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2011年2月28日 (月)

だだちゃ豆

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えだまめを茹でたもの。甘く香りが濃い。

9415  -36

9457  +42

9503  +46

9521  +18

9499  -22

9600  +101

9673  +73

フランス菓子ドラジェ

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  現在は日本でも披露宴の引菓子として出されるドラジェ。もともとはイタリアのシチリア島でアーモンドを原料としてつくられた。ローマの貴族ファビウス家では、自分の家に子供が生まれたときや家族が結婚したときに、喜びの印として市民にドラジェを配ったという。今日でもこの菓子はヨーロッパで、誕生日や結婚式などおめでたい事などに欠かすことのできないものである。

2011年2月27日 (日)

ハリウッド3人娘

Photo_4 テイラー・スウィフト、セレーナ・ゴメス

  ハンナモンタナのマイリー・サイラス、セレーナ・ゴメス、デミ・ロヴァート、ディズニーチャンネルで見る。このほかテイラー・スウィフト。みな美人だ。ブリトニー・スピアーズ、クリスティーナ・アギレラ、アヴリル・ラヴィーン、マライア・キャリー。でもむかしのペギー・マーチのように日本語で歌ってくれない。ヴィッキーもよく日本語で歌ってくれた。ノーランズが一番ノリがいい。洋楽をYouTubeで聞く。ルックスではセレーナ、日本の若手演歌では山本智子、小村美貴か。

邪馬台国の外交官・難升米

   魏志倭人伝の景初3年の詔書にみえる難升米とはどのような人物であろうか。「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方太守・劉夏、吏を遣わして汝の太夫難升米、次使都市牛利を送り」とか「難升米を以て卒善中郎将と為す」とあることから、難升米は卑弥呼の使節として魏へ親善大使として赴き、卒善中郎将の官を賜ったとある。また黄幢を授けられた。漢の制度に詳しい大庭脩によれば、幢とは、「私の考えでは魏王朝からすればあまり重視するほどのものではなかった」とみている。つまり卒善中郎将の官位も濫発されたものであった。

  ところで難升米は内藤湖南以来、田道間守のことであるという説がある。難升米Nanchanmai→Nachimaナチマは田道間(タヂマ)の訛化。垂仁天皇の命を受けて常世の国に行き、橘を得て10年後に帰国したが、天皇は崩後であったので、香菓を山陵に献じ、嘆き悲しんで陵前に死んだと伝えられる。

投馬国の位置

Photo_3 吉備津神社の回廊

   魏志倭人伝による邪馬台国への道のりで、九州北部の不弥国から出航して投馬(とうま)国がある。邪馬台国問題で投馬国の位置が重要なキーポイントになっているのだが、近畿説はいま一つはっきりとしない。だいたいは瀬戸内にのぞんだ国であるのだが、一説では吉備津神社周辺はむかしから有力な候補地といわれてきた。鳥越憲三郎は御友別命が「友の国」の始祖を神格としたものと考え吉備の国を投馬国に比定している。

まぼろしのテグス行商船

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   いまはナイロン製のテグスが普及しているが、むかしは中国産の天然テグスを用いていた。この梱包用に使っていたテグスを一本釣りの釣り糸に用いることを思いついたのは阿波鳴門の堂浦の漁師たちだった。「日本の海をひらいたのはまったく無名の人々であったということに気づいた」と宮本常一は書いている。

江戸時代なかごろから、堂浦のテグス商人は一本釣りの技法を教えながら、瀬戸内海中にテグスを売り渡った。釣り糸のほか、釣針、重りなど釣具一切を売った。その寄港地はほとんど瀬戸内全域にわたっていた。そのコースを一つ紹介しよう。堂浦→引田→庵治→高松→直島→宇野→岡山。たいていは夫婦2人が乗り込む。昭和16年には堂浦にはテグス商人が23軒あって、それぞれ寄港地も違い、常得意も別々であった。瀬戸内だけにしか見られなかったテグス行商人も、昭和46年には姿を消した。

