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2011年4月30日 (土)

こどもの読書週間

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   こどもの読書週間は4月23日から5月12日まで。昭和34年から毎年行われている。新聞やテレビであまり見かけることはないので知らない人も多い。メディアが取り上げる話題は極端に偏重する傾向にある。日常的な行事やあたりまえのことは無視されるようだ。日常が大切なのに。昭和34年から始まったというところに、歴史的な意味が感じられる。ちょうどテレビの普及や漫画本の氾濫で、本を読む習慣が無くなりかけていたころで、一般の関心を高める必要が生じたのである。今は第二の危機ではないだろうか。小・中・高・大学まで本を読まない人は確実に増えている。もちろんネットや携帯で社会の情報を得る手段は増えたかもしれないが、読書の楽しみや喜びを知らないで成長していくように思える。また日本にはreading specialist といえる専門家が不在である。指導者もなく、熱意もなく、いかにも読書しているとみせかけているような話をよく聞く。ほんとにこれでいいんだろうか。

キャサリン妃とアン・ハイド妃

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   ロンドンのウェストミンスター寺院で英王子ウイリアムとケイト・ミドルトンの結婚式が行われた。未来の国王が一般家庭出身の女性と結婚するのは、1660年のヨーク公(のちのジェームズ2世)以来、約350年ぶりと新聞記事にある。「一般家庭」というのは、つまり「平民」のこと。(使うとマズイのだろう) 1660年、ジェームズとアン・ハイド(1637-1671)は、いわゆる「できちゃった婚」だった。秘密の結婚式。10月に長男チャールズを出産するが、7歳で夭折。アンも34歳の若さで亡くなっている。結局、ジェームズが王位に即位する以前に死去したので王妃にはなれなかった。そして夫のジェームズは英国史の悪役。イギリス人にとって1688年の無血の名誉革命は誇りであり、ウィリアム3世は英雄である。反対にジェームズは「旧教を支持した専制君主」として悪役像が残っている。しかし、近年、ジョン・ミラー著「ジェームズ2世」(初版1978年)以後、再評価の動きもあるという。どうかウィリアム王子とキャサリン妃、末永くお幸せに。

Photo_2 アン・ハイド

2011年4月29日 (金)

3人のパヴロワ

    日本にバレエを伝えた女性に3人のパヴロワがいる。アンナ・パヴロワ(1881-1931)は1922年に来日し、バレエ公演で日本にクラシック・バレエが定着するきっかけとなった。エリアナ・パヴロワ(1899-1941)は1924年から鎌倉に住んで、1927年にパブロバ・バレエスクールを開設し、多くの舞踏家を育てた。オリガ・パヴロワ(1907-1981)は1931年に来日し、正統派のバレエの理論と技術を伝えた。戦後のバレエ・ブームを支えた指導者はオリガの影響を受けた人が多い。

Photo_5 アンナ・パヴロワPhoto_6 エリアナ・パヴロワPhoto_7 オリガ・パヴロワ

2011年4月28日 (木)

書名はシンプルがいい

   最近の新書のタイトルはツッコミが入れたくなる。

「江戸の卵は1個400円!」それがどうしたの

「人生はうしろ向きに」前向きじゃダメなんですか

「9回裏無死1塁でバントはするな」バントはセオリーでしょ

「二畳で豊かに住む」ムリです

「認められたいの正体」だれも認められたいと願っているでしょ

「なぜ、町の不動産屋はつぶれないのか」知ったことか

    タイトルで気を惹こうとするのはわかるけど、何か変だぞ、出版界。知性とか品格が無くなってしまった。むかしはシンプルだけど、しみじみとした味わいと風格があった。

「こころ」夏目漱石
「春」島崎藤村
「学問のすすめ」福沢諭吉
「自然と人生」徳富蘆花
「事件」大岡昇平
「物理入門」砂川重信
「独裁者」ハルガルテン
「幸福論」ヒルティ
「エセー」モンテーニュ
「太平洋戦争」家永三郎
「戦争論」西谷修
「日本史概論」坂本太郎
「地中海」ブローデル
「ボリシェヴィキ革命」E・H・カー
「江戸歳時記」宮田登
「遠野物語」柳田国男
「武士道」新渡戸稲造
「イングランド金融罪悪史」クリストファー・ホリス

    などなどの書名はそのものズバリ、直球勝負で気持ちがいい。いまの流行は「地団駄は島根で踏め」のように謎かけタイプで変化球だ。まるで映画のタイトル風のようだ。「舞踏会の手帖」「郵便配達は二度ベルを鳴らす」「日曜日には鼠を殺せ」などのように。

    シンプルな書名が好きなのは、どうも若い時代、図書館で目録カードの記入を仕事にしていたせいだろう。ながい書名や変な書名は、主題がわからず分類するのも手間がかかる。良書を個人的に収集する目安としても、著者や出版社を参考にするのはもちろんだが、内容そのものがタイトルに短く表現されていれば、書き出したいテーマがしぼられていることであり、何度でも読みかえす価値のある本であるということである。

南アルプス自然観察

富士川と天竜川に挟まれた南アルプスは自然の宝庫。高山植物やライチョウに会える。
Photo タムラソウPhoto_2 ヤナギランPhoto_3 ライチョウ

 

 

『大菩薩峠』お浜のモデルは謎の女教師

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「お銀どの」
「はい」
「あの、ここは何村というのであったかな」
「ここは東山梨の八幡村」
「東山梨の八幡村」
「八幡村の大字は江曽原と申すところでございます」
「八幡村の江曽原!」

   人間のもつ業を流転輪廻のなかに描いた中里介山(1885-1944)畢生の大河小説『大菩薩峠』(第6巻慢心和尚の巻)に「八幡村江曽原」という山梨の地名がてでくる。

    中里介山、本名中里弥之助は東京西多摩郡の羽村で生れた。学歴は小学校だけだが、独学で小学校教員となった。15歳の弥之助に大きな影響を与えたと思われる謎の女性がいる。久保川喜世子といい、弥之助と同じ小学校の教員をしていた当時24、25歳の美しい女教師である。髪が黒く、クリスチャンであった。弥之助は彼女と青年クラブの討論会で知り合い、二人はすぐに共鳴しあった。意気投合した二人は羽村に教会を作ろうということになった。坂本という旧家の一室を借りて教会とし、東京から次々と牧師を呼んだ。小学校では弥之助を非難して、「身、教職にあるものが、婦人と同席して、へんな歌をうたう」と騒いだが、弥之助は頑として、きかなかった。教会は西川光次郎のような社会主義者までも講演に呼んだ。このためか弥之助は郡視学ににらまれて、羽村から多摩川の対岸の五日市小学校に転勤させられたが、彼は一日だけで辞職してしまった。ほとんど時を同じくして、久保川喜世子も職を辞して山梨のある医者のもとへ嫁にいってしまう。弥之助はこの久保川喜世子に失恋したのだろうか。介山の実弟中里幸作の談によれば、彼がはるばる大菩薩峠を越えて彼女の実家八幡村江曽原まで追っかけて一泊したことがあったという。小説『大菩薩峠』に登場する宇津木文之丞の妻お浜の出身地も江曽原である。おそらくお浜のモデルは久保川喜世子であろう。これまで『大菩薩峠』は大逆事件の2年後、大正元年に起稿され、翌年に「都新聞」に連載されたことでもわかるように、鬱屈した心情を仮託した思想小説といわれるが、介山自身の苦い失恋体験も投影されているようである。

ぼんやりとした不安

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   先日、ある40代半ばの俳優が首吊り自殺した。仕事も順調で、家庭ではよきパパだった。遺書もなく自殺の理由はわからない。大震災後の社会不安が影響しているのだろうか。もちろん心の内面は誰にもわかない。人はいつかは死ぬ。病気、経済的破綻などの理由で自ら死をえらぶこともあるだろう。ただ比較的恵まれた社会的地位にある人が突然自殺を選ぶ場合、そのタイプには傾向があるように思える。たいてい真面目で潔癖な性格の人である。人にはみな善良な面と、悪徳の面が多かれ少なかれある。善は美徳で多くの人は語るが、悪について語る人は少ない。憎悪、嫉妬、羨望、怠惰、復讐心、吝嗇、虚偽、虚栄などすべて悪徳であるが、この世に執着することの要素になるうる。ひとかけらの悪意も無い人は、この世への執着も少ないのでむしろ要注意である。ただぼんやりとした将来の不安で死をえらぶことがある。将来、50歳になって、60歳になってみて考えたとき、また別の考えもみえてくだろうに。まったく惜しいことである。

  「ぼんやりとした不安」といえば、芥川龍之介を思いだす。龍之介は、昭和2年7月24日午前7時、市外瀧野川町田端435の自宅寝室で催眠薬べロナールおよびヂエアール等を多量に服用して苦悶をはじめたのをふみ子夫人が認め、直ちにかかりつけの医師・下島勲を呼び迎え、応急手当を加えたが、その効果なくそのまま他界した。享年36歳。枕元には、聖書を置き、ふみ子夫人、画家小穴隆一、菊池寛、葛巻義敏、叔母、叔父竹内に宛てた遺書および「或旧友へ送る手記」と題した原稿が残されていた。遺書には「人生は死に至る戦いなることを忘るべからず。従って汝らの力を恃むことを忘る勿れ。汝の力を養うのを旨とせよ」と幼いわが子(芥川比呂志・多加志・也寸志)に書きしるした。また「手記」のなかの自殺の理由を示すかと見える「何か僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安」という表現をめぐっては、さまざまな憶測がなされたが、ともかくも龍之介の死は、大正期個人主義文学の終焉を告げる一事件であった。

   

