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2011年3月 4日 (金)

大学は人生の関所なのか?

   入試問題ネット投稿事件は一学生の無思慮な行為であるが騒ぎすぎの感がある。学生は情状酌量してあげればよい。それよりも一連の報道で大学制度そのものへの疑問が生じてきた。いまの大学に教育理念があるのだろうか。日本の大学は入りにくく、出やすい。それに比して、外国では入りやすく卒業することは難しい、とはむかしから言われる。つまり日本の大学生はほとんど勉強しないで遊んでいるが、外国の学生は入ってから勉強する。今回の学生もおそらく真面目で勉強熱心で、日本の大学制度はまともなものならば教育を受ける権利があったであろう、と思う。競争原理を過熱すれば、社会にひずみがでる。韓国や日本で入試に不正がでるというのは、根本のところで社会制度に矛盾が存在するからである。学歴偏重社会は依然として存在する。現代の日本の大学はいまだにエリートコースの通行手形を発行する関所のようなところになっている。そのような批判を大学関係者からの声がでないほど日本はダメになっている。

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コメント

日本人のことについて、もっとよく学ぼう。日本語しか知らない人は、日本についてもよく知らない。


言語は、考えるための道具である。言語が違えば、考え方も異なる。

日本人は、本当に礼儀正しいのか。
我々の礼儀作法は、序列差法である。序列なきところに礼儀なし。
日本語には階称 (言葉遣い) がある。
言葉遣いの意味を身振りで表わせば、序列差法になる。

日本人は、なぜ察し (勝手な解釈) を使うのか。
意思は、未来時制の内容である。
日本語には、時制がない。だから、未来時制もない。
日本人には、意思がない。
それで、勝手な解釈を利用する。

日本人には、恣意 (私意・我儘・身勝手) がある。
恣意は、文章に表わせない。アニマル・子供に共通である。
恣意は、相手により察しにより文章化される。
本人には、その内容に責任がないが、それは本人の意向とされることが多い。

日本語には階称 (言葉遣い) があるので、日本人は序列人間 (縦社会の人間) になる。
義理 (序列関係) がすたれば、この世は闇だ。
意思はなくても、恣意があるので、アニマル風に行動する。

意思のない日本人は、天の声により行動が定まる。自分自身で考える力はない。
問題を解決する能力はないが、事態を台無しにする力は持っている。
だから、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍ぶ必要に迫られることになる。
これは、昔からある浪花節でしょうね。

http://www11.ocn.ne.jp/~noga1213/
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/terasima/diary/200812

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