NZ地震建物倒壊は人災

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   ニュージーランドは日本とよく似た火山の島国で、プレートが押し合った場所に位置する。2000年以降、M7以上の地震が4回起っており、2月22日に発生したクライストチャーチ付近の地震も長さ15km幅10kmの東西に延びた断層が最大70cmずれ動いて起きたものらしい。クライストチャーチのシンボルである大聖堂の塔も崩れ、日本人留学生たちがいると思われるビルも崩壊し、いまだ生き埋めの状態となっている。日本からの国際緊急援助隊の捜索活動をただ祈るばかりである。ただ不思議なのはCTVビルが全壊したのに近くのビルには損傷は見られない。現地では建物の構造に欠陥はなく、自然災害であることを強調しているが、耐震上の欠陥があったとみるのが普通であろう。昨年の地震後、次の地震に備えて出された報告書には補強工事が必要だと指摘されている。しかしビルのオーナーは実施しなかった。この地震による被害者たちは天災ではなく明らかに人災による犠牲者なのだ。京大の英語の試験問題。次の文を英訳せよ。「楽しいはずの海外旅行にもトラブルはつきものだ」Travel abroad is assuredly fun,but problems inevitably occur.なんとも皮肉な話だ。カンニングする若者と英語留学する若者。これからも日本人の英語悲話は続く。

2011年2月26日 (土)

裸で御免なさい

   むかし映画「加山雄三の若大将シリーズ」の最高の見せ場は、田中邦衛が演じる青大将こと石山新次郎が新式器具を駆使してカンニング作戦を実行する。いつも失敗に終わった。そんなカンニングが京都大学の入試試験で行われていた。試験の実施時間中に携帯で問題をネット掲示板に送信し、何者かが回答するというもの。江原達治のような秀才の共犯者がいるのだろう。監督官の目を盗んでカンニングはまんまと成功している。同志社、立命館でも同様の手口があったそうだ。大学当局はいまごろ狼狽しているだろう。インテリが集まる象牙の塔の鼻をあかした手口である。若者の愉快犯にみえる。ネット時代はこれまで不可能と思われたことも簡単にできてしまう。悪事をはたらき国立の大学を卒業し、社会のエリートとして楽な道をあゆむのだろうか。不正行為は絶対に許せない。携帯の持込を許可していること事態に認識の甘さがある。カンニングを防止する一つ妙案がある。古代オリンピア競技のように全裸で受験することである。もちろん男女別の受験会場で。暖房付き、男女別の監督官。

草食系男子・牧場春彦はどうしているのだろうか?

   牧場春彦とは「巨人の星」に登場した絵の好きな青雲高校の友人である。大人しいのに伴の父親を夜に襲撃する。そのことを知った星飛雄馬は牧場の身がわりとなって高校を退学する。今でいう肉食男子の星と草食男子の牧場の対比があざやかである。

    やはり男子は野球、サッカーでなくちゃあ。戦前なら剣道、柔道、そして軍人になるのが理想か。芸術や文学で、「源氏物語」や「西鶴」などはもってのほか。男子の軟弱、柔弱はもっとも否定された。外国でもフランコ政権では、デュマの「椿姫」、フローベルの「ボヴァリー夫人」は禁止された。ナチス・ドイツはいうまでもない。ファシズムだけではなく、カルヴィンやパスカルは芸術を否定した。富国強兵の明治も「詩を作るより田を作れ」がスローガンだった。浪漫派、耽美派などというのは一部の有産階級にのみ許された話なのだ。いまでもロリータ、萌えキャラ、ポルノグラフィー、オタク文化など盛んだが、柔弱・軟弱を悪しきものと感じる人は多い。就職には体育会系が有利だし、美術館ではポルノは排除されるし、法規制も進行しつつある。しかし男子を単純に草食男子、肉食男子と二分化することは危険である。草食男子にこそ長所がある。より人間的、文学的、芸術的、ヒューマニティが認められる。文学とは、単なる慰みものではなく、人間的な真実を求めることにあると思う。つまり性をぬきにしては有り得ない。近代小説の始まりをボッカチォの「デカメロン」とみる文学者は多い。そしてイタリアン・エロスの伝統は現代にも生きている。イタリア映画には、童貞の少年が妖艶な年上女性にセックスの手ほどきをするという性春喜劇に根強い人気がある。ラウラ・アントネッリ、エドウィジュ・フェネシュ、バーバラ・ブーシュ、シモネッタ・カーロ、グロリア・グイダ、ダグマー・ラッセルダル、フェミ・ベヌッシ、カルメン・ルッソ、ナディア・カッシーニなどなど。中年になった牧場春彦はひとりでイタリアのエロス映画を楽しんでいるのだろう、と勝手な想像をしている。日本の基底文化そのものも万葉集、源氏物語、和歌、俳諧と草食的な文化である。

