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2011年2月 2日 (水)

バートランド・ラッセルの平和運動

   バートランド・ラッセル(1872-1970)は、イギリスのウェールズのトレレックに生まれた。父アンバーレー子爵および母ケイト夫人がともに早く亡くなったため、3歳9ヵ月の頃から、父方の祖父ラッセル伯爵(1792-1878)夫妻のもとで養育された。祖父はホイッグ党の領袖として、二度まで宰相の印綬を帯びた政治家であったが、この祖父の没後、幼いバートランドは、厳格な清教徒であった祖母レディ・ラッセルの膝元で訓育された。バートランドはすでに少年時代に、徹底的な懐疑と思索の結果、独力で無神論に達したが、彼の生涯を貫く道義的な信念の形成には、祖母の影響がはっきり現れている。祖母が12歳のバートランドに贈った戒めの言葉は、「群衆のなす悪事に追随するなかれ」という聖書の句であった。

   二度にわたる世界大戦、広島・長崎への原爆投下、とくにビキニ環礁の水爆実験(1954年3月)は、ラッセルに大きなショックを与えた。彼は、原爆のときから水爆の可能性を予見していたそうであるが、実験の成功のショックは、それまでの西欧中心的平和思想をゆるがすものであった。1954年12月23日、BBC放送で核兵器の廃絶が地上のいかなる政治的・思想的対立をも越えた人類共通の課題であることをアピールした。ラッセルはその草稿を書き、アインシュタインが死の直前に署名した(ラッセル・アインシュタイン宣言)。彼は、核兵器の廃棄をアメリカ・イギリス・フランスに、さらにソヴィエトや中国にアピールし、1955年には、世界の代表的科学者を集めた会議を提唱した。1957年7月7日、第1回の会議がカナダのノバスコシア州のパグウォッシュという所でサイラス・イートンの援助で開催された(パグウォッシュ会議)。湯川秀樹、朝永振一郎、小川岩雄、マックス・ボルソ、フレデリック・ジョリオ=キュリーら10ヵ国22人の科学者が集まった。1961年には、みずから結成した百人委員会の委員長として国防省玄関前に座りこんで逮捕され、さらにトラファルガー広場で市民不服従運動の大集会を指導し、イギリス全土の核兵器基地にデモをかける。1962年には、ケネディとフルシチョフに長文の電報を送って、キューバ危機の回避に努力し、1965年には、ベトナム危機についていくたびかのアメリカ非難の声明を発し、1967年には、サルトルなどと協力、戦犯裁判をパリに開催してアメリカの有罪を宣告するなど生涯にわたり平和運動を貫いた。

    最後に、1966年12月に中国の核兵実験が成功して意見を求められた時、バートランド・ラッセルは次のように語っている。

   他の国が核兵器を保有するからといって、自分も持とうと考えることは愚かなことである。それは問題の解決に少しも寄与することにならないばかりでなく、核兵力を拡散させる機運を促進する。そしてこの軍備拡張と核兵力の拡散が予期しない大規模戦争を誘発する危険をはらむものである。核兵力が役立つような戦争の勃発は、もはや問題の解決や勝敗の決定どころの程度ではなく、相手もろともに自分も滅亡することである。いや、戦争当事国だけでなく、人類のほとんどが破滅する、いわば全人類の自殺行為である。

   1970年2月2日、ラッセルは97歳で亡くなった。

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