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2011年2月25日 (金)

坂本龍馬の妻、お龍に関する諸説 

  お龍は、龍馬が伏見寺田屋で捕方の急襲を受けた際、裸で急を知らせ龍馬の危難を救う働きをしたことで知られる。また薩摩屋敷に急報したのもお龍である。

    楢崎龍(1841-1906)という。父は京都柳馬場三条下ルで青蓮院宮家侍医楢崎将作の長女。一説によると、西陣有織物商井筒屋喜右衛門の女で、14、15歳の頃、楢崎家の養女に入ったという。

    お龍の父、楢崎将作は鈴木かおるの説によると、「将作の祖父の代に長州藩から藩籍を取り上げられ、京都に落ち着く。将作の父・大造が京都で生まれ、将作も京都で医師として働いていた」とある。

     また一説によれば、楢崎将作は安政の大獄に関与し、文久2年6月に病没したという。

     龍馬が近江屋で斬殺された後、お龍は、高知の坂本家にとどまることはなかった。高知を去ったあと、明治6年、妹の起美の嫁ぎ先の菅野覚兵衛(海援隊隊士)を頼り寄寓(築地)。ここで商人の西村松兵衛と明治8年、再婚する。入籍時に「西野ツル」と改名している。晩年は退職海軍軍人の工藤外太郎の庇護を受け余命を送った。経済的には苦しかったが、坂本龍馬の妻だった誇りを失わず、坂本家の紋のついた羽織を着ていたという。明治39年、66歳で亡くなった。横須賀の信楽寺の墓前には香華が絶えない。(参考:鈴木かほる「史料が語る坂本龍馬の妻お龍」)

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