April Twilight
春になると、日照時間が長くなる。高緯度のイギリスでは夜も8時、9時ごろまで薄明がつづき星のまたたく夕空には光がうっすらと遅くまで残っている。わが国では「春の晩飯後三里」という諺がある。夕食をすませてからあまり暗くならないうちに12キロほど歩けるということらしい。
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春になると、日照時間が長くなる。高緯度のイギリスでは夜も8時、9時ごろまで薄明がつづき星のまたたく夕空には光がうっすらと遅くまで残っている。わが国では「春の晩飯後三里」という諺がある。夕食をすませてからあまり暗くならないうちに12キロほど歩けるということらしい。
俳優や政治家などの著名人は自意識が過剰で自分は偉大で自分の名前は永遠に人々に知られると思っている。しかしどんなに人気者でも100年経つと大概は忘れられる。「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助(1875-1926)は生涯に1000本以上の主演映画があったといわれるが、彼の写真を見て知る人は意外と少ない。不滅のスターとまではいかない。ましてや田原俊彦のように「俺ってビッグ」というスターは凋落も早かった。作家や芸術家などは自らを偉大な歴史に残る作家と意識しているのだろうか。たとえばゴッホやロートレックの作品などをみると、自己の歴史的な位置づけなどよりも、もっと純粋な芸術への表現があるように感じられる。つまり作家にしろ、画家にしろ、むしろ周囲の雑音は創作上邪魔である。ノーベル賞を受賞した後、多くの作家はスランプになって書けなくなるという話をきくことがある。周囲が「ノーベル賞だ」「郷土の作家だ」と勝手に騒ぐのは迷惑な話だ。歴史に残る偉大な人というのは私欲のない人が多い。関羽、菅原道真、吉田松陰、乃木希典、東郷平八郎、みんな自分が神になるなど思っていなかっただろう。昭和の人物は存命中から名声を得て、高収入を保障されているが、みんな自身の芸術的才能をすべて発揮できず、可哀そうな人たちである。
日本では明治29年に発電が始まったが、その際に東京電灯(東京電力の前身)がドイツ製の50ヘルツの発電器を導入した。ところが、翌年、大阪電灯(関西電力の前身)が入れたのは、アメリカ製の60ヘルツのものだった。104年後、原発事故で大問題になろうとは・・・トホホ。電気事業はライバルがいないので殿様商売といわれる。ずるずるとほったらかしにしていたら、家電製品がいろいろ出てから「しまった!」と気づいたがもう遅かった。統一はこれからも難しいだろう。
「棺を蓋いて事定まる」(蓋棺事定)とは好く言ったものである。人間は死んで棺桶に入れられて蓋をしたあとで、はじめてその人の生前にしたことの真の価値がわかるということであろう。だが今の世の中、何事にもスピードアップの時代らしく、活躍中の人物がメディアで賞賛されることが多い。とくに性急な性分の日本人は海外で有名になれば国内の評価は絶大に上がる。古くは、野口英世、湯川秀樹、黒澤明、王貞治。近年では小沢征爾、坂本龍一、宮崎駿、イチロー、村上春樹、渡辺謙など。このほか安藤忠雄、蜷川幸雄、吉永小百合なども業績を超える過分な評価をえる人と感ずる。かつて田中角栄は平民宰相として国民に絶大な人気があった。それにあやかって自分の子供に同名をつけた両親が「ロッキード事件以来、学校などで友だちからいじめられるのがいわいそう」と改名を申し立てた話がのこる。京都大学の矢野暢は吉野作造賞を受賞した研究者だったが、セクハラ事件で非業の死を遂げた。タイガー・ウッズなどもアメリカ国内で絶大な声望をえたが、ある不品行で失墜してしまった。小室哲哉、槇原敬之、酒井法子などにも蹉跌があった。もちろん責めているのではない。むしろ人間であれば人生いろいろな事があるのは当然であると想定すべきだ。「棺を蓋いて事定まる」とは賢者の言葉である。存命の人物に過度な評価を与えることはよくない。
桜の開花宣言ももうすぐ。兵庫県や神戸市では、東日本大震災を支援するため11月20日に「第1回神戸マラソン」を開催するという。楽天の星野仙一はオールスターを仙台のKスタ宮城で実施することを提案している。ノーベル賞作家・大江健三郎はルモンド紙のインタビューで福島原発事故にふれて「広島の犠牲者の記憶への最悪の裏切り」と語っている。各界、各人のポジション取りの上手さに呆れる。日本人は同じことを繰り返している。軍国ファシズムが崩壊したあと、うわべだけの民主主義をつくり、アメリカ追従政策をした。経済優先で原子力平和利用が欺瞞であると知らされて、反原発の被害者面するものが急増する。天皇制温存も日の丸、君が代も戦前回帰のすべてがアナクロニズムだ。戦後左翼も原発容認の罪から逸がれることはできまい。神州日本を荒廃させた責任は東電だけではなく、戦後の全日本人の責任だろう。
福島原発、放水口付近の海水から3355倍のヨウ素検出というニュース。連日トップで福島原発の事故と放射能の封じ込め作戦が報道されるが、もとよりすべてを正確に理解できるはずもない。いつか収束して廃炉になっても生涯、福島原発に行くことはないだろう。たしかに日本国内で今、現在進行形であり、最も重要なスポットであることは事実なのだが、対策本部もメディアも国民もすべてが、現実感の希薄なバーチャルな世界にいるようで不気味である。好むと好まざるとかかかわらず、21世紀に住むわれわれはバーチャルな世界と現実の世界とを混同させられている。10年くらい前にテライユキという名の美人がテレビコマーシャルに登場して話題になった。たいがいの人は、もう人は忘れたかもしれない。なぜかユキと放射能はよく似合うような気がする。
田宮虎彦は高知には何度も帰省していたが、実際には小説「足摺岬」を書くまで一度も現地へ行ったことはなかった。足摺岬は自殺の名所として知られていたので、小説の舞台に一番ふさわしいと考えたのであろう。田宮が足摺岬を訪れたのは小説を書いてからだいぶんあとのことである。しかし足摺岬には田宮虎彦の文学碑があるし、文学のふるさとの地として認めることは首肯できる。これとは反対に、村上春樹の小説には阪神間と思われる風物が甲山はじめ多く登場するが、具体的な地名が記されていない以上、あくまで想像上の世界であり、ふるさと文学の対象としてみることは、学問上のことではなく、好事家の趣味の領域であると考えられる。
NHK大河ドラマ「江」。茶々(のちの淀君 1567-1615)、初、江は敵方の豊臣秀吉に保護されることとなる。茶々にとっては、秀吉は、お市の方、浅井長政、義父の柴田勝家を殺した男で、もっとも憎むべき相手。だが歴史の運命は皮肉にも秀吉の側室になることを余儀なくされる。これからドラマはどのように描かれるのか。長男鶴松や次男秀頼は、秀吉の本当の子どもであろうか。秀吉の実子ではないという説は古くはルイス・フロイスから江戸時代も広く風説として流布している。300人といわれた妻妾がいたが、だれとの間にも子を作れず、ただ一人、淀君だけ、しかも二度も産ませたというのは不自然であろう。では本当の父親はだれであろうか。石田三成(1560-1600)、あるいは大野治長(1569-1615)という説がある。秀吉の死後、二人は淀君に重用されているので、男女の仲があったとしても不思議はない。ドラマはどのように描かれているのであろうか。
関西では桜のつぼみもふくらみはじめた。これから花見のシーズン。自治体では「さくらまつり」のイベントのシーズン。開催するところと中止するところがある。賛否両論あるが、やはり安否不明の方が18000人を超えていることを思うとお花見どころではないだろう。
阪神大震災で死者5000人を超えたのは、地震発生から1週間後のことで、死者5051人、安否不明106人だった。2週間後には、死者5096人、安否不明13人と、ほぼ収束している。ところが東北大震災では、2週間後も死者9811人、安否不明19806人、地震発生から17日後でも、死者11004人、安否不明18687人である。依然として安否不明者が多いことに暗澹たる思いがつのる。
世界史上、国難は数々ある。しかし厳選すれば三つくらいにしぼることもできる。一つ目はギリシアとペルシアとの戦い。紀元前480年、ギリシアはサラミスの海戦でペルシアの大軍を破ったことは大きな局面だった。二つ目は、1588年、あのスペインの無敵艦隊に勝利したイギリスのエリザベス女王であろう。三つ目はヒトラーを破ったこと。1943年、ソ連のスターリングラード攻防戦や1944年の連合軍の史上最大の作戦であろう。そして、いま日本が戦おうとしているのは、目に見えない敵、放射能である。史上最大作戦以上に難敵である。しかし日本側には悪条件が揃いすぎている。無能な指導者、我欲の国民、愚劣な常識、固定観念、世俗的な配慮。すべては放射能を封じ込める作戦にベクトルが向いていない。このままでは2012年には酷い結末をみることになるだろう。
テレビで千昌夫が「北国の春」を歌っている。やはり東日本大震災のことを思わないではいられない。今回の報道では固定した言い回しが耳につく。「人体に影響なし」「冷静な対応を」そして「風評被害」である。関東大震災の「流言蜚語」と東北大震災の「風評被害」とはどう異なるのか。どうやら風評被害のほうがより経済的な売上げ減という要素が強く含まれる感じである。専門的な知識が求められる原発事故の場合、より正確であることは大切である。しかし政府は当初、被害は建屋だけで「内部は損傷ない」としていたが、会見の度に被害の程度は大きくなっていった。また放水作業によってタービン建屋にも高濃度の汚染水を広げる結果をまねいた。海水を放水したことも失敗だった。すべて対応には重大なミスを連発している。菅の指示の下で事態が収束するとは思えない。それを言えば「風評被害をあおる」と非難されるであろう。いまの日本人は愚劣な常識にとらわれており、決定力が不足しているとしか思われない。北国の春はまだ遠い。
オノ・ヨーコ、坂本龍一らがニューヨークで復興支援ライブ。SMAPが4億円超の義援金。毎日のように有名人の復興支援のニュース。その影で新聞の片隅の記事。福島県大熊町で男性の遺体。放射線量が大量のため収容作業ができずに放置。福島県富岡町の女性(62)が避難先の新潟県田上町鳶ヶ先の林道で凍死。福島キャベツ農家の男性(64)が首吊り自殺。みんな名前がないが自分と同時代に生きた人である。合掌。プルトニウム239は本当に安全か。人体に影響がないのか。半減期は約2万4千年。放射量は累積されるのではないか。日本の専門家は口をそろえて「安全です」と言う。ところが海外では事情が違うようだ。ドイツではメルケルの連立与党が敗北した。フランスでもサルコジを支持した与党が県議選で敗北している。敗因は福島原発の大事故が影響しているという。しかし被ばく国である日本は、原発批判することは「風評被害をまねく」としてタブー視される。28日の日本経団連での話。「メディアで不安をかき立てている。二酸化炭素の排出量を考えると原子力を避けて通ことはできない」と。野党の自民党も「民主党の七つの大罪」を封印して、原発政策のもみ消しに躍起だ。つまり日本は国ではなくて、全体が村であり、村であったことを口外することが禁じられ、世界に被害が少ないことをアピールするねらいがある。だがいまだ18687人の安否不明者がいる。このうちのかなりの人が遺体となっても放置されたままである。もの言えず被災して亡くなった人はどのような思いだろうか。日本人は好むと好まざるとにかかわらず、放射能で汚染された国土でこの先何十年間も風雪の日々をすごさねばならない。世界で反原発が起こるなかで、日本が原発容認の考えが支配的であるのが異常である。
福島原発。高濃度汚染水、海へ大量放出。土壌からプルトニウム検出。ルーキー新一は警告する「これはエライ事ですよ!」
「人体に影響なし。さわぐな!風評被害を煽るな!」と言われる御仁も世の中に多かろう。日本人が放射能汚染にほんとうに危機感をもったのは、第五福竜丸事件のときだった。黒澤明は「ゴジラ」や「生きものの記録」を創った。しかし著名人は成功をおさめると次第に保守化、劣化する。宮崎駿の本日のコメントを読むかぎりでは、「風の谷のナウシカ」のころに比べると著しく保守化している。野田秀樹も同類だ。総じて存命の人物に過大な評価を与えることは、芸術的には堕落、腐敗、劣化をまねく。世俗的な名声は人を蝕む心中の敵である。「天に富を積みなさい。地上に宝を積むなら色あせ、価値はなくなる」
アエラの表紙が「風評被害を煽る」という理由で編集長が謝罪した。野田秀樹が連載を降りるという。これもパフォーマンスか。編集長がこれくらいの抗議で謝るようでは弁護する気にもなれない。どちらも呆れたものだ。政府やテレビの「安全です」を信じている人たちが非難しているのだろう。しかし何でもかんでも「風評被害を煽る」という理由で言論や表現の自由を奪うならば、それは全体主義だ。ある種の思想統制がつよくなっている。ファシズムのヒトラーユーゲントのようなものが強くなっている。ネットでも国家権力に抵抗する人を集団で攻撃する勢力が強くなっている。すでに歪んだ社会がみえてくる。フジテレビで震災報道でスタッフの下品な会話が漏れた問題でも、あやふやにしている。日本の社会で支配層の勢力を守ろうとするものである。平等よりも体制の維持を図ろうとする人が多くいるのだ。保守化現象は国家の衰退を加速させる。ゲリラ戦法で戦うしかない。むかし一休が髑髏をかかげて京の都を「ご用心召され」と正月に歩いた。これは「風評被害を助長する」ルーツか。
日本は地震の多いところですが、自民党が全国各地に原子力発電所をつくりました。国民は「チェルノブイリやスリーマイルみたいに事故が起こったらあぶない」と言いました。国や企業は時代劇スターや野球選手など人気者にたくさんの金をあげて、「原子力は二酸化炭素を出さないから環境にやさしくて安全だよ」とウソのことをいわせました。ところが、ある日、大きな地震が東北に起こってフクシマ原子力発電所がこわれてしまいました。でも政府は、国民には「建物がこわれただけで、圧力容器は大丈夫だよ」と本当のことをいいませんでした。放射能の数値も次第に多くなっても「微量だから人体に影響はないよ」と言いました。でも故障をなおすために防護服を着て原子炉に入った人が、被ばくして退散しました。「それはお気の毒に。ほんとは圧力容器が少しだけ穴があいて、そこからもれているんです。でも全部がこわれているのでないから、少しだけ漏れているだけだよ」と政府は少しづつばらしてきました。菅総理はこれからどうしたらよいか、専門家を集めて相談しました。けれどもなかなかうまい考えが出てきません。すると、若い人が、「すばらしい考えがあります」と言いました。「それは、どんな考えですか」「すぐに話してください」「だれか一人が原子炉に入って、こわれたところをなおすんです」菅総理も「それはすばらしい考えだ」と言いました。
それを聞いたみんなも「さっそく、それを実行しよう」「それがいい」「賛成、賛成」「パチパチ」民主党の大臣たちも喜びました。
みんなが喜ぶのをじっと見ていた東電の社長が、「それはまことによい考えです。だが、だれが死ぬとわかっている原子炉の中に入って作業するんです。入れるかたがいたら、さあ、すぐにやってください」と言いました。政治家たちは、みんな首をすくめて、小さくなっていました。そしてとうとう日本人はみんな被ばくしてしまい、一人も地球上にいなくなりました。
旧雄勝町は太平洋に面したリアス式の漁村。この度の東北関東大震災では大きな津波被害を受けた。北に名振湾、南に雄勝湾を擁し、半島中央に石峰山、東に小富士山がある。近世は桃生郡南方大肝人の支配下にあり、町域の村12村と現河北町の釜谷浜、長面浜、尾崎浜の3村を総称して十五浜とよばれた。明治23年、町村制施行により、十五浜村が成立。昭和16年改称、町制施行され雄勝町となった。平成の大合併の平成17年、石巻市と雄勝町を含む6町が合併し、新石巻市の一部となった。生活の糧だった漁業は、津波で破壊された。「高知なら、船に乗ってすぐ稼げるかも」避難している漁民たちのあいだにはこんな話が広がっている。
東北関東大震災で被災した住民に対して、著名人の募金活動やチャリティーが活発だ。巨人はオープン戦の収益金3000万円を寄付。レッドソックス松坂大輔、岡島秀樹がオープン戦に義援金を集める募金活動をした。その後、松坂は8100万円寄付。宮崎へ1000万円寄付したばかりのイチローは1億円の寄付。宇多田ヒカルは8000万円、安室奈美恵は5000万円。AKB48は義援金を送る口座を開設し、5億円を寄付。EXILEも義援金と飲料水5万本を寄付。国生さゆりも宝くじで当てた100万円を寄付。藤原紀香も自身のサイトで募金を呼びかけている。白鵬は被災地へカップラーメンを。ゴルフの宮里藍、上田桃子、宮里美香も募金活動を始めた。相撲協会は5000万円、キャスターでおなじみの久米宏は2億円の寄付をした。SMAPは4億円以上といわれる。杉良太郎は車両12台で救援キャラバン。孫正義100億円!エライ!
