屋台で、中国から来た人が鯨肉やコロの出汁を作って煮込んだ料理をはじめたのが起源という。

2011年5月30日 (月)

経験的心理学

Brf_brentano_klein Franz Brentano

    ブレンターノ(1838-1917)の思想は「作用心理学」といわれる。心理学の対象は精神作用であるとするもので、内容心理学に対する。彼の思想はフッサールの現象学やマイノングの対象論など多大な影響を与えた。主著「アリストテレスの心理学」(1867)「経験的立場からの心理学」(1874)ブレンターノはドイツのコブレンツ近くのマリエンブルクに生まれて、1856年からミュンヘン、ベルリン、ヴュルツブルク、ミュンスターなどの大学に学び、1864年にローマ、そしてウィーン、フィレンツェに住む。1915年チューリヒに移り、そこで没した。

参考文献

フランツ・ブレンターノに於ける形而上的認識 西尾なお 東京女子大論集10 1959

フランツ・ブレンターノの表象理論 水地宗明 彦根論叢210 1981

フランツ・ブレンターノの時間論 水地宗明 彦根論叢215,217,224,241 1982-86

フランツ・ブレンターノのファンタジー概念 原幸子 美学53(3) 2002

フランツ・ブレンターノにおける超越論的現象学の萌芽 依田義右、次田憲和 芸術(27)4-18  2004

心理学者列伝(19世紀)

Photo_2 実験するパブロフ博士

    フロイトの「夢の研究」(1900)やパブロフの「条件反射」(1902)など心理学は19世紀に誕生した。ヘルマン・エビングハウス(1850-1909)の「記憶について」も現在でも記憶法で知られている。「エビングハウスの忘却曲線」というもので、1度覚えたものは最初の1日を乗り越えれば1ヶ月後も5%くらいしか忘れない。大切なのは最初の20分間だという。

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筒美京平と望月浩

Photo 萩原哲晶作曲 タカオカンベ作詞 

   日本音楽界で最も多くのヒット曲を作曲したのは古賀政男でも古関裕而でもなく、筒美京平だろう。古賀は4000曲、古関は5000曲といわれるが、実質のヒット曲では筒美の500曲が一番多い。ヴィレッジ・シンガーズ「バラ色の雲」が初のヒット曲だというが、処女作は18歳の望月浩「黄色いレモン」(昭和41年)だがヒットしなかった。当時は筒美は若かったので、あまり大物の曲はなく新人中心に提供していた。望月のデビューは前年で、布施明と同期。39年ごろ味の素提供の「ホイホイミュージックスクール」という素人番組で布施も望月も出演していた。二人は人気があったが、先に売れたのは望月浩だった。青春歌謡ブームで純愛路線で人気がでた。「泣かないで」という映像には太田博之と田代みどりのカップルで曲が流れている。

少し行っては 立ち止まる

胸につかえる おくり道

赤い夕日に 叱られそうな

二人は初恋 まだ高校生

いいね 泣かないで

涙をふいてから

お別れは お別れは

もう一度

佐野七五三之助の墓

Kairou_shin023佐野七五三之助の墓

   佐野七五三之助は元治元年の江戸での隊士募集に応じて新選組に入隊。慶応3年3月、伊藤甲子太郎ら御陵衛士となるが、佐野ら4人は密名を受けて新選組にとどまる。しかし佐野七五三之助、茨木司、中村五郎、富川十郎ほか6名は、幕府召抱えに反対し、6月には会津藩邸で近藤らと話し合いがもたれた。14日に佐野は亡くなっているが死因には諸説ある。切腹説と斬殺説。佐野らは「我々4人は残るが、残りの6名は離隊させてほしい」といい、退席したが、数時間後、4人は切腹したという説。もう1つは、土方は4人をたちどころに斬殺したというのである。ドラマ「新選組血風録第9回謀略の嵐」でももちろん暗殺だった。ウィキペディアでは大石鍬次郎に惨殺されたとある。佐野の遺体は京都壬生の光縁寺に埋葬されたが、明治になって伊東甲子太郎らと共に戒光寺(東山区泉涌寺)に改葬された。第24代総理大臣加藤高明は佐野の甥(妹の子)にあたる。新選組は暗殺集団であって政治集団ではないと考えられがちだが、実はさまざまな変革思想を個々の隊士はいだいていたのではないだろうか。

2011年5月29日 (日)

医学に貢献した人々(19世紀後半)

Photo_6 アルマウェル・ハンセン

1851年 ウッド Alexander Wood (1817-1884) モルヒネ水溶液の皮下注射

1854年 フレーメル 結核にサナトリウム療法を提唱

1855年 ベルナール Claude Bernard (1813-1878) 肝臓のグリコーゲン生成機能を発見

1857年 パスツール Louis Pasteur (1822-1895) 乳酸醗酵および酒精醗酵の発見

1858年 フィルヒョー Rudolf Virchow(1821-1902) 「細胞病理学」

1860年 シュルツ Max Johann Sigismund Schultze(1825-1874) 原形質説

1861年 ブローカ Paul Broca (1824-1930) 大脳皮質に言語中枢を発見

1862年 スネルレン Hermann Snellen (1834-1908) 視力表の作製

1863年 ヘルムホルツ Helmholtz (1821-1894) 聴覚の理論

1864年 ゼンメルワイス Ignaz Semmelweis (1818-1865) 消毒外科を唱える

1869年 ブラウン・セカール Charles Edouard Brown-Seguard (1817-1894) 内分泌学

1869年 ランゲルハンス Paul Langerrhans (1847-1938) 膵臓ランゲルハウス島細胞の発見

1873年 ハンセン Armauer  Hansen (1841-1912) らい菌の発見

1880年 エーベルト Karl Eoerth (1835-1926) 腸チフス菌の発見

1883年 クレーブス Edwin Klebs (1834-1913) ジフテリア菌の発見

1882年 コッホ(1843-1911) 結核菌の発見

1884年 コッホ Robert Koch (1843-1911) コレラ菌の発見

1885年 エシェリヒ Theodor Escherich(1857-1911) 大腸菌の発見

医学に貢献した人々(19世紀前半)

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1796年ジェンナー Edward Jenner(1749-1823) 牛痘種痘法を発明

1807年ポッチーニ Plilipp Bossini エンドスコープを創設(人体内腔検査、つまり内視鏡)

1817年ゼルチュルナー  Adolf Serturner(1783-1841) アヘンよりモルヒネを純粋に抽出することに成功

1821年マジャンディ Francois Magengie(1783-1857) 生理学専門雑誌刊行

1823年プルキニエ  Jan Evangelista Fritsch(1787-1869) 指紋法

1824年プラウト Willliam Prout(1789-1884) 胃液の生化学的研究

1825年ブラック James Black (1788-1867) 血液の毛細管内循環に冠する研究

1826年ブルトノー Pierre Bretonneau(1778-1862) 延髄における呼吸中枢の発見

1827年ブライト Richard Brght(1789-1858) ブライト氏病(腎臓病)

1832年ホール  Marshaii Hall(1790-1857) 脊髄における反射中枢の発見

1832年ロビケ  Pierre Jean Robiquet(1781-1826) アヘンよりコデインを分離

1835年シュヴァン Theodor Schwann(1810-1882) 細胞説

1839年シェンライン Johann Lucas Schonlein(1793-1864) 黄癖病の病原菌発見

1840年バセドウ (1799-1854) バセドウ氏病の発見

1841年ジャクソン Charles Tomas Jackson (1805-1880) エーテルの麻酔法

1842年ドンネ Alfed Donne (1801-1878) 血小板の発見

1843年クロイケ Hermann Kleuche (1813-1887) 結核病毒の伝染性を発見

1845年へブラ Ferdinand Hebra (1816-1880) 疥癬虫の発見

1845年フィルヒョー Rudolf Virchow (1818-1902) 白血症の研究

1846年ウォーレン John Collins Warren (1778-1840) 外科手術にエーテル麻酔を使用

Hgwrrjhcideefhcnryfybc Karl Adolph von Basedow

聴診器とラエネク

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   ニュートンは林檎が落下するのを見て万有引力を連想し、星飛雄馬は少女が毬をつくのを見て大リーグボール2号を生み出した(漫画の話でゴメン)。つまりチョットしたヒントが大発見のきっかけになるということ。聴診器の誕生にもこんなエピソードがある。

   フランスの若き病理学者ルネ・ラエネク(1781-1826)は、子どもが木の棒の端を耳をあてて遊んでいたことからヒントをえて、体内で発生する心音や呼吸音を聴くことに気づいた。1819年、木製の筒に改良して、心臓病に役立てた。その後、聴診器で診断できる疾患に関して論文に表し、その普及に努めた。ラエネクの聴診器の発明は医学の進歩に大きな貢献をしたことはいうまでもない。聴診器の仏語「tethoscope」は英語も同様である。

近代衛生学の父フランクとペッテンコーファー

Johann_peter_frank ヨハン・ピーター・フランクMax_von_pettenkofer ペッテンコーファー

    19世紀には公衆衛生と医学を正しく社会に適用することが多くの学者によって唱えられた。なかでも知られるのがヨハン・ピーター・フランク(1745-1821)とマックス・フォン・ペッテンコーファー(1818-1901)である。フランクは「完全なる医学的警察制度」(1800年ごろ)を発表し、ペッテンコーファーは下水道整備に多大な功績をおさめた。ドイツに留学した森鴎外の専門は衛生学で、孫の名前である「真樟」(まくす)はペッテンコーファーの名前に因んでいる。

宇宙人との交信は可能か?

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   映画「地球が静止する日」(2008)。遊星から1人の異星人が地球にやってきた。クラトゥと名乗る地球人と同じ姿をした宇宙人。「地球はかけがえのない惑星であり、人類が今すぐ文明の方向を改めないのなら滅ぼさざるを得ない」というメッセージを伝えにきたのだ。原発の暴走を止められない日本人にとって環境破壊は切実に感じる。映画の世界では宇宙人の存在は当たり前だが、本当に宇宙のかなたに知的生命体はいるのだろうか。この疑問に対して、私には明確に答える能力をもたない。かつてコロンブスのように宇宙船や宇宙戦艦ヤマトに乗って大冒険へ出かけることを想像した。でもどれだけ速力がアップしてもせいぜい近隣の宇宙だけで、太陽系からはるか離れて飛ぶことは困難であることがわかってきた。そこで、光や電波で宇宙空間に向かって送り、やってくる信号を受信すれば、宇宙人と交信することができるかもしれない。プエルトリコのアレシボ天文台では継続して地球外生命からの交信を観測しているという。

It rained cats and dogs

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    強い台風2号が接近。早朝、近くのスーパーMandaiで卵、ハム、牛乳、野菜、パンなど食料品を買う。籠城作戦。

9676  -52

9758  +82

9913  +155

9888  -25

9920  +32

9923  +3

9827  -96

2011年5月28日 (土)

栗田艦隊、謎の反転

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   昭和19年10月22日、連合艦隊はボルネオ島のブルネイから出撃を開始した。大和、武蔵、長門、愛宕、妙高、高雄、羽黒、能代、鳥海、摩耶らの第1部隊、それに続いて榛名、金剛、利根、矢矧、熊野、筑摩、鈴谷らの第2部隊がパラワン水道、シブヤン海、サマール沖を抜けてレイテへ。第3部隊の西村艦隊は低速の扶桑、山城がいるので近道のスリガオ海峡へと向かった。囮の小沢機動部隊は、内地からフィリピン北西に移動した。栗田艦隊は23日、パラワン水道で米潜水艦によって重巡を雷撃され、24日には武蔵を撃沈された。25日夜明け前には西村艦隊が米戦艦の砲撃で壊滅された。フィリピン北西では小沢艦隊が米機動部隊の攻撃を受けて壊滅状態だった。25日午後12時30分、ついに栗田艦隊の本隊が殴り込みに向けてレイテへ進撃しようとした。ところが突然、栗田長官は「突入中止!反転・・・北へ変針」と命令した。傍らの幕僚たちが驚き、つかみかからんばかりに「なぜ!」「長官、逃げるのですか!」などと詰め寄った。しかし、栗田は反転命令を取り消さない。栗田は戦後、反転の理由について真相を詳しく述べないまま死んだ。連合艦隊は米軍艦隊をあと一歩というところまで追い詰めながら、レイテ湾を目前に引き返してしまった。スプラーグ少将は、突如引きあげてゆく栗田艦隊に目をやり、神に感謝した。