アーコのおみまい

Photo_3 「アーコのおみまい」 大石真 安野光雅

   子供ころに読んだ絵本って、どこかにかすかな記憶が残っているものですね。でも書名など思い出せない。そんなときは、遠慮せずに、図書館の人にたずねてみてはいかかでしょうか。

「あの~、ちょっと私、探している本があるんですが・・・」「はい、どのような本ですが」「四角い本なんです」「ハァ、本ってたいてい四角ですよ」「20年以上前の絵本で、女の子が不安な感じ。汽車に乗って一人旅をする話なんです」「まるで演歌の世界ですね」「トンネルを抜けるんです」「川端康成の雪国じゃないですか」「チャウチャウ、乗客が動物に変身するんです」「変な本ですね。探してみます。しばらくお待ちください」。5分が経ち、「お探しの本はこれでしょうか」

「あぁ、そうです、そうです、懐かしいなぁ」

おはなしは、アーコがハチミツを持って病気になったおばあちゃんのお見舞いに出かける。汽車が、トンネルを抜けると、お客は山の動物に変わり、アーコのハチミツを狙って歌い出す。なんとか無事に追い払って、アーコはおばあちゃんにハチミツを渡すことができた。すっかりよくなったおばあちゃんから手紙が届くとアーコは今度は、動物たちにハチミツを持って行く。めでたしめでたし。

丸顔が幼児に愛される理由はなにか?

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   アンパンマンやドラえもんのように長く子供に愛されるキャラクターには共通した特徴がある。丸顔、三頭身くらいの幼児体型、太め。これらは子供に安心感を与えるという。またミッキー・マウスやスヌーピーは描くことが難しいが、アンパンマンは顔と鼻と頬が円になっていて基本的に描きやすい。やなせたかしは、若い頃、NHKの子供向け番組で漫画の描き方の指導をしていたが、その経験からうまれたものであろうか。

2011年2月25日 (金)

弓削田千吉と若松鉱山

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    鳥取と岡山の県境近くに若松鉱山(鳥取県日野郡日南町湯河)というクロムを産出する鉱山があった。弓削田千吉が開発に着手し、イギリスを通じてアメリカに輸出していた。大正8年からは日本クロム工業株式会社となり、平成7年まで採掘していた。弓削田は晩年は松江教会で私費で伝道場をつくるなどクリスチャンとしての活動をした。

Yugetasama 弓削田千吉(大正9年)

古代の塩

    わが国は岩塩、鹹湖とも存在していないため塩の資源に恵まれず、独特の製塩法が案出されてきた。土器により煮つめる「煮潮」(ニシオ)、「白穂」(シラホ)、「締歩」(シマリホ)、「志本」(シホ)、「之保」(シホ)など古文献に見える。語源としては、潮(うしほ)が塩(しほ)になっていく。「塩浜」という字句が文献に見えるのは9世紀末のことである。

坂本龍馬の妻、お龍に関する諸説 

  お龍は、龍馬が伏見寺田屋で捕方の急襲を受けた際、裸で急を知らせ龍馬の危難を救う働きをしたことで知られる。また薩摩屋敷に急報したのもお龍である。

    楢崎龍(1841-1906)という。父は京都柳馬場三条下ルで青蓮院宮家侍医楢崎将作の長女。一説によると、西陣有織物商井筒屋喜右衛門の女で、14、15歳の頃、楢崎家の養女に入ったという。

    お龍の父、楢崎将作は鈴木かおるの説によると、「将作の祖父の代に長州藩から藩籍を取り上げられ、京都に落ち着く。将作の父・大造が京都で生まれ、将作も京都で医師として働いていた」とある。