美と真理

Img_0015  岡鹿之助 「燈台」 1954年

  日本山岳会の初代会長である小島烏水(1873-1949)の有名な言葉。「美の世界に住むものは、美の世界を守らねばならぬ。美の世界を守るものは、美の世界のために闘わねばならぬ」

これは真理とおきかえることもできよう。

「真理の世界に住むものは、真理の世界を守らねばならぬ。真理の世界を守るものは、真理の世界のために闘かわねばならぬ」

2011年4月27日 (水)

専門の多様性

    むかしは「この人、この著書」という定番のような本があった。野尻抱影「星座のはなし」、末広恭雄「魚の履歴書」、犬養孝「万葉の旅」、藤堂明保「漢字の起源」、井上靖「西域物語」、中谷宇吉郎「雪」、田中美知太郎「ソクラテス」、渡辺照宏「仏教」、小泉信三「読書」、笠置山勝一「相撲」などなど。

   いつのころからか、専門外の本のほうがよく売れるという現象が起きている。出版社は意外性を狙っているのか。フランス文学者の平野威馬雄は円盤や妖怪の専門家になった。山口昌男も人類学よりも「道化的世界」「文化と両義性」という文化論のほうが読まれているみたいだ。池内紀も多様な分野の本を出すようになった。

沖永良部島自然観察

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    沖永良部島は鹿児島から南552km、北緯27度線の上に浮ぶ隆起珊瑚礁の島。大山の中腹には東洋一といわれる昇龍洞がある。島の北海岸には「フーチャ(潮吹き洞窟)」がある。島北部の国頭小学校には、根周り8mのガジュマルの木がよく知られている。島はダイビングのメッカで、海底には珊瑚が群生し、ギンガメアジやロウニンアジのほか、マンタやハンマーヘッド、アオウミガメなども見ることができる。ハイビスカス、ブーゲンビリア、カザニアは年中咲く。今頃はエラブユリ、アマリリス、グラジオラスの季節である。これから5月、6月はデイゴ、はまゆう、サネン花。
Photo_4 サネン花

2011年4月26日 (火)

夜警国家、福祉国家、機能国家

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    過去最低の投票率を更新した統一地方選挙はわれわれに何をもたらすのか。政治不信の表われなのか。だが現実的には第二の敗戦といわれるほど、今は国家の救済が求められている時ではないだろうか。古い高校時代の政治経済のテキストを引きずリ出して考える。「国家とは何か」と。「国家は国民の安全の保障、保持するためにつくられた」とある。国家類型概念として「夜警国家」と「福祉国家」の説明がある。資本主義形成期の自由主義経済を基調とした時期の国家観として夜警国家がある。その考え方は、国家の役割というものは夜回りのように、外敵の防衛、国内治安の維持に限定されるべきで、個人の私的生活や経済活動に国家は干渉すべきではないとする「夜警国家」観が理想とされていた。しかし1929年に発生した世界大恐慌を機縁として、経済活動における政府の役割が著しく増大してきた。第二次世界大戦後、政治が経済に優越し、国民の福祉増進のため、国家が民間の経済や社会生活に介入する必要が生ずるとともに、従来の必要悪としての国家ではなく、積極的に国民生活に奉仕する国家となった。社会的・経済的な機能国家へと変化していく。海外から日本政府の原発事故への対応をみると、指揮統一されず、夜警国家、福祉国家、機能国家、いずれにもならず、普通の行政事務に終わっているように見える。日本は世界中の反面教師となっている。

2011年4月25日 (月)

世界史の中の日本という国家

   世界史は、ある面で国家と国家との関係の歴史でもある。国家の成立要件としては、領域、国民、主権の3要素をあげることができる。参考に国家の本質に関するおもな学説をあげる。

①国家有機体説…スペンサー、ブルンチュリ、シェフレ

②階級的国家説…マルクス、エンゲルス

③国家法人説…アルブレヒト(1800-1876)ゲルバー(1823-1891)イエリネック(1851-1911)

    美濃部達吉の天皇機関説は国家法人説の考え方に近い。主権は国家にあって天皇にはなく、天皇の機能は、法人における理事と同じく、国家を代表する最高の機関として行われるものであるとする。大権政治よりも立憲政治を重視する考え方に立っている。

    国家形態は①帝国②王国③共和国 などがある。アメリカは典型的な共和国である。ところで日本は、世界史の上では独特の国家形態である。英語で天皇は「The Enperor」であるが、戦前までの日本は①の帝国であろう。戦後の日本はどうであろうか。国体護持を要望したのであるから、本質的には何も変わらぬとする論者もあろうし、表面上は変わったとする者もいる。つまり「天皇が憲法によって定められている象徴として存在しているが、実際は政治において最高の権限をになっているのは、国民によって選ばれた国会である。つまり、日本は象徴天皇を戴きつつ、国民の自由な権利が保障されている民主主義国家ということができる」としている。こんな譬え話がある。戦後、「民主主義」というプラカードをつくろうとした青年が、紙がないので古紙に書いた。裏を見ると「八紘一宇」と書いてあった。日本の民主主義とはこんなものである。投票率がどんどん低下していく。有権者の半分以上は投票を棄権している。主権は国民でありながら参政権を放棄しているのである。日本人が何を考えているのかわからない。みせかけの民主制はもうやめて、国民が直接元首を選ぶ大統領制の共和制国家を実現してはどうか。

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忘れられたスター

Photo_2 市川百々之助主演「塚原小太郎」(1926年)

Photo_3 ティム・マッコイ 代表作「火を吐く拳銃」(1944年)

   ハリウッドの西部劇と日本の時代劇はほぼ同じ時代に盛衰の歴史を残している。阪東妻三郎とゲーリー・クーパーは同じ年に生まれ、片岡千恵蔵の「宮本武蔵」(稲垣浩監督、1940年)とジョン・ウェインの「駅馬車」(ジョン・フォード監督、1939年)という傑作が同じ時期に生まれている。

  時代劇も西部劇も多くの人気スターが生まれた。時代劇、西部劇専門の俳優がいるというのも共通点だろう。独断で東西から20人を選ぶ。尾上松之助、大河内伝次郎、阪東妻三郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、市川百々之助、市川右太衛門、月形龍之介、羅門光三郎、長谷川一夫、近衛十四郎。ハリウッドではランドルフ・スコット、ティム・マッコイ、ゲーリー・クーパー、ジョエル・マックリー、ジョン・ウェイン、ロバート・ライアン、ロッド・キャメロン、アラン・ラッド、グレン・フォード、ガイ・マディソン。西部劇スターは本国で有名でも日本では知られていない俳優もいる。問題は日本のスターである。市川百々之助は大正末期は一番の人気スターだった。市川右太衛門や月形龍之介がそれに続いた。昭和に入って片岡千恵蔵がマキノ映画で売り出すと若い女性に人気を奪われたようになった。市川百々之助が女性客を映画館に呼んだ功績は大きいと思うが、いまでは忘れられたスターである。

1億円あれば

    源氏鶏太が「婦人生活」に連載した小説を映画化した「結婚の条件」。浅丘ルリ子が美しい。3人の男性、小高雄二、山田吾一、川地民夫からプロポーズされるが、女性の自立に悩むというストーリー。現在、適齢期の女性の結婚の条件はズバリ、年収1000万円以上。非喫煙、コミュ力だそうだ。昭和38年の映画では「月給3万円以上」というセリフがある。なにしろ家賃が5000円の時代である。いつの時代にせよ経済力が結婚の条件のトップにくることは変わりない。物価は次第に上昇するものの、億万長者という言葉があるように、1億円という価値は当分崩れない。昭和55年に大貫久男が1億円を拾得したことが大きな話題であったし、同年、岸辺シローの「暗くならずにお金が貯まる」がベストセラーになった。平成23年でも退職後の人生で1億円あればなんとか生きていけるだろう。往年の野球の名選手、広島の四番バッターの息子が窃盗の常習犯だったこともショックだ。それにつけても金のほしさよ。

2011年4月24日 (日)

まぼろしの帝釈原人

    もう世間からは忘れさられた話であるが藤村新一の上高森遺跡や座散乱木遺跡の捏造事件で旧石器時代や考古学への関心は消えうせていた。かつて帝釈原人の発見のころは、自分も若くて展覧会へもよく行ったものだ。しかし帝釈原人の名が歴史の書物に見えないがどうしたのかと調べると、あれはヒトではなくて鹿の骨だという。ウィキペデイアにも「帝釈原人」の項目はない。帝釈原人は松崎寿和(1913-1986)と記憶して残っている。松崎はよく学生社から本を出していた。「黄土地帯」「倭人伝」「中国の先史時代」「広島の考古学」「騎馬民族国家の秘密」「騎馬民族国家99の謎」。騎馬民族征服王朝説はもともと江上波夫の説であるが、石田英一郎、護雅夫など多くの支持者もいるが、結局、4世紀から5世紀初めにかけて、文化に連続性がみとめられ、王朝交代があったという事実はないとして今では完全に否定されている。松崎の本は「帝釈峡 秘境の洞窟にねむる日本原人の謎を追う」にしても「騎馬民族国家の秘密」にしても、つまり歴史ファンタジーで、いまは世間から忘れ去られているようだ。

神保小虎と黒曜石の謎

Photo_4  神保小虎

    黒曜石は縁辺がきわめて鋭利であるため、旧石器時代の人々は石やりや石鏃として使用していた。産地は北海道の十勝、秋田の男鹿半島、長野の和田峠、霧ヶ峰、男女倉、麦草峠、栃木の高原山、箱根、八ヶ岳、そして伊豆諸島の神津島などが知られている。青森の三内丸山遺跡から発掘された石器の石材として最も珍重された黒曜石は霧ヶ峰産の黒曜石だといわれている。産地から遠く離れたところから出土するが、どのような交易ルートがあったのか興味あるところである。このような黒曜石の謎を最初に指摘したのは鉱物学者の神保小虎(1867-1924)で、明治19年、黒曜石の産地を研究することを唱えたのが始まりである。

うさん臭い消費税増税論議

   地震原発一色のご時世。震災直後に谷垣の消費税増税案があった。その後も復興会議(議長・五百旗頭真)で消費税増税提言。NHKや朝日新聞の世論調査でも増税容認報道。OECDから「消費税20%は必要。増税はできる限り早く」と。なんだか周囲から国民は責められている。これを情報リークとかプロパガンダ報道と言わないのだろうか。否定的意見もあるはずだが街頭インタビューはなぜか容認派が多い。おそらく丸の内のサラリーマンに聞いているのだろう。やはり世の中すべて欺瞞に満ちて、胡散臭い感じだ。公共広告もタレントのメッセージも。不同意もしくは全否定。

2011年4月23日 (土)

むかし津軽海峡は陸地だったのか?