朝日新聞のランキング落選に泣く明治の偉人

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明治42年ごろ啄木は朝日新聞の校正係だった

    朝日新聞アスパラクラブが選ぶ「いま心をひかれる明治人」第1位は勝海舟。咸臨丸、江戸無血入城など幕末の印象が強い。2位は夏目漱石。やはり朝日新聞の縁故か。3位は野口英世。千円札肖像。4位伊藤博文。当時は人気がなかった。漁色家として有名で、毎年団扇をとりかえるように女をとりかえた。しかも10代の若い娘を好んだ。松方正義も20数人の妾をもち、子の数は、86人とも、100人とも言われる。明治天皇が「そのほうの子供は幾人あるのか」と尋ねたら、「いずれ取り調べて奏上いたします」と答えたそうだ。ともかく現代日本人は勝ち組が好きなようだ。岩崎弥太郎、渋沢栄一のようなお金もち。伊藤博文、板垣退助、小村寿太郎ら顕官。秋山真之、秋山好古、東郷平八郎、児玉源太郎ら軍人。石川啄木や滝廉太郎は忘れられた明治人といえるだろう。感傷的で悲劇性をもつ偉人は嫌われるらしい。また外国人には冷たい。小泉八雲やフェノロサ、大森貝塚の発見者モース、クラーク博士、「お菊さん」のロチ、モラエスなどもいない。津田梅子の陰で多くの女性たちが泣いている。山川捨松、吉岡弥生、下田歌子、荻野吟子、西川文子、矢島楫子、奥村五百子、平塚雷鳥、和田英、河原操子、松井須磨子ら。与謝野晶子のかげに泣くのは山川登美子か。鴎外・漱石のせいで泣く文豪も多い。露伴、逍遥、紅葉、美妙、独歩、緑雨、蘆花、透谷、四迷、晩翠、藤村など。福沢諭吉のかげに泣くのは、中村正直、西周、中江兆民、森有礼、陸羯南、三宅雪嶺、徳富蘇峰。政治家では山縣有朋、桂太郎、西園寺公望、陸奥宗光ら。東条英機や山本五十六はともに明治17年生まれで、明治人だが落選。ほかに内藤湖南、内村鑑三、柳田国男、南方熊楠、岡倉天心らも落選組。なぜか全集がでて多数の論文を残している学者が落選して、野口英世のように研究成果のわかりずらい医者が上位にくるのも不思議だ。アスパラは単に虚構のドラマを見て人物評価を下すのだろうか。日本人は客観評価はせずに恣意的な評価に満足するらしい。

2011年5月27日 (金)

18世紀天文学者列伝

Photo_4 Edmund Halley

    エドモンド・ハレーは友人ニュートンの発見した力学法則によって、彗星も惑星と同様に太陽の引力によって公転軌道を描くものと考え、彗星が周期75~76年で回帰するもので、次回の出現は1757~1758年であることを予言した。この彗星はハレーの予言どおり1758年のクリスマスの晩にドイツの農夫(天文学者?)ヨハン・パリッチによって発見され、研究者ハレーの名を冠するようになった。つまりハレーはハレー彗星を見ていないのだ。ハレーはニュートンの偉大さに隠れた感があるが、偉大な天文学者であったことに間違いない。

フラムステッド(1646-1719)  恒星表

ハレー(1656-1742)  ハレー彗星の周期

ブラッドリ(1693-1762)  章動の発見

クレーロー(1713-1765)  攝動論

ラカイユ(1713-1762)   星表

ダランベール(1717-1783)  三体問題に関する最初の研究

カント(1724-1804)  星雲説

ハーシェル(1738-1822) 天王星の発見

ピアッジ(1746-1826)  小惑星ケレスの発見

ラブラース(1749-1827)  天体力学

先生の「立小便」今昔物語

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    ブリュッセルにはジェローム・デュケノワが製作した小便小僧の噴水がある。むかしジュリアン坊やが爆弾の導火線に小便をかけて消火したことに由来するものだそうだ。小便小僧は人気者だが先生の立小便は顰蹙ものだ。中川一郎議員が国会議事堂の前庭で立小便しているところを週刊誌にフォーカスされて問題になった笑い話がある。夏目漱石の名作「こころ」にも立小便の描写場面がある。

先生がいきなり道の端へ寄って行った。さうして綺麗に刈り込んだ生垣の下で、裾をまくって小便をした。私は先生が用を足す間ぼんやり其所に立ってゐた。「やあ失敬」先生は斯ういって又歩き出した。

   この件の読者の評価は分かれるらしい。小説の構成からは突飛であるとする説、明治末期、立小便は誰れでもするもので違和感はないとする説、さまざまである。最近は生まれてから一度も立小便をしたことがない若い人もいるので、漱石の小説を読むと違和感を感じるのかもしれない。

秋月種実と古処山城

Photo_2 古処山城(秋月城)

    大宰府官人大蔵種成の子種雄が鎌倉初期、将軍頼家から秋月の地を拝領した。室町時代は周防大内氏にしたがい、豊後大友氏と争う。1541年種方は大内義隆より幕府番衆に推挙される。1557年、大友義鎮と争って敗死。秋月種実(1545-1596)は島津と結び、1587年、豊臣秀吉の九州攻めに対抗する。秀吉は3月28日、小倉城に入り、肥後へ南下した。4月1日、種実の岩石城を1日で落城させた。種実は大隈城を破却して、本拠の古処山城に移り、籠城しようとした。ところが秀吉は2日後、大隈城の城壁を播磨奉書紙でもって修復したようにみせかけた。3日朝、種実はこれを見て仰天し、名物茶器「楢柴」を献上し秀吉に降伏した。わずか3日にして敗れたことは九州の領主に秀吉軍強しの印象を与えた。

世界市民主義

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  世界史事典を引くと「汎」とつく用語は多い。「汎アメリカ主義」「汎アラブ主義」「汎イスラム主義」「汎ゲルマン主義」「汎スラブ主義」。「汎」とは英語のpanのことで、「全体にわたる」という意味。なぜか「汎日本主義」というのは無い。日本人は左右を重要視するらしい。開国・攘夷、佐幕・討幕、脱亜・興亜、全面講和・単独講和、右翼・左翼。本ブログに「サヨクは死ね」という書き込みがあった。私は左翼でもサヨクでもない。普遍的な考え方をめざしている。「汎日本主義」あるいは「世界市民主義」とでも唱えようか。たとえば世界の古代文明の発祥地は四大文明。だが本当は4ヵ所にしぼるのは無理があることがわかった。日本人にはアジアの古代文明が東端の島国の日本に伝わったということで四大文明は理解しやすい。ただしこれは日本中心の世界観だろう。つまり日本で売られている世界地図は必ず日本が中央に位置している。ところが海外旅行に行って世界地図を買うと、日本という小さな島は端にあるのに気づくだろう。日本人の誇りや優秀性を本にすればよく売れるが、おそらくそれは日本国内だけに通用する偏狭したナショナリズムを再生するだけのものだろう。

西洋教育家20人(17世紀まで)

長尾十三二「西洋教育史」に出てくる教育者の羅列。

クインチリアヌス(35頃-95頃)「弁論家育成論」

プルタルコス(46頃-120以後)「対比列伝」(英雄伝)

アウグスチヌス(354-430)「神の国」

エラスムス(1469頃-1536)「学習方法論」

モーア(1478-1535)「ユートピア」

ルター(1483-1546)「子どもの就学について」

ヴィーヴェス(1492-1540)「学問論」

フランシス・ベーコン(1561-1626)「学問の進歩」

ラトケ(1571-1626)「一般言語教授法序説」

コメニウス(1592-1670)「世界図会」

ハートリブ(1599頃-1662)「教育改革構想」

ミルトン(1608-1674)「教育論」

ウィンスタンリ(1609-1652)「自由の法」

ペティ(1623-1687)「教育論」

ゼッケンドルフ(1626-1692)「キリスト教国家論」

ロック(1632-1704)「労働学校案」

ベッヒャー(1635-1682)「道徳論」

フェヌロン(1651-1715)「女子教育論」

ラ・サール(1651-1719)「キリスト教学校指導要領」

ベラーズ(1654頃-1725)「産業カレッジ案」

ドイツ法学者列伝

Georg_jellinek_2 ゲオルグ・イェリネック(1851-1911)

  毎日の暮らしに少しでも緑に親しみたいと思う。大きな葉の観葉植物が人気だ。そこで関口宏の東京フレンドパーク式に「主婦の友社たのしい観葉植物に出ているグリーンの名を10述べよ」という式で羅列すると、アイビー、アロエ、カラジウム、クテナンテ、コルディリネ、サンセベリア、シェフレラ、スパティフィラム、ディジゴテカ、ドラセナなど舌をかみそうな名前が続く。この仲間集め方式で学者をジャンル別に羅列してみよう。第1回は法学セミナー1974年6月号付録にあるドイツ法学者「人と作品」列伝。

ヘーゲル「法哲学綱要」、サヴィニー「現代ローマ法体系」、ヴィントンシャイト「パンデクテン教科書」、イェーリング「ローマ法の精神」、ラーバント「ドイツ帝国憲法論」、ギールケ「ドイツ団体法」、マイヤー「行政法教科書」、イェリネック「一般国家学」、リスト「ドイツ国刑法」、エールリッヒ「法社会学の基礎づけ」、ウェーバー「法社会学」、ラーベル「商品売買法」、ジンツハイマー「労働法原理」、ラートブルフ「法哲学」、ケルゼン「純粋法学」、シュミット「憲法理論」の16人。

出羽重遠と日露戦争連合艦隊第3戦隊

   朝敵の汚名をうけ、戊辰戦争に敗れた会津藩は、その未来を少年たちに託した。出羽重遠(1855-1930)は、14歳で鶴ヶ城落城の悲劇を体験し、藩の期待をになって海軍に入隊。海軍が公募によって学生を集めた時の第一期生である。出羽はのち第15代の海軍大将になるが、それまでの14名がすべて薩摩出身であり、薩摩以外から初めて大将に昇格した人である。

   出羽重遠は第1艦隊第3戦隊(巡洋艦千歳、高砂、笠置、吉野)司令官として、旅順閉塞隊の活動ののちも封鎖作業にあたっていたが、明治37年4月、囮部隊となって名将マカロフ中将率いるロシア艦隊を旅順港外に誘い出す任を命ぜられる。敵旗艦ペトロパブロフスクは触雷し、沈没する。マカロフ提督は戦死し、ロシア海軍の士気は低下した。明治38年5月の日本海海戦において第3戦隊は、バルチック艦隊の後方に回り込み、南側に位置して包囲殲滅戦の一翼となり、連合艦隊は大勝利にみちびく。なお第3戦隊旗艦笠置の艦長はのちに海軍大将にまで昇進した山屋他人(1866-1940)である。皇太子妃雅子さまの曾祖父として知られている。

2011年5月26日 (木)