     また一説によれば、楢崎将作は安政の大獄に関与し、文久2年6月に病没したという。

     龍馬が近江屋で斬殺された後、お龍は、高知の坂本家にとどまることはなかった。高知を去ったあと、明治6年、妹の起美の嫁ぎ先の菅野覚兵衛(海援隊隊士)を頼り寄寓(築地)。ここで商人の西村松兵衛と明治8年、再婚する。入籍時に「西野ツル」と改名している。晩年は退職海軍軍人の工藤外太郎の庇護を受け余命を送った。経済的には苦しかったが、坂本龍馬の妻だった誇りを失わず、坂本家の紋のついた羽織を着ていたという。明治39年、66歳で亡くなった。横須賀の信楽寺の墓前には香華が絶えない。(参考:鈴木かほる「史料が語る坂本龍馬の妻お龍」)

秦漢帝国における武器(鉄)輸出の規制措置について

   製鉄技術の進歩は中国戦国時代に鉄製の農具などの普及がよく知られ、アジア周辺諸国へも次第に広まっていった。しかし秦漢の高度な製鉄技術は匈奴など抗戦国に知れ渡ることは国家の存亡を意味する。考古学上の研究も進み、冶金技術と製鉄技術を区別した考え方もみられる。秦漢時代、武器・鉄などの管理はどのように行われたのであろうか。

    レファレンス協同データベースにも同様の質問がみえる。「漢の武帝の時代に鉄(武器)の輸出を禁止していたと聞いた。どのような文献があるか」これの回答は協同データーベースを閲覧していただくとして、不思議に思うのは、武器輸出などの禁止をしていたのは漢武帝時代からであろうか。おそらく武帝時代以前も「馬・弩・関」と同様に武器・鉄は門外不出ではないだろうか。桓寛の「塩鉄論」の専売制度の存廃をめぐる官民の論争が引用される。鉄官は前116年から全国46ヵ所に設置されたものであるが、影山剛によると、鉄官の主要生産物は農具であり、当時最も需要の高い鉄器であったから、専売制にして破綻した国家財政の建て直しには効果があったものである。私鋳は厳禁され違反者は処罰された。鋼鉄製の武器等は元来国家が大量に必要とするものであるから、専売制以前から工官などの官営作業場で製造されており、国庫収入の増加をもたらす品目ではなく、武帝以前の秦始皇帝の時代も鉄製の武器などの国外輸出は厳禁されたのは当然のことと考えられる。史書によれば匈奴の和平によって前82年に武器輸出の規制も廃止されたという。しかしレファレンス協同データーベースの質問である、漢武帝において初めて鉄(武器)の輸出が禁じられたという疑問には、いささか首をかしげざるをえない。(参考:影山剛「漢の武帝」)

随心院の梅

  京都山科にある随心院の梅が見ごろである。だが随心院は梅だけではない。深草少将が小野小町に言い寄って百夜通いのすえに亡くなった伝説を残す随心院、小野小町居宅跡がある。深草から随心院の山科まで一里の距離がある。草深い山道を歩いて行ったのだろう。

   平安時代の歌人・小野小町は生没地など史実が不明なところが多いが、早くから美人として伝えられ、死後、諸説が生まれている。中世の説話集にもその物語がみられるが、謡曲には「草紙洗小町」「通小町」「鸚鵡小町」「関寺小町」「卒塔婆小町」等の小町物といわれるものがある。これらは恋の歌人として讃えるもの、深草少将の百夜通いを題材とするもの、西行が深草少将の墓で歌を詠ずると、髑髏が返歌したが、西行の供養で往生するという話、年老いて乞食となった小野小町の話、などに大別される。いま毎年、ミス小野小町コンテストがある。

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2011年2月24日 (木)

種子島の若狭姫伝説

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    1543年、ポルトガルの難破船が種子島に漂着して日本に火縄銃を伝えた。新たな武器は瞬く間に全国の武将の間に普及し、戦闘方法に革新を起こした。これを促進したのが伝統的な刀剣技術の蓄積で、刀鍛治の手を通して火縄銃の国産化が行われた。

  種子島には若狭姫伝説が伝わる。国産の火縄銃を作るたる刀鍛治の八板金兵衛は取り組むが、当時は日本にはネジの技術がなかったので製作にいきづまった。金兵衛がポルトガル人に教えを乞うと、娘の若狭を嫁に出すことが交換条件となる。親子は悩むが、若狭は藩のためならとそれに応じて、ポルトガル人と結婚する。このとき若狭は16歳で、欧米人と日本人女性との初めての国際結婚だった。こうして、国産の鉄砲は完成した。翌年、若狭はポルトガル人と帰国したが、急病で亡くなったとも、偽ってそれからもポルトガルに帰らず日本にいつづけたともいわれる。