Photo_3 ナウマン像はおよそ40万年前に大陸より陸橋を渡って日本列島へやってきて、およそ2万年前までは生息していた

Img_0033 「目でみる日本列島のおいたち」湊正雄監修 築地書店 1978年

Photo_6 2万年前の日本列島(ウィキペディア

  33000年前から地球環境の寒冷化によって海水面が低下していった。2万年前は最終氷期で今よりも大幅に寒かった。日本海は海ではなく、巨大な湖で、対馬海峡は大陸と日本列島は陸橋でつながり、津軽半島と松前半島の間も陸続きであったとするのが30年くらい前までは通説であった。ところが最近の研究では津軽海峡、対馬海峡には海が残り陸続きではなかったとされている。岡村道雄「日本の歴史第1巻 縄文の生活誌」(21p)では次のように記されている。

数十万年前には、日本列島全体の地殻が北に沈み込んでいて、深さ130から140メートルの津軽海峡は、いちども本州とは接続しなかった。より北方の海峡も、数十万年前までは陸地化したことはなかったらしい。つまり、北からの「原人」の渡来は考えにくいのである。

   現在の第四紀の学者は岡村と同様に「現在とあまり水深は変わらない」「日本列島とアジア大陸は完全につながっていなかった」とする考えが有力である。つまり日本人の先祖は舟でやってきたというのである。北海道内で発見されたナウマン像は樺太経由で日本に渡ってきたと考えられる。かつては、マンモス像は中国方面から朝鮮半島を通り、本州を縦断して北海道へ渡ったといわれてきた。そして現在の津軽海峡の海底図をみると、津軽海峡から松前半島にかけて馬の背のような小高い尾根状の地形となっている。ここが2万年前は陸地だったとしたらナウマン象も北海道へ渡ることが可能である。ほんとうに津軽海峡が海のままだったのか、陸地だったのかは専門家でもよくわからないらしい。NHK高校講座日本史で谷口榮は「津軽海峡はいまより狭かったとする説もあります」と慎重なコメントであった。(参考:多田隆治「日本とアジア大陸を結ぶ最終氷期の陸橋」1995)

古代アンデスの織物

Img_0033 猫科動物刺繍布 バラカス文化 

    先スペイン期アンデスの織物は、他に比類をみないほど高度な発展をとげた。最初に布が現れるのは、北海岸のワカ・ブリエタ遺跡で紀元前2500~1800年ころの先土器時代後期のものである。近年、高地の遺跡から、これより数千年も前の裂(きれ)が発見され、織物の歴史はさらに遡ると考えられる。画像はバラカス文化(前500~後100)の織物でネコの図案がみえる。染料に茜が使われるようになり、色彩が豊かになった。また古代アメリカではネコ科のジャガーやネコの崇拝がみえる。バラカスはナスカ文化に大きな影響を与えた。

2011年4月22日 (金)

ジャズを日本に流行らせたジャーナリスト

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    昭和のはじめバートン・クレーン(1901-1963)という米国の新聞記者が余技として流行歌を吹き込み「酒がのみたい」「家へかえりたい」(昭和6年)という片言の日本語の歌が大流行したことがあります。「酒がのみたい」はアメリカで昔から歌われていたドリンキング・ソングの一種。銀座を歩くとどの街角からも、このレコードが流れていたといわれています。その後も淡谷のり子や川畑文子とレコードを吹き込んでいます。「貴方とならば」(川畑文子&バートン・クレーン)は「サイド・バイ・サイド」です。川畑文子(1916-2007)もアクロバット歌手として話題をまいたものですが数年でアメリカへ帰ってしまいました。でも英語と日本語を混ぜた歌詞は、戦後の江利チエミ、雪村いづみに影響を与えています。

木炭自動車

   日中戦争下、日本国内では経済統制が強化され、紙布製の帽子、スフ製のランドセル、サメ皮の野球のグローブと何でも代用品の珍品時代がやってきた。しかしもっとも貴重なのがガソリン。「ガソリン一滴は血の一滴」という標語も登場し、切符制によるガソリン規制が始まったのが昭和13年5月1日。7月には東京市バスに木炭を燃料として走行する車の第1号が登場したのを皮切りに、木炭車への改造が始まった。しかしのろくて、坂道ではしばしばストップするというので、動作の緩慢な人や女性の化粧が「木炭車」と呼ばれるようになった。昭和21年まで走行していた。
Photo_7 復元された木炭自動車(岩国市)

とんかつ大流行

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   日本人はむかしからトンカツが好きである。岡本かの子の「異国食餌抄」にこんな記述がある。

 

西洋にいても日本人はよくこのトンカツを食べたがる。ところがこのトンカツなるものが西洋の何処へ行っても一向見当らないので失望する人が多い。イギリスのレストランへ行ってメニュウを探して見るとポークカツレツというのがあるから、喜んで注文するとそれはわれわれが予期するカツレツではなくて日本の所謂ポークチャッブであった。(略)トンカツに巡り合わない日本人はようやくその代用品を見つけて、衣を着た肉の揚げ物に対する執着を充たすだけで我慢しなければならぬ。それは犢(こうし)の肉のカツレツである。フランスではコトレツ・ミラネーズと云い、ドイツではウィンナー・シュニッツレルと云う。

 

  もちろんトンカツは日本で創製されたもので、はじめ「ポークカツ」「ポークカッレツ」と呼んで洋食屋でだされていた。それに生キャベツの千切りを付合わせにするのは明治37年から。昭和7年に、上野の「楽天」で「とんかつ」という呼び名に変えたら大流行した。浅草の「喜多八」でもほぼ同時に「とんかつ」と呼び始めた。ネーミングの成功によって日本にとんかつ屋ブームが起った。

秀吉の軍扇、家康の軍扇

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  上の画像の軍扇は、豊臣秀吉が朝鮮出兵にそなえて作らせたものといわれている。表には日本・中国・朝鮮の地図が描かれ、裏には「なさらい ちゃもってこい、なちうらい さけもってこい」などと中国語と日本語を対比させて書かれている。

    徳川家康にはこんな逸話がある。小幡景憲が、ある日、家康にこう申し出た。「私はかつて武田信玄が愛用した軍扇について詳しく知っています。よろしかったら、まったく同じものを作って献上しましょうか」家康の許しを得た景憲は何日か経ってから派手な飾りをつけた軍扇を持ってきて家康に見せた。だが、家康はその軍扇を手に取ると「こんな重いものが戦場の役に立つわけがない」と言って投げ捨ててしまったため、景憲はおおいに恥をかいてしまった。

くろがねの力

Photo_2 Img_0033 愛馬右流間(うるま)号に乗る明仁皇太子殿下(9歳)

  お花畑がいつの間にかカボチャ畑になり、都会の空地が麦畑になっていった。学生たちは勤労奉仕で工場へ。年寄もみんなで、ありったけの力をささげた。そうです。みんながお国のために「がんばろう、日本!」ガソリン払底で町には木炭自動車が走る。生活物資も次第に少なくなって、あらゆるものが切符制。食糧も不足するおりから、せめて身体だけは鍛えようと、運動会では「くろがねの力」という国民歌謡が流れる。「♪ああ我等皇国の楯ぞ」なんだか歴史は繰り返すというけれど戦時中はネットウヨがはびこる当世とよく似ている。雲の上の人を論ずれば非国民と呼ばれる。嫌なご時勢になったもんだ。

なつかしの名子役たち

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    子役といえば誰を思いだすだろうか。やっぱり、おしゃまなエクボ天使、シャーリー・テンプルちゃんだろう。30年代、ハリウッドの最高のドル箱スターとなり、誕生日には世界中から10万個以上のプレゼントが殺到したという。美容院はくるくるんにカールした髪型を真似る少女たちで溢れた。テンプルちゃん人形は少女たちの宝物だった。

     「逃亡者」第33話「小さな探偵」を見ていたら、ジェラード警部の息子役がカート・ラッセルだった。「バックドラフト」の消防士の役で今ではハリウッドの大スターだが、この頃は10歳くらいの少年。ハリウッドでも子役からスターに成長するのは稀であろう。日本でも戦前戦後多くの子役たちが映画に登場し、人気を得てスターになった俳優も多い。片山明彦、大泉晃、松島トモ子、二木てるみ、浜田光夫、市川好郎、太田博之、風間杜夫、江木俊夫、池田秀一、中山千夏、蔵忠芳、四方晴美、宮脇康之、金子吉延、雷門ケン坊、安達祐実、宮崎あおい、井上真央。最近も大橋のぞみ、加藤清史郎、芦田愛菜ら子役が活躍しているが、はたして彼らが成長した姿を見ることができるだろうか。いま韓国ドラマ「トンイ(同伊)」でヒロイン(ハン・ヒョジュ)の子供時代を演じているキム・ユジョン(11歳)に注目が集まる。子供ながら、圧倒的な存在感でヒロインの素質十分。4歳のとき、映画「DM2非武装地帯追憶の三十八度線」でデビュー。「チェイサー」で行方不明となった娘を演じる。イム・スジョンやソン・へギョなどの子供時代を演じる。将来、エリザベス・テーラーや高峰秀子のような大女優になるかもしれない。

