邪馬台国の外交官・難升米
魏志倭人伝の景初3年の詔書にみえる難升米とはどのような人物であろうか。「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方太守・劉夏、吏を遣わして汝の太夫難升米、次使都市牛利を送り」とか「難升米を以て卒善中郎将と為す」とあることから、難升米は卑弥呼の使節として魏へ親善大使として赴き、卒善中郎将の官を賜ったとある。また黄幢を授けられた。漢の制度に詳しい大庭脩によれば、幢とは、「私の考えでは魏王朝からすればあまり重視するほどのものではなかった」とみている。つまり卒善中郎将の官位も濫発されたものであった。
ところで難升米は内藤湖南以来、田道間守のことであるという説がある。難升米Nanchanmai→Nachimaナチマは田道間(タヂマ)の訛化。垂仁天皇の命を受けて常世の国に行き、橘を得て10年後に帰国したが、天皇は崩後であったので、香菓を山陵に献じ、嘆き悲しんで陵前に死んだと伝えられる。
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