軍人道徳、武士道そして復古主義

   日清戦争ごろから日露戦争ごろにかけて、さかんに軍歌が歌われるようになる。武士道は既に旧時代のものであるが、軍国主義の勃興とともに武士道の精神主義が美化されるようになったのも奇妙な話である。明治天皇が没すると、乃木希典は妻静子とともに大喪の儀式当日自邸で殉死した。「嗚呼武士道未だ亡びず」(報知新聞の見出し)、「完全に我国武士道の精華を発揮せるもの」(新渡戸稲造の談話)など乃木は軍神として崇められた。日本人は何度も土蔵から旧式なものを持ち出すのが好きな民族である。武士や軍人が亡んだ後でも、三島由紀夫の割腹自殺(昭和45年)や21世紀の現在でも日本人が従うべき規範として「武士道」とか「大和魂」を鼓吹する学者もいる。集団スポーツなどの国際試合で「サムライ×××」など精神主義を鼓舞する人も多い。過去は過去として葬り去り、理知的な態度で新しいものを育てたいものである。

投企

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    人は言う。死は確実にやってくるが、しかし当分はまだやってこないと。しかし人は必ず死ぬ。だが、それはまだ先のことだ。私にはまだ先のことだ。「いつか」は来る。もちろん人がいつ死ぬかというこは誰にもわからない。人は否応なしにこの世を生きなければならない。ハイデッガーは「被投性」と名づけた。そして、被投性は、気分(とりわけ不安)を通して自覚している。たとえば「やがて死ぬ自分にどんな意味があるか?」といった不安を抱えた問いが生ずる。いったん、被投性を自覚すると、人は、いつか自分が死によって、この世界が強制的に退去させられる事に気がつく。自分の死を鋭く意識することをハイデッガーは死への「先駆的覚悟性」と呼んだ。この死の自覚からさらに自分の生の意味をもう一度捉えなおすことを「投企」という。広辞苑にも収録されているが難解な説明である。「自己の存在の可能性を未来に向かって投げ企てること。現存在がつねにすでに自己の可能性に開かれている構造において、能動的な側面(了解)をいう。」とある。

すべては脇谷の落球から始まった

    今年の巨人の異変は阪神戦での脇谷の落球事件から始まった。審判が捕球とみなしアウトを宣告した。脇谷が責められることはない。あの場合、誰がプレーしても正直に「落としました」という選手はいない。だがネットなどで脇谷への非難は高まった。そのせいで脇谷は攻走守すべてに精彩を欠いたプレーが目立った。温厚な原監督が珍しく懲罰的な二軍降格を命じた。おかげで2軍の選手が大挙スタメン出場する機会が多くなった。人気球団巨人なのでフル出場すれば、たちどころにスター選手となる。だが実力で勝ち取ったポジションではない。怪我の選手が復帰すれば、また2軍に戻されるかもしれない。足が速くて、必死なのはわかる。しかし、内野安打でも観客は喜び、プロ入り初打点といっては湧き上がる歓声。ミーハー的な人気でヤングジャイアンツは魅力あるものの、所詮は本物ではない。いまは投手が頑張っているが、この得点力ではやがて投手が疲れてきたころ大敗が続く。安定した打線を組めないチームは弱い。

旗と震災ナショナリズム

Photo 日の丸、君が代、日本人の誇り

   竿などにかかげて標識とする旗は、戦争の歴史と関わりの深いものである。戦闘のさい敵味方を識別したりする目的がある。軍用の旗は、日本書紀天武14年の条と「軍防令義解」とに、旗幡を私家におくことの禁止が見える。柿本人麻呂の歌に「捧げる幡の靡きは、冬ごもり春さり来れば野ごとにつきてある火の、風のむた靡くがごとく」とあり、古代の軍陣の旗の色が赤色であったことが知られている。その伝統が赤色旗を平家が用いたので、対抗上、源氏が白旗を用いたものであるが、いずれも無地であった。紅白の源平合戦のさなか国民の餓死者は何万人もでた。ときは移りて昭和の御世。日の丸と「天皇陛下万歳」の陰で多くの出征兵士と家族は泣いた。天皇のために忠義をつくす大日本帝国臣民は、日の丸、君が代には絶対服従しなければならない。平成の大震災。大阪府議会で「君が代起立条例案」が提出される。朝日新聞には「震災で心を1つにしなければならない時に、座っているのは失礼」と府民の声。誰に対して失礼なのか。天皇陛下に対してか。成立すれば教職員に君が代の起立斉唱を義務づけ、違反者には処分が下されることとなる。いわば皇国精神の徹底化を図る平成版の皇民化教育である。高瀬実乗じゃないが、「あのねー、おっさん。わしゃ、かなわんよう」

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2011年5月25日 (水)

いつまで続く貧打巨人

   澤村に続いて、またしても好投金刃を打線が援護できなかった。巨人1-2ソフトバンク。点差からみれば接戦にように感じるが、巨人の攻撃は淡白で逆転が期待できない打線だ。ヤングジャイアンツというイメージはよいが実態は貧打線。この試合、大田、藤村はヒットを放ち、敗因は中軸にある。しかしヤングジャイアンツをいつまで前面に出せるだろうか。今年1年を我慢して土台づくりの年とするなら話は別だが、常勝巨人軍には勝つことが常に求められる。勝つためには打線の組み替えが必要だろう。かつての重量打線のイメージからすれば、相手投手は楽と感じるはずだ。寺原がそのようなコメントをしていた。投手になめられていては勝つことできまい。これまで小笠原、高橋、亀井と一発のある打者が揃っていたから脅威が感じられた。それがバントと内野安打の軽量打線に急に変貌したので迫力が無くなった。巨人はこのまま沈むかもしれない。

ルツ、落ち穂拾いに行く

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    エリメレクは、妻であるナオミと2人の息子を伴ってモアブの地に移り住んだ。だがエリメレクと2人の息子たちはそれぞれの妻オルパとルツを残したまま死んでしまう。未亡人となったルツは、寂しい老後を送ろうとしているナオミのもとを離れようとはしなかった。2人は4月にモアブからベツレヘムに着いた。寡婦たちが生計を立てる道はそう多くはなく、ルツとナオミは貧しさの中にあった。ルツが落ち穂を拾っていた畑は、エリメレクの一族に属するボアズの所有であった。ルツはボアズの妻となり、ルツの子孫にダビデ王が生まれ、ダビデの血統からメシアご自身が誕生する。

江川の手抜き投法

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    怪物江川卓。135勝72敗。全身に無駄な力が無く、剛速球を投げる安定した理想的な投球フォーム。現役引退後はコーチ、監督はせず、なぜか解説一筋。きれいな言葉でわかりやすく好評である。余談や雑談はせず、ひたすら忠実に試合の実況解説に徹したところがとてもよい。投手出身なので当然ピッチング中心。先日、巨人の新人澤村が力投した試合。三振を次々奪取したが、7回下位打線からの攻撃。ここで江川は「7番からの打線だから、ここで一息ぬいて軽く投げて、8回、9回にそなえるといい」という。アナウンサーは「いつも全力投球というところが澤村のいいところなんでしょうね」と。「それでは完投はなかなか難しいね」と江川は言う。流石にアナウンサーも「江川の手抜き投法」という言葉は使わなかったが視聴者のおおくは過去を思い出しただろう。もちろん手抜きで完投したケースもあったが、痛打されたことも多々あり、「江川手抜き投法」は流行語にもなった。やっぱり江川の手抜きは本当だったことが本人の口から出てしまった。

松平定信と谷文晁

  応挙、探幽のような殿上出仕の絵師でない谷文晁(1763-1840)が、法眼にまで上りつめたのは白河楽翁公、松平定信(1758-1829)の庇護によるところのものであろう。定信の古美術や絵画への関心は並々ならぬものがあった。そのため各地にある絵巻を絵師に命じて模写させて収集していた。京都の石山寺に伝わる「石山縁起絵巻」の巻6と7は詞書のみで絵画が欠損していた。石山寺の尊賢僧正は絵巻の補作を頼んだ。定信はこの要望に応え、補作を谷文晁に命じた。谷文晁が絵画を完成したのは文化元年からおよそ2年をかけてのことである。

赤穂義人纂書

    今日、赤穂事件に関しては映画やドラマで何度も上演されるが、その背景には詳細な記録が伝えられたことも関係している。天保頃、赤穂事件の記録は散逸していたが、鍋田三善(1778-1858)が細大漏らさず書き写して集めていた。これが「赤穂義人纂書」全18巻(1851)と呼ばれるものである。鍋田三善は陸奥国磐城平藩士であるが、父三房の江戸詰めにより、大塚に住み、兵学者清水赤城(1766-1848、4男は大橋訥庵)の門に入る。清水は、小野寺十内がその妻に与えた書簡をたまたま得たところ、感激し、忠孝の実践のために「涙襟集」を編纂した。弟子の鍋田三善はその師の志を継いで、赤穂事件に関するあらゆる記録を筆者し集めた。死後、その原本は散逸したが、明治になって歴史学者の重野安繹が講演で「赤穂義人纂書なる貴重な集大成があると仄聞したが未だ見る機会なし」と述べたところ、大塚義(清水赤城の孫)が聞き、国立国会図書館に伝わり、国書刊行会から明治43年から44年にかけて刊行されることになった。

2011年5月24日 (火)

桃太郎は卑弥呼の弟だった!? 

Photo_3 桃太郎伝説が邪馬台国の秘密を解明する手がかりになると考古学者の間で評判だ

  桃太郎伝説は全国各地にある。香川県高松市に熊野権現桃太郎神社がある。ここの地名は「鬼無(鬼が無し)」つまり「きなし」と呼ばれる。桃太郎は桃から生まれているのではなく、孝霊天皇の子で稚武彦命(吉備津彦命)という。つまり姉は倭迹迹日百襲姫命(やまとももそひめ)である。いま卑弥呼の墓と注目されている奈良県桜井市のある箸墓古墳の主。近年、付近から大量の桃の種がでできたという。桃太郎は卑弥呼の弟だったのである。

質素なパリジェンヌ

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    パリジェンヌというと日本人にはとても高級感がある。フランスには有名ブランドがたくさんある。だがシャネルのバッグなどは自分が買うのではなく贈ってもらうものという感覚だそうだ。フランス女性はとにかくお金を使わないらしい。「たとえパンツ一枚でも、考えて考えて、考えた末に買わない」そうだ。フランス語に「パドレーヌ」という言葉がある。主婦がせっせと稼いだ金貨を毛糸の靴下に詰め込む習慣を諷したものである。女房のへそくりだが、万一に備えた節約として美徳の1つと考えられている。

源平争乱と飢饉

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  源平争乱のさなかの養和年間に京は大飢饉に見舞われた。「方丈記」には「春夏はひでり、秋には大風・洪水に襲われて、農作物が全く収穫できなかった」とある。畿内・西国に数万人の餓死者がでた。平氏の受けた打撃は大きく、平氏の敗因に、西国の飢餓もある。

ビクトリア女王

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    旧エンパイアーデー。つまりビクトリア女王の誕生日。治世64年(在位1837-1901)の長きに及び、大英帝国の栄光の時代を象徴する存在である。しかし帝国主義を代表する君主でありながら、高校世界史に登場することはあまりない。それは女王の政治的役割が必ずしも明確ではないからだろうか。しかし、日本とも異なり、王室が政治に介入することは大きいかったと考えられる。チェンバレンはこう書いている。「女王はまったくよく干渉なさる。保守党内閣の場合よりも、自由党内閣に対してのほうがうるさい。それというのも女王は保守党員だから。保守党はだいたいにおいて女王の気に入ることだけをやっているのに引替え、自由党は始終女王が嫌いなことばかりしているのだからだが、自由党の存在理由は実はそこにあるのだ。といって女王の干渉が違憲であるかというと、それは疑問だし、違憲の立証はとうてい不可能だろう」

時流に乗るドラマ

    NHK連続テレビ小説「おひさま」を見て「ほっとする」という感想をもたらす人が多い。脚本家の岡田恵和の本領発揮といえる。しかしこれを名作といえるかという多くの不満がのこる。なまぬるい。日本人の本音がてでいない、という気がする。なにも「真空地帯」「人間の条件」「戦争と人間」のような極限を描けというのではない。戦後から半世紀以上経たのだから、時代をみる見方も変わるのは仕方ないという諦めはある。まして今は大震災直後の日本、世はまさに「日本人の誇り」を求めている。批判するよりも、美しい日本人を描くことのほうが大衆にうけるだろう。そういう意味でまさに時流に乗った作品である。だが問題の所在を明らかにせず、あいまいなままに奇麗事ですます日本人の体質は困ったものである。

