出羽重遠と日露戦争連合艦隊第3戦隊
朝敵の汚名をうけ、戊辰戦争に敗れた会津藩は、その未来を少年たちに託した。出羽重遠(1855-1930)は、14歳で鶴ヶ城落城の悲劇を体験し、藩の期待をになって海軍に入隊。海軍が公募によって学生を集めた時の第一期生である。出羽はのち第15代の海軍大将になるが、それまでの14名がすべて薩摩出身であり、薩摩以外から初めて大将に昇格した人である。
出羽重遠は第1艦隊第3戦隊(巡洋艦千歳、高砂、笠置、吉野)司令官として、旅順閉塞隊の活動ののちも封鎖作業にあたっていたが、明治37年4月、囮部隊となって名将マカロフ中将率いるロシア艦隊を旅順港外に誘い出す任を命ぜられる。敵旗艦ペトロパブロフスクは触雷し、沈没する。マカロフ提督は戦死し、ロシア海軍の士気は低下した。明治38年5月の日本海海戦において第3戦隊は、バルチック艦隊の後方に回り込み、南側に位置して包囲殲滅戦の一翼となり、連合艦隊は大勝利にみちびく。なお第3戦隊旗艦笠置の艦長はのちに海軍大将にまで昇進した山屋他人(1866-1940)である。皇太子妃雅子さまの曾祖父として知られている。
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