『大菩薩峠』お浜のモデルは謎の女教師
「お銀どの」
「はい」
「あの、ここは何村というのであったかな」
「ここは東山梨の八幡村」
「東山梨の八幡村」
「八幡村の大字は江曽原と申すところでございます」
「八幡村の江曽原!」
人間のもつ業を流転輪廻のなかに描いた中里介山(1885-1944)畢生の大河小説『大菩薩峠』(第6巻慢心和尚の巻)に「八幡村江曽原」という山梨の地名がてでくる。
中里介山、本名中里弥之助は東京西多摩郡の羽村で生れた。学歴は小学校だけだが、独学で小学校教員となった。15歳の弥之助に大きな影響を与えたと思われる謎の女性がいる。久保川喜世子といい、弥之助と同じ小学校の教員をしていた当時24、25歳の美しい女教師である。髪が黒く、クリスチャンであった。弥之助は彼女と青年クラブの討論会で知り合い、二人はすぐに共鳴しあった。意気投合した二人は羽村に教会を作ろうということになった。坂本という旧家の一室を借りて教会とし、東京から次々と牧師を呼んだ。小学校では弥之助を非難して、「身、教職にあるものが、婦人と同席して、へんな歌をうたう」と騒いだが、弥之助は頑として、きかなかった。教会は西川光次郎のような社会主義者までも講演に呼んだ。このためか弥之助は郡視学ににらまれて、羽村から多摩川の対岸の五日市小学校に転勤させられたが、彼は一日だけで辞職してしまった。ほとんど時を同じくして、久保川喜世子も職を辞して山梨のある医者のもとへ嫁にいってしまう。弥之助はこの久保川喜世子に失恋したのだろうか。介山の実弟中里幸作の談によれば、彼がはるばる大菩薩峠を越えて彼女の実家八幡村江曽原まで追っかけて一泊したことがあったという。小説『大菩薩峠』に登場する宇津木文之丞の妻お浜の出身地も江曽原である。おそらくお浜のモデルは久保川喜世子であろう。これまで『大菩薩峠』は大逆事件の2年後、大正元年に起稿され、翌年に「都新聞」に連載されたことでもわかるように、鬱屈した心情を仮託した思想小説といわれるが、介山自身の苦い失恋体験も投影されているようである。
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