林出賢次郎と世界紅卍字会

Photo_13 修座

  林出賢次郎(1882-1970)は明治15年和歌山県生まれ、明治38年上海東亜同文書院卒業後外務省嘱託となり、中国新疆地方の視察を命ぜられる。以後、駐満州国大使館書記官、溥儀の通訳となる。戦後は公職から離れ、世界紅卍字会の再建に尽力する。世界紅卍会とは大正11年に設立された中国の民間信仰から発した宗教慈善団体で、笹川良一、植芝盛平(合気道創始者)、五井昌久(白光真宏会主宰者)、安岡正篤、呉清源(囲碁)などの諸氏も賛同している。修座(坐禅)と誦経によって信仰修養を目的とする。現在も東京銀座に本部がある。

長崎の明治洋館

Photo_10 阿蘭陀屋敷二十五番館Photo_11 グラバー邸Photo_12 大浦天主堂

    16世紀以降、長崎は日本唯一の貿易地として南蛮貿易とキリシタン文化がさかえた。1859年に幕末開港したが、天然の良港を有しながら輸出産業に乏しく、後背地をもたないためにその後の横浜、神戸などに発展を奪われ衰微するに至った。

    幕末に造成された長崎の外人居留地は、出島と入江を埋めたてた大浦地区に商館が建ち、そのうしろの丘、東山手と南山手が住宅地になっていた。当時の遺構が多いのは南山手地区で、大浦天主堂(1864年創建)、グラバー邸(1863年)、リンガー邸(1868年)、オランダ屋敷二十五番館(1889年、明治村移築)がある。明治中頃までには、推定790棟の洋館が存在していたが、その多くが解体されて、わずかな洋館が往時の異国情緒の名残りをとどめている。

古い絵葉書から

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    大正初期の松山市道後温泉の遊郭(松ヶ枝町)の絵葉書。踊り念仏で知られる一遍上人(1239-1289)はこの近くの宝厳寺の一角に生まれた。夏目漱石も「山門の中に遊郭があるなんて、前代未聞の現象だ」と書いている(坊っちゃん)。一説によると、阿波踊りやよさこいの踊りの起源は一遍の念仏踊りにあるといわれている。

スカーレットを演じた女優、逃した女優たち

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    マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」は日本人が選ぶ映画のベスト10には必ず入っている。「ローマの休日」と1位、2位を争う演目である。宝塚歌劇でも何度か公演し人気を博している。スカーレット役には、遥くらら、汀夏子、安奈淳、一路真輝、順みつき等が演じている。また東宝ミュージカルで大地真央の当たり役でもある。最近は米倉涼子のスカーレットが話題を呼んでいる。

    本家のアメリカではもちろん、ビビアン・リーの不朽のはまり役だが、映画のスカーレット選びには歴史の残る難航であった。当時の主だった主演女優の多くが候補に挙がっては消えていった。一時、キャサリン・ヘップバーンがさかんに売り込んでいたが、セルズニックは「私にはどう考えても、レッド・バトラーが10年間追っかけるとは信じられない」と厳しいコメントを残している。つまりスカーレットには演技力もさることながら、絶対的な美貌が要求されるのであろう。そうすると全盛期を過ぎた大女優には不利になる。クローデット・コルベールは1937年当時は32歳、ジョーン・クロフォード33歳、ジーン・アーサー29歳、キャロル・ロンバード29歳、ジョーン・ベネット27歳、タルラ・バンクヘッド35歳、マール・オベロン26歳。ポーレット・ゴダードは26歳だがチャップリンとの関係があってダメになった。アン・シェリダン22歳、スーザン・ヘイワード19歳も若すぎるという観があった。結局、若いイギリスの女優ビビアン・リー24歳に決まった。