2011年4月21日 (木)

継体王朝の謎

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    継体天皇陵とされる今城塚古墳の出土品模型などを展示した「今城塚古代歴史館」(高槻市)がオープンした。第26代の継体天皇(在位507-531)は、悪逆無道といわれた武烈天皇のあと王位をついだ天皇で何かと古代史では論争される天皇である。日本は中国のように不徳のものあらば新しい王朝を開くという易姓革命思想がなく、天皇家の万世一系を建前としている。しかし実際には何度が王朝は断絶しているが、その1つが継体簒奪説である。継体は応神5世の孫ということであるが、その間の具体的な系図は史書に明らかにしていない。現在、継体と応神系王朝とは断絶朝とみる学者は多い。また継体の出自と勢力基盤にも不明な部分が多い。①畿外北方説(近江または越前)直木孝次郎②越説(または越前)林屋辰三郎③近江説・山尾幸久④摂津三島野説・原島礼二。継体天皇の陵墓と確実視されたのは1997年から10年間にわたる調査結果の成果であろう。(参考:原島礼二「倭の五王とその前後」1970年)

アルメリア文化と半坡文化

Photo_2 西安半坡遺跡

  更新世末期(約4万~1万年前)にクロマニヨン人(新人)が旧石器時代、洞窟画(アルタミラ)で知られる文化をスペインに残している。しかし気候の大きな変化と共に前7千年以降衰退していった。前7千年紀から4千年紀にかけては、ユーラシアの多くの地域に中石器文化が発達していく。農耕・牧畜文化の始まりはオリエントでみられた。農耕の起源は、ジャルモ、イェリコに代表される西アジア(前7000年)が単一起源をなしたとする説、あるいはユーラシアのいくつかの地域が相前後して、それぞれ独自に発生したとする多元説がある。スペイン南東部のアルメリア地方の新石器時代の文化は、大麦またはライ麦、オリーブ・ブドウの種子などが発見され、年代的には前4500年から3500年とされる。東アジアでは中国の半坡村で新石器時代がはじまるのが一番早いとされている。放射性炭素の年代測定によると、農耕は前3955±105、という結果がでている。つまり前4千年紀、農耕はユーラシアの西のスペインと東の中国でほぼ同時代に広がっていたということになる。西アジアの農耕技術が長い期間をへて中国へ伝えられたとも考えられるが、西アジアが麦を中心とした農業で、ヤギを家畜としていたのに対して、中国ではあわ・きびの栽培、家畜は豚、という違いもみられる。

新聞の人生相談にみる功利性

   朝日新聞の「悩みのるつぼ」4月9日を読む。「女っ気ない28歳の息子」に嫁さんのきてがないので心配する50代の母親からの相談である。女の子にモテナイ、地味で目立たない普通の男子。母は「イケテナイ男子」と表現している。当世は「ブ男」とは言わない。回答者はオタクのカリスマ岡田斗司夫。25歳から30歳の女性の恋愛市場順に並べると、上位5%は「モテ」、次の25%は「まあモテ」、その下60%は「モテるわけではない」で、最下層10%は「非モテ」である。岡田は息子を非モテとみて、まず現状では「モテるわけない」層の女性の視界にすら入らないと分析する。そして作戦としては、5年待つと、非モテ30歳の女性の恋愛市場価値は暴落するので結婚のチャンスが訪れるとする。呆れるほど功利的、現代的な分析である。

    先日、兄の家へいくと、ブランド物の新品の靴が10足以上並んでいる。驚いて尋ねると、20代の甥の物だという。どれも高価なものばかりだ。靴でもそうだから、スーツにはどれだけ投資しているのだろうか。現代男性もモテるために大変な努力をしなければならない時代なのだろう。恋愛が人生の最大の目的とするのは異論がないわけではない。むしろ恋愛してもいいけど、しなくてもいい、と思う。そして人間の価値を「モテる」「モテない」で決めるのも愚かしいことである。思考は言葉で支配される。NHKの負の部分は「江」にしても「おひさま」にしても、時代性があるにもかかわらず、ヒロインが現代感覚であること。若い視聴者はそれを不自然に思わずストレートに受入てしまいがちである。あのドラマは現代作家が視聴率狙いでトレンドを意識して、現代に媚びて書いているような気がする。新聞の人生相談にしても、普遍的な価値基準は崩れて、当世風の功利主義が横行している。また相談者も功利主義を求めているのだから悲しい。

2011年4月20日 (水)

重大なる誤審

    阪神3-2巨人の阪神7回裏の攻撃。ブラゼルの飛球を脇谷が落球。土山塁審の位置から見えなかったが、捕球したと「見込み判定」でアウトを宣告。普通なら阪神に確実に1点が入っていた場面だ。真弓の抗議も虚しい。テレビカメラは明かに脇谷の落球を写していた。ビデオ判定は本塁打のみしか適用されない。この誤審により試合の流れは巨人にうつり、8回に巨人が3点を追加し逆転。9回裏、救援ロメロは四球、暴投を含む乱調だったが、結局5ー4で巨人が辛くも逃げ切った。なんとも後味の悪い試合だった。

人類の日本への初進入

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 樋口隆康「日本人はどこからきたか」

   日本列島に人が住むようになったのは第4紀に大陸と地続きで移動してきた動物を追って、日本人の祖先も渡来したと考えられている。およそ4万から5万年前とされる。その後、日本列島は孤島となり、原日本人を形成していった。では日本人はどこから来たのか?日本列島が氷の溶解により海進現象が起こり大陸から切り離された最後の時期は1万7、8千年前である。したがって、人類が日本へ初進入したのはそれ以前のことと考えられる。四周海にかこまれた日本列島に入ってくるルートは主に5つが考えられる。①北方ルート②朝鮮ルート③東シナ海ルート④沖縄ルート⑤南洋ルート。近年、歯や骨などの身体的な特徴、各種の遺伝子などから、日本人は複合民族であること、南方系の古モンゴロイドである縄文人が広く分布し、やがて大陸から北方系の新モンゴロイドが稲作技術を持って西日本に渡来し、同化した。北海道と沖縄では、渡来人の影響が少なかったことなどが見えてきた。また、耳垢の遺伝子研究では、日本人にはドライ(乾型)が多く、ウェット(湿型)の頻度が16%であるのは、モンゴロイド系人種が主体となり、非モンゴロイド系人種と多少とも混血が行われたためと考えられる。ちなみにドイツ、米国白人のウェットの頻度は99.5%である。

    近年の盛んな発掘調査の結果、後期旧石器時代(先土器時代)に相当する遺跡が数千箇所も発見されており、日本列島のほぼ全域に旧石器時代人が生活していたことは明白な事実である。年代的には、1万7000年前後を中心に、1万年以上の期間にわたっていた。(参考:松永英「ミミアカの多型とその生物学的意義」)

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イエスの足をぬぐう女の話

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  イエスの物語には女が香油で足をぬぐう話があり、絵画の題材にもなっている。最初は「ナルドの香油」。イエスがベタニアでシモンの家にいたとき、1人の女が非常に高価なナルドの香油を壷ごと割ってイエスの頭に注ぎかけた。そしてイエスの足に塗り、自分の髪の毛でその足をぬぐった。弟子のユダが憤慨して言った。「なぜ、この香油を300デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言う。実際にその値段は1年分の賃金と同じくらいだという。だがユダがこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であり、金入れを預かっていながら、中身をごまかしていたからである。イエスは「なぜ、この人をこまらせるのだ。わたしによいことをしてくれたのだ」と言う。この行為はイエスがキリスト(油そそがれた者)として祝福されること、あるいは近く来るべき葬送を暗示している。イエスの足をぬぐった女の名はマリアとある(ヨハネによる福音書12-2)実際のイエスの葬送にはマグダラのマリアTが香油を用意したことから2人のマリアはこれまで同一人物、あるいは混同されるが、現在では別人とされている。このエピソードは太宰治の名作「駆込み訴え」にもでてくる。

   もうひとつ別の話がある。イエスがパリサイ人のシモンの家に食事を招かれたときのことである。食事が始まり、突然、罪深い女が香油をイエスの足に塗り、髪の毛と涙で拭った。このときシモンは心の中で思った。「イエスがまことに正しい人ならば、倫理的判断ができるはずだ」と。それは正しい人は罪深き女(おそらく娼婦だろう)を忌み嫌うだろう。しかしイエスは女を受入れた。居合わせた者たちは誰もイエスの行為を理解できなかった。この逸話は、救いを求めてイエスのところに来る人々をイエスは憐れみをもって理解してくださることを示すものである。(ルカ7-36)

融通無碍

  融通無碍(ゆうずうむげ)。「一定の考え方にとらわれることなく、どんな事態にもとどこおりなく対応できること」を意味する。「無碍」は「無礙」とも書く。「碍」は「さまたげる」という意味で「礙」の俗字である。最近、「障害者」という表記を「障がい者」に書き換える動きがある。また「障碍」「障礙」と書き換える意見もある。戦後の漢字制限によって「障害」と書き改められたとする説もあるが、これは誤りで、「障害」は戦前から使用されていた。江戸時代は「障碍」は「しょうげ(しやうげ)」と読んでいた。明治になって「障碍」を「しょうがい」と読むようになり、「障害」という表記も生まれた。「障害」「障碍」「障礙」、漢字の問題はなかなか融通無碍には解決しない。