海外ではガガやベッカム、そして韓流スターの募金も活発。ペ・ヨンジュンからは義援金10億ウォン(約7300万円)、イ・ビョンホン7億ウォン、チェ・ジウ2億ウォン、リュ・シュウォン2億ウォン、キム・テヒ1億ウォンの申し出があった。「スポーツ選手や芸能人は社会的な影響力があり、義援金を集めたり、自分たちの活動を通じて被災地の人々や国民に勇気を与えることができる。今私たちが団結して努力しなければならない」と中田英寿は語る。世界で活躍する俳優・渡辺謙はメッセージサイトを開設し「雨ニモマケズ」を朗読し励ましている。
だが聖書にはこう記されている。「義人はいない、ひとりもいない」(ロマ3-10)
ちょっと前の事件だがテレビの生番組で司会の田原総一朗が四宮正貴にむかって「きみ、聖徳太子を知っているか?」と偉そうに問いかけた。すると四宮はスゴイ形相で激怒した。田原は落ち着いた調子で「聖徳太子とはね、和の精神でね」とペラペラと誰もが知っているようなことを話しだす。ハタ坊やバカボンのパパに似た顔の田原が喋るからなお効果的だ。怒った四宮は田原のディベート戦術に嵌められた。興奮したほうが負けは誰の目にも明らかだった。
うまい。聖徳太子というもっとも日本人が知っていて、いかさまくさい話がにくいほど上手い。本当は歴史上では聖徳太子の存在などはウソであることはほぼ決着している。通俗書もででいる。大山誠一、谷沢永一なども「聖徳太子はいなかった」としている。戦前の津田左右吉以来、懐疑的な学者はいた。だが日常的な会話で聖徳太子を否定することは慎んだほうがいいだろう。一般国民は教科書的な知識をいまだに持っているので聖徳太子の存在は消えることはないだろう。「聖徳太子を知っているか?」という当たり前の問いかけは、右翼的な学者に対して、さらに効果が増幅するようだ。
2号機建屋で通常の約1000万倍という高い濃度の放射性物質が検出されたという。東電の会見でも「原因はわからない」という。また東京大学の関村直人教授は「ただちに人体に影響があるということではない」と言っている。しかし政府はいつまで東電に任せておくのだろうか。ここままの放水で収束するのか。国民は黙って高校野球を見ておけばよいのか。
ドイツのベルリンやミュンヘン、ハンブルク、ケルンの各都市では大規模な反原発デモが一斉に行われている。日本では安保以来、半世紀以上、大規模なデモが行われたことはない。もちろん沖縄や広島、長崎などで整然とした集会はあるが、いわゆる全国各地から無党派の若者が集う国民的統一行動といったものは無い。ケペルも春闘や統一ストライキに参加したことはあるが、割休闘争で弁当や交通費をもらって参加したものだ。機動隊の放水を浴びたことはない。いつごろから若者が怒らなくなったのか。いまテレビで公共広告機構が盛んにメッセージを流しているが、あれは華美なCMをさけるためかと考えたが、実は政府が災害時の暴動を抑えるためのものであった。たぶん日本では原発反対のデモも整然とした大人しいものになるだろう。むしろ原子力発電所がイスラム過激派のテロのターゲットになったらどうするのだろう。警備は万全か。おそらく無防備だろう。テロの攻撃を受けて放射能が漏れても、また「想定外です」という一言で国民は納得するのだろう。不安で眠れず深夜テレビをつけると田原総一朗の司会で討論番組「朝まで生テレビ」。堀江貴文や勝間和代が原発事故や計画停電など議論していたが、この番組そのものが電力の無駄、無意味なので途中で寝る。日本国民はおとなしい臆病なウサギである。未曾有の国難に際しても、これほど何もしない政府、国民は世界史上稀れであろう。
図書館の児童室には必ず偉人の伝記がすらりと並んでいる。親が子どもに読ませたい本になかには、野口英世やヘレン・ケラーなどの伝記が多い。その本を読まずとも何となくよさげに思うのだろうか。文学作品や絵本で親がむかし読んで感動したから子どもに奨めるのは、わからぬでもないが伝記に関してはどうも??という感じがする。子ども向けの伝記についての評価、あるいは効果には、懐疑的である。
朝日新聞beランキング。いつものようにイージーな企画である。「感動した偉人の伝記」野口英世、ヘレン・ケラー、マリー・キュリー、トーマス・エジソン、アンネ・フランク、坂本龍馬、ナイチン・ゲール、マザー・テレサ、伊能忠敬、ガンジー、シュバイツァー、織田信長、アインシュタイン、ダヴィンチ、徳川家康、ガリレオ・ガリレイ、ベートーベン、豊臣秀吉、リンカーン、宮沢賢治と続く。政治家は米大統領リンカーン一人。ちなみに近年は「リンカン」と表記するのが一般的だ。ドリス・カーンズの近著も「リンカン」である。戦後、子ども向き伝記から消えた偉人は誰か。源義経、二宮尊徳、楠木正成、児島高徳、高山彦九郎、吉田松陰、乃木希典、東郷平八郎、広瀬武夫など。ナポレオンやコロンブスなどは伝記では一番面白いとおもうのだが。これからは世界的視野が必要なので、以下の人物の伝記は重要と思う。スペインのドミニコ修道会宣教師ラス・カサス、トルコの指導者ケマル・アタチュルク、プロイセンのフリードリッヒ2世(大王)、ロシア皇帝ピョートル1世(大帝)、徳川吉宗、ドイツのビスマルク、マレーシアのマハティール。アメリカ外交官が沖縄を侮蔑したり、日本の首相が「許し難い暴挙」と発言したり、節度ない政治家が多いが、まず世界史を知ることが相互理解につながると思うのだが。
NHK大河ドラマ「江」。浅井三姉妹とイギリスの劇作家シェークスピアはほぼ同時代。1583年、賤ヶ岳の戦いに敗れて、茶々、初、江の3人は豊臣秀吉の庇護を受けることになった。その前年、シェークスピアは8歳年上のアン・ハサウェーと結婚している。江が16歳で尾張大野城主佐治与九郎一成と結婚した同年1586年にシェークスピアはストラトフォードからロンドンに出た。淀君が鶴松を生んだころ、シェークスピアは、役者、または新進の劇作家として修行中であったらしいが、確かなことは知られていない。淀君が秀頼を生んだ1593年の前年には、シェークスピアはロバート・グリーンから「成り上がり者」と呼ばれるほどに成功している。
東北関東大震災から2週間余りが経つ。被災地では約24万人の方々がなおきびしい寒さの中で避難所暮らしをしいられている。なかでも灯油、軽油、ガソリンの不足は深刻だ。ガソリンがなくては車も動かない。道路はいまだ復旧せず復興のさまたげとなっている。そんななか廃線候補といわれてきたローカル線の存在がにわかに注目されてきた。狩人の歌にもある新潟と郡山を結ぶ磐越西線だ。ここから160kmの福島へ物資を大量輸送することが可能になる。旧式のディーゼル機関車でベテラン機関士の斉藤勉に白羽の矢があたる。難所の峠を越えて予定より3時間遅れて現地に到着。ガソリン、灯油はタンクローリー30台分にあたる。このように非常時はいままで見捨てられていた古いものが役立つことがある。大阪の伊丹空港なども関西からの緊急物資輸送の空からの拠点基地として大活躍している。「出張で伊丹空港使えば懲戒処分」と言明した橋下知事の言うことを聞かなくてよかったと思う。
2011年ついに原発事故は起ってしまったにもかかわらず、なんら有効な措置をせずに、放置していたため、汚染はさらに拡大していく。空は汚染され、土壌は蝕まれ、海水の汚染もさらに深刻となっていった。水や牛乳を飲むこともできず、作物は食べることができず、海草類や魚介類も食うことはできなかった。餓死者は人口の半数を超え、産業は衰退し、国土は疲弊した。外出するときは防毒服とマスク、雨の日は屋内退避をする。節電のためテレビ・ラジオ・インターネットの使用は法律で禁じられた。自由な発言もできず、菅政権は長期にわたって国民を支配するところとなった。そして悪徳の栄えるこの国ではさらなる悲劇が次々に起った。地震の活動が活発化し、全国の原発が福島と同様の放射能汚染を引き起こしていく。ついに日本は国際社会から除名され、その結果として、日本列島すべてをコンクリートで強制的に埋められてしまう。日本民族も日本列島も永久に地上から抹殺された。
東日本大震災は地震、火事、津波が重なった未曾有の国難であった。さらに原発事故による放射能漏れという世界史的事件を引き起こしている。しかし政府は国際的な信用を失うことをおそれるあまり、被害の安全性を国民に説き続け、さらに被害の拡大を広めてしまった。後手後手となる政府の無策はついにレベル6になり、放射能被害は長期化することとなっている。この時点となっていても、菅首相は「危機を脱する光明が見えてきた」と言っている。東日本大震災は政府の無策による人災といえる。御用学者、メディアの責任も大きい。
学者は原発推進派や物理学者などの自然科学者はもちろんであるが、歴史などの人文系学者の責任も大きい。自然災害の大きいわが国の歴史にあって過去の被害から教訓を学ぼうとしてこなかった。宝永の富士山の噴火では、大御神村の名主六佐衛門は、「この世の終りと観念し、髪をそり、怒る富士を前にして寺僧の引導をうけた」とある。高校日本史には貞観地震(869年)の記述がない。高校世界史もほとんど災害に関する記述はない。1775年のリスボン大地震や1883年の津波による甚大な被害をもちらしたクラカトアの大噴火の記述すらない。学者は危機にあっては警鐘乱打せよ。幕末の佐久間象山をみならうべし。なぜ昔の学者にできていまの学者にできないのか。それはお金をもらって魂を売っている人だからだ。背広、ネクタイの姿でマンション暮らしでは真理は見えない。樽の中で生活してこそ真理がわかるのだ。
プロ野球は4月12日にセパ同時開幕に決定した。注目は楽天。「仙台のみなさん、星野仙一です。僕の名前仙一、仙台楽天が一番、なんだか運命のようなものを感じます」と言っていた。岩隈が残留し、松井、岩村の大リーガーが加入し、期待感はある。闘将星野は燃えるか。青葉城恋唄のさとう宗幸は地震発生時、ミヤギテレビの番組出演のため、車で局に向かっている途中だった。「62年の人生の中で、あれほどの恐怖を味わったことはなかった」と語る。
「ミカンが実る頃」の歌手、藍美代子は仙台でジャズシンガーとして活動していると聞いたが、大丈夫だろうか。
仙台に関わりのある著名な女性ほかにも多くいる。はたして仙台の女神なのか疫病神なのか。仙台にすむ「サラダ記念日」の歌人、俵万智は地震発生時、東京にいた。「リツイート我もするなり ツイッターは言葉のバケツリレーと思う」と詠んでいる。27日の「子ども読書フォーラム」は中止(延期?)になってしまったのだろうか。卓球の福原愛は仙台生まれ。3月2日に初代の仙台観光アンバサダーに就任するや、大震災が起った。もちろん愛ちゃんの責任ではないが、胸中複雑なものがあるだろう。