Photo_5 タルラ・バンクヘッドPhoto_6 ジョーン・ベネット

沖虚至徳真経

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  宋の国に狙公という人がいた。狙とは猿のことである。彼は、その名のごとく猿が好きで、猿をたくさん飼っていたが、費用がかさんでやりきれなくなり、餌を減らすことにして、猿どもに向かってこう言った。「お前たちにやるどんぐりをこれからは朝に3つ、暮に4つということにする」これを聞いて猿どもは怒りだした。そこで狙公が、「それじゃ、朝に4つ、暮に3つにしよう」と言うと、猿どもはそれで納得したという。このよく知られた寓話は戦国時代の鄭の人、列禦寇(生没年不詳)の作といわれる「列子」にみえる。「沖虚至徳真経」とは「列子」の別名で、唐の殷敬順による注釈「列子釈文」が流布するようになった。唐代は道家の書物が非常によく読まれた時代で、天宝元年には玄宗の勅により、道家諸子に真人、その著に真経の尊称がそれぞれ与えられた。列子は沖虚真人、その著は沖虚真経である。宋の景徳2年には、更に真宗の勅により「至徳」の2字が加えられ、「沖虚至徳真経」と称されるようになった。

薩摩府学聚珍版「航海金針」

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    「航海金針」とは、航海業者等にとって参考指針となる書物で、台風発生の原理や中国近海でのその進路といった気象学上の知識をはじめ、海上航海に必要な諸種の知識が多くの図版を添えて記されている。清国、咸豊3年、愛華堂から刊行されたものを、薩摩藩が木活字を用いて翻刻したものである。藩主島津斉彬(1809-1858)の英明ぶりがうかがえる。

2011年2月23日 (水)

文化人、識者の社会的責任

    毎日のようにあふれる情報で何度も耳にすると、それが当たり前のもの、素晴らしいものであるという錯覚に陥いらされます。たとえば、海外留学、エコ、検定、資格、ダイエット、健康食品、保険、ランキング、などなどこのように言葉はここ20年の間で身近な言葉になっています。美味しい世界の料理を食べて痩せて、ヘップバーンのようなファッションでパリやローマでショッピング。まるで夢の世界のような気分のパンフレットがあふれています。しかし、これらはほとんどが「悪魔の囁き」です。誰かがあなたを騙してお金儲けをたくらんでいるのです。もっとも性質の悪いのは、学者や文化人です。多くの人はこんな知性があって地位の高い人の言うことだからと盲従してしまいます。「文化豊かな街づくり」と耳あたりのよいことを言い続けています。しかし美術館や文化ホールを建設するには何十億の費用がかかります。実際に建設したけどガラガラで維持費だけでも大変だというところが全国にたくさんあります。1980年代頃に起った阪神間のモダニズム文化ブームも単なる税金の無駄遣いでした。でもその責任をとった人を聞いたことはありません。口先で文化を語ることは容易く、結果が失敗に終わっても、後で責任をとることなく、また別のテーマは文化や夢を語る識者が多いのです。宝塚市の手塚治虫記念館も入場者数の減少傾向が問題になってきている。市直営だけに税金の使い方が厳しく指摘される。手塚治虫のようなネームヴァリーのある作家でもこのような現状である。谷崎潤一郎記念館にしても文学記念館としてどのような役割をしているのか今ひとつ分からないところがある。財政的に余裕があるときは許せたが、将来も維持運営するには教育効果とか明確なビジョンが求められるだろう。

和田垣吐雲

    明治・大正に活躍した東京帝国大学の経済学者、和田垣謙三(1860-1919)は一風変わった名物教授だった。講義は女優のゴシップや和歌英訳などのむだ話をしているうちに終わってしまい、経済学の経の字も出なかった。試験も「テキレッツのパーについて解釈せよ」などと出題する有様だった。毎晩本郷の縄のれんを軒並みハシゴして歩く。酒ばかり飲んで肴は一切とらない。4軒目が終わると、バーへ行き、女給を相手に拳をする。こうして借金が増えて、明治30年ごろには、月給まで差し押さえられていたという。それでも家庭生活は困らなかったという。というのも、当時は大学教授といえばどの商店でも3ヵ月は黙って品物を届けてくれた。和田垣家は3ヵ月ごとに注文する店を変え、どの店にも借金ができ、届けてくれる店がなくなると引越したらしい。

   だが和田垣は、井上十吉、神田乃武とともに明治の三大英学者といわれるほどの語学力をもち、とりわけ英文学に優れていた。イギリス、ドイツと留学し、日本人最初の経済学教官である。もっとも著書は参考書や概説書が主で、「兎糞録」「吐雲録」などの軽妙な随筆がよく読まれていた。(参考:三島憲之「和田垣謙三と明治・大正期の経済学界」東北公益文科大学総合研究所論集21)