下村湖人と田沢義鋪

    下村湖人は昭和30年の4月20日に脳軟化症のため71歳で死去した。「次郎物語」第五部に登場する田沼先生のモデルは田沢義鋪(たざわよしはる、1885-1944)といわれる。田沢は大正・昭和の官僚・社会運動家。明治18年7月20日、佐賀県藤津郡鹿島村高津原に父・田沢義陳(よしのぶ)、母・すみの長男として生まれた。佐賀中学鹿島分校、熊本第五高等学校を経て明治42年東京帝国大学法科大学政治学科を卒業後、高等文官試験に合格し、内務省に入り、明治43年4月、静岡県に赴任し、8月、25歳の若さで静岡県安倍郡長となる。この時代に農村青年教育に意を注ぎ、農村を基盤とする青年団を育成し、さらにその活動範囲をひろげ修養運動とも連携し、農村青年の人間形成を目的とする天幕講習会などを開き、全国的青少年運動の下地をつくった。大正4年7月、明治神宮造営局書記官兼内務書記官として内務省本省に戻ると、全国の青年団員の勤労奉仕によって明治神宮の造営を行なうというプランを立て、実行した。一人一円運動を起こし、大正14年青年団の全国組織・大日本連合青年団を結成し、東京における拠点として日本青年館を建設する。しかし、昭和になると軍部の力が強くなり、青年団の軍事利用を企てる軍部と対立する。反軍演説で議員の地位を追われた斉藤隆夫の応援演説をしたり、軍部や政府のあり方に批判的で、大政翼賛会にも入会しなかった。昭和19年、四国の善通寺で開かれた地方指導者講習会で日本は敗れると語り、その直後、脳溢血で倒れ、11月24日、59歳で他界した。

   下村は田沢義鋪の第五高等学校の1年後輩にあたり、同郷の寮生として親しかった。下村は「この人を見よ」で、

   明治以後で真に尊敬に価する人を、私も数多く知っている。その中から三人あげよと言われるならば、私は躊躇することなく、福沢諭吉、新渡戸稲造、とこの田沢義鋪とをあげるであろう。かれの人としての誠実さ、何らの邪念を交えず醇乎として信念つらぬいた生涯、毅然たる清節、私は百代にわたってあえて「この人を見よ」といいたい。

   と書いている。しかしながら、田沢義鋪の名前が現在あまり知られていないことは遺憾である。道義を重んじ、人類愛と平和主義者であり、理想と行動力を備えた田沢義鋪の思想と事績を学ぶことは大切であろう。

2011年4月19日 (火)

魔女狩りと拷問

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    ヨーロッパ宗教改革時代にもっとも陰惨な現象の1つが魔女狩りである。ドミニコ会士の「魔女への鉄槌」という書物には「判事は魔女を急いで拷問にかけてはならない」と書いてあるそうだが実態はどのようなものであったろうか。拷問の方法は時代と場所に応じて様々だったが、自白を得るための手段として次のような方法がなされていた。まずは水責め。容疑者は手足を壁に埋め込まれた金具に固定され、台の上に乗せられ、9リットルの水を飲ませられる。十分な効果があがらなかったときにはまた同量、つまり18リットルとなる。あるいは足を火の中へ入れさせてこんがりと焙る。また尖った鉄を爪の下にさしいれて爪を剥がす。そして脚責め。これは木片を脛にあてがい、板の角と縄で締め上げる。胸の上に重しを積み重ねて、拷問台の上で身体を引き伸ばす。自白した魔女は、鞭打ちだけで釈放されることもあったが、たいていの場合は、火刑がまっている。宙吊りにされて生きながら火あぶりで処刑される。ドイツ全土で処刑された魔女の数は、16世紀から17世紀にかけて10万人にも達していたという歴史家もいる。

カサヘマスの自殺

Photo_8 ピカソ「カサヘマスの死」1901年

   19歳のピカソは親友のカルロス・カサヘマス(1881-1901)と共にパリにやってきた。恋人ジュルメーヌ・ガルガーリョ(1881-1948)に失恋したカサヘマスはピストル自殺する。親友の死に衝撃を受けたピカソの画風はがらりと変わる。華麗な色彩は陰を潜め、深潜に沈んだような暗く深いブルーが画面全体を支配した。その様式はのちに「青の時代」と呼ばれる。親友の死によって「青の時代」は生まれた。

マラソン日本

    60年前の今日、第55回ボストンマラソンで田中茂樹が優勝した。タイムは2時間27分45秒。その後も、山田敬蔵(1953年)、浜村秀雄(1955年)、重松森雄(1965年)、君原健二(1966年)、采谷義秋(1969年)、瀬古利彦(1981年、1987年)の各選手が優勝している。女子ではゴーマン美智子(1974年、1977年)が2度優勝している。昨日行われた115回大会ではケニアのジョフリー・ムタイが2時間3分2秒という驚異的な記録で優勝した。ただし国際陸上公認コースではないため、世界新記録としては認められない。(4月19日)

 

Photo_5 円谷幸吉の靴

バルセロナ

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  バルセロナはマドリッドにつぐスペイン第二の都市。最初にバルセロナを築いたのは前6世紀ごろのギリシア系フォセオ人とされ、のちにカルタゴ、ローマの植民地時代を経て、地中海貿易の拠点として大いに発展した。今日ではスペイン一の商工業地帯の中心で、カタルーニャの中心でもある。スペインには地方単位の自治政府が17ある。その中の1つ、カタルーニャ自治政府の所在地はバルセロナである。地方の確立がめざましいのは、それぞれ独自の歴史、文化、習慣、言語の裏づけがあるから。カタルーニャの場合、「スペイン人である前にカタルーニャ人である」とさえいわれている。

    スペインの町の特徴の1つは旧市街の保存の良さにあるといえる。そこでは、一瞬、時が止まってどこか別世界へ迷いこんだのではないかと錯覚を起こすくらいである。バルセロナでは「ゴシック地区」がそれにあたり、この中を歩いていると、中世の足音が聞こえてくるようだ。一方、バルセロナの新市街は土地の人たちに「レシャンプレ」と呼び親しまれているところである。都市計画にもとずいて線引きされたまっすぐな道路、公園の数々(シウダデラ公園・グエル公園・モンジュイック)、ファッショナブルなグラシア通り、天才建築家アントニ・ガウディ(1852~1926)の作品(聖家族教会・ミラ邸・バトロ邸など)。ゴシックや古都のイメージとはまったく違う、こちらもやはりバルセロナの顔である。美術館・博物館の数はざっと70を越える(カタルーニャ美術館・ミロ美術館)。音楽を愛し、お祭りといえば民族舞踏サルダーナに興じる人たち。学術研究に熱心な年。国際会議の街。

2011年4月18日 (月)

謎の民、オルメカ

Photo オルメカ巨石人頭像

    新大陸に現れた最初の大きな文明は、オルメカ族といわれる民族である。彼らの祖先はユーラシア北方、東シベリアにいた狩猟民(モンゴロイド系と思われる)で小集団で、ベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸の内部に入り込んだ(古代インディオ)。やがて紀元2000年から前1500年ごろにトウモロコシを栽培する農耕文明社会がメキシコやペルーで成立した。前1200年から紀元前後にわたりメキシコ湾岸にオルメカ文化が成立し、やがて中央アメリカの全域を治めた。オルメカ人が残した人間や神の彫像は、6世紀から栄えたマヤ文明に先行するメソアメリカ文明の一つといわれる。仮面さながらに無表情で得体の知れない雰囲気からすると、たぶん陰気で強力な宗教が勢力をふるっていたものらしい。

2011年4月17日 (日)

花竹秀

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花竹秀ず。「花は咲き、竹繁る」春の句。出典は蘇東坡の詩「司馬君實獨樂園」。

2011年4月16日 (土)

和気皆暢

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西川春洞(1847-1915)「和気皆暢」四字一行

大意は「のどかな気候のなかで、すべてのものがのびのびしていること」

ゴヤの暗い絵

    ゴヤ(1746-1828)といえば有名な着衣と裸の2点のマハを思い出す人が多いだろう。しかしゴヤの真骨頂は晩年の恐ろしい絵や悲劇的な絵にあるように思う。1792年、全聾となった。梅毒が原因とも言われるが確かなことはわからない。そして73歳のとき重病に陥ったゴヤはマドリード郊外の「聾の家」(キンタ・デル・ソルド)に幽閉生活を過ごし、14点の連作絵画「黒い絵」(ピントゥーラス・ネグラス)を制作した。不気味で恐ろしい絵が何を言おうとしているのか不明だが、芸術とは服従的な行為でなく、自己自身の自由な行為であり、ゴヤ表現主義を示した作品であるといえる。

2011年4月15日 (金)

伝説の武将・関索

Photo_4 鮑三娘の墓(四川省広元市)

    三国志の関羽といえば誰しも青竜刀と赤兎馬を思い浮かべるだろう。だがこの二つは正史にはなく、伝説である。関羽には関平と関與の2人の息子が実在したが、小説には関索という三男が登場する。もちろん架空の人物であるが京劇などで人気がある。「花関索伝」という書物では鮑三娘と婚姻を結ぶ。孔明とともに南征に参加し、木鹿大王を討ち取るなど活躍するが、早世している。貴州省には関索鎮という町がある。

震災の影響あれこれ

Photo_3 モーリス・ドニ「受胎告知」

    観桜やナイター中止など震災の影響がでているが、全国の美術館では予定していた展示を中止するケースが続出しているという。「印象派の誕生」(広島)、「ジョルジョ・モランディ」(豊田)、「プーシキン美術館」(横浜)、「ムーミンの世界」(岡山)、「モーリス・ドニ」(山梨)など。海外の所蔵者も日本への貸し出しに不安を抱いているのが本音である。やはり今は何をやっても裏目にでるときなのだろう。こういったときはジタバタせずに辛抱するしかないだろう。

