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龍馬脱藩のルートを特定することは、日記だけではわからず謎も多い。文久2年3月24日土佐高知を出た龍馬と沢村惣之丞は、佐川、津野、梼原までの90kmを歩き、25日夜は那須信吾宅に泊まった。梼原から韮ヶ峠を越えて、泉ヶ峠で1泊し、27日には長浜(現大洲市)の支援者宅に宿泊。4月1日には下関の白石正一郎宅に入った。断定できる資料は少なく推し量るしかない。
観光化のためには、誰かが断定してあると都合がいい。
瀬戸内から檮原-ゆすはら-へと塩を運ぶ小道はたくさんあったみたいで、ルートを推測しながら実際に山歩きした本が根拠になってしまいました。
坂本家の祭り神は、和霊様だったから宇和島との関わりがあったのでしょうが、宇和島に行く道は、久礼坂や七子峠があり土佐藩領内に長く留まることになり、捕まる恐れが高いから選ばなかったんでしょう。
投稿: さぶろた | 2011年2月21日 (月) 00時19分
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観光化のためには、誰かが断定してあると都合がいい。
瀬戸内から檮原-ゆすはら-へと塩を運ぶ小道はたくさんあったみたいで、ルートを推測しながら実際に山歩きした本が根拠になってしまいました。
坂本家の祭り神は、和霊様だったから宇和島との関わりがあったのでしょうが、宇和島に行く道は、久礼坂や七子峠があり土佐藩領内に長く留まることになり、捕まる恐れが高いから選ばなかったんでしょう。
投稿: さぶろた | 2011年2月21日 (月) 00時19分