福原愛や俵万智などを観光PRに使う手腕は女性市長・奥山恵美子の女性ならではの発想だが、これからは厳しい財政事情のなかでどう震災復興を成し遂げるのか女性市長の行政手腕が問われる。
だがやはり仙台には「幸運を呼ぶ福の神」仙台四郎がいる。伊集院静も地方紙に小説「青葉と天使」を連載中だ。神は妬むという。タレントよりも地元の神様を大事にしなければいけない。
いつもNHKしか見ない者にはわからない話。民放では震災期間中、ACの子宮頸がん啓発キャンペーンCMが繰り返し放送された。そのため耳にタコができた視聴者から、仁科亜希子と仁美親子にクレームが殺到したというのだ。おバカな話だ。それならなぜオシムや金子みすずに抗議しない。(金子は無理か)二人が別嬪さんだから女の僻みじゃないのか。悪いのは菅直人だろう。国民には「健康被害はない」と言いつつ、出荷停止、摂取制限、摂水制限、無計画停電とライフラインを寸断していく。仮免首相と自ら言いつつ、絶対絶命のピンチを災害で命拾いして、「復興内閣」として延命をもくろむ。「過ちを改むるにはばかることなかれ」まずは国の原発政策の誤りを国民に謝罪してからスタートがはじまる。それでなければ国民の信用が得られないだろう。
いよいよ水道水の摂取制限、作物の出荷制限という非常事態となった。セシウム137の半減期は約30年間にわたるので土壌に放射性物質が長期的に残留することが懸念される。むかし広瀬隆の「ジョン・ウェインはなぜ死んだか」という本があったが、西部劇スターの彼は放射能汚染されたロケ地の荒野に長くいたことが病気の原因だというのである。つまり関東に長期滞在するとがんになるリスクは高い。だがいまの御用メディアでは報道されることはないだろう。むしろ言論を封じ込めるムードがある。「天の恵み」と発言した議員が抗議により、自民党公認を取り消しされたが、内容の是非はともかく、議員が自由に発言できなくなれば、耳あたりのよい意見だけが採用される。学者や官僚はポストを守るため思い切った提言ができない。スローガン「がんばろう!日本」と百万回叫んでも何の役に立たない。パフォーマンスは芸能人に任せておこう。具体的な対応策を政治家が考え、実行してほしいときだが、東京では冷静に思考することすらままならぬ。むしろ関西にいるほうが展望がみえている。放射線量は距離ではなく、風向きや地形による影響が大きく、東京都心でも安心ではない。だが風向きを常に気にして、水も安心して飲めないようなところで日本の首都機能が発揮できるのだろうか。海外の政府要人との交渉も難しい。真剣に首都機能を大阪に移すことを検討せよ。国事行為のある天皇は京都の御所に遷移されるのがよい。いまの皇居は防災公園として活用すべし。伊丹空港は存続すべし。原発依存を改め太陽光発電、バイオマス発電などの設備を早急に着手せよ。やるべきことは山積している。非常時は「万機公論に決すべし」である。
2日前から3号機に黒い煙が見られる。「火のないところに煙はない」という諺があるが、必ず原因があるはずだ。会見では「原因はわからない」と。珍妙な返事だ。現場は放射線濃度が高くてとても近づけないのだろう。それほど事態は深刻になってきている。今日も東京23区は乳児に水道水を飲ませないことが通知された。これまで「問題ない」と言いつづけてきたが、被爆リスクを隠蔽したことが明らかになった。200km離れていても、風向きや地形で変化する。菅直人の11日の国民へのメッセージは「原子力施設につきましては、一部の原子力発電所が自動停止いたしましたが、これまでのところ、外部への放射能性物質などの影響は確認されておりません」として、落ち着いて行動するようにと呼びかけていた。あれから11日。事態はますます悪化していく。官房長官や保安院の会見が毎日ダラダラ繰り替えされているが、原子炉をコンクリートで固めるとか、具体的な方法を検討すべきだろう。
ところで菅の姿をここ4日間は見ない。きっと自分だけ放射能のない別な安全地帯へ避難しているのだろう。
小説や映画の舞台は観光地として賑わう。古くは尾崎紅葉「金色夜叉」の熱海の海岸。「北の国から」の富良野、寅さんの葛飾柴又、「夢千代日記」の湯村温泉。NHKテレビ小説や大河ドラマ。流行歌のご当地ソング。だが最近は作家があえて特定の土地や時代を明記していないものもある。宮崎駿の「崖の上のポニョ」は福山市鞆の浦がモデルと噂されるが、宮崎は言いたがらないそうだ。村上春樹の小説の舞台も作品中には明記されないものが多い。阪神間の若手の大学の研究者たちの間では、推測で文学の舞台を特定することがブームのように流行しているが、村上自身はそれらを否定している。文学の研究や観賞でそのような「勝手に観光協会」的な行動が正当なものであるかは疑問が多い。しかし自治体では税金を投入して作家の意向に反して、「勝手に観光協会」キャンペーンを実施している。知性の欠けた文化行政といわれても仕方ないことである。
YOUTUBEで曲名から検索すると、多くの歌手がカバーして聞き比べする楽しみがある。1980年ころになると、日本の曲を台湾の歌手がカバーしている。張南雁、黄思雯らは「風中暖流」(原曲「まちぶせ」)、「朋友再見(原曲「思い出のセレナーデ」)、「回頭仍未晩」(原曲「右向け右」)、そしてテレサ・テンは「何日君再来」「夜来香」「グッド・マイラブ」「幾度花落時」(原曲「南の花嫁さん」)など多数歌っている。台湾へ行って古い日本の歌謡曲を歌ったら案外と知っている人がいるかもしれないのだ。最近は徳永英明や中森明菜という大物アーティストもカバー曲をたくさん歌っている。基本的にはオリジナルが一番だと思うが、なかにはオリジナルを超えたカバーの名曲もある。古いところでは、フランク永井「君恋し」、村田英雄「人生劇場」、榎本美佐江「十三夜」など。井上ひろし「雨に咲く花」、ちあきなおみ「黄昏のビギン」、石川ひとみ「まちぶせ」、柏原芳恵「ハローグッバイ」もカバーの名曲だ。最近では島谷ひとみがヴィレッジ・シンガーズの「亜麻色の乙女」をヒットさせた。
互いの勢力が接近していて、議論を戦わすことは、平時ならばよいだろう。しかし、約26万人もの避難者がいて、明日の希望すら持てないときに、社会のリーダーたちが分裂していることは、国民生活に悲惨な結果をもたらすだろう。
事実関係を明らかにされない報道が続く。海江田経済産業相が東京消防庁に「私の発言で消防の方が不快な思いをされたとすれば、申し訳なく思っており、おわび申し上げる」と陳謝したという。原発の放水をめぐって、「速やかにやらなければ処分する」と海江田が言ったため、石原慎太郎が菅直人に抗議したという。背景には民主党と自民党との対立があるため、詳細な説明を避けたらしい。セ・リーグの公式戦日程問題も政治が絡んでいる。蓮舫節電啓発担当相が加藤コミッショナーにセパ同時開催を要請している。セ・リーグでは29日と決定しているので、譲らない状況である。巨人・自民党と政府・民主党との争いがここでも見え隠れする。朝日新聞は民主党贔屓なので、コミッショナー批判を展開している。東京発進の情報は、あまりに見苦しい話がこれでもかこれでもかと続く。地方の苦しみは東京人にはわからないのだろう。
今日10時ごろ、気仙沼信用金庫から約4千万円が盗まれていると警察に届けがあった。今どさくさにまぎれて盗みをする火事場泥棒が横行している。地震、津波、火事と3つの災害が重なった気仙沼を狙った酷い犯罪である。気仙沼は過去何度か大きな被害に見舞われた町である。明治29年の津波では512人、昭和8年の三陸津波では180余人の死者を出している。そして今回の地震で490人の死亡が確認されている。(22日まで)天然の良港で江戸時代から繁栄していた。古河古松軒は天明8年に「東遊雑記」に「気仙沼は商人多く、大海より三里の入海にて五百石積位の船かづかづ入津してあり。鰹魚の名所にて数多取れる故に価賎し。大ひなる鰹1本を50文くらひに売買なる事なり」と記している。
被災地で延期されていた気仙沼市階上中学校の卒業式が今日おこなわれた。NHKテレビには涙をこらえ、歯をくいしばり、懸命に答辞を読む梶原裕太君の姿が映しだされた。ときおり天を仰ぎながら、大声で、「苦境にあっても天を恨まず、運命に耐え助け合って生きていくことが、これからの私達の使命です」と誓った。困難に立ち向かう決意の言葉は日本中に大きな感動を与えた。日本一の答辞だった。
しばらく震災の影響で芸能ネタは自粛していた。昨晩は、久しぶりに震災報道をみずに、ドラマ「屋上のあるアパート」をみた。最近、スランプ気味の長澤まさみが復活をかける一作。等身大の現代女性の仕事や恋の話でとりたてていうほどのストーリーではない。それが不安な日本社会に癒しの効果があったと思いたい。まさみちゃんは、ショート・ヘアにしたせいか、ハッラツとした若い女性というよりも、ちょっと老けた感じでブサイクになった。いつの間にか若さやキレイで売る時期は通りすぎてしまった。同じことは沢尻エリカや新垣結衣にもいえるだろう。日本映画が元気ならば彼女たちを3人娘として福山雅治に絡ませる企画も出ただろうに。同世代の韓国のハン・ヒョジュのほうが生き生きしている。やはり日本と韓国の差なのだろう。
菅直人首相は18日に定員17人の閣僚枠を20人に増やし野党に入閣する「危機管理内閣」を立ち上げる必要があると発表した。だがあれから4日たつがどうなったのか、さっぱり情報がない。三連休で遊んでいたんだろうか。本当に危機感があるなら早速に取りかかればよいのに。
「非常時だ」かけごえばかりでヤル気なし
京大のカンニング事件と原発事故との根底にあるものを考えている。京大の試験官の甘い監視体制が元凶であることは明らかであるが、誰もそれには触れずに、偽計業務妨害という変な罪状で未成年が逮捕された。原発事故も施設の老朽化を知りながら放置した責任が大きいにもかかわらず、マスコミは少しも触れずに、想定外の自然災害のせいにしている。つまり京大も政府もエリートたちはまんまと責任を逃れて、自己の保身と正当化につとめ、何らの謝罪がない。沖縄に基地があることも福島に原発があることも、日本という国家がほんとうの意味で平等ではなく、辺境に苦難を押し付けていることで成り立っているのである。いまのマスコミの「冷静な対応を」という連呼が欺瞞に響く。
大本営は福島原発事故により原子力災害緊急事態宣言を発令した。いわば今は日本は原子戦争をしており、戦いはいまだ予断を許さぬ状況である。相手はプルサーマル発電でプルトニウムを使用しており、まったく得体の知れぬ化け物だ。つくづくこの地震多発国に原発を建設したわが国は愚か者だと思う。日本残酷物語は始まったばかりだ。
「安全」の神話崩れりゃ美談にし
