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2011年4月 9日 (土)

藤堂平助

    按摩を生業とする夫婦に拾われた平助は、藤堂和泉守高猷の御落胤として信じて生きた。千葉周作の北辰一刀流玄武館に学んだ。そしていつ頃か、江戸牛込甲良屋敷の一角にあった試衛館道場にかようようになった。当時、近藤道場には、土方歳三、沖田総司、永倉新八、原田左之助、山南敬助などがいた。この年、平助は20歳になっていた。沖田総司と同年である。元治元年の池田屋騒動のときには、「魁先生」の異名にたがわず、真っ先に切り込んでいる。幕府から近藤、土方に次ぐ、褒賞金20両を受けた。だが平助は伊東甲子太郎らとともに脱退したのち、七条油小路で乱刃の中に24歳の若さで果てた。かれが本当に藤堂和泉守の御落胤だったかどうか誰にもわからない。

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