世界史学習第一歩

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 タドラルト・アカクスの岩絵(リビア)前7000年~前4000年頃

    4月21日から今年もまたNHK高校講座世界史がスタートする。昨年度の再放送であるが、見逃した回も多いのでなるだけ最初から見たい。第1回は東京大学教授山口昌之の「帝国・王国・共和国」である。だが世界史は政治や社会の発展はわかっても、人間生活のいとなみは中々わからないことが多い。たとえばイタリアといえば豊富な果実・野菜を利用した料理やワインが魅力のひとつである。ダ・ヴィンチやミケランジェロはどんな料理を食べていたのだろうか。パンはローマ帝国時代からあるがピザはなかった。マカロニ・スパゲッティも無かった。トマトも新大陸発見以降にもたらされたもので、ダ・ヴィンチは知らないだろう。ではどんなものを食べていたのか、というと高校世界史を学習しただけではわからない。それと世界史の発展の多様性を知るためには、人類の発生からテーマにとりあげてほしい。歴史学の範囲では、史料や文献によって人類の歩みを知ることができる時代を歴史時代といい、歴史学の範囲は文明の誕生以降であろうが、通常、教科書では人類の起源から述べているので、通信講座でも人類の進化の過程の盛り込んでほしい。(追記:第10回アフリカ史で人類の起源が述べられるようなので期待しています)

暴君の信憑性

    武田信虎の伝承に妊婦の腹を裂いたというのがある。たぶん古代中国の史書からとったもので信憑性はない。第25代の武烈天皇にも妊婦の腹を裂いて胎児を見たとされる記述もあるが、伝承に食い違いがあり、史実とみる者はあるまい。中国の桀紂と並称される暴君も伝承の域をでるものではない。だがローマ皇帝の放埓、淫欲、驕侈、貪婪、残虐などはすべて史実と思えるから不思議だ。

自称天皇・熊沢寛道

    熊沢寛道(1889-1966)が代理人吉田長蔵を介して、「北朝系の現天皇は南朝の正系に譲位すべきである」という請願書を、連合軍司令部マッカーサーに提出したのは、昭和20年9月のことである。寛道は熊沢弥三郎の三男として愛知県の小学校を卒業したが、養父熊沢大然から「お前は南朝の子孫だ」と言い聞かされて育った。「熊沢系図」によると、寛道は後醍醐天皇から数えて22代目にあたる。昭和26年に天皇不適格確認訴訟を起こすが、「天皇は裁判権に服しない」として却下されている。政府当局は熊沢を不敬で起訴できなかったが、民間からの反熊沢キャンペーンにより、熊沢は世間から見放されていった。戦後、自称天皇は熊沢のほかにも現れた。愛知県の外村天皇、三浦天皇、新潟県の佐渡天皇、高知県の横倉天皇、岡山県の酒本天皇、鹿児島県の長浜天皇など数人いた。はたして、熊沢がニセモノだったのか、御落胤だったのか、本当のところは誰にも分からない。

リーバーマン

Img_0033 かんづめ工場に働く女たち 1880

    マックス・リーバーマン(1847-1935)はドイツ印象派の画家。ユダヤ系実業家の家に生まれ地位と名声をえたが、晩年はヒトラーから迫害を受けて死ぬ。

2011年4月14日 (木)

水汲みの娘リベカ

Photo_4 ムリーリョ「リベカとエリエゼル」

    旧約聖書にあるイサクの妻となる水を汲む美しい娘リベカ。

野球と小唄

Photo_3 Photo_2 平岡熙の墓 本久寺(墨田区東駒形)

   実業家であり、野球を日本に初めて伝えた平岡熙(1856-1936)は昭和34年、野球殿堂入り第1号になっている。晩年には三味線声曲「東明節」を創始した粋人でもある。

燕山君とチャン・ノクス

   朝鮮王朝三大悪女とは、チャン・ノクス、チョン・ナンジョン、チャン・ヒビン。チャン・ノクスは第10代の燕山君(1476-1506)の側室として宮廷に入り、君の溺愛をうけ、放蕩の限りを尽くした。1506年にクーデターか起こり、燕山君は江華島に追放され、数ヶ月後の死去した。チャン・ノクスは斬首された。1506年、世界ではコロンブス、雪舟が亡くなった年である。

2011年4月13日 (水)

受難と復活

    「がんばろう日本!」という合言葉を頻繁に聞く。多くの日本人が何の違和感もなく同調するだろう。新聞で一番多くでてくる熟語は「日本」である。ことばは思想の基本であるから、このような言葉はものの考え方にさまざまな影響を及ぼすだろう。この世的な考え方、固定的な見方から人々は解放されることはないだろう。

  4月24日はイースター、復活祭である。ある人が私に言われた。「キリスト教で受け入れられないものの一つが、キリストの復活です」と。確かに、死んだ人が復活するなど、人間の理性では受入れられないことだろう。イエスが十字架にかけられたとき、人々から嘲弄をうけたことが聖書に記されている。ある者はイエスの顔に唾をかけ、拳でたたいた。「さあ、預言者を演じろ」と罵った。抵抗もなく史上、無実な者の上に辱めが積みかさねられた例は幾多もある。だがこれほど酷いものは他に無い。弟子のトマスは、イエスが復活したことを信じなかったが、数日後、トマスは「わたしは主を見た」と叫んだ。そのときイエスは静かにこう言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」とイエスは言われた。イエスは私たちの罪のために死なれ、私たちの罪を救われたのです。

航海王子エンリケ、航海せず

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    ポルトガルのエンリケ(1394-1460)は大航海時代の先駆者として世界史でもよく知られる人物である。1444年、ディニス・ディアスがヴェルデ岬に到達、1460年にエンリケは亡くなるが、1480年にはディニスの子、バルトロメウ・ディアスが喜望峰を発見する。ところが近年、エンリケ王子の事績を後世の創作とする説もあるらしい。本人みずからは船酔い体質で一度も航海したこと無いが、探検せずとも金を出したのなら、評価してあげてもよいとおもうのだが。

高音の魅力

   「フランク永井は低音の魅力、水原弘も低音の魅力、漫談の牧伸二低能の魅力~ア~ァ~やぁになっちゃった」と歌われるほど歌謡界は魅惑の低音ブームだった。ところが少数ながら高音の歌手もいる。マイトガイ、歌う映画スター小林旭はいまも頭の天辺から声を出して歌っている。先日、にしきのあきらをテレビでみたが、華麗なタップも健在だが、なんとイタリア映画「ガラスの部屋」(レイモンド・ラブロック主演)の主題曲を原語で完璧に歌っていた。そして極めつけは、佐々木新一。昭和41年のヒット曲「あの娘たずねて」。いまも変わらぬ澄んだ高音は素晴らしい。

2011年4月12日 (火)

セリヌンテのヘラ神殿

Photo セリヌンテE神殿

    イタリア南部シチリア島南西部にある都市セラヌンテは前8世紀ギリシア植民市として築かれ、前5世紀には非常に栄えた町であった。前5世紀と前3世紀、カルタゴ軍によって二度にわたって町が破壊され、さらに地震によって廃墟となった。近年、発掘によりドーリア様式の女神ヘラに捧げられた神殿と2000人を収容できたといわれる神殿などアクロポリスの巨大神殿群の観光スポットとして注目されるようになっている。ヘラとは「貴婦人」という意味で、宇宙の支配者ゼウスの妻である。貞節の神でもあるが、嫉妬深い神で黄金の林檎の件などトロイ戦争はじめいくたの騒動をまきおこしている。

2011年4月11日 (月)

海の精セイレーン

    「♪なじかは知らねど心わびて 昔の伝えはそぞろ身にしむ」有名なハイネの詩にうたわれたローレライの伝説。ライン川の難所を行く船人を美しい歌で惑わし、進路を狂わせて難破させ、川底に沈めていく長い金髪の美少女。もともとはギリシア神話の海の精セイレーン。半人半鳥だったのが、中世になるとなぜか半人半魚になった。

Photo_3 クヌート・エクヴァル「漁師とサイレン」

クヌート・エクヴァル(1843-1912)はスウェーデンの画家で、主にドイツで挿絵画家として活躍した。

ミュリエル・スパークとエディンバラ

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    現代イギリスの異色ある小説家ミリュエル・スパーク(1918-2006)は日本ではあまり読まれているとはいえない。でも「ミス・ブロディの青春」や「運転席」は映画化もされたし、ファンもいるだろう。彼女はスコットランドの古都エディンバラの生まれて作品にもしばしば登場する。女教師ブロディ(映画ではマギー・スミスが演じている)が生徒たちを連れてエディンバラの古城を見学する場面では、「あなたたちはヒュームとボズウェルを生んだエディンバラ市民よ」と語っている。そしてスコットランドの女王メアリーのベッドも案内している。

アポロンとヒュアキントス

Img_0033_2 ミュロンの円盤投げ

   ミュロンの「円盤投げ」はギリシア神話の少年ヒュアキントスを表しているといわれる。ギリシア神話にこんな話がある。

    アポロンはヒュアキントスという少年を可愛いがっていた。ある日、2人は円盤投げをして遊んだ。だがアポロンの投げた円盤が地面から跳ね上がって、少年の額にぶっかった。彼は気絶して倒れ、絶命した。「ヒュアキントス、お前は死んでいくのか。まだ若いお前を死なせたのも、みんな俺のせいだ。私の竪琴はお前を名高くするだろう。そしてお前は花となるだろう」

   そして少年はユリに似た美しい花になった。この花はヒュアキントス(ヒアシンス)と名を改めて、春ごとにその運命をよみがえらせている。考証家によると、この花は、私たちが知っているヒアシンスではなくて、多分アイリス、あるいはパンジー(三色すみれ)だろうといわれている。だがヒアシンスの花言葉は「スポーツ」「遊戯」である。