NHKは危険を顧みずに決死の作業をした自衛隊や消防署員をまるで爆弾三勇士のように誉めたたえている。だがプロジェクトXは時期尚早だ。戦争には英雄や軍神はつきものである。しかし放水作戦で大人しくなるような相手ではあるまい。菅は21日、首相官邸で「危機を脱する光明が見えてきた」とスピーチしたのも明らかに時期尚早。同日午後4時、3号機から煙が上がった。3号機の煙は収まったが、6時20分すぎには2号機から白い煙が出ているのが確認された。関東周辺の農作物の出荷はストップされた。国は生産農家に保護するどころか、死ねといわんばかりだ。そして汚染された雨水は川となって海に流れる。海産物が汚染され、汚染を世界にばら撒くこととなる。爆弾三勇士の英雄談に感動している場合ではない。原子戦争はこれからも紆余曲折が予測され、戦いは続く。日本の平和が来る日は遠い。
宮崎三昧(1859-1919、みやざきさんまい)は、安政6年8月1日、江戸下谷御徒町の儒者の家に生まれた。本名、宮崎璋蔵(みやざきしょうぞう)、別号は三昧道人。漢学を芳野金陵の塾に修め、茗渓学校を経て東京師範学校を卒業した。しばらく教鞭をとった後、明治13年「東京日日新聞」に入社。明治35年まで新聞各紙の文芸欄の執筆や、歴史小説家として名を知られる。代表作「塙団右衛門」(明治26年、春陽堂)は明治小説中の秀作である。明治30年代、冨山房の「袖珍名著文庫」に携わり「春花五大力」「狂歌萬載集才蔵集」「仮名手本忠臣蔵」「日本新永代蔵」「松浦佐用姫石魂禄」「落語選」「太平記忠臣講釈」などを校訂している。明治39年に腸チフスがもとで、両足が不自由となった三昧は、次第に文壇から遠ざかり、大正になって「賞奇楼叢書」で古典の翻刻に尽力した。大正4年刊行された井原西鶴「椀久一世の物語」は唯一の伝本が関東大震災で焼失したため、貴重な文献となっている。大正8年3月22日、腎臓病で死去。享年61歳。
大正期の少年小説界において活躍した宮崎一雨(みやざきいちう)は、明治19年(あるいは明治22年)7月6日、東京府日暮里村に宮崎三昧の一人息子として生まれる。本名は宮崎侃。東京外国語学校韓語学科卒業後、「東京日日新聞」「中央新聞」「飛行少年」の記者となる。「古今名詩通俗史談」(大正元年)「英雄の快挙」(大正2年)「熱血団」(大正5年)「絶壁魔城」(大正6年)「怪力義人」(大正7年)「興国か亡国か」(大正13年)「空中征服」(大正14年)「世界征服」(大正14年)「日米未来戦」など冒険小説が多い。一時代を画くした人気作家である。ちなみに「熱血小説」という名称は一雨の命名であると言われている。消息不明により没年はわからない。
ある大きな出来事が突然に勃発すると、それまでの小さな物事は散り散りになって消えてしまう。地震が発生した朝日新聞の3月11日の夕刊の見出しは「首相、辞任を否定」「退陣論高まる可能性」であった。この夕刊を手にしたときは既に地震のニュースは知っていたが、新聞には地震のことは一行も無い。菅直人は畏るべき強運の男である。突然起った地震で政権は延命できた。だれも在日韓国人からの104万円は口にできず、マスコミも封印した。不謹慎のそしりを覚悟で言えば、東北関東大震災は菅直人にとって天の恵みだった。同日、伊丹空港は関空との統合が閣議決定された。もし1日遅れれば伊丹空港の延命もあったろうに。菅直人はあいかわらず連立構想に失敗し、迷走しているが、統合となった伊丹空港は東北への救援物資の拠点となって活躍しているのが何という皮肉なことであろうか。
天皇陛下が被災地の方々にビデオでお言葉をかけられた。それによって多くの人が慰められ、励まされたことと思われる。ブログなどで検索すると、人々がどのような印象を持ったのか、現代日本人の天皇観がうかがわれる。ある人は天皇の役割を「八紘一宇」という世界征服を理念とする語で表現しているが、理解に苦しむ。これから天皇・皇后両陛下の被災地訪問が一つのエポックになりうるであろう。新憲法下で天皇の権限はただ内閣の助言と承認による国事に関する行為だけに限定されているが、一定の意味では元首としての地位を残されている。象徴天皇が非常時における国民の心のよりどころとなりうるかは客観的なデーターもなく、おそらく学術的な国民意識調査があるわけでもない。(ヤフー知恵袋には○×式で天皇制の是非を質問している)いわば天皇の人気調査をすることは未だタブーの領域なのであろうか。「天皇は神聖にして侵すべからず」というのは旧憲法のもので消滅したはずなのだが、近年の復古政策により、天皇家への尊敬の念は高まっていると思われる。ただご高齢であることや、皇統の不安があり、将来的な問題は深刻である。天皇の居所も現在の皇居はいかにも広すぎるものであり、地震活動期を迎える関東に在住する必然性は少なくなっているはずである。日本人が自らの判断で天皇問題を自由に論議できるような雰囲気ができるようになればよいと思っている。
NHKのニュースを聞いていると「冷静な対応を」という文言が必ず合言葉のように出てくる。これは報道の内容が国民に危機感を与えるものなので、結語にもってきて、あまり大げさにならないようにする配慮であるのかもしれない。いろいろ数値を読み上げたあとで、「基準値を超えますが、健康への影響は心配ありません」も同様であろう。「レントゲンを受診するようなものです」といった表現は放射線を扱う医師から抗議があった。国策でプルサーマル原発のプルトニウムと同様に扱うことに対してらしい。風評に対しても厳しい。「風評被害を助長する」という論法である。やはり今は戦時で政府への批判に対しては、逆に政府拠りの層からの言論統制があるようだ。だがブロガーとしては、この可笑しな世論には疑問を感じている。
プロ野球の開幕日が論議になっている。文部科学省の要請どおり12日にするのか、強行突破して29日から実施するのか。「プロ野球が勇気を与える」のか「被災者の気持ちを考える」のか。対立した意見に「冷静な対応を」するならば、どっちに軍配が上がるのか?放射能に対して、「正しく怖がる?」などという意味不明の見出しが大新聞に登場しているが、これで正確な情報が伝達しているつもりなのだろうか。すべては原発政策の誤りを糊塗(曖昧にとりつくろっておくこと)するためのまやかしにすぎないように思える。このような小賢しい悪知恵がはたらくのが支配者である。
われわれ人間は、それぞれ顔や姿もちがうし、生まれも育ちもちがうし、考え方も違う。つまり思想は個でなりたっている。だが多くの人が集合する社会では一定の決まりごとやルールがある。たとえば同じ言語が統一されれば共通した思想になりやすい。つまり日本人特有の考え方とかルールとかができる。だがこれが絶対に正しいというわけではない。むしろこれまでも考えを改めなおさないといけなことも多いだろう。それと人は完全な自由人になるということは難しい。民主党とか共産党とか、あるいは大学教授とか、原発の専門家とか、詩人とか、会社員とか、それれぞれ所属するところをもつている。つまりそれぞれの所属団体の意見に影響されて発言することが多い。だが非常時になると、それも人がこれまで誰も体験したことのない事態になって、専門家とか、有識者とか、先を読める人は神でないかぎり誰もいないのだけれども、あたかも知っているようなそぶりでコメントをしている。テレビ局は番組進行上、大学専門家の発言をもとに制作していく。それはいかにも真実なようにみえながら、報道規制内の発言であって、本当のことは誰も言えない。隠蔽といえば語感はきついかもしれないが、非常時にはつきものである。だから国民は情報をできるだけ集めて、はやくほんとうのことを知ったほうがいい。いま非常時、非常時といい、菅首相は松本防災担当相がいるが、新たに震災担当相を野党から設けようと工作している。それが責任のなすりあいなのか、本当に必要なものであるのか、国民には本当のところわからない。いえるのは福島では地震、津波、原発事故という3つのINGが進んでいるということである。そして東電社員や自衛隊や消防署の人が危険をかえりみず活動をしていることである。政治家が何をしているかはなかなか報道からはわからない。14日にインドネシアに行った民主党の女性議員がジャカルタでエステに買い物三昧(イスラムのコラーゲン化粧品に興味があったという)という呆れた週刊誌記事があるが本人は否定していので真相は闇の中である。しかし今は日本国民すべてに人としてどうか問われているときであることに間違いない。
連日、福島原発の報道がなされている。さきほども保安院から3号機の格納容器の圧力が上昇したため、蒸気を外に放出する弁を開放したと発表があり。専門的なことなので現実にどのようなことであるかはわからない。福島第1原発の深刻度をレベル4から5に引き上げたということであるから事態はより悪化しているとみるべきだろう。海外ではレベル6の評価であり、最高のレベル7の可能性もあるとしている。パニックを懸念して「人体に影響ない」「冷静な対応を」と常に結んでいるが、むしろ大爆発を起こす可能性があると考えたほうがいいのではないだろうか。中を誰もみていないが、すでに燃料の大半が溶けるメルトダウンが起きているという情報もある。政府の指示は常に結果が生じてからであるが、自分の命を守るためには、自主的に避難したほうがよいだろう。「備えあれば憂いなし」かりにかなり離れている所に住んでいるとしても、大爆発になれば首都圏の交通機関がマヒして、移動にも困難になるだろう。
「火事場泥棒」という言葉があるが、どさくさにまぎれて不正な利益を占める輩のことである。こんなゴロツキはいつの時代にも現れることで、警察や自警団などのパトロールを強化すればいい。むしろ困った人たちは善人をよそおい義援金を募金しながら、買いだめに走る一般市民である。宝塚のスーパーでもお米がなくなっていた。本日の朝日新聞の投稿を読んで悲しくなった。「芦屋市のスーパーでは、店頭から水や保存のきく加工食品が次々と消えている。人々が買いだめに走っている」という記事があった。芦屋市といえば平成7年に阪神大震災で大きな被害を受けた街である。市民も買いだめをすれば被災地に行き渡らなくなることは知っているはずだ。どこの地域よりも震災の辛さを知っている市民であるから、地震に過敏に反応するのだろう。だがそれは自己本位であり、石原慎太郎のいう我欲であろう。日本一豊かな街の市民が我利我利亡者であることが非常に悲しい。芦屋市は震災復興事業で行政の汚職があった。そして市立高校(廃校)、病院、図書館、美術博物館などの運営には疑問の多い街であることは周知の事実である。市民も悪いが行政も議会も腐っている市である。とくにヒドイのは震災時、八戸はじめ東北各地から物資や炊き出しなど支援を受けながら、その恩も返さず、仏面鬼心、財力にまかせて買い占めをする。大人たちが買いだめする姿を子供たちは見ているよ。カッコ悪い~!必要がないのに買うのはやめようよ!