2011年5月22日 (日)

ヤングジャイアンツは力不足だ

   相次ぐ故障者続出でいま巨人は若手が台頭。交流戦巨人1-4オリックス。勝機は9回裏矢野の同点打で巨人にあった。1死1・3塁で一打サヨナラのチャンス。だがヤングジャイアンツは同点で喜びすぎ。円谷・大田の連続三振。せめて円谷が外飛でも打ってくれたら。実力不足を露呈した。ヤングより脇谷、古城、谷、高橋らベテランを起用したほうがいい。ヤングはなるほど足は速いが貧打線だ。

文庫本誕生100年

    立川文庫で有名な立川熊次郎(1878-1932)は明治11年、姫路市勝原区宮田の農家に生まれた。父が米相場で失敗し、生活は苦しかった。幼少から製粉所で働き、小金を蓄えて大阪で商売をしたが失敗。姉のかじが岡本増次郎と結婚し、岡本が増進堂という赤本の取次業をした。その縁で熊次郎も明治33年、増進堂の社員となった。やがて明治37年、独立して立川文明堂を開業する。日本軍歌集が大いに売れた。そして講談師玉田玉秀斎との出会いによって、明治44年、立川文庫を産んだ。「水戸黄門」「猿飛佐助」「霧隠才蔵」などシリーズ形式で刊行、大正末期まで約200点出版した。1冊25銭(のちに30銭)、いわば文庫本のハシリが立川文庫で、今年は誕生100周年にあたる。池田蘭子の小説「女紋」に立川文庫誕生の経緯が書かれている。

美濃部親子文庫

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    兵庫県高砂市に「美濃部親子文庫」というのがあることを迂闊にも最近になって知る。天皇機関説を唱えた美濃部達吉と息子の元東京都知事美濃部亮吉である。達吉の父秀芳(1840-1904)は儒学者であるとともに、漢方学、蘭学をも学び町医者であったが、明治22年、高砂町の2代目町長を勤めた。墓は高砂市木曽町の共同墓地の一画にあるが、訪れる人もなく、荒れた状態になっているらしい。2011年4月、材木町にある美濃部達吉の生家跡に石碑が建立された。現在、高砂公民館には美濃部家から寄贈された貴重な著書、史料が保存されている。書簡には天皇機関説に対する抗議書、決議書があり、内容も「自決すべし」等の趣旨のものがおおい。昭和10年に達吉が右翼青年に狙撃されたときの容体書もあるという。

2011年5月21日 (土)

徳川秀忠と大坂城

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    大坂夏の陣で廃墟同然となった大坂城は、1620年に2代将軍徳川秀忠(1579-1632)によって再築工事が始められた。工事をするにあたって、秀忠は「石垣も堀の深さも旧城の2倍にせよ」と命じた。そして3期に渡る工事を経て、3代将軍家光の時代に2代目大坂城は完成した。

ロックは本当に無責任な人なのか

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  高校の倫理社会という科目はなかなか内容が濃い分野である。デカルト、ロック、ルソー、カント、ヘーゲル、キルケゴール、ニーチェ、ヤスパースなど先哲の思想を1年で習得することは実際には無理だろう。だが民主的な国家・社会において、自主的な人格の形成には有益だと思う。とくにロックの著書は重要ではあるが、学問的で一般者には縁遠い。数学者の藤原正彦は『国家の品格』の「大思想家ロックの無責任発言」という章で「(ロックは)個人は自由に快楽を追求してよい。全能の神が社会に調和をもたらしてくれるから、と述べました。何と無責任でデタラメな発言でしょう。ロックこそは、自由主義、功利主義、近代主義の祖と呼んでも過言ではない人です」とロックを全否定している。なるほど国家を強調するためには自由の祖であるロックを叩く必要があるわけである。(藤原は品格をいう割りには品格のない文体である)ロックはおよそ300年も昔の人であるし、キリスト教社会の状況下で書かれた文章をどれだけ正確に読み込む事ができるか、私には分からない。イギリス社会思想史の専門家が藤原の所見をどのように評価するのか知らないが、おそらくトンデモ本のたぐいであろう。そしてそれがベストセラーとなり、日本中の知識人といわれる人が感心して読んでいるから笑える。藤原正彦は数学の業績は知らないが、社会思想史に関する限り三流の学者である。

男を顔で選んじゃダメ

Photo_3 アラン・ドロンは世界的スターだが、なかでも日本での人気は抜群に高かった

   世はまさにイケメンブームである。俳優に限らず野球・サッカーなどのスポーツ選手、あげくに政治家までもがルックス・容姿が重要視される。はたして男の外見は内面から生まれるのか。アメリカの心理学者エドワード・リー・ソーンダイク(1874-1949)は次のように説明する。ある石像があったとして、物体として見ればただの石であるが、それがキリストの像だと言われると後から後光が差しているように見える。この現象を「ハロー効果」という。あるものを評価するとき、ひとつの優れた情報を与えられると、それに引きずられて他の面までよく思えてしまうという心理現象である。テレビなどのCMで、好感度の高いタレントを起用するのはそのタレントのハロー効果を狙ったものといえる。しかし本当にその商品が優れているかは、商品テストをして比較してみないとわからない。美男で若い男が善良で優しいというのも、いい顔=いい性格、と思ってしまう女性の錯覚であることが多い。男を顔だけで選ばず、本性を見極めることが大切である。

安産祈願と絵馬

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    祈願や報謝のために、社寺に絵馬を奉納する習俗の起源はいつからかはっきりとわからない。絵馬といっても画家の手になる大絵馬から、庶民の切ない個人祈願の小絵馬までさまざまである。今昔物語に「板に書きたる絵馬有り」と見え、その起源は平安時代(12世紀前半)に認められる。だが民間祈願の絵馬奉納が江戸期にどの程度普及していたかは分からない。子供誕生に際し絵馬を奉納する習俗が昭和期戦前に各地に見える。子供の氏子入りの行事と、子供の成長の無事を祈願する目的である。絵柄は武者絵であるが、戦時中は肉弾三勇士のような戦時色の濃いものとなった。戦後は干支が一般的である。近年は、安産祈願した神社に無事に生まれたお礼と挨拶をし、安産祈願のときの絵馬にお礼を書いて、3人の名前を記入して奉納するらしい。

2011年5月20日 (金)

どうにも止まらない日本人

    何事も行き過ぎはよくない。大震災でイベントも自粛ムード。これも行き過ぎるとかえって復興のさまたげとなる。義援金ブーム。秋田県大館市の中学校で教師が義援金を出さなかった生徒の名前を黒板に見せしめに掲示したという。募金や義援金は強制の趣旨ではない。美術館の展示で裸体芸術の規制が強化されている。これも行き過ぎると表現が萎縮するだろう。天皇崇拝が盛んだ。「被災者のあぐらは非礼」と大合唱のコメントが寄せられた。大阪維新の会は君が代起立を条例で強制化するという。なにやら嫌な世の中になったものだ。目にみえない恐怖のために日本人は自分たちの首を自分で締めているようだ。

多田弥太郎と浅間峠

Photo_2 「生野義挙跡」と刻まれた石碑(朝来市生野町口銀谷)

   八鹿と出石とを結ぶ道のりの一番険しい峠が浅間峠である。今も通る人もなく、ここに勤皇の志士多田弥太郎は静かに眠っている。多田弥太郎(1826-1864)は但馬国出石の漢学者。長崎で高島秋帆に西洋砲術を学ぶ。藩主仙石久利の前で木製の大砲の実演をしている。1863年、生野で志士30人余が蜂起し、弥太郎も加わったが、わずか3日で終わった。藩主久利は弥太郎に理解を示していたものの、護送の途中、捕吏によって浅間峠で斬殺された。享年39歳。久利は怒り、弥太郎殺害者をのちに処分している。多田弥太郎の名は郷土史家の間では知られるものの、「図説・幕末志士199」(学研)には無い。幕末維新期の人物評価は、後世に創り上げられた尺度をもって歴史にとどめられることが多い。

咽喉もと過ぎれば熱さ忘れる

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  大内兵衛の雑文集「1970年」を読んでいる。ケペルは社会主義でもマルキストでもない。60年安保の頃は子供だったし、70年の頃もベトナムや沖縄には無関心だった。だが今ごろになって大内の講演録「安保条約は断じて破棄しよう」というのが気になった。もちろん今でも基地返還や安保破棄を言う人は一部にいるだろう。だが国民的関心は原発や復興にあるだろう。日本人は一端、体制が定まると、大きな変革は望まないらしい。天皇の戦争責任論もかつてはあった。「開戦は閣議が決め、終戦は私が決めた」という昭和天皇のことばがすべてで、人間宣言、象徴天皇が誕生した。そして「一億総ざんげ」という言葉で全国民が責任を背負わされてしまった。おもえば1970年が分岐点だった。70年は安保自動延長の年である。政府は60年安保の争乱があったので相当に気を使った。国民の関心を大阪万博に向けさせるという妙案を考えた。183日の期間中の入場者数は、6421万人。農協や自治会の団体客が多かった。60安保の集会参加者は580万人、70年はわずか77万人だった。政府は作戦はまんまと成功した。今回も「がんばろう、日本!」で大幅な増税が待っている。

赤いトラクター

   「♪燃える男の~赤いトラクター!」高音のアキラ節で歌うヤンマーのCMは名曲中の名曲。小林旭。その名を耳にしただけで、心地よい昭和のノスタルジーが甦る。親に連れられて行った場末の映画館。「南国土佐を後にして」(1959)あとで知ったが、あれが渡り鳥シリーズの記念すべき第一作だった。駄菓子屋で買った小型のプロマイドも小林旭。いまでは貫禄十分のアキラ兄貴だが、最近、初期作品をチャンネルNECOで放送している。「完全な遊戯」(1958)は原作を大幅に変更しているものの後味の悪いもの。清純派の芦川いづみがレイプされて自殺する筋書はいまならブーイングものだろう。「東京の孤独」(1959)も初々しさが溢れている。いわゆる日活アクション路線が確立される以前のものも楽しめる。携帯電話やドラフト会議などない時代が懐かしい。

ルソーの死

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 エルムノンヴィルのポプラ島

    ジャン・ジャック・ルソー(1712-1778)は1778年5月20日、身体の衰えを感じ、パリから30キロ離れたジラルダン侯爵(1735-1808)の領地エルムノンヴィルに移った。ここで6月初旬、ヴォルテールの訃報を聞いた。そのときルソーは「わたくしの存在はかれに結びつけられていた。かれが死んだ今、わたくしは、かれに続いて早くゆかねばならない」と語ったという。

   ここでルソーは楽譜を写すことや植物採集をして過ごした。そして7月2日、午前11時、妻テレーズに見取られながら亡くなった。彼はテレーズに「気をおとさないようにしなさい。見てごらん、空はなんときれいに澄んでいることだろう。わたしはあそこへ行くんだよ」といった。享年67歳だった。

   彼の遺体は、この地の湖にあるポプラ島に一端は埋葬されたが、1794年、パリのパンテオンの偉人墓地にヴォルテールと共に埋葬されている。

2011年5月19日 (木)