永倉新八

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    永倉新八(1839-1915)は松前藩士、長倉勘次の次男として江戸に生まれる。代々、松前侯の江戸屋敷勤務であったから、新八は江戸育ちである。近藤勇が、「真剣で立合ったら別だろうが、道場の稽古では、とても永倉君に歯が立たぬ」といったほどの剣の腕前に優れていた。短命に終わった隊士が多いなか、新八は、その後、戊辰戦争、西南戦争を生き抜き、名を杉村義衛と改め、北海道樺戸集治監で剣術師範をしていた。その後は上京して牛込で剣術道場を開いたというが、晩年は小樽で隠居する。「小樽新聞」に自伝として記事「永倉新八」が連載され、その記事を読んだ近藤勇の娘音羽も新八のもとを訪ねている。大正4年1月5日病死。

2011年4月10日 (日)

滝善三郎の切腹

    滝善三郎(1837-1868)といっても今ではその名を知る人は少ない。明治元年、神戸で備前藩の行列を横切った外国人を備前藩士が無礼討ちと傷つけたことから問題となり、新政府に抗議が来た。いわゆる神戸事件である。伊藤博文らは事件を早く片付けたいため、備前藩に責任を押し付け、隊士の滝善三郎に切腹を命じた。善三郎の辞世の句は「いまわ早森の日陰となりぬれど朝日匂う屋まと魂」とある。なぜ「大和魂」を「屋まと魂」としたのかわたしにはわからないが、何かを訴えたかったのだと思う。明治維新も然り、太平洋戦争も然り、現代も然り、大和魂が昂揚する時代に多くの犠牲者が生まれる。

カッコウの鳴き声

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   カッコウは日本では夏鳥として5月中頃飛来するが、イギリスではカッコウの鳴き声は春の先きぶれであって、その第一声を耳にすることを心待ちにしている人が多い。日本の鳥名「郭公」もその鳴き声に由来するものであるが、英名「クックー」(cuckoo)など世界的にも鳴き声にもとづくところがほとんどである。しかし鳴き声をよく観察すると、「カッコー」とばかり鳴いているわけではないらしい。カッコウ同士の縄張り争いなどでは「ゴワゴワ」とか「コカカカ」とか鳴く。また「ピピピピピ」と高く鋭く鳴いたりすることもあるという。

啄木と盛岡

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    中津川は盛岡市内を流れる美しい川である。馬場町御厩橋付近に石川啄木の歌碑「中津川や 月に河鹿の啼く夜なり 涼風追ひぬ夢見る人と」がある。盛岡市内の中央通には妻節子と過ごした新婚の家(当時は帷子小路と呼ばれていた)がいまも残っていて、無料開放されている。

   

クールベの客観表現

Photo_4 石を砕く人

  ギュスターヴ・クールベ(1819-1877)は、フランスの片田舎フランシュ・コンテの富裕な農家に生まれた。1839年に、彼は画家になるために単身パリにでてきたが、学校には通わず、ルーブルで南仏バロック派の画家の作品にふれて、独学で修行した。生来田舎者で野人であった彼は、後期古典主義や、ロマン主義の非現実的な芸術に本能的な嫌悪感を抱いて、現実を客観的に把握することを目的として、リアリズムの手法を絵画に取り入れた。この彼の客観表現に徹する意識は、絵画の形体や、色彩の本質的な追求、絵画の純化にまで発展し、印象派や次代の画家に多大な影響を与えた。彼の絵画は、ロマン派や古典派の表現では表わせない自己主張の強さは社会活動にまで発展し、官憲と対立したり、政治運動にまきこまれたりして、彼の生涯は波瀾にとんだものだった。後年、共和派として活躍し、パリ・コミューンのヴァンドーム広場記念柱解体事件に連座して、スイスへ亡命し、かの地で客死した。

2011年4月 9日 (土)

春の暮れ

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   日が暮れたら門灯を点けるが、このごろは暮れるのが遅いので、つい忘れてしまう。

暮遅し門灯をつけポストみる

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吉田兼好の実存主義

    徒然草に牛売りの話がある。牛を売る者が代金を明日受け取る前に、牛が死んでしまった。牛売りは損をしたと考えるが、ある者は、決してそれは損ではなく牛売りは1日生きのびたのであるから得をしたのだと言う。たとえ牛が生きていてもその牛の持ち主が死んでしまえば、それこそ大損である。1日を生きていることの喜び、悲しみ、そして生の尊厳と重さというものをわれわれは十分に考えなければならない。このような吉田兼好の考えは現代文学が追求しているものの一つにある、「死からの自由」という主題に共通性がみられる。ドストエフスキー、サルトルなどの実存主義の文学が追求しているものは、「真の自由とは何か」ということである。それは、名利からの自由であり、究極的に死からの自由でもある。兼好は東洋的な考えかたで「死からの自由」というテーマに肉迫している。

 

 

女性言葉の衰退

    「雨だわ」は女性的な言い方、「雨だぜ」は男性的な言い方のように感じる。明治時代に若い女性の間には、「てよだわ言葉」が流行した。「よくってよ」とか「嫌だわ」とか普通に使われていたが、現在ではあまり聞かれることはない。「遊びじゃないことよ」のような「こと」も衰退し、現在ではほとんどみられない。昭和の歌謡曲には女性特有の言葉がよく使われていた。「困っちやうわ」(山本リンダ)「何でもないわ」(園まり)「ほんきかしら」(島倉千代子)「困るのことヨ」(都はるみ)「愛して愛して愛しちゃったのよ」(マヒナスターズ)「待つわ」(あみん)とくに終助詞「わ」を付加する歌が多い。近い将来「だわ言葉」も完全に用いられなくなるかもしれない。かわりに「かも言葉」が若い女性の間には用いられている。「それ、いいかも」と断定をさけて、やわらかくする物の言い方が好まれてきているようである。

2011年4月 7日 (木)

日本一の子沢山、常陸山

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    「剣聖は宮本武蔵、角聖は常陸山」と、語り継がれた明治後期の名横綱常陸山谷右衛門(1874-1922)。全盛時174cm、146㎏。つり出しや泉川を武器として、勝率は9割を超す。明治40年、欧米を歴訪し、米国大統領ルーズベルトと会い、大相撲の紹介にもつとめている。艶福家で、あなたの子だと言って連れて来られれば、ろくに調査もせずにすべて認知し、戸籍上は55人の子供がいたことになっている。

floccillation

   撮空模床。高熱による精神錯乱や讒妄せんもう状態のときに患者が無意識に布団や虚空をつかむような動作をすること。

ちなみに英語で一番長いと思われる単語は、

floccinaucinihilipilification

意味は、法律的に無価値なこと、蔑視。

2011年4月 6日 (水)

マディラの野良猫

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    1418年、ポルトガルのエンリケ航海王子(1394-1460)の命を受けた航海家ジョアン・ゴンザレス・ザルコがマディラ諸島のポルト・サント島の小さな港に入植した。エンリケ自身は船酔いに弱くて、航海には出なかった。マディラはその美しい自然や温暖な気候から「太平洋の真珠」と呼ばれる観光スポットになっている。刺繍やタペストリーで知られるが、なぜかマディラは猫が多いことでも知られている。

椿貞雄と中川一政

Photo 椿貞雄「八重子像」大正4年

    自分は高校生の頃、油絵をすこし描いたことがある。岸田劉生の画集をみてその誠実な態度に感銘を受けた。劉生の門下には椿貞雄(1896-1957)がいる。かれは生涯、劉生の忠実な弟子で劉生風な影響が濃かった。「八重子像」は劉生の「麗子像」と雰囲気が似ているが、こちらのほうが古い。中川一政(1893-1991)は劉生に認められながも、次第に独自性を成し、書をよくした。中川のよさもだんだんとわかるようになってきた。

2011年4月 4日 (月)

薩摩と碁

Photo_3 東郷平八郎の愛用の碁盤と碁石

    大河ドラマ「篤姫」でヒロイン宮崎あおいと瑛太と碁を打つシーンが話題となったように、薩摩は古くから碁が盛んであった。大久保利通は「私から碁をとったら死にます」というほどの囲碁好き。西郷と大久保、そして東郷平八郎も囲碁を嗜む。熱海温泉の老舗旅館、古屋旅館には東郷愛用の碁石と碁盤が残っている。「坂の上の雲」の登場人物では、小村寿太郎が「秋山真之と碁を打つと面白い」といっている。いま政治家は暢気に囲碁などしようものならマスコミに何書かれるかわからないだろう。

NHK連続テレビ小説と原作者

Photo Photo_2 調布の実篤記念館

    今日から井上真央主演「おひさま」がスタート。世情騒然たる日本を明るくできるか。原作はなく、「ちゅらさん」の岡田惠和のオリジナル脚本。過去84作品の中で原作者がドラマに出演したのは、昭和38年の「あかつき」で武者小路実篤の一人だけだという。実篤は意外とテレビが好きで、気安く応じてくれるタイプだったのだ。

2011年4月 3日 (日)

海におちたピアノ

   海の底では魚たちがゆっくり泳ぎまわっていました。そこへいきなり大きな音がしたかと思うと、まっ黒なピアノが海に落ちてきました。魚たちは珍しがって、集まってきました。そして口ぐちに「なんだろう?」と言いました。お母さんのウナギは、「これは鏡台ですよ」と言いました。そこへ一匹のアジがきて「これはなにか食べ物ですよ」と知ったかぶりをしました。波がピアノをゆさぶと、