むかし北海道にある幸福駅へ行く切符に人気が集まった。「幸福駅」(やまがたすみこ)という歌もあった。人間はつねに幸福というものをもとめたがる。だが幸福はある永続的な状態なのであって、それはこの世の中では人間に与えられないものらしい。地上ではすべてが絶え間ない流れのうちある。大地震や津波、放射能汚染による恐怖などが現れるすこし前は予備校生のカンニングで大騒ぎしていたし、前原がお世話になったおばちゃんの献金問題で大臣を辞めることになってしまった。なんだか遠い話のようだ。「ゆく川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」なんとなく年を重ねた者にはこのような無常観のほうが心がやすまる。だが若い人たちは、このような厭世的な気分は嫌だろう。「がんばろう日本」「ガンバレ」というエールが響き渡る。
仙台を一番にする男・仙一が東北の疫病神だった。楽天にしろ原発にしろ鄙びた漁村に似つかわしくない
有名芸能人の広告の出演料は巨額である。歩く広告塔といわれるタレントもいる。企業イメージを向上させるためもっとも旬のタレントを起用する。あるいは一流企業としてのブランドイメージを消費者に抱かせるため、大物俳優を起用することも多い。もし会社の商品に欠陥があり、死者が出た場合、芸能人にその責任が問えるのだろうか。パロマ工業(名古屋市)が製品の欠陥による一酸化炭素中毒事故があったが、長年にわたり同社のコマーシャルに出演した竹下景子はそれに関して責任をとわれたことは実質的に無かった。製品の安全性に関して芸能人には予測不能のことであるから当然であろう。しかし、損害賠償を問われた芸能人もいる。高田浩吉は原野商法でパンフレットに推薦文を載せたことで、詐欺に加担したとして、罪に問われた。例えば、今回の原発事故などで、これまで原発の安全性を宣伝してきた芸能人はどうなのだろうか。原発事故は当然予測しうるものではあるが、国家的事業として国民の合意のうえ政策として実行されてきたものであるから、当然のことながら責任を問うことは不当であろう。しかしながら、高橋英樹などに象徴される原発CM出演には違和感を抱いていたが、タレントの信頼性は失墜したといえるだろう。仙台の人たちは原発推進の広告塔だった星野仙一をどう思っているのだろうか。本来は自民党の多くの原発推進議員が指弾を浴びなければならないが、広告塔となった有名人がその標的となるのは必至で、まことに哀れというほかない。
東日本大震災の被災地は18日、発生から1週間を迎え、死者は6911人に上り、阪神大震災を超えて戦後最悪の自然災害となった。震災から1週間、いまの状況は太平洋戦争下と酷似しているように感ずる。計画停電は灯下管制であり、枝野官房長官の会見は大本営の発表のように聞こえ、救援金の募集は戦時国債やお寺の鐘の供出を思い出す。関東を脱出するか、とどまるか。放射能はB29の空襲のようであり、家長としては疎開の決断をせまられるであろう。被災地は戦場であり、自衛隊、警察、消防署は兵隊さんであり、戦場で戦っている兵隊さんのことを思うと、ぜいたくな暮らしはできない。娯楽や電力を消費するものは中止せよという国家総動員体制になってくる。物資不足は深刻で、買占め行為は厳禁。退避距離が米国は80kmで日本政府が30kmであっても、政府を信じよ。25日開催のセ・リーグは批判を浴びた。メディアの「お国のために」という政治宣伝はなにやらプロパガンダのように思える。「原発は安全」から「人体に影響はない」へと変化し、さらに外出は「肌を露出しないように」から「雨に濡れないように」と注意事項が出てくると、やはり微量であっても、将来、がんになるのではないか、という不安がよぎるだろう。いっそのこと首都圏脱出すればよいと思うのだが、卑怯者、非国民と思われたくないのだろうか、微妙な心理が働く。太平洋戦争下の日本人もこんな気持ちで暮していたのだろうか。またこのような国難を迎えたとき天皇の存在も大きい。ビデオメッセージが発表されたとき、京都へ移られないのは天皇のご意思であられるというネット情報を見た。そして天皇は毎日、日本国家の安寧を願い、祈祷しているというのである。感激した国民も多い。しかし、人間宣言をした天皇にシャーマンとしてのパワーがあるのだろうか。平成の御世は何度も大災害が起っている。それでも天皇を信ずる日本国民はやはり世界中から注目される民族であろう。
いよいよ自衛隊による地上からの放水もはじまった。懸命に作業する福島原発の作業員や自衛隊、消防、警察など。それに医療関係者、公務員、ボランティアなど直接、被災されたかたの救援への懸命な作業に心打たれる。だが一方で心ない人も多い。関西でのスーパーの現状をみると、棚には特定の日常商品が空っぽになっている。トイレットペーパー、ティッシュペーパー、水、乾電池、カップめん、マスクなど。昨日もお米を5袋買う男性をみかけた。非常時に米の買い占めがなぜ起るのだろうか。政府が「買い占めをやめてください」と言えば、反対に買っておこうという衝動が起るらしい。震災になるとニュースは美談が多いが、現実には仏面鬼心の人が多い。
ポリドールレコードという会社は今はもうないらしい。戦前は、「上海だより」の上原敏や「麦と兵隊」の東海林太郎はポリドールだったので国民には軍時歌謡として馴染み深い。実際は洋楽が専門である。しかし戦後生まれの自分の印象では、ポリドールといえば女性歌手という感じがする。西田佐知子、日野てる子、園まり、などはポリドールに在籍してヒットを飛ばしていたからだ。西田の「アカシアの雨がやむとき」「エリカの花散るとき」、日野の「夏の日の思い出」「港の丘に泪して」、園の「何も言わないで」「逢いたくて逢いたくて」などロマンチックな歌が多い。だからポリドールと聞くと、今でも頬が熱くなるような甘く感傷的な気分になる。
2011年は日本人にとって忘れられない年になるだろう。地震、津波、原発事故の三重苦。そして円高、増税、社会不安が待ち構えている。世界中の関心も高い。とくにアジアでは原発導入を予定している東南アジア各国に驚きと不安を持って受け止められている。また日本経済が危機的な状況となり、世界経済に悪影響を及ぼすという不安が海外に広がっている。
このような日本が国際社会の一員として認められたのは1900年のある出来事からである。義和団事件である。「♪ときは1900年、55日の北京」と克美しげるが「北京の55日」で歌っていた。8ヵ国の列強が清朝の都北京に3万3844人の兵員を派兵した。その中、日本は最大の約2万2000人だった。中国に進出したアジアの小国日本は大量の兵を送りこんで、国際社会のデビューをした。思えば帝国主義国家への道を歩みはじめることでもあった。あれから111年がたち、日本は科学技術の先進国となり、ノーベル賞を受賞するなど国際社会で名誉ある地位を築き、原発を44基を保有しているが、今回の事故で原発安全神話はもろくも崩れた。
非常事態が続いている。計画停電により、消灯した信号機のため交通事故による死者がでた。これなどは震災による3次災害であろう。もし政府が計画停電ではなく、国民に疎開をすすめたら、関東の電力消費量は減り、停電する必要もない。なぜ疎開をすすめないのか。それは東京中心主義に固執していることと、近づく選挙を睨んで票田が変化することを恐れるからである。政治家は自身の選挙地盤のことよりも国民の人命を第1に優先して実行しなければならい。計画停電は思わぬところで、事故や人命につながることが予測される。またとくに幼い児童が被害にあいやすい。甲状腺がんが発生しやすいという若年層は早く疎開する準備をすすめたほうがいい。国の政策や企業がいまだ利益追求の原則で動いているようにしかみえない。マスコミも今日からコマーシャルが流れたり、定時番組が放送されるようになった。あさイチもバラエティのようで非常事態にふさわしくない。一刻も早く東京一極集中主義から脱却せよ!一時的には国力が衰退するだろうがかまわない。できれば中部、西日本などの過疎の村へ移住し、明治の屯田兵のように新しい日本をつくる気概を持ってほしい。
いま福島原発では異常事態が日増しに進行している。大量の放射能物質が人口が密集する関東地方に飛来、拡散する可能性も高い。そして流言蜚語や風評にまどわされず冷静に対応せよという政府、メディアの報道が続いている。しかしいま本当に大事なのは、現実事態を過少評価するのではなく、危機感を持ち、具体的な対策をとることのほうが大切だと考えている。西日本では「いまできるのは募金活動」といわれている。はたしてそうだろうか。大量放射能が列島に拡散したとき、人口の西日本への移動が起り、本当に大パニックとなったとき募金などのマネーが何んの役に立つだろうか。いま株価や作物が海外で売れなくなることを心配している時期だろうか。むしろ無職の方、自由人は早く安全なところへ疎開するべきである。政府は首都圏から避難の必要はないとしているが、安全なところへ疎開するほうが生き延びる確率は明らかに高い。避難が無駄になってもいいではないか。戦争末期、田舎に疎開したことを思いだしてほしい。東京に残った多くの方は空襲で亡くなられた。かりに政府が疎開をすすめてもなかなか疎開は進まないだろう。そこで日本国民の象徴である天皇に、お畏れながらまず率先して京都へのご動座を願いたい。天皇が京都へ移られれば、多くの国民もそれに従うだろう。皇居が開放できれば防災公園として活用できる。日本政府は果断な対応を今やるべきである。安全な西日本のあらゆる宿泊施設を活用したり、民間の有志によるホームステイを受け入れることによって、汚染難民ではなく、原発爆発前に疎開を受入れる体制をとることが効果的な措置であると考える。
経済同友会の桜井正光は「震災があったからといって原子力政策を曲げることがあってはいけない」と発言している。まるで終戦時の陸軍参謀みたいだ。空襲や原爆で焦土となっても一億玉砕で戦えといった軍人のようだ。「なぜ事故は起らないと思うのか?」と問いただすと、「日本には神風が吹く」と応えるだろう。シンクタンク科学国際安全保障研究所は「状況は相当に悪化している。レベル6に近く、最も深刻なレベル7に達する可能性もある」としている。このまま炉心溶融が続けば、圧力容器が破壊され、大量の放射性物質が拡散する。その被害の範囲は30kmというレベルではなく、東京都心まで及ぶだろう。放射能に汚染された2000万人以上の難民が西日本に大移動するが、さらに汚染が日本中に拡大することになる。政治、経済すべての機能がマヒし無力となる。副都心としての機能を早く関西に移さなかったことが日本の敗因である。日本経済は失速し、増税と貧困で人口が激減し、大量の餓死者がでる。国連からの救援物資で国民はなんとかその日の暮らしをするようになる。そのような悪魔のシナリオを想定することが大切ではないだろうか。
長い間、朱熹の詩とされていた「少年老い易く学成り難し」は最近の研究により後世の偽作であることがわかった。「和を以て貴しと為す」「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし」「世の中で一番楽しく立派な事は生涯を貫く仕事を持つことです」などの言葉はどうか。それぞれ、聖徳太子、徳川家康、福沢諭吉などとまことしやかに伝えられてはいるが、すべて後世の偽作である。
ではこれらよりも、はるかに古い言葉、「朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり」「己れの欲せざる所は人に施す勿れ」はどうか、本当に孔子の言葉なのであろうか。
「論語」を編纂したのは誰であるのか不明であるが、孔子(前551-前479)の弟子である曾子(前505-前436)の臨終の言があるので、前436年以降である。津田左右吉などは、孔子を聖人として尊ぶようになった孟子(前372-前289)の時代であるとする考えもある。つまり孔子の死後50年から130年後のことである。つまり「論語」は孔子の言葉というよりも、孔子を尊敬した孫弟子が創作したものと考えるほうが妥当と思われる。ただし長年、東アジア世界で聖典とされてきているだけに、たえず論語・孔子を利用しようとする人々が多いのが事実である。いま中国では論語ブームだそうである。
本日早朝、福島第1原発4号機からまたも出火。NHKテレビでは南相馬市長・桜井勝延の悲痛の声。「私たちは見放されている。政府は現地を見て欲しい。国、県から一切情報はない。ぜひともこの地域を国は救うんだということを約束してほしい。異動するにもガソリンはなく、交通網は寸断され物資が届かない」
福島第1原発で400ミリシーベルトが計測された。従来のマイクロとは単位が違う。枝野もようやくここにきて「人体に影響を及ぼす可能性がある」との認識を示した。東電や現場の作業員の努力にも限界があり、原子力発電所4機同時の事故はもはや隠しようのないものであり、政治的な決断、対策、措置が求められる。本日になってやっと原発事故対策統合本部を設置した。現実的な退避計画が必要である。福島の人は震災で避難所にいたが、また原発事故で退避する人も多くいる。20kmから30kmの人でガソリンがなく、やむなく自宅退避する人も多い。30km以上離れていれば、安全かというえばそうではない。風に乗って飛来すれば関東地方にも及ぶ。茨城県や東京都でも観測値は通常よりも高くなっている。とくに雨が降った場合は、空気中に浮遊している放射性物質が雨と共に落下するの危ない。とくに子供は放射能に弱い。大人に比べ甲状腺がんになる確率が高い。もし格納容器が破壊されたらチェルノブイリの事故のようになる。もはや最悪の事態も想定して、情報開示をしたほうがいい。パニックをおそれたり、株価の暴落を憂慮して、あいまいな会見を開いた結果が対応が後手になってしまったのだ。