正義の女神テーミス

6 正義の女神テーミス

    2009年にスタートした裁判員制度も2年が経過した。死刑が5人、無罪が8人。仙台地裁で強姦致傷被告に対して裁判員が「むかつくんですよね」と声を荒げ、裁判長に制止されたという。ブロガーの意見をみると、「裁判員の気持ちがわかる」とか「率直な意見だ」という声が多いのが気になる。法律の知識のないケペルの常識の範囲内の意見では、法廷の場は厳粛であるべきで、いかなる凶悪犯であっても現時点では審議中であり、一方的な感情で威圧したり、脅しをかけて反省の弁を無理やり求めるたりすることが、裁判員の責務なのか疑問である。一般人の犯罪に対する憎悪の感情が顕わに表面化してよいならば、もはや公正な裁判ではなく、一般人によるリンチ刑になってしまう虞がある。裁判長は「このあたりで」と穏便にすまそうとしたのであろうが、どこまでの行為が審議のさまたげとなる行為なのかは知らないが、裁判員が「むかつくんですよ」と周囲の人に自分の感情を押しつける行為が認められるならば、公正な審判などできない。また裁判員には法律の知識は不要ですという謳い文句であるが、社会常識も不要なのか。事実認定と量刑について判断する場で、冷静さを欠き暴言の中で裁かれるということに強い憤りを感じる。いまの若者は「むかつく」とか「チョーむかつく」という言葉を平気で使う。法律の専門用語は難しくわかりにくいので、法廷の場でわかりやすい日常語を、というのが裁判員制度の一つの趣旨であるが、厳粛な法廷の場では適切ではないと考える。

出石と木戸孝允

Photo_2 桂小五郎居住跡

  出石(いずし)は兵庫県北東部にある城下町。平成の大合併で現在は豊岡市に編入し、「出石町」という地名は消えた。消えて残念な地名というランキングには、信楽、伊香保、城崎、角館などとともに必ず選ばれる地名だろう。木戸孝允(1833-1877)がまだ桂小五郎と名乗っていた頃、出石に潜んでいたことがある。桂の渾名は「逃げの小五郎」。ここ出石には8ヵ月間も潜伏していた。出石町宵田で広戸甚助の妹スミの婿という名目で、名を広江孝助と名乗って荒物屋を営んでいた。

「あしたのジョー」のルーツ

Photo 捨て身の両手ぶらりのノーガード戦法は昭和35年ごろ本当に話題になっていた

  梶原一騎の「あしたのジョー」の主人公矢吹丈はどのようにして誕生したのだろうか。ストーリーの大元となる元ボクサーが果たせなかった自分の夢を新人ボクサーに託して、厳しいトレーニングの末にチャンピオン(勝利者)になるという拳闘(戦前は拳斗だった)映画は日活アクション映画でもさかんに作られた。おそらく梶原一騎も見て参考にしたと思われる。石原裕次郎の「勝利者」(1957)、赤木圭一郎の「打倒」(1960)などある。とくに「打倒」と「あしたのジョー」には共通点がみられる。対戦相手が死んでしまうこと。不意に両手をだらりと下げるノーガード戦法も映画に登場する。(実際にノーガード戦法を使ったのは斉藤清作(たこ八郎)だった)また丈の2人の恋人、林紀子、白木葉子の原型とみられる稲垣美穂子、和田悦子のヒロインも登場する。だが梶原は後年にピストン堀口について語っていることから原型の1人であることは間違いない。つまり矢吹丈のモデルは、ピストン堀口+赤木圭一郎+たこ八郎である。轢死、追突死、溺死と死に様は衝撃的であるが、矢吹丈はどうしているのだろうか。

2011年5月18日 (水)

青年の心の闇

   「犯罪は社会を映す鏡」という。最近の事件。甲子園でマー君と投げ合った準優秀投手が窃盗容疑で逮捕された。神戸学院大学でストーカー被害の女子学生が刃物で刺される。これらは20代の青年の犯罪であるがなぜ犯行に至ったのか。もちろん社会が悪いとすべてを責任転嫁するのはいけない。しかし学校を卒業して、それまで培ってきた学問なりスキルが社会に役立つことはなかった場合、短絡的に犯行に直結するといケースが目立つ。社会は勝ち組、負け組みというシンプルに篩い分けがシステムとなっているようだ。家族でも孤独、職場でも孤独、そしてネットでも孤独。群衆の中の孤独、これをテーマに現代社会を考えてみたい。震災、原発という報道が一色となっている現在、見過ごされている別の大きな問題があるように思える。

日本生命セ・パ交流戦

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  セ・パ交流戦が始まった。阪神は鳥谷の代役の上本や榎田ら若手が活躍、オリックスを破った。ヤクルト・日ハムの首位対決はヤクルトが先勝。広島・ソフトバンクは引分け。巨人は9回に楽天に逆転勝ち。今年はセが昨年の大敗の雪辱を晴らすだろうか。

2011年5月17日 (火)

平戸教会巡り

   キリスト教が禁止された江戸時代、平戸には多くの隠れキリシタンがいた。禁教が解かれた明治時代以降、島内各地に教会が建設され、それぞれの教会は建築物としても魅力あるすばらしいものである。明治31年竣工の木造とレンガ造りのカトリック宝亀教会。大正元年竣工の山田教会。大正7年竣工のレンガ造りの田平教会。大正9年の山野教会。昭和4年竣工の紐差(ひもさし)教会。昭和6年竣工の聖フランシスコ・ザビエル記念教会。

Photo_9 カトリック宝亀教会Photo_10 紐差教会Photo_11 聖フランシスコ・ザビエル記念教会

Photo_12 田平教会

井伏鱒二と福山城

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  井伏鱒二(1898-1993)は明治31年2月15日、広島県深安郡加茂村粟根89番邸(現在の福山市加茂町)に生まれた。父は井伏郁太、母は美耶、鱒二はその次男で本名を満寿二という。父郁太は鱒二が5歳のとき亡くなった。その年、祖父の民左衛門に連れられて福山の町を初めて見物に行く。汽車を見て、初めて写真を撮ってもらったのもこのときである。一番印象に残ったのは福山城だった。井伏が見た福山城の天守閣は昭和20年まであったが、戦災にあって焼失した。現在の天守閣は昭和41年に復元されたものである。

    福山城は1619年、徳川家康の従兄弟、水野勝成が備後東南部に入封して築城した。3年後、城と城下町が完成し、地名を福山と改めた。当時からの建物で現存するのは、伏見櫓、筋鉄御門、鐘櫓である。井伏は祖父から矢尻を買ってもらったことを覚えている。おそらく、井伏の最初の骨董品であったであろう。

下司次郎ゆかりの来迎寺

Photo_6 重源上人坐像(浄土寺)

    小野市にある浄土寺の開祖は重源(1121-1203)である。1180年、平清盛の子、重衡が東大寺を焼き討ちしたが、1181年に朝廷から東大寺勧進職に任じられ、1195年落成したことはよく知られる。これらの歴史的事実をふまえて小野市には下司次郎なる人物の伝承が残っている。『加東郡誌』には、小野市市場町にある来迎寺の縁起を伝えている。開基は播磨福井庄の下司次郎の妹の子の善阿という。下司次郎は南都焼討の仏罰によって熱病に罹り一族滅亡したが、次郎の妹は子を重源に托して出家せしめて善阿となる。善阿は重源に仕えて観阿弥と相弟子となり、後、観阿は浄土寺を開き、善阿は南山に来迎寺を開いたとある。

下司次郎は、福井庄の荘園の荘官であったが、なぜ平家の一手となって、南都の焼討に加担したのか謎であるが、小野の地の重源伝承と結びついて来迎寺伝承が成立したものと考えられる。小野市市場町には下司次郎の居館とされる「城跡」も発掘されている。

すもう女子大学?

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  神奈川県の「相模(さがみ)ナンバー」の車を「相撲(すもう)ナンバー」とからかう人がいた。神奈川県には相模女子大学もある。「相模」と「相撲」は紛らわしい字である。滋賀県では「県道126号 相模水口線」の標識の表示が誤って「相撲水口線」と書かれていたと新聞報道があった。「模」と「撲」では大違いだが、「模」と「摸」との間にはさほど違いはない。サガミに相模・相摸を宛てるのは、音を借りただけで、漢字に意味があるわけではない。日本書紀では「相模」で、続日本紀は「相摸」である。国史大系では「相摸」となっている。しかし、活字本では当てにならない。諸橋「大漢和」では「摸・模相通」とあるから、意味からいえば、どちらでなければならない、ということはないということである。

明治期大阪と五代友厚

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    明治維新の混乱で崩壊した大阪の経済を再建し、大阪の近代化、工業都市化の基礎を築いたのは五代友厚(1835-1885)であろう。だが高校日本史の教科書などでは、友厚は同郷薩摩出身の黒田清隆との「開拓使官有物払下げ事件(明治14年)」など政商としての負の評価で語られることがおおい。大阪出身の作家・織田作之助は「もし彼が明治の初期の大阪を指導しなければ、恐らく私たちは今日の大阪の殷賑を見ることは出来なかったかも知れない」(『大阪の指導者』)と記している。

陽子と久子

   連続テレビ小説「おひさま」が好評と聞く。さわやかで癒されるというのだそうだ。だが戦時教育の暗い時代であるのでどうしても壺井栄の「二十四の瞳」と比較したくなる。どうやら大石先生のほうが陽子先生より一回り年上のようで、大石先生は昭和3年に教職につくが、戦時教育が厳しくなった昭和9年には教職を辞めている。一方の陽子は国民学校と呼ばれた軍国教育華やかりし頃である。ある生徒が言う。「僕は大きくなったら軍人さんになるんだ」大石先生は「あたしは軍人さんはイヤだわ」「なんで、先生は弱虫なんだ」そんな会話があったのを記憶する。高峰秀子版には「名誉の戦死などするな。必ず生きて帰れ」という強い願いがあった。平成のドラマはやはり様変わりしているような気がする。

日本の教育はこれでよいのか

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   1970年代の「ハレンチ学園」などに見られる小学生の「スカートめくり」の流行は1990年代には消えた。かわって現代は教員たちの盗撮事件が頻発しているので困ったものである。そもそも人間教育とは内面的自己肯定によって成立するが、ともすれば外面的な礼儀作法に終始することになりがちである。いまも個人の心の自由や成長よりも、強制的な起立、斉唱を義務づけることに話題が集中している。内面よりも形式とか建前を重視すること、条例などで縛ることは一時的には政治の力をもってすれば容易ではあるが、長期的に見れば憂慮すべきことであり、不幸の種を蒔く結果となるだろう。今後、不起立の教員が大量に処分されることも予測される。入学式や卒業式で教育委員会の指導主事の監視の目が厳しくなる一方で、管理者である校長先生自らが女生徒のスカートを盗撮することなどの不祥事が頻出しながら、なぜか破廉恥な行為に監視が甘いのが不思議である。

多田神社

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    能勢電鉄多田駅下車、桜馬場を西へ歩くと、多田神社がある。968年、源満仲は一族郎党を率いて、多田の新田に館を構えた。970年には多田院を創建。現在の多田神社である。ここは清和源氏発祥の地といわれ、満仲、頼光、頼信、頼義、義家の五公を祀っている。満仲の子、頼光はとくに武勇にすぐれ、摂津源氏を名乗って栄えた。孫の頼綱のとき多田源氏を名乗るようになる。

木喰上人「笑顔が一番!」

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    「美の壷」では「木喰仏は笑顔を堪能せよ」とある。なるほど木喰上人(1718-1810)の仏の笑顔は特徴的である。甲斐の国に生まれた木喰は61歳で仏像造りを初め、20年以上をかけて全国を回ったという。よく「円空(1632-1695)は天才だが、木喰は達人」と比較される。兵庫県にも木喰は多く、関西学院大学の粟野頼之祐(1896-1970)は西洋古代史が専門であったが、晩年木喰研究をされ、「北摂における木喰上人」(北摂郷土史叢書)を著している。

2011年5月16日 (月)