♪ボロン、ボロロン

と音楽がひびきます。朝がくるとトビウオが群れて、こわれかけたピアノの箱で遊びます。

♪ボロン、ボロロン

ピアノの音を、陸の桟橋のところまで聞きました。

「ねえ、あれはなんだろう」

「あれは、きっと、人魚が歌っているのよ」

♪ボロン、ボロロン

でもたった一人だけ、悲しそうに海の底を見つめている人がいました。それは、海に落ちたピアノの持ち主だった女の人です。やがて夏がすぎて、秋が来ました。そしてピアノは海の底へ流されていきました。それっきり、桟橋のあたりでは音楽は聞こえなくなりました。(ストリンドベリ童話集)

猫の目を通した文明批評

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    街頭で宝塚スターが義援金をよびかける光景を目にした。多くの人がそれに応じて、募金している。とくに若い人の姿がめだつ。毎日200円、400円ばかりの小商いをしている老人には奇異に映る。もちろん批判しようという大それたことではない。長い人生を生きて感じるのは、世の中はゴマカシの連続だということだ。善意のようにみえて、実は裏にカラクリがある。そのカラクリを言い当てることは、仕掛けが複雑なので一言では説明つかない。若い人は純粋でその裏が見えないのだろう。騙すほうも、騙されるほうも、確実にいえるのは、その果てに「死」があるということである。極限を言うと、人類の滅亡、この世の終わりがある、ということである。

    悲観主義、虚無主義、あるいは反知性主義と人は呼ぶだろう。そもそも文明批評とは、世俗の常識や、国家権力や、公的な高い地位などから離れたところにあると考えている。夏目漱石がわずか38歳で帝大教授を辞して、文士になったのは、正解である。自由なくば辛辣な文明批評を書くはできまい。「吾輩は猫である」を書いたのは明治38年。日露戦争たけなわである。「三四郎」にはこんな下りがある。三四郎が「これから日本も段々と発展するでしょう」と言うと、広田先生は「亡びるね」といった。熊本でこんなことを口に出せば国賊扱いにされる。いまのご時世も大和民族の団結など国家主義が盛んになっている。国家やマスコミは信じないほうがよい。国賊になろう。

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花冷え

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   4月とはいっても、急に暖かくなるわけではなく、寒暖が交互にきながら、春になっていく。今日は寒い日だ。「花冷え」という言葉を思い出す。桜の咲く頃に寒さが戻って冷え込むことをいう。こうしたおだやかな心で季節の移ろいを感じていると、日常のありがたさを感じることがある。そして人間は自然の営みの中で生かされているということを改めて実感させられる。自然を征服したり、制御できると思っていたのは、科学者や政治家たちの驕りであろう。人間は魔法の杖を持っていないのだから。

2011年4月 2日 (土)

現代の蔵書家

    先日亡くなられた谷沢永一は蔵書10万冊以上あったそうだが、震災で多くを失ったと訃報記事にあった。個人の蔵書で10万冊という数字は半端なものではない。普通の公立図書館ぐらいはあると考えてよい。もちろん蔵書のレベルは公共図書館よりも遥かに高いものがあるだろう。林望、赤川次郎、筒井康隆、松岡正剛、荒俣宏、井上ひさし、阿刀田高などの著述家もみんな豊富な蔵書を持っておられる。フランス文学の鹿島茂が書いている。「日本でもそうだが、フランスでも、地方の美術館や博物館、あるいは記念館の類いに出掛けるときは、少し現金を多めに持っていくことにしている。買うのはもっぱらミュージアムの売店で売っている本である。それは、そうしたミュージアムでなければ手に入らなければならないような本があるからだ。佐賀県のミュージアムに行ったとき、私は大隈重信、江藤新平、副島種臣などの本を2万円ほど買い込んだ」とある。(鹿島茂「パリの本屋さん」)鹿島茂の書いたものを読むと羨ましいかぎりである。だが紙媒体の膨大なストックを誇る著述家はこれからは無くなるだろう。

有事の際の感情的言動は慎もう

    危険な状態が続く福島原発。国民の不安といらだちがつのるなか、東電への抗議やいやがらせが続発しているという。匿名性の高いネット・ユーザーも感情的な言動に走らぬように肝に銘じたい。「冷静な対応を」という政府が冷静かというとやはり異常な様子がみえる。31日、福島県天栄村産の牛から国の基準を超えるセシウムが検出されたと発表されたが、検査の誤りであることがわかった。不確定な検査結果を公表し、風評被害をあおることとなった国の責任は重い。「戦後最大の国家的危機」(外交青書)と叫ぶ菅直人が一番冷静ではないのだろ。

「新選組血風録」「江」ゆかりの高台寺

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    慶応3年3月、伊東甲子太郎、服部武雄、加納道之助、高山弥兵衛らは新選組から脱退した。彼らは、表向きは孝明天皇の御陵衛士と名乗っているが、その実は薩摩藩と通じて倒幕派に転じようとしていた。のち伊東は暗殺される。京都東山の高台寺塔頭の月真院を屯所としたので、高台寺党と呼ばれた。ここは秀吉の妻おねが、その菩提を弔うために徳川家康の援助によって建立した寺である。おね(本来の名前は「禰」の一字であり、おれにおがついて「おね」とよばれるようになった)はここで晩年、静かな余生を送ったとされる。NHKドラマ「新選組血風録」と「江」のゆかりの寺である。

2011年4月 1日 (金)

史記と漢書

  日本で史記に関する本と漢書に関する本の出版点数を比較したら圧倒的に史記が多い。項羽と劉邦との争乱、始皇帝、戦国の故事など史記には中国史の面白さが満載である。一方の漢書は西漢一代の断代史であり、膨大な列伝があるが、なじみが少ない。ところが実際に東洋史の研究家が漢代史を論文を書く際には、史書としての利用価値は漢書のほうが高い。これを説明すのは煩雑なので省くが、史記・漢書の優劣論はだいぶん古くから論じられていて、古代においては圧倒的に漢書が優位にある。史記は章帝の時代に楊終のために削除されている。東漢時代には130巻のうち10巻が欠落している。史記がいつごろ日本に伝来したかで、日本書紀に引用されているので6世紀ころだという説があるが怪しい。130巻のうち、「景帝紀」「武帝紀」など10巻が欠落していても、全編は大部であり、「千字文」をようやく読める程度の漢籍舶来事情で、当時の日本人が全編をスラスラ読んでいたとは考えにくい。書紀に引用したのは、類書による孫引きであろう。史記が中国の歴代正史の模範とされ、24史の筆頭に位置づけられたのは、文化・学術が隆盛した唐代に入ってからであろう。つまり日本に史記が伝来したのは8世紀前後と考えている。

苦しみと悲しみは駈け足でやってくる

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    楽しいことは、すぐに終わって、苦しみと悲しみが駈け足でやってきます。苦しみや悲しみは数が多いものだから、つづけざまに人間たちのところへやってきますが、楽しいことはゆっくりとやってきてすぐにいなくなってしまいます。これから増税や電気代など便乗値上げがやってきてわたしたちの生活をさらに苦しめます。経済界は「活性化のために消費しましょう」と宣伝を始めていますが、庶民は自己防衛のために節約して生き抜いていくしかありません。

お花見か、自粛か、それが問題だ

   あれから3週間。ドリームモーニング娘。の春の公演が中止となった。このような記事を書くとまた不謹慎、非国民と叱られそうな気配が漂う昨今の事情。西日本でも何となく節約、節電で縮こまって暮している。茂木健一郎の「私たちにできること」は平易なことばで簡潔にみんなに語りかけている。いつも通りにすればよいと。日本は過剰にルールを重視してきた。例外的なものを認めない。京都大学入試のカンニングなどの大騒動をあげている。そしていまは「希望」を口にするのは早すぎる。「お任せ民主主義」を改め、エネルギー問題を見つめなおさなければならない、と結んでいる。著名人のコメントでいちばん冷静で温かみのあるトークだと感じた。

国際基準か、国内基準か

    福島原発から約40キロ離れた避難対象区域外の飯舘村で、国際原子力機関(IAEA)が避難基準を超える放射性物質を検出した問題で、保安院は「日本側の避難基準には達していない。IAEAは参考程度」と会見した。日本と世界では測定方法にも違いがあるようだ。素人にはわからない問題だが、何やら不安がよぎる。IAEAはまるで満州事変のリットン調査団みたいだ。正式名称は「国際連盟日華紛争調査委員会報告書」。1931年9月18日、満州事変が勃発するや、中国は紛争の平和的解決を国際連盟に提訴し、事変を国際化した。報告書には「日本側の軍事行動は、正当なる自衛手段とは認めず、また満州国は純粋かつ自発的な独立運動によって出現したものとは考えることができない」とある。結局、国際連盟の世論は硬化し、松岡洋右日本代表は連盟を脱退した。日本独自の考えやものさしがいいのか、国際スタンダードに従うべきか、悩ましい問題である。ただし、IAEAは退避勧告を出すように指示したわけではなく、「もっとデータを集めるべきだ」と言っている。汚染水もいまは海に垂れ流ししているが、さらに原発事故が世界の環境悪化につながらないことを願っている。

帰り道は遠かった

    世の中には昨日で定年退職された方も多いだろう。今朝の目覚めは特別なものがあるだろう。長い間ごくろうさまでした。再就職されるかたもいるかもしれないが、これからはつつましく暮さなければ厳しいだろう。政府は復興税を検討している。詳しい内容はわからないが、「特別消費税」とあるので菅直人の持論の5%の税率に上乗せされることが想定される。低所得者にとって厳しい時代となる。福島原発は廃炉が決定的となったが、完全に処分できるまでには数十年かかるといわれる。原子力発電はやっかいなシロモノだった。これからの老後はどうしたらいいのか。「♪帰り道は遠かった。来た時よりも遠かった。灰が降ってたの~、お金がないのよ~それでいいの~いいの~」

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