石原慎太郎が東北地方の地震、津波に関連して、「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と発言している。石原は過去に何度も暴論を吐いてるが、これまでの中でも最大級のヒドイものである。地球のプレートの活動と日本人の我欲との因果関係とはなんら科学的根拠のないもので妄説の類であるが、まだ東京都知事の職にあり、未曾有の災害に対して都民を守り、被災地を支援する立場にある人の発言とはとても思えない。地球の裏側に住むキリスト教国のある外国人からみれば、島国の津波災害が「ノアの洪水」のように映るかもしれないが、安否不明が15000人以上おり、救出作業がまだ続いている現時点で、そのようなことを言う無神経さは許せない。東京人からみれば仙台、福島、岩手など東北は他人事なのだろうか。
福島第1原発の炉心溶融。たびたび会見が繰り返されているが、むしろ不信感が高まる。説明と反対の結果が次々と起こっているからだ。3月12日午後3時36分の1号機爆発で海外でも大きく報道される。しかし「放射線飛散の可能性は低い」「レントゲンをあびる程度のものだ」という。しかし双葉厚生病院の3人は除菌後も高い放射線のため、第二次被曝医療機関に搬送されたという。そして14日午前11時、3号機で爆発。11人がけが。15日午前6時、2号機が爆発、圧力抑制室が損傷。原発玄関付近では1時間あたり8217マイクロシーベルトという制限値の16倍の放射線量が計測されている。15日午前、20~30kmに居住する人に屋内退避の指示が出された。
東京電力では職員の避難をしたという会見。これは放射能が漏れ出したため安全確保のためであろう。しかし、会見はお詫びをするものの内容については、踏み込んだ内容のものではない。記者からも「われわれは事実が知りたいんだ」という怒声がとぶ。NHKの解説者の東京大学の関村直人も「危険はない」「冷静な対応を」と言い続けてきたが、時々刻々、原発爆発が起きるにつれて、変化してきた。この人はこれまで原子力を推進してきたのだろう。だから発言は「安全」「被爆ない」「低い程度のもの」とパニック防止の発言になる。だがもう事態は一線を越えたとみるべきだろう。大量被爆になるという最悪のシナリオを用意する必要がある。いまの時点での原発のネガティブキャンペーンに乗るつもりはないが、まず国民に正確な情報を流すべきように改めるべきである。フランス原子力安全当局は日本の原発事故を国際基準のレベル5から6にあたるとみている。これは日本政府が国民にしている報道とは大きく異なる。問題は政府の原発事故に対する認識の甘さである。政権としては危機を管理しているというメッセージを出している。菅の記者会見は感動ものの熱弁だった。だがそういったパフォーマンスはもういらない。いま大事なのは果断で的確な指示だ。東電や国内技術者では力の限界がある。国際原子力機関IAEAは技術支援の用意があると早くから言ってきている。もうプライドを捨てて技術支援の要請をすべき段階にきている。これはチェルノブイリ、スリーマイルに次ぐ3例目の原発事故として世界は注目している。
本日から関東地区では計画停電が始まる。震災による電力不足をみんなで協力しようというわけだ。1都8県を5つのグループに分け、午前6時20分から午後10時までの間に順番に3時間程度実施される。昭和26年以来初めてという。(第1Gは供給していたが・・・)それ以前、停電は頻繁だった。戦時下は灯火管制というものもあった。最近のニュースを聞くと、原発の避難は、空襲の疎開のように思えるし、計画停電などは国民生活の統制という感がする。非常事態になると国民の意識としても国家に協力しようとする気持ちが高まる。瀕死の菅内閣が震災で息を吹き返したみたいだが、今は人命優先なので何も言うまい。震災下の庶民生活。ローソクが必需品だ。マンションで電力で給水しているところでは断水もあるらしい。西日本でも電力の協力したいものだが、60と50の違いで手間がかかるらしい。西日本の支援部隊の出動があるまで、いまは体制を準備しておこう。イベントやコンサートも中止したりして、協力する動きがでている。被災された方がたのためにいまは、何ができるのか国民が叡知をしぼっている。地元のコミュニティ放送局も地震以降ずっと特別放送で地震関連の情報を流している。一人一人が少しでも役に立ちたいという気持ちが強い。避難所での食糧は足りているのだろうか。避難者34万人という膨大な数の人たちの経費は自治体ではなく、政府の予備費でまかなう、という心強いニュースもあった。ミルク、おむつ、衣料品、生理用品、医療品、簡易トイレ、避難生活が続くと洗濯機なども必要になってくる。
先日、NHK歌謡コンサートを見ていると、安藤まり子(82歳)という懐かしい歌手が登場していた。彼女が活躍したのは昭和20年代である。現役だという。youtubeで「ドーバーの白い崖」という歌を探すと、ヴェラ・リンという歌手の映像があった。彼女は第二次大戦中にイギリスの軍時歌謡を数多く歌っていた。いまも人気があり、CDはビートルズよりも売れているという。現役歌手で1917年の生まれで3月20日で94歳になる。英米圏では誰もが知っている大歌手だ。もちろんレパートリーも多い。「また会いましょう」「さよならを教えて」、youtubeでは「リリーマルレーン」も聴ける。もちろん創唱は1939年のララ・アンデルセン(1905-1972)で、世界に広めたのはマレーネ・デートリッヒ(1901-1992)だが、ヴェラ・リンの持ち歌のひとつである。ビリー・ボーンで知られる「夕日に赤い帆」(1935)というポピュラーな曲もヴェラが創唱している。
東北地方、関東地方で余震が続いている。不明1万人を超える安否不明者がおり、390万人余りの避難者がいる。避難所での生活は始まったばかり。体調に注意してほしい。食糧、水、物資などの支援活動はこれから本格的になる。宝塚市でも4人の職員と給水車を派遣したという。自分は入院中の義父の下着をもっていかなければならない役目があるので現地の支援に行くことができないが、フリーならば市民のボランティア隊に参加してお手伝いしたい気持ちである。あの阪神大震災の記憶がよみがえる。
図書館も各地で被害を受けている。棚から本が落下したが、図書館が避難所になっているところでは、職員たちも避難所の任務が優先で図書の整理などには手がまわらないだろう。司書で図書館経験のあるOBなら役立てることもあるかもしれない。
11日午後2時46分ごろ、三陸沖を震源とする大地震は、日本列島全体に強い揺れと津波被害を与えた。死者・行方不明者は1600人を超える。経済的損失は10兆円を超えるとみられる。その後も長野、新潟など各地で地震は起きている。被害で出ている主な場所は次のとおり。
宮古、大槌、釜石、陸前高田、大船渡、気仙沼、南三陸、女川、石巻、東松島、仙台、名取、栗原、相馬、南相馬、福島、いわき、白河などで激しい被害状況が確認されている。福島原発では炉心溶融が起こり、半径20kmの住民に緊急避難指示が発令された。現在、交通が寸断され孤立した被災者の救援が先決問題だ。水、食糧、物資の搬送が急がれる。
これから、社会不安や経済活動の低下、政治の混迷、治安の悪化など3次災害も予測される。末期的状況だった菅政権はむしろ命拾いした観はあるが、今は休戦停止し、与野党とも協力して復旧に当たることが第一である。ただし、天災は政治家の責任ではないものの、元首にも運と不運があり、いまの政権は命数が尽きた感がある。世界でも「2012年は世界の終わり」という噂が広がっている。昨年のチリ地震、今年のニュージーランド地震。そして東日本大震災。地質学的には太平洋プレートの活動らしいが、これは数年続くと思われる。オーストラリアの地球物理学者ブライアン・エバンズ教授は「東日本大震災はNZ地震と関連している」と語った。
セレベス島のポソ地方のアルフール族には次のような昔話が伝えられている。
大昔には天地のあいだは、今よりもずっと近く、人間は創造神が縄に結んで天から下ろしてくれる、贈り物によって生活していた。ある日のこと、創造神が石を下ろしたところが、人類の始祖の夫婦はそれを受け取ることを拒否し、何かほかの物が欲しいと要求した。神がそこで石を引き上げ、今度はバナナをおろすと、夫婦は喜んでそれを食べた。すると、天からつぎのように言う声が聞こえてきた。「石を捨ててバナナを選んだのだから、お前たちの生命は、子供をもつとすぐに親の木が死んでしまう、バナナのようにはなかいものとなるだろう。もし石を受け取っていれば、お前たちの生命は石のように永久に続いたであろうに」
この話は日本神話の高天原より日向に降臨したニニギノミコトの婚姻物語と類似している。ニニギはコノハナサクヤヒメという美女を見初め、結婚の申し込みをした。オオヤマツミはたいそう喜び、コノハナサクヤヒメに姉娘のイワナガヒメをそえて奉った。ところがイワナガヒメは醜女であったために、ニニギは彼女を嫌って、父のところに送り返し、コノハナサクヤヒメだけを留めて、これと一夜の契りを結んだ。オオヤマツミは「天の神の御子のお命は、木の花のようにはかなくなるでしょう」といった。
この2つの話はきわめてよく似ている。南洋の類話におけるバナナが、日本で木の花に変わっているが、南洋から日本へ伝播されたものであろう。(参考: 吉田敦彦「日本神話の源流」)
気鋭の小説家・樋口毅宏が公共図書館に自身の新刊小説「雑司ヶ谷R.I.P.」の半年貸出の待ったをお願いしている件で、Yahooリサーチが意識調査をした。
一定期間の貸出猶予が必要 41%
著者の希望があれば必要 34%
不要 25%
その他 2%
この結果をみる限りでは、75%の人は、樋口毅宏の言い分にかなり理解を示していることがわかる。アンケートに答えた人は、図書館の予約制度や現状に疑問をもち、作家の権利に関心をしめしたものである。しかし、この問題の背景はそう簡単ではない。小説に限定するのか、あるいは猶予期間を管理できるのか、システム上にも多くの困難がともなう。そもそも予約制度は国民の知る権利を公的に保障するもので、経済的に恵まれず本を買うことができない人が知りたい、読みたいという要求に応えることであり、その手立てをなくすることはできない。実際に公共図書館では、「雑司ヶ谷R.I.P」を貸し出す館がではじめている。数館が貸出しするならば、他も追随し、とても半年という期間を待つことはできないだろう。「著者からの願い」で予約を断わるだけの正当な理由となりえるのだろうか。意識調査では「わたしは新刊をすぐに図書館を置く必要はないと思っている」という声がある。しかし、実際には多くの利用者の貸出や予約の割合は新刊書が高いという現実があり、発言をそのまま鵜呑みにもできない。この問題はツイッターなどの一般の発言は多い。図書館側からの発言が少ないが、双方向の対話が必要なように思える。多くの図書館系ブログは自分たちの論理の城に籠って、一般人との対話の姿勢がないことが残念である。
古代ギリシアの彫刻「円盤投げ」の公開が始まるが、謎の多い作品である。古代ギリシアの彫刻家たちは、ペイディアス(前490年-前430年)、ミュロン(前480-前445)、ポリュクレイトス(前5世紀-前4世紀初頭)らの名前が伝えられる。多くはそのオリジナルが失われたものの、わずかに残されたブロンズ製のオリジナルがフェイディアス(ペイディアス)の「円盤投げの男」である。この彫刻はドイツのグリュプトテーク古代彫刻美術館に所蔵されるものであるが、これをミュロンの作とする記述もみられる。とすれば今回展示される大英博物館のディスコボロス(ローマ時代のレプリカ)とどのような関係にあるのだろうか。
以下、ミュロンの「円盤投げ」は原型は失われて、現在あるのはローマ時代の大理石の模倣品である。ミュロンの「円盤投げ」のポーズには数種類あり、いずれが真正なのかは判明できない。またフェイディアスの作品との類似性にも疑問が残る。
ある業者がブロンズ製「円盤投げ」を販売しようとしたところ、訴訟となったが商標法第4条第1項第7号(公の秩序又は善良の風俗を害するおそれがある商標)に該当しないという審決があった。(2009.6.01)
「円盤投げ」はローマ国立博物館にあるランチェロッティ旧蔵の像をはじめ、アテネ国立美術館、ミュンヘン・グリプトテーク古代彫刻美術館、プーシキン美術館、大英博物館にある。わが国にも長野市、東京都府中市および国立競技場に展示されている。
いま全国の図書館員がハムレットのように悩んでいる問題が一つある。「貸出すべきか、貸出を控えるべきか、それが問題だ」
作家の樋口毅宏が新刊「雑司ヶ谷R.I.P.」で「公共図書館みなまさへ この本は、著作者の希望により2011年8月25日まで、貸し出しを猶予していただくようお願い申し上げます」と巻末に著作者の意思を示している。これを受けて図書館の処置はどうするのだろうか。普通ならば2月の新刊であるから、もう貸し出されている頃で、ウェブ上、貸出中と表示されるはずである。人口20万人以上の都市の公共図書館であれば、新潮社の文芸書ならばふつう購入するはずである。何らかの図書館側の判断で保留にしているのか、問題のある本は買わないでおこうとする自己規制が作用して購入をみあわせているのかもしれない。この現象は各蔵書検索を丹念に調べれば、図書館の姿勢がみえてくる。
兵庫県内図書館横断検索で調べると、姫路市、相生市、洲本市の3館で貸出中と表示された。全体からみると極めて少ない。全国の有名図書館を調べてみよう。日野市立図書館、仙台市図書館は貸出中とある。文京、目黒、品川、江東の区立図書館は貸出中とある。東京都立中央図書館、横浜市立図書館は準備中と表示された。川崎市立図書館は準備中で予約3件とでた。横須賀市立図書館は発注済みと表示され予約1件。大阪市立図書館、名古屋市図書館、浦安市立図書館はヒットしない。協議中なのだろうか。蔵書検索で出ないのは、いまはネット予約されないためであろうか。これまでにない問題なので各図書館の対応には悩ましいものがある。対応は各図書館の判断に委ねられているが、現在のところは統一見解はなくバラバラの状態である。背景には、なんでも予約ですませようとした利用者にもあるだろう。いわゆる公共図書館のベストセラー問題や複本問題とも大きくかかわる重要な提起がされたように思う。図書館側の意見が聞きたい。結論をイタズラに先延ばしすることは市民の図書館に対する不信感を招くことになるのである。