神と共にいる喜び

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  「人は独りで死ぬであろう。ゆえに人はひとりであるかのごとく行動しなければならない」とはパスカルの言葉である。孤独は、決してきらうべきことでもなければ、否定すべきことでもない。むしろ、孤独をきらい、孤独を耐えることができないという状態こそが、人間存在にとって危機的であるといってもよい。もちろん若い人には孤独はとても辛いことかもしれないが、年齢とともに孤独に慣らされていくのが普通の人生である。親戚も家族も少なくなっていき地域との人たちとの交わりも少なくなっていく。このような状態におかれてどう生きるのか。「孤独」(solitude)ではあるが「ひとりぼっち」(isolation)ではない。愛を深く知るにつれて、人は、自己が「ひとり」であって、しかも「ひとりぼっち」ではないことを知る。愛とは、神の愛であって、つねに神との祈りの交わりのなかで、生きている喜びを感じていこう。

野口英世と神戸

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    野口英世(1876-1928)の伝記が大正時代から平成23年までに何百冊刊行されたか知らないが、野口英世が神戸に来たことに関して書かれた記事はどれほどあるだろうか。新聞記事には、大正4年10月12日午後3時40分より神戸青年会館(下山手通6丁目)で「微生物界に於ける輓近の進歩」と題して講演し、その夜、オリエンタルホテルで歓迎会が開催され、その後、常盤花壇で母堂もまじえて和食で二次会をひらき、諏訪山の一力亭で宿泊している。翌13日、野口母子は藤井磯次郎(歯科医)の案内で神戸市内を見物している。まず、生田神社に参拝し、元居留地を通って神戸港を眺め、元町通りは車中より見て、大倉山の麓より伊藤博文公の銅像に敬意を表し、湊川神社に参拝。このあと湊川神社で開催中の神戸博覧会を見て、昼食後、大阪へ向かった。(参考:堀内泠「神戸と野口英世」歴史と神戸30-1、石原理年「神戸を訪れた野口英世」医譚61)

それをスキャンダルとよぶ

  フランスの次期大統領の有力候補といわれた男がニューヨークのホテルで女性従業員に性的行為を強要したとして逮捕されたニューススが大きな話題となっている。IMFの専務理事でストロスカーンという。日本でいえば横山ノックの強制わいせつ事件というところだろうか。「浮世を忘れた坊主でさえも木魚の割れ目で思い出す」という唄がある。僧侶、先生、政治家、社長。とかく大物といわれる人はこの世の中のことは何んでも自分の意のままになると思うらしい。ニューヨークという旅先で獣の本性がでたのだろう。男とは何と哀れな生きものであろうか。

黒田清隆の武士道精神

   榎本武揚は、明治元年8月、旗艦「開揚丸」ら8隻の艦隊を率いて品川沖を脱出した。そして途中、苦戦の脱走兵を収容しながら、ついに蝦夷に上陸し、11月ここに「蝦夷共和国」の仮新政府を樹立した。組織は選挙によって定められ、総裁・榎本武揚、副総裁・松平太郎、海軍奉行・荒井郁之助、陸軍奉行・大鳥圭介、同並・土方歳三、箱館奉行・永井玄蕃、開拓奉行・沢太郎左衛門に決定した。

   旧幕軍は箱館五稜郭にたてこもり抗戦したが、明治2年5月16日、降伏を余儀なくされる。榎本は自刃しようとしたが、介錯を命じたはずの大塚霍之丞に押しとどめられ、今は余兵の助命を乞うて総督府に降伏謝罪することにした。止めようとした大塚は、このとき榎本の短刀にふれて指三本を負傷している。

   五稜郭開城を前にして、箱館征討の参謀の黒田清隆との美談がある。総攻撃を翌日に控えた黒田は榎本に使いを送った。「翌朝、総攻撃をするので降伏するなら申しででください」。榎本は「降伏する気はないので存分に攻めてください」と回答した。このとき榎本は敵の大将に「オランダから持ち帰った大切な本です。戦禍で焼けるのは惜しい。これを日本海軍のために役立ててほしい」と一冊の本を伝令の田島圭蔵に渡した。オルトランの講義録「海律全書」だった。黒田は感動した。黒田は酒樽を贈って榎本の心を和らげ、榎本はついに降伏した。

    黒田の手元に残った「海律全書」の翻訳を、黒田は人を介して福沢諭吉に依頼した。福沢は「この海律全書はわが国にとって重要な本だ。正しく訳せるのは講義を聴いた本人以外にいない」と言って翻訳を断わることで榎本の助命を支援した。極刑を望む長州の木戸孝允らに対して、黒田は丸坊主になり、激しく抗議した。そして在獄3年、榎本は明治5年に赦免された。黒田の武士道精神によって、榎本は旧幕臣でありながら、明治政府の数々の顕官に就き、日本の近代化に大きく貢献した。

2011年5月15日 (日)

菊栄えて、国滅ぶ

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   本日の朝日新聞の1面に高校野球大会歌「栄冠は君に輝く」の記事がある。大好きな歌だ。そういえば「六甲おろし」も「闘魂こめて」もみんな古関裕而が作曲している。「暁に祈る」「露営の歌」「愛国の花」「若鷲の歌」「ラバウル海軍航空隊」その作曲リストをみると驚かされる。国民に愛された応援歌や行進曲はほとんど古関裕而の手になるものである。昭和という激動の時代そのものといってよい。今日、5月15日はあの「五・一五事件」が起こった日だ。犬養毅が射殺され、次の首相には海軍大将の斉藤実が就き、こうして太平洋戦争の終了まで政党内閣が復活することはなかった。いまもちょうど日本は震災から2ヵ月がたっても瓦礫の撤去は進まず、原発事故対応も心もとない状況にある。次郎物語の4部、5部の五・一五事件、二二六事件、思想統制といった暗い時代に向かっていく状況と似ている。日の丸、君が代を賛美し、太平洋戦争中の「惟神の道」のような思想をかつぎだす人がでてきている。国難になるとナショナリズムで乗り切ろうとするのは80年前と少しも変わらない。

2011年5月14日 (土)

暗黒ムード漂うスターたち

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   アラン・ドロンは「太陽がいっぱい」(1960)で売り出してから「地下室のメロディー」「サムライ」など暗黒映画や犯罪者の役が続いた。ドロンは日本のスターにも影響を与えたようで、田宮二郎や天知茂など育ちが悪いが成り上がり者のニヒルな二枚目が売れた。また成田三樹夫のような個性的な悪役が日本映画を面白くした。

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焦ると碌なことがないぜ

We were impatient to win.

私たちは勝ちを焦っていた

    マツダスタジアム広島巨人5回戦は5×4で広島のサヨナラ勝ち。ベンチの采配で勝てるゲームをみすみす落とすということが1年に数回はある。9回裏、巨人は昨日に続いてクローザーに長身196cmのロメロが登場。だが昨日とは変わってノーコンだった。暴投で同点。そして押し出し死球で逆転負け。

    流れは完全に広島だった。巨人脇谷が走塁と守備でミスを連発。キレた原監督は寺内に交代。感情的な采配がチームに緊張感を与えた。結果論だが、あの場面ではロメロ(年俸490万円)よりアルバラデホ(年俸8000万円)のほうがよかっただろう。

2011年5月13日 (金)

ストッパーとクローザー

    野球シーズンたけなわである。救援投手のことをリリーフ・ピッチャー(relif pitcher )と言ったが、近頃はあまり聞かない。中継ぎをセット・アッパー、抑えをクローザー(closer  解決させる、という意味)と言う。「リリーフ・エース」もあまり使われないようだ。大リーグにならっているのだろう。そう言えば、カウントの表示も今年からボール、ストライクの順に表示されるようになった。

本州で日本海と太平洋がある府県はどこか?

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  日本海から太平洋側まで、かなり広い部分を横断して、ひとつの行政単位となっているは、本州の両端を占める青森県と山口県だが、あと1つは、兵庫県である。裏日本と表日本を合わせ持つ大県が兵庫県の最大の特徴であるが、案外兵庫県人にも知られていない。

イタリア近現代史

200pxgiolitti2 ジョヴァンニ・ジョリッティ

    イタリア南部からミラノへ来た貧しい一家の物語「若者のすべて」(1960)を見る。つくづくイタリアは日本とよく似ていると感ずる。遅れた国力をもって西欧列強との帝国主義競争に参加したイタリアは、第一次世界大戦では英仏側に参戦し、勝利したにもかかわらず、未回収領土(トリエステ、イストリア、トレンティーノ)の併合が期待どおり遂げられず、共産主義、社会主義が台頭する。社会党に抵抗するためジョリッティ(1842-1928)はファシズム運動と同盟した結果、ムッソリーニの国民ファシスト党の台頭を招くことになる。日本における明治国家や天皇制の成立は、イタリアにおけるリソルジメントやカトリックとの方向性に似ている。革命民主主義も芽生えながらも、ナショナリズムの前に、日帝軍国主義、ファシズム国家として動きだした。

2011年5月12日 (木)

こんな私ぢゃなかったに

    巨人阪神が最下位。どうも今年のプロ野球は異変続きだ。個人成績がはっきりと現れるスポーツ。強打者が波に乗れずに、もがき苦しむ姿が目立つ。小笠原道大.183、李承燁.145、金本知憲.183、城島健司.239、谷佳知.118、岩村明憲.183、森野将彦.214、和田一浩.197。統一球のせい?それとも年齢による限界か?スポーツの世界は厳しい。そして本日の巨人横浜戦。1番バッター小笠原道大。

洞ヶ峠の順慶はウソだった!?

Photo_2 筒井順慶陣所跡

   京都府八幡市と大阪府枚方市との間に洞ヶ峠がある。現在、国道1号線「八幡洞ヶ峠」交差点付近に筒井順慶陣所跡の石碑が残っている。1582年、豊臣秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦いの際、有利な方につこうと傍観した筒井順慶「洞ヶ峠の日和見」は古来より名高い故事である。しかし順慶は洞ヶ峠に出陣したという事実はなく、郡山城を一歩も動かず、洞ヶ峠に着陣したのは光秀本人である。秀吉は順慶の遅参を「曲事」(けしからんこと)としたが、引き続き大和の支配を順慶にまかせた。順慶は翌年、越前の柴田勝家を滅ぼした時には功をたてた。順慶洞ヶ峠の逸話は豊臣恩顧の大名を牽制するための江戸史観の作り話である。

2011年5月11日 (水)

北畠具行の墓

Photo_3 北畠具行の宝篋印塔

    南北朝時代の公卿で後醍醐天皇に仕えた北畠具行(1290-1332)の墓が清瀧寺徳源院(滋賀県米原市清滝)にある。徳源院は浅井三姉妹の二女・お初の嫁いだ京極家ゆかりの菩提寺である。なぜ北畠具行が京極家の墓所にあるのか。具行は後醍醐天皇の北条氏討滅計画に加わり、笠置陥落後捕らえられて鎌倉に送られる途中、護送人・京極高氏(佐々木高氏)の助命嘆願も及ばず近江の国柏原で斬首された。享年43歳。1347年に建立の宝篋印塔が残っており、国の史跡に指定されている。

愛鳥週間

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   愛鳥週間である。鳥の和名や地方名について調べたことはない。もっとも身近な鳥といえば「スズメ」だが考えれば不思議だ。「古事記」「日本書紀」にでてくる「雀」は「すずめ」のことだが、「万葉集」には「すずめ」という語はないそうだ。全国各地で様々な名前がある。奈良では「イタクラ」、沖縄では「ヨモンドリ」「ヨモドリ」「ヨメンドリ」と呼ぶ。巫女のことで、神がかり状態で巫女がよく喋り続けることから、よく囀る小鳥の意でよばれたのであろう。富山では「バンチク」と呼ぶ。日本古語大辞典には「スズメ。雀。スズは擬声語であろう。メは群の意であるが、鳥の呼称にこの語を添えて用いる例は少なくない。ツバメ、カモメ、キジメ」とある。「スズ」は「小さい」という意味がある。少ない金額を「雀の涙ほど」ともいうように。