話はそれるかもしれないが、通常、図書館は新刊がでた時点でMARC(マーク)と呼ばれる図書データが送信されてきて、そこから発注する。つまり一端買う時期を逃すと、半年先に購入するという確率は低下する。作家にとっては公共図書館の購入率が低下することもあるので、図書館に貸出の据え置きお願いすることは、買え控えをお願いしていることになり、捨て身の覚悟でのぞまなければならない。刊行された時点で購入して本を寝かせておくとか、禁帯扱いするところはまずないだろう。やはり作家にとってメリットは少ないように思う。どんなスタイルにせよ、読者に本を提供したほうがよいと思う。
現時点では図書館は準備中として様子ながめをしているようであるが、「図書館は資料提供の自由を有する」と国民に宣言している限り、予約がでたら提供する責務があると考える。いま、著者の意思を尊重するのか、国民の知る権利を保障するのか、二者選択を迫られている。
秋から放送のNHK連続テレビ小説ヒロインに尾野真千子が選ばれた。河瀬直美の「萌の朱雀」でデビューし、10年以上のキャリアがある。1981年生まれで今年30歳になる。最近のヒロインとしては異例であろう。過去のヒロインの当時の年齢を調べると、樫山文枝25歳、日色ともゑ26歳、大竹しのぶ18歳、田中裕子28歳、鈴木京香23歳、竹内結子19歳、国仲涼子22歳、宮崎あおい21歳、井上真央24歳。最近は、だいたい22歳から24歳くらいが一般的である。かつては新人の登竜門であったが、いまはある程度視聴率がとれる若手有望女優に決まることが多い。今回はオーデション。世の中、並みはずれた美貌ながらチャンスにめぐまれず、涙に暮れる女優さんは数多い。ヒロインの幅は35歳前後まで広げてもいいだろう。ドラマの内容も深くなると思う。過去の例では南田洋子の37歳(「虹」1970年)が最高齢だ。尾野真千子はまだ若いので、それほど違和感がないと思うが、30歳すぎてから魅力がでる女優が多いので、朝ドラの進化に期待したい。
網野菊(1900-1978)は日本女子大学で、同級の中条百合子が華々しく文壇に登場することに焦りを感じていた。大正12年9月、湯浅芳子と福島県高湯に滞在中、関東大震災にあい、帰京の途中、京都に志賀直哉を訪ねた。網野23歳、志賀40歳である。以来、網野は生涯志賀に師事した。
最初の結婚に失敗し、新聞記者となった真杉静枝(1901-1955)は24歳のとき仕事で出会った武者小路実篤に公私にわたる支援を受け小説家になる。昭和7年まで武者との半同棲関係は続いた。以来、中村地平、菊池寛、中山義秀ら男性遍歴を重ねるが、作家としては行き詰まり精神に破綻をきたす。志賀と武者に師事した2人の女流作家、網野菊と真杉静枝は対照的な人生を歩む。
地方の小都市で比較的豊かな田園都市には、むかしながらの土蔵のあるお屋敷がよく目に付いたものである。土蔵の中には江戸時代から伝えられたお宝が眠っている。お宝鑑定団のブームをすぎて、やはり子孫は保存にもコストがかかるので地元の美術館に寄託として預かってもらうことにする人も多い。つまり公立の美術館の所蔵品には、寄贈品ではなくで、寄託品が多い。運営に問題があれば、返還請求をすることもできる。ほとんどの市民は美術館の所蔵品だと思っているが、実は市の一部の富裕層の資産を税金をかけて保管しているというわけである。美術館は文化のシンボルとて残してほしいと誰しも思うだろうが、種々雑多な骨董の類を多数収蔵している美術館が館蔵品を展示してみたところで、多数の入館者を呼び込めるような時代ではない。いま人気のある美術館というのは建築と展示するアートが一体となった異空間を表現できるようなデート・スポットである。村の庄屋の土蔵に眠っていたものが、価値あるものであっても、現代美術館してふさわしかは別問題の話である。土蔵美術館が現代美術館の衣装をまとっているのは滑稽でもあるし、税金をドブにすてるに等しいものである。
6世紀に書かれた「文選」の中に「文筆家というものは、いずれも自分こそ第一人者だとしてお高くとまっており、したがって、文筆家同士はたがいに相手を軽蔑しあっている「文人相軽んず」というが、こんな風潮はいまに始まったことではない。たとえば班固と傳毅との仲がそうである。」
そういえばわが国の文壇でも、三島由紀夫は太宰治が嫌いだったことは有名であるし、文壇の長老・阿川弘之とノーベル賞作家の大江健三郎の仲の悪いこともよく知られている。文筆家が自分の文章を天下無比と考えて他の同業者を軽蔑しあうというのは、いまもむかしも変わりはないようだ。
むかしダニー・ケイの映画の主人公やサトウサンペイの漫画は、男の妄想が主要なテーマだった。電車に乗ったサラリーマンの前に座った若い女性がすべて全裸なのだ。テレビを見るとお天気姉さんが裸で天気予報をしている。もちろんこれは男の妄想。男はつねにエッチなことを想像しているものである。だがそういったことを少しも他人にはサトラレナイように日常生活を営んでいるところに人間社会の妙味がある。もし妄想でなく本当に実行したらどうなるだろう。それはお色気青春映画だけが許される世界である。「グローイングアップ」とか「マレーナ」とか「青葉繁れる」とか。中年のオジサンがやるとさらに滑稽だがミジメだ。川崎で女装し、銭湯の女湯に侵入した中年男が逮捕された。脱衣所から浴室まで入り、女性客に不審に思われた、というから、男性の念願は達成されたわけである。「入りたくて入った」という供述がストレートでよい。男は可愛い生き物なのです。
古代中国には生殖器を切るという宮刑があり、死刑につぐ重刑であった。男性には陰茎・睾丸双方を切除する場合と、睾丸のみ切除する場合があった。実際の執行例は記録で見る限り少ないが、漢の歴史家、司馬遷が李陵を弁護したために、前98年、宮刑に処せられている。日本では「羅切(らせつ)」という。広辞苑には「陰茎を切り除く」とある。寺内大吉の「奇僧悪僧列伝」によれば、法然の弟子、安楽房遵西は後鳥羽上皇の愛妾・松虫と関係を持ったため、上皇の怒りにふれて、羅切の刑に処せられたとある。遵西の女犯事件は「名月記」「愚管抄」にもあるが、陰茎を切断されたことは見えない。「皇帝紀抄」に羅切の記述がある。
世の中、草食男子が多くなると、女性は戦国武将など雄雄しい男性に憧れるものである。お天気お姉さん森田美位子がインタビューに答えて、「理想の男性は山本五十六です」と発言。なんとも意味不明な答えである。軍人さん=カッコいい、というのでは幼稚すぎる。歴女が戦国武将や龍馬や総司に憧れるのだから、海軍軍人がモテて、復活するのは自然なのだろうか。戦争映画では山本五十六は常に理想の軍人として描かれる。これほど悪く言われない人もめずらしい。ミッドウェー海戦で大失態をした草鹿龍之介が、戦後、山本五十六を批判しているが、主流ではない。日露戦争の参謀・秋山真之や真珠湾奇襲攻撃の参謀・黒島亀人、いずれも奇人、変人であった。「山本五十六は人間としても立派で、人間味のあった人だったが、何を考えているかわからないような人でもあった」と後年、草鹿は述懐している。(参考:「連合艦隊のリーダーたち」亀井宏)
「アメリカン・ビューティー」はアカデミー賞作品である。ある人がいったが「アカデミー賞とは、その年の一番すぐれた映画、面白い映画に与えられるものではなくて、アメリカ人(白人)にとって意味のある映画のこと。日本人には面白くないものもある」と。この作品などは現代アメリカの社会問題をてんこもりに集めたもの。セックスレス夫婦、不倫、リストラ、麻薬、精神病、盗撮、同性愛、豊胸、ロリコンなど。つまり日本でいえばテレビの名作「岸辺のアルバム」のように中流家庭の崩壊劇である。会社や倦怠期の夫婦や浮気はどの国も同じだが、ただひとつアメリカになくて、日本にあるもの。それは国広富之が大学受験に失敗する話がメインにあるが受験競争であろう。
加山雄三の若大将が社会人となって活躍する話だが、スポーツ競技がなくなった分だけ面白さは半減している。ライバル青大将こと石山新次郎という役名は、石原慎太郎と裕次郎兄弟をもじったものだそうだ。それはさておく、このころから海外ロケもめずらしくなくなってきた。ニュージーランドの自然もたっぷりみることができる。
オークランドの地名は、インド総督であった英人オークランド伯爵ジョージ・イーデンに由来する。クライストチャーチは英人ジョン・ロバート・ゴトリーの出身校オックスフォード大学クライストチャーチ・カレッジに由来する。両市とも19世紀半ばに建設された。とくにクライストチャーチは川の堆積地であり軟弱な地盤のうえに発展してきた都市である。われわれ日本人はニュージーランドの歴史や地理、そして文化などほとんど何も知らないまま国際化という合言葉で動いている。
インターネットや携帯が普及しだしてから、かれこれ10年以上がたちます。若い人たちの学習や情報へのアクセスも様変わりをみせています。ネットで調べられる事は暗記しなくてもよい、と考えるようになってきます。ケペルなどは昔人間で、歴代天皇名や仏教や鉄砲伝来の年号など暗記しています。歴史的思考をするにはある程度の知識を頭の中に入れておいたほうが便利です。とくに人名、地名など固有名はキーワードとして検索するときの手がかりになります。長年、レファレンスを担当してきましたが、レファレンス協同データーベースなどで未解決の事例があると自分で調べたくなります。山本五十六が撃墜されたときの同乗者の名前も全員わかりました。ちいさな歴史事実をひとつひとつ積み重ねることも在野の史家のできることです。またこのブログは巷説、風説、奇譚、珍談なんでも扱います。宇宙人と遭遇したロズウェルの話とか、数字による奇妙な偶然とか、ケネディの女性関係とか、なんでも、信頼性のない小ネタをブログ記事として取り上げます。毎日みていただいている方はだいたいわかってくださいますが、検索語でこのブログをご覧になられる人は、記事の信用性を指摘されます。よく引き合いにだすのは、ウィキペディアを基本にして、生没年や表記などの違いです。しかしウィペディアをそのまま転記したのではこの記事の独自性がなくなります。むしろ他の記事とは異なる情報を求めています。学会誌に出稿するわけではないので、記述の信憑性は多少はご容赦いただきたいのです。むしろ気楽な読み物として考えてください。玉石混交なのでユーザーの皆さんが、玉を見つけるか、石を見つけるか、それは貴方しだいです。
数日前、ブログ記事「内村鑑三不敬事件」について概略を述べた。札幌農学校出身者でクラークの門下生には、有名な「イエスを信ずる者の契約」という誓約書について語らなければならないだろう。この契約の後半部分にはいわゆる十戒が記されていて、これが、のち内村にとって倫理的制約となって不敬事件の一因ともなる。札幌農学校のクラークは、明治10年3月5日、「イエスを信ずる者の契約」を作成し、それにクラーク以下、学生たちが署名した。ここにその訳文を掲載する。(有島武郎訳)
茲に署名する札幌農学校の学生は基督の命に従ふて基督を信ずる事を告白し且つ基督信徒の義務を忠実に尽して祝す可き救主即ち十字架の死を以て我儕の罪を贖ひ給ひし者に我儕の愛と感謝の情を表し且つ基督の王国拡がり栄光顕はれ其贖ひ給へる人々の救はれん事を切望す故に我儕は今より後基督の忠実なる弟子となりて其教を欠なく守らんことを厳かに神に誓ひ且つ互に誓ふ我儕は適当なる機会来る時は試験を受けて受洗し福音主義の教会に加はらん事を約す
我儕は信ず聖書は唯一直接天啓の書なる事を又信ず聖書は人類を導きて栄光ある来世に至らしむる唯一の完全なる嚮導者なる事を
我儕は信ず至仁なる創造者正義なる主催者最後の審判者なる絶対無限の神を
我儕は信ず凡て信実に悔改めて神の子を信じ罪の救を受くる者は身を終るまで聖霊の佑導を受けた天父の賢顧を蒙りて終に贖はれたる聖徒となり其の喜を受け其業を勤むるに適ひたる者とせらる可し左れど凡て福音を聞きて信ぜざる者は必ず罪に亡びて神の前より長へに退けらるべき事を
次に記する誠は我儕如何なる辛酸を嘗むるとも終身是れを服膺履行せんことを約す
爾精神を尽し力を尽し主なる爾の神を愛し可し又己の如く爾の隣を愛すべし
生命あると生命なきとに係らず凡て神の造り給へるものに象りて彫みたる像若しくは作りたる形を拝すべからず
爾の神エホバの名を妄りに云ふべからず
安息日を覚えて之を聖日とせよ此日には凡て緊急ならざる義務を休み勉めて聖書を研究し己の徳を建つる為めに用ゆ可し
爾の父母と有司に従ひ且つ之れを敬ふべし
詐欺、窃盗、兇殺、姦淫、若しくは他の不潔なる行為をなすべからず
爾の隣を害すべからず
断えず祈るべし
我儕は互に相励さん為め此の誓約によりて一個の団体を組織し之を「イエスの信徒」と称し而して我儕処を同ふする間は毎週一回以上共に集りて聖書若くは宗教に関する他の書籍雑誌を読み若くは宗教上の談話を為しまた相共に祈祷会を開く事を誓約す希くば聖霊我儕の心に臨みて我儕の愛を励まし我儕の信を堅くし我儕を真理に導きて救いを得るに至らしめんことを
原文書は、現在札幌独立教会に保存されている。もちろん英文で書かれ、その後にクラーク以下、学生たちの署名がローマ字で記されている。ここでは署名した生徒の氏名のみ記入順に掲げる。
黒岩四方之進、伊藤一隆、山田義容、佐藤昌介、内田瀞、田内捨六、中島信之、大島正健、渡瀬寅次郎、柳本通義、小野兼基、佐藤勇、安田長秋、出田晴太郎、荒川重秀、小野琢磨、太田稲造、佐久間信恭、宮部金吾、足立元太郎、高木玉太郎、広井勇、内村鑑三、町村金弥、南鷹次郎、藤田九三郎、村岡久米一、諏訪鹿三、岩崎行親、伊藤英太郎、伊藤鏗太郎
ここには一期生16人と二期生15人、あわせて31人の署名がある。内村本人が語るように、この署名は「私の意志に反して強制されたもの」であった。親友が次々と署名していく状況にあって署名を拒めば、それはそれは共同体からの疎外を意味した。いわば署名は札幌農学校へのイニシエーションにあたったのである。署名の経路には不本意なところがあったにせよ、新しい信仰は、内村の生活に変化をもたらした。(参考:「内村鑑三日録 1」鈴木範久 教文館)
関東大震災の直後における、流言蜚語などによる朝鮮人虐殺はよく知られる話であるが、中華民国僑日共済会の会長の王希天(1896-1923)も陸軍によって虐殺されていることはあまり知られていない。デマを流布したのは当時警視庁官房主事、正力松太郎といわれる。亀戸署に拉致監禁された王は陸軍にひきわたされ、斬殺される。死体は切り刻まれて川に捨てられた。社会主義者たちと接触していたため、公安当局に目をつけられていたのであろう。中国から抗議を受けたが、日本は殺害事実を隠蔽した。
茶の間で家族そろって夕食タイム。テレビを見ていたら、なにやら尻がムズムズしたので、「プー」を一発やったら、臭かった。娘が「お父さん、くさい!(怒) サイテー!」と鼻をつまんで、うちわで扇ぐ。そのとき、私は「出物腫れ物所嫌わず。忍法、屁のカッパの術」と決まり文句をいう。
ところで、屁をこくことは生理的に当たり前ながら、むかしからおかしいのか笑話に取り上げられる。室町時代の絵巻物「福富物語」もその一つだ。志村けんの「バカ殿」の人気コントにも、「拙者、まだ美人のオナラというものをまだ聞いたことがない。オナラを所望いたす」といって、腰元たちが豪快なオナラを連発する。ああいう、たわいものないコントが好きだ。
日本史のなかでは、ふつうなら総理になれない人物でも、ひょんなことから政権のトップにのぼりつめることがままある。菅直人などはその例であろう。政権の3月危機がさけばれながらも、窮地の首相がなぜか元気なのは菅信子夫人の存在にたすけられているからであろう。世界はチュニジア、エジプト、リビアそしてスーダン南部、イラン、パキスタンと騒動が続く。この島国日本も格差社会や自殺者3万人という現状で、国民はもっと声がでてもいいはずなのに、新聞の投稿などを読んでも意外と平穏無事である。大新聞やテレビなどのメデイアが情報を操作していることもあるだろう。体制の秩序維持が優先である。自分は不幸ではない、と思う人が多い。子供をいい大学、いい就職、いい結婚、すべて条件を優先させている。菅直人の政権もこのような微妙な社会のバランスの上に維持し存続している。もし菅政権が4年の任期を頑張り続ければ、奇蹟であろう。そしてその影の主役は菅伸子である。言いたい放題、やりたい放題の言動、毎夜の酒宴、政治家との影の交遊、およそ民主主義とは無縁の日本流の政治である。公人ではないので、国民の批判は届かない。つまり藤原薬子、丹後局、北条政子、阿野廉子、日野富子、イメルダ、エヴァ・ブラウン、クラレッタ・ぺタッチなど悪女列伝に加えてもいい。日本は天下泰平、悪女栄えて国滅ぶ。
入試問題ネット投稿事件は一学生の無思慮な行為であるが騒ぎすぎの感がある。学生は情状酌量してあげればよい。それよりも一連の報道で大学制度そのものへの疑問が生じてきた。いまの大学に教育理念があるのだろうか。日本の大学は入りにくく、出やすい。それに比して、外国では入りやすく卒業することは難しい、とはむかしから言われる。つまり日本の大学生はほとんど勉強しないで遊んでいるが、外国の学生は入ってから勉強する。今回の学生もおそらく真面目で勉強熱心で、日本の大学制度はまともなものならば教育を受ける権利があったであろう、と思う。競争原理を過熱すれば、社会にひずみがでる。韓国や日本で入試に不正がでるというのは、根本のところで社会制度に矛盾が存在するからである。学歴偏重社会は依然として存在する。現代の日本の大学はいまだにエリートコースの通行手形を発行する関所のようなところになっている。そのような批判を大学関係者からの声がでないほど日本はダメになっている。
わたしは灰谷健次郎や奥田継夫とは実際にあって話をしたことがある。2人は同じ年で、灰谷の「兎の眼」「太陽の子」や奥田の「ボクちゃんの戦場」はよく読まれていた。NHKがドラマ化したことも影響し大ブームだった。灰谷は教育委員になって、解放教育ではオススメの本だった。教育関係者というのは案外とミーハーでブームを追いかける習癖がある。図書館員のおすすめリストなどをみると、むかしは灰谷の本があったが、いつまにか消えて、村上春樹や小川洋子にかわっている。だから世代によって読む本がかわってくる。当の灰谷は高校生のときどんな本を読んだのか。「学校の近くに、夜、遅くまでやっている古本屋があって、そこで古い文庫本を買ってはむさぼるように読んだ。小林多喜二の蟹工船を読んで、労働者は虫けらじゃないと救われたような気分になったし、伊藤左千夫の野菊の墓を読み、いつか、おれも素晴らしい恋愛をしてやるぞと思ったりした」と話している。
映画「マレーナ」のワン・シーン。マレーナが一人で夫の写真を胸に抱き、レコードの音楽にあわせて踊る。その曲名を知らない少年は店員に歌って聞かせ同じレコードを買って何度も聴く。アリダ・ヴァリの「私の愛は」(Ma l'amore no)である。1943年の大ヒット曲。「第三の男」「夏の嵐」「かくも長き不在」の名女優アリダ・ヴァリは歌える女優だった。歌の意味はだいたいこんな内容か。
今朝 花咲く バラを見ながら
私は 考える 明日は
枯れてしまうだろう
そしてすべての事は
バラのようだ
バラは1日を生きる
一時を そしてそれ以上は生きない
私は彼を不寝番するだろう
私は彼を守るだろう
毒のある策略すべてから
それらは彼をこの心から引きはがそうとする
哀れな愛!
おそらくあなたは立ち去るだろう
他の女性の愛撫を探すだろう
ああ!
そして、あなたがかえって来たら
もうすべての私の中の美しさが枯れてしまっているのを
見つけるだろう
だが私の愛はそうじゃない
私の愛は
髪の金色とともには薄れることはありえない
私が生きる限り、私の中に生きるだろう
あなたのためだけに
柔らかい皮の中に白あんとチーズが入った秋田銘菓の饅頭。「笑内」とは「おかしない」と読み、秋田内陸縦貫鉄道の駅名。内陸鉄道は角館駅から鷹巣駅まで94.2kmを約2時間30分で結ぶローカル線で、日本の原風景を思わせる田園風景が車窓に広がる。阿仁合(あにあい)、比立内(ひたちない)、羽後長戸呂(うごながとろ)、阿仁マタギなど珍しい駅名が多い。秋田には「内」のつく地名が多いのはなぜか。長場内(おさばない)、生内(おばない)、生保内(おぼない)、狙半内(さるはんない)、西馬音内(にしもない)、鑓見内(やりみない)など。多くはアイヌ語を語源とする地名だそうだ。「内」は「ナイ」(川・沢の意味)をもつからである。
ワシントン・ポスト紙は「日本人の留学生が減ったのは草食系で引きこもりがちだから」というニュースが数ヶ月前にあったと思う。現実は経費が高いアメリカをさけて、安いニュージーランドなどが注目されたからで、若者たちの留学願望は日本でも高い。たとえば、ある会社で社内の公用語を英語にする、ということも大きな話題となった。国際化、IT化の波の中で、日本の生き残るためには、英語を使いこなす能力が必要とされる、と思い込む若者たちが多いだろう。明治の英語教育は欧米の先進文明を習得することにあったので、文献の読解力がまず必要であった。留学した学生は翻訳して、欧米の文化を移殖することであった。いまの人に要求されることは、おそらくコミュニケーション力であろう。しかしアメリカの10歳のこどもが話しているような会話力でビジネスの重要議題が討議できるのであろうか。もちろん国としてある一定の数の人が英語に堪能なことは歓迎であるが、すべての人が英語ペラペラという必要はないように思う。また過度に世界にはばたく、とか国際貢献などという幻想をマスコミは煽り立てるが、英語と国際化で人生を棒にふるのはつまらないことである。基本は日本語にさらに磨きをかけて、日本の国土を耕し、植林し、環境を美化し、身近な暮らしを少しでも改善する工夫をする。伝統産業を経験者から学ぶ。町工場の熟練工になる。社会の不平等や不正を改善し、一部の人がトクとなるシステムを改める。過剰な浪費やインチキ商法に関わらない。大企業や官公庁の出世主義からは決別する。そういった本物志向をめざすべきで、英会話や虚妄の国際人を目標とするのはつまらないことである。
退職後、なにもしないで生きていくとして、背広、ネクタイをしなくてもいいという解放感があるだろう。だが逆に、定年後も外出するときは背広、ネクタイ姿という人もいる。このスタイルのほうが自信がつくからだそうだ。タテ社会の呪縛に死ぬまでとらわれるのだろう。人は高齢になれば誰しも衰える。みきわめが大切だ。政治家、医師、弁護士、重役などは生涯背広という人が多い。自信過剰がスーツを着ているようなものだ。
1つの統計調査がある。運転免許を持っている人のグループで、自分の運転技術がそのグループの平均より上か、平均並みか、下かと各人に評価してもらうと、7割以上の人が「上」と答えたという。これは、人は自分の能力を、客観的な見方より高く見積もる傾向があるということである。投資家が失敗したり、競馬、パチンコなどギャンブルに人気があるのは、このような人の自信過剰のおかげである。人の自信過剰で特にやっかいなのは政治家である。権勢欲への執着は果てしない。菅直人もカダフィもあくまで固執するであろう。百歳近い医師が現役なのを賞賛するのも日本人独特の悪弊である。歌謡浪曲の二葉百合子の引き際は見事の一言につきる。自分らしい人生をスタートさせた人は美しい。
戦時下の女性に視点を当てた映画は少なくない。作品には国民性が強く反映される。モニカ・ベルッチ「マレーナ」と吉永小百合「母べえ」はイタリアと日本の国民性がうかがえる。町一番の美人マレーナは男たちに好奇の目でみられ、女たちからは嫉妬される。夫は戦死したと知らされ(実際は生きて帰ってくる)、浮気を訴えられるが、弁護士から性的強要され、やがてはドイツ将校の売春もするようになる。一方の佳代は特高に思想犯として検挙された夫を信じながら子供たちを育てる健気で貞淑な妻。ファシズム政権下で対照的にみえるが、マレーナにもそうせざるを得ない状況があり、夫を愛し続けていたことが最後のほうでわかる。ボッカチオ以来の独自のイタリアン・エロスを進展させてきたイタリア人はあくまで本音で勝負する。日本人は建前や美徳を重んじる。戦時下になるとなおさら軍国美談が感動的だと思うのだろう。ブログでの映画批評は両者に厳しい。たとえば「マレーナ」は男目線だという女性からの指摘。たしかに建前を重んじ、官能を否定する人がみれば低い評価になるかもしれない。しかし戦時下、善悪が混沌とした時代に生きぬいた一女性がややショボクレた姿で買い物をするラストの場面にこそエロスを感じる。「イタリアの宝石」といわれたモニカも当時35歳をすぎていた。映画には卑猥な言葉がたくさん登場するが、実は良質の気品ある映画だった。お父さんが少年を売春宿に連れているシーンは少年の妄想なのか現実なのだろうか。「マレーナ」と「母べえ」との父親像も対照的なのである。「マレーナ」の少年の父親は平均的なイタリアの親父像のような気がする。日本人は本音よりも美化されたものを好むように思える。
カナダです。地球の赤道距離がおよそ4万kmですから、5周にもなる長さです。
カナダ 202,080km
インドネシア 54,716km
ロシア 37,289km
フィリピン 36,289km
日本 29,751km
オーストラリア 25,760km
ノルウェー 21,924km
アメリカ 19,924km
ニュージーランド 15,134km
中国 14,500km
ヒースとは日本ではエリカと学名で呼ばれる。紅紫色の小さな花で、花言葉はソリチュード(孤独)。イギリスのヒースロー空港の名も、このヒースが自生していたことに由来する。エミリ・ブロンテの「嵐が丘」の舞台となるヨークシャーはヒースが咲く四季の自然描写が美しい。だがヒースが生い茂っている野原に言及したものはイギリス文学において数えきれないほどある。イギリスの旅行作家ジョージ・ボロー(1803-1881)の「ラベングロー」(1851)の
「兄弟よ、ヒースの原には風が荒れているよ」
There's the wind on the heath, brother.
などは、一種ことわざのように引用されている。
プロ野球と大学との力の差はどのくらいあるのだろうか?プロと大学の単独チーム同士の対戦が解禁となり、ブロ・大学交流戦が開催。3月1日、宮崎ひむかスタジアムで巨人VS中央大学が行われた。巨人は宮崎にいる2軍が対戦する。練習試合とはいえ、プロが負けたら恥ずかしい。結局、試合は3対3の引分けとなった。
地球にある陸地の生物界の95%は、植物が占めている。植物界を構成する最も有力なものは樹木である。樹木が密生している所を森林という。森は古代文明の興隆を支えてきた。ギリシア文明の衰退の原因は森の破壊が一因とされる。日本の森林面積が国土面積に占める割合はまだまだ大きい。それは日本の伝統的な農村風景、里山の森がアニミズムの世界を守ったともいえる。南方熊楠の神社合祀・社林伐採の反対は環境保護の先駆ともいえる。邪馬台国卑弥呼の所在地として注目されている纏向遺跡。箸墓伝説ではヤマトモモソヒメが「箸で陰をついて」結果、死んだとされる。「箸」とは蛇で、陰とは女性の性器であることから、「蛇巫は現実に蛇と交合する真似事をした」ということであろうか。実は神社に祀られる注連縄は、交合する雄と雌の蛇を現しているといわれる。だが鉄器を伴った、蛇殺しの信仰が普及してくるようになる。蛇が退治されて、スキタイ文化の影響で鹿が聖獣とみなされるようになる。厳島神社、春日大社など、鹿を聖なる動物とする神社が出現する。近代文明も蛇と竜を殺す文明であった。新たな文明には自然と人間の共存なくしては、自らさえも生き残れないであろう。
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