日本一高い木

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    鳳来寺(愛知県新城市)表参道途中にある大杉が日本で一番大きい。新日本名木選でもっとも優れた木で傘の形をしているところから「傘杉」とよばれるようになった。樹齢800年以上、樹高は59.57mある。

東條英機の家族写真

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   東條英機(1884-1948)の父、東條英教(1855-1913)にはウィキペディアによれば、長男英夫(1880年生)、次男英実(1882年生、夭折)、三男英機、他に3人の息子、娘がいたとある。しかし実際には英教の子は全部で9人いたのではないだろうか。英機の下には初枝、寿(ひさし)、次枝、富士男、規矩郎、質雄がいたというネット情報がある。家族写真説明によれば、前列左から弟・規矩郎、妹・佐藤次枝、母・ちとせ、ひとりおいて祖父・英政、妹・山田初枝。後列左から山田静吾、父・英教、若き日の東條英機とある。(「グラフィックカラー昭和史7」研秀出版)つまり補足すれば、前列左から規矩郎、佐藤次枝、ちとせ、ひとりおいて、英政、山田初枝、質雄、寿(あるいは富士男)ということになる。東條英機の4人の弟たちのその後の人生の詳細はわからない。

2011年5月10日 (火)

虹の松原

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    佐賀県唐津市と浜玉町にある白砂青松の名勝地。三保の松原、気比の松原と共に日本三大松原の1つに数えられる。唐津藩主・寺沢広高(1563-1633)が防風林として作ったとされる。

○○力

   少し気が早いが今年を表す漢字は「力」しかない。「電力」の文字が新聞に出ない日はない。夏の節電にむけた予防策が話題になっている。クーラーを消して、アロハシャツが流行するかもしれない。ともかく電力、水力、火力いずれにしてもエネルギー、つまり「力」なしで生きていけない。

    「力」は「能力」という意味で用いられることも多い。「会話力」「語学力」「表現力」「読解力」。このほか「○○力」はなんにでも付けられる。「漢字力」「英語力」「コメント力」。少し前の流行語に「老人力」というのがあった。「コミュ力」はよく用いられる。「ことばの力」「歌の力」と、キャンペーンやメッセージ性もある。「○○力」は今年も大流行だ。

米穀通帳と戦中戦後の配給事情

    昭和12年に始まった日中戦争の長期化は、生活必需物資の不足と物価の高騰をもたらした。政府は国家総動員法に基づく経済統制に踏み切り、昭和14年には、9・18停止令により、国内のすべての価格が昭和14年9月18日の水準に抑えられた。しかし、価格と消費を一方的に抑えたため闇取引が横行し、闇物価も高騰した。そこで、すでに綿糸配給統制で実施した切符制を昭和15年6月に砂糖とマッチをはじめとして、昭和16年4月には米穀、小麦粉、昭和17年には味噌、醤油など生活必需物資に次々と適用した。

   米の配給には家庭用米穀通帳を年1回発行し、これより各家庭の割当て量は、大人1人1日当り2合3勺(330グラム)とされた。これは通常の大人の消費量を約2割も下回っていた。国民は指定された日時に自治会や隣組の配給所に取りに行く。配給といっても、お金を払って行列買いするのである。しかし、昭和18年以降は、配給量自体が不足しはじめ、国民は闇物資をもとめて買い出しにいかざるをえなかった。主食の米の配給量は、昭和20年5月までは1人1日2合5勺は一応不変であったそうだが、戦後は2合1勺となり、欠配が何日も続いた。ヤミ市は違法である。しかし、それを買わなければ餓死する。すべての人がヤミの買い手であった。しかし、自分の信じた道徳でヤミ米を食わなかった人もいる。東京高等学校の亀尾英四郎教授が配給食糧のみで生活していたため栄養失調で死んだのは、昭和20年10月11日のことである。東京地裁の判事・山口良忠は昭和22年10月11日に亡くなった。その後、2合5勺の配給基準は昭和24年まで続いた。食糧管理法は戦後も長らく存続し、米穀通帳がないとお米が買えない時代は続いた。お米は布の袋と米穀通帳を持って米屋で印鑑をもらって量り売りで買うというのが普通である。次第に食生活の変化の影響で米が余るようになり、食糧管理法が改正され、米穀通帳が廃止されたのは昭和57年のことである。

映画・テレビは時代を写す鏡

  近頃、往年の大映作品をよくみる。三隅研次の「とむらい師たち」(1968年)は「おくりびと」(2008年)と同じ納棺夫という職業物であるが、なんと視点が異なることか。「不信のとき」「女の勲章」では田宮二郎と豪華女優陣の共演で大映エロ・グロの一面がよくでている。つまり昭和の「エロ・グロ」に対し、平成は「癒し」がキーワードといえる。時代劇「江~姫たちの戦国」や「新選組血風録」にしても、動乱の時代にしては生ぬるい感じがするがこれも平成カラーであろう。これまで太平洋戦争を扱ったドラマは数しれないが、「おひさま」も平成カラーで随分ゆるく生ぬるい作品に仕上がっている。かつて「鳩子の海」は太平洋戦争を、「おはなはん」や「おしん」でも日露戦争を舞台とした作品でも反戦や国家体制への疑問は少なからず見えたが、そういったイデオロギー色はいまは影を潜めている。むしろ国民こぞって進んで戦争に協力したという設定である。敬礼や日の丸万歳のシーンばかりだ。脚本はじめ制作者たちも戦争体験者が少なくなり、体制追随の現代社会をそのまま時代物にした感じである。先日みた松山善三の「名もなく貧しく美しく」では戦後を生きた障害者夫婦が実直に描かれていた。いまは実直という制作態度がなくなり、視聴者に媚びた、癒し系がうける風潮がある。朝ドラなのですがすがしい気分にしたいという制作意図はわかるが、やはり太平洋戦争の時代色をセットの仕上がりの良さだけで浸ることのできない人間もいる。絵空事のような会話がほんとうに癒しになるのだろうか。他のブログを読むと一般には好評ではあるのだが。大映のエログロが恋しい。

蒲生の大クス

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   鹿児島県姶良(あいら)市の蒲生八幡神社境内にある「蒲生の大クス」は日本一の大スギ。幹周が24m、樹高30m、推定樹齢1500年。国の特別天然記念物に指定されている。

2011年5月 9日 (月)

We got him!

   言語学者によると12歳を超えた場合新たな言語を学習してもネイティブスピーカーと同じレベルには絶対になれないという。

「やつを仕留めたぞ(ウィー・ガット・ヒム)」。オバマはこう叫んだ。ビンラディン掃討作戦の標的名は「Geronimo」。午後3時50分「Geronimo・EKIA」との報が伝わった。EKIAとは、「Enemy killed in action」の頭文字をとった略語だ。「we got him」こういう英語表現は日本人にはなかなかできない。また話したくない。彼らは殺人も戦争もすべてゲーム感覚だ。

アカシア

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   黄色または白色の小花を咲かせる。花言葉は友情(friendship)。日本では俗にアカシアと称されるのは、ニセアカシア(ハリエンジュ)であり、アカシアとは別種。街路樹に植えられることが多いので、西田佐知子が歌う「アカシアの雨がやむとき」もニセアカシアだろうか。

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20世紀初頭のイギリス思想と宗教界

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  イギリス人、とくにロンドンっ子といえば思想的には保守的でジェントルマンという固定したイメージがある。そして宗教は英国国教会でカトリックは少ないと考えるだろう。イギリスのバイブルを定めたルターの影響がいろいろあったが、教会は本質的にはカトリック的であった。19世紀の初め、産業革命の結果として商業主義がはびこると、1833年から1841年にオックスフォード大学に宗教運動が起こり、英国国教会をローマへ近づけようとした。イギリスの社会主義はトーマス・ヒル・グリーン(1836-1882)が先駆で、第一次世界大戦からバートランド・ラッセルが社会主義を主張し、思想界ではラスキやコールら知識人がマルクス主義に傾倒していく。宗教ではギルバート・ケイス・チェスタートン(1874-1936)やイーヴリン・ウォー(1903-1966)、グレアム・グリーン(1904-1991)ら作家も1920年代、カトリックへの改宗がみられる。またラッセルなどの無神論もみられる。個人の信仰や思想の自由が相当保障されていたのであろうか。

2011年5月 8日 (日)

どこにあるユートピア

    ビンラディンが潜伏していたというパキスタン北部の小さな町アボタバード。パキスタンの軍事施設が多く、町の名はイギリス陸軍ジェームズ・アボット少佐に因む。しかし世界史ではクシャナ朝時代「ガンダーラ美術」で有名な土地。ゴダイゴが歌う「♪どこかにあるユートピア、どうしたら行けるのだろ教えてほしい」という願いとは反対に凄惨な復讐の場となった。米の番組FOX40ニュースがこの世紀の事件を「オバマ死亡」と誤報した。「Osama」の「s」を「b」と1字間違えたのである。人の命の生死は紙一重かもしれない。復讐は新たなる復讐を呼ぶ。

2011年5月 7日 (土)

クラッシックをアレンジして

Dinahshore ダイナ・ショア

  クラシックの楽曲をポピュラー・ソングにアレンジすることは、最近では平原綾香がホルストの「木星」を「jupiter」としてヒットさせていますが、音楽の世界では古くからあるようです。ダイナ・ショアが1953年に放ったヒット曲「青いカナリヤ」(日本では雪村いづみが歌った)は「モーツァルト交響曲第40番」、カテリーナ・バレンテの「情熱の花」(日本ではザ・ピーナッツが歌った)もベートーヴェンのピアノ曲「エリーゼのために」だった。都はるみ「♪あなた変わりはないですか~」はショパンの「ピアノ協奏曲第1番」かどうかは知らない。

   ダイナ・ショア(1916-1994)は戦後日本でもよく知られたジャズ歌手で、とくに「ボタンとリボン」は大ヒットしました。日本では池真理子が歌っています。

2011年5月 6日 (金)

陶邑窯跡群

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    わが国で須恵器生産が始まったのは今から約1600年前の古墳時代。新しい焼ものの技術は、朝鮮半島からの渡来人によって伝えられ、堺市の泉北の地に根をおろし、平安時代までの約500年間で600基とも1000基とも言われる数の窯が築かれたのである。出土資料の一部は堺市立泉北すえむら資料館に所蔵されている。

第7の世界強国アメリカ

Photo_6 5月3日、ビンラディンを殺害したことを閣議で明らかにするオバマ大統領

  わが国の歴史では四大文明が古代文明の発祥地として教えられてきたが、欧米などでは4つに限定するという傾向は少ない。むしろ紀元前5000年から紀元後2000年までを世界各地で様々な文明が生まれ、衰亡していったとして、19の大きなグループにまとめて理解するのが一般的である。これはアーノルド・トインビーの文明史観が大きく影響しているのであろう。「歴史の研究」によると、古代文明を「親文明なし」と「他文明と関係なし」を合わせて7つの文明としている。①シュメール・アッカド文明②エジプト文明③エーゲ文明④インダス文明⑤中国文明⑥中央アメリカ文明⑦アンデス文明

   7という数字はキリスト教国には何か特別な意味をもつものに感じられる。いまは7番目の世界強国が支配する時代と考えている。それは第一次世界大戦を契機に、英国は旧植民地である米国との特別な関係を築くようになったからである。その結果、英米同盟が大英帝国に取って代わって、英語を話す二重世界強国となり、多くの面に及ぶ同盟関係は、現在にまで続いている。エジプト、アッシリア、バビロン、ペルシア、ギリシア、ローマは既に滅んだ。現代は7番目の強国、英米の世界支配の時代とみている。ビンラディ掃討作戦(暗号名「ジェロニモ」)アメリカのホルダー司令長官は「敵の司令官を標的にすることは合法」といい、太平洋戦争の山本五十六殺害と今回の作戦になぞらえて、その正当性を強調している。にもかかわらず日本政府は「ビンラディン殺害に対し、米国に敬意を表する」とコメントしている。しかし世界は特殊部隊の行動に対し国際法違反という指摘もなされている。

2011年5月 5日 (木)

19世紀人物肖像写真集

写真が発明された直後の1840年代ヨーロッパでは肖像写真ブームがおきた。次の著名人「私はだれでしょう?」

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①ウィルヘルム1世(1797-1888)

②ジョゼッペ・ガリバルディ(1807-1882)

③ビクトル・ユーゴー(1802-1885)

④ボードレール(1821-1867)

⑤梅田雲浜(1815-1859)

⑥島津久光(1817-1887)

⑦横井小南(1809-1869)

⑧大久保一翁(1818-1888)

きみはヒーロー

    実松一成。巨人ファンですらその名前を知らなかった。ゴメン。昨日の巨人阪神戦。9回無死一、三塁。次打席には亀井が代打に控えていた。阪神渡辺から代わった藤川の速球を2つファウル。3球目を上手く当てた。サヨナラ適時打にナインから手荒い祝福を受けた。初めてのヒーロー・インタビューも不慣れな様子だった。阿部や鶴岡がいる巨人の正捕手の座は困難だろうけれども、選手寿命も長くなった今は、諦めずに頑張って!。世の中、無名選手を応援する人は結構いるものだ。なぜなら多く組織の中でかならずしも華やかな活躍せずに終わったサラリーマンも多いからだ。ドラマ「おひさま」。陽子が愛する川原の婚約者、野中タエを演じる中村ゆり。なんて清楚で涼やかな人か。「龍馬伝」では高杉晋作の妻だった。出番は少ないけどヒロインだ。

2011年5月 4日 (水)

世界を大きく変えた人・イエス・キリスト

Img_0033 イエス・キリスト

   ユダヤ人はマカベア時代(ユダ、ヨナタン、シモン)、ハスモネ王朝時代と続いたが、前63年、ローマのポンペイウスの大軍の前に都エルサレムは陥落した。ローマの属州時代、ヘロデ大王によって民衆は重税にあえぎ、苦難にみちた日々の生活から、神エホバが救世主をおくり、自分たちを救い出してくれる日が来るのを待ち望んでいた。紀元1世紀のはじめ、エルサレムをはじめ地中海沿岸・小アジアなどに散在するユダヤ人の間に、またメシアの出現が語りつがれていた。

   イエスは紀元前4年頃にイスラエル北部ベツレヘムで生まれとされる。母マリアは聖霊によって子を宿し、イエスを出産。イエスは30歳頃から伝道活動を始めた。イエスというその預言者はエホバが愛の神であり、各人の心の中にこそ神の国が求められると説いて、ユダヤ教の指導者たちと衝突し、磔に処せられた。紀元1世紀をつうじて、この新しい宗教キリスト教は使徒ペテロらによって各地のユダヤ人の間に広まり、さらに異邦人の使徒パウロの伝道によりローマに及んだ。ローマ帝国の民衆は、しだいに、このきびしい倫理と心の救いを説く教えに共感をしめすようになっていった。

お江は天皇家の母

   NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」。浅井長政・お市の三女のお江は、はじめ尾張大野城主佐治一成に嫁ぐが、一成が小牧の戦いで秀吉に対立したため離縁となる。秀吉の養子の羽柴秀勝に嫁ぎ、完子(1592-1658)を生んだ。完子は九条忠栄(後の幸家)に嫁いでいる。豊臣完子ー九条道房ー九条待姫ー九条輔実ー九条幸教ー二条宗基ー二条治孝ー九条尚忠ー九条道孝ー貞明皇后ー昭和天皇ー今上天皇。つまり現在の皇室はお江の血を受け継いでいる。

2011年5月 3日 (火)

プルターク英雄伝佚篇「エパミノンダス」

    ギリシア・ローマの英雄の伝記を対比して書いたプルタークの「対比列伝」はむかしからよく愛読された西洋古典の1冊である。ことに16世紀中ごろアミヨの仏訳以来広く知られ、ナポレオンやゲーテ、シラー、ベートーヴェンも愛読した。イギリスではシェイクスピアがアミヨ訳からの英訳を読んでその史劇を書いたことは有名である。

    「対比列伝」で現存するのは22組の対比列伝と4篇の単独伝記である。散佚した伝記はエパミノンダスとスキピオ、単独伝記としてはスキピオ・アフリカヌスとアウグストゥス・ティベリウス、クラウディウス、ネロ、ガイウスの皇帝伝、またヴィテリウスの伝、またギリシアのではヘラクレス、ヘシオドス、ピンダロス、クラテレスなどの伝がわかっている。プルタークは中部ギリシアのボィオティア地方の出身で、同郷の英雄エパミノンダスから書き始めたといわれている。郷土テーベが生んだ最大のヒーローの伝記が残らなかったのは残念なことである。

気になる女優・高橋紀子

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  「ブラボー若大将」(1970年)を見いてると、田沼をふった銀行頭取の娘に高橋紀子がでていた。超懐かしい。同年、「コント55号宇宙大作戦」にも出演している。高校生の夏、暇つぶしに「巨人の星ゆけゆけ飛雄馬」を友人と映画館へ行った。1年前の映画だが地方なので上映していた。コント55号の映画は駄作だったが、高橋紀子はドラマ「青春とは何んだ」で知っていた。共演した寺田農と結婚、引退とは知らなかった。「ブラボー若大将」も若さがなくなっていた。グアム旅行やドライブ、テニスも珍しくなく、時代を先取りするアイテムではなかった。映画は斜陽産業で、むしろ時代はシラケ、同棲時代、四畳半へと変化していった。高橋紀子が引退したのは正解で聡明な人だったのだろう。

2011年5月 2日 (月)

「リーフ」は葉っぱのことだよ

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    舟木一夫の全盛期。「♪あの人に逢いたい~たまらなく逢いたい」と抒情たっぷりに歌う。だが、唐突に英語がでてくる。「リーフ♪リーフ♪」と。小学生だった私も訳もわからず歌っていた。あるとき漫談の牧野周一が「最近の歌謡曲はわけのわからんのが多い。舟木一夫のリーフっていうの。調べたら木の葉のことだってさ」とボヤく。英語が覚えられるためになる漫談だ。いまでも「高原のお嬢さん」を聞くと、牧野周一を思い出す。「まあ、皆さん聞いてください」と大きな声で威勢よく話しかける関西のぼやき漫才、人生幸朗・生恵幸子も歌謡曲をネタにして頓珍漢な難癖をつけてはボヤいていた。ボヤき漫談は聞けなくなったが、ブログのネタには、ボヤきがいいかもしれない。

八十八夜

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 ならぶ菅笠 涼しいこえで

 歌ひながらに植え行く早苗

 ながい夏の日いつしか暮れて

 植える手先に月かげ動く

 かへる道道あと見かへれば

 葉末葉末に夜つゆが光る

    文部省小学唱歌「いなかの四季」は明治43年、「尋常小学読本唱歌」にある。作詞者の堀沢周安(1869ー1941)は中学校の国語教師だった。「いなかの四季」は一番から四番まであるが、掲載したのは二番の夏の情景を歌ったものである。

   本日は八十八夜。立春から数えて88日めが「八十八夜」。「夏も近づく八十八夜」とはよく言ったもので、全国各地では夏日になっている。

   昔から、暖かくなってきた後で、急に気温が低下して発生する霜のことを「別れ霜」といった。この晩霜は八十八夜以後はあまり起こらないので、「八十八夜の別れ霜」という言葉がある。

アメリカの正義、リベンジ(仇討ち)に大義はあるか

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    オバマ大統領がオサマ・ビンラディンをパキスタン北部アボタバードで殺害したことを発表。家族と一緒にいたところを殺害されたらしい。夜襲の映像を見ると、吉良邸討ち入りのように感じた。「何千人もの無実の人の殺害に関与した悪い奴」という。生け捕り後に処刑されたものとみられる。世界強国アメリカに逆らえばこうなるということか。ロイターは「正当な処罰が下った」と表明。CNNは「正義を達成」。キャメロン英首相は「ビンラディンの死亡を歓迎」と。シンガポールでは株価が下落、日本では急騰したという。生け捕って裁判にかけるのが正当か。だがフセイン死刑裁判も疑問だったが政治犯は難しい。欧米キリスト教国にはモーセがシナイ山で神から啓示をさずかった「十戒」の教え「殺してはいけない」とあるはずだ。ところが民衆が喜ぶのは「眼には眼を、歯には歯を」という報復主義であり、大統領の支持率は上がる。かちかち山の昔話、会稽の辱をそそいだ呉越抗争と復讐劇の歴史は繰り替えされる。

気になる女優マイコ

    NHK連続テレビ小説「おひさま」。なんとなくウケ狙いの展開がヘソ曲がりの小生には気にいらないが、ひとつおっとりとした演技で時代感をだしているのが真知子を演ずるマイコという女優さん。陽子の兄の春樹のことを好きになってしまう。春樹も真知子にハイネの詩集をプレゼント。いかにもベタなプラトニック・ラブという展開。いまや死語となったプラトニック・ラブだが、かつては小説や映画には必ず使用された言葉だ。プラトンの著作には見られないが、「恋をしているときは、だれでも詩人である」という言葉が残っている。マイコの映画には「カフーを待ちわびて」という作品がある。絵馬に「嫁に来ないか」と書いてあったので、突然に沖縄の住む男性のところにやってくる不思議な女性の役だった。マイコは現実感のない女性を演ずると魅力的だ。

シャーロット・ライリーかマール・オベロンか

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    エミリー・ブロンテの「嵐が丘」(2008)のイギリスドラマ(AIP製作)を見る。ヨークシャーの荒野や邸宅などロケーションは十分雰囲気があるが、主役2人が自分のイメージと違うためノレなかった。やはりウィリアム・ワイラー版のイメージが強いのだろう。シャーロット・ライリーはマール・オベロンに及ばない。俗っぽい感じがする。

  姉シャーロットの「ジェーン・エア」が生存中にすでに好評を博していたが、エミリーの「嵐ヶ丘」は不評だった。そのよさが認められたのははるか後のことである。

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人類の過去と未来

    十年一昔、金融ビッグバンとか規制緩和という言葉が新聞紙面を賑わした。3.11、原発事故後の今は復興、増税、放射線、震災ナショナリズムなど社会は一変したから恐れ入る。今世紀は宇宙開発、原子力利用など前世紀の所産の理想と現実に直面する時代なのだろう。「歴史は、人間の知恵と人間の意欲の生みだしたものである」というベネデット・クローチェ(1866-1952)の言葉を思い出す。

    確かに、40年ほど前、人類の歴史は100万年といわれた(現代教養文庫に「人類の百万年」という本がある。1968年刊行)が、現在では500万年といわれている。歴史は、人間の知恵と人間の意欲で生まれる。

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2011年5月 1日 (日)

小説家ナポレオン

Photo_5 若きナポレオンの胸像

    のちの英雄ナポレオンも若いころゲーテの「若きヴェルテルの悩み」を非常に愛読し(一説には7回読んだという)、それを手本に小説まで書いたが、失敗作だったという。1808年、ナポレオンはドイツのエルフルトで尊敬するゲーテと面会している。もしもナポレオンに文才があって小説が売れていたら、世界の歴史は大きくかわっていたかもしれない。

剣の舞

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    運動会やフィギュア・スケートなどでもよく聞かれる曲。トビリシに生まれたアルメニア人のハチャトゥリアンは、1942年、民族色豊かなアルメニア人女性を主人公にしたバレエ「ガイーヌ」を作曲した。このバレエの初演前日、急遽徹夜で作曲したのが「剣の舞」だった。後に彼が「ミスター剣の舞」とまで呼ばれる大ヒットになり、ひとり歩きしたこの曲について、ハチャトゥリアンは「こんなことになるのを知っていれば書かなかったよ」とぼやいていたという。

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