2011年2月22日 (火)

個人の収書が国家的財産になること

Photo_6 ニュートン「自然哲学の数学的原理」

    18、19世紀の経済学者たちの多くは歴史家が多い。スイスの学者シスモンディ(1775-1842)もパリを中心とした文壇で活躍した学者である。大著としては「中世イタリア諸共和国史」や「フランス史」などがあるが、専著として「政治経済学の新原理」(1819)の原著が国立国会図書館に所蔵されている。これは経済学者の高橋精之(1933-1991)の寄贈によるものだそうだ。高橋は数千冊の和書と二千冊を超す洋書を所蔵していた。主に18世紀から19世紀の古典が多い。ニュートン「自然哲学の数学的原理」(1687)、バークリ「人間知識の原理」(1710)、スウィフト「ガリバー旅行記」(1726)、モンテスキュー「法の精神」(17748)、カンティヨン「商業一般本質論」(1755)、ガウス「整数論研究」(1801)、キーツ「エンデミオン」(1818)、ヘーゲル「法哲学」(1821)、ディケンズ「クリスマス・キャロル」(1843)、フロイト「夢判断」(1900)、ルクセンブルク「資本蓄積論」(1914-1921)、ハイデッガー「存在と時間」(1921)といった名著の初版本がズラリある。それにしてもこれだけの本をどのように入手したのか。サザビーのオークションで手に入れたものもあるらしい。一個人の収集の労によって貴重な本が国民の蔵書となったわけであり、高橋精之の収集事業は快挙といわねばならない。

別れても好きな人

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    国木田独歩が若き日、佐々城信子(1878-1949)と恋愛し、結婚、離婚したことは、その後の独歩の作家人生に大きな陰影を与えたことは言うまでもない。独歩の小品「鎌倉夫人」(明治35年)に登場する愛子という名の鎌倉夫人が佐々城信子であることも明らかである。「六年前、僕の妻であった女」とあり、「船中で船員と怪しい仲になった」とある。有名な有島武郎の「或る女」でも早月葉子がアメリカへ行く船で事務長と恋に陥ちる件がある。つまり国木田はこのような信子の噂を耳にしたことは事実であろうし、これに関する不快感も事実であろう。この「鎌倉夫人」には、かなり独歩が感情にまかせて書いてしまったという感じがつよい小説である。作品としてはあまり出来の良いものではないが、独歩の当時の心理状況を知るうえでは貴重な資料といえる。小説のことが本当だとすれば、独歩と信子は離婚後、2度ほど会ったことになる。(明治32年と明治35年)。

  「私はもはや一生独身ときめているのですよ」「けれども、愛子さん!独身でも何でもいいから早く生涯の目的をきめて真面目な生活を送るようになさらんと、しまいにはほんとうに死んでも足りないほどのあさましいことになりますよ」と書いている。独歩は本当に信子の行く末が心配でならなかったのだろう。

    独歩の二番目の妻が国木田治子(1879-1962)。女優の国木田アコは孫か。最近、欧米では村上春樹が独歩の末裔だという珍説があるらしい。佐々城信子と別れた独歩が失意で京都の寺で滞在していたときに、寺の娘との間に生まれたのが村上春樹の祖父というのだが、にわかに信じられない話である。

2011年2月21日 (月)

日本とモンタナ州

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    日本には人口100万人以上の都市が12ある。東京、横浜、大阪、名古屋、札幌、神戸、京都、福岡、川崎、さいたま、広島、仙台。だがアメリカのモンタナ州は日本とほぼ同じ面積に約98万人の人々が暮らしている。世界で人口爆発が懸念されているが、地球上が人であふれることはない。一部都市に集中し過ぎないような政策をとることが大切ではないだろうか。日本でも限界集落とか過疎化が進行したり、北九州など人口が減って100万都市を割るようになった。また政府の土木事業の減少で、地方はますます苦しくなっている。北海道、東北、四国、九州、沖縄など地方の目をむけ、バランスのとれた国土の環境を整備すべきである。経済的に余裕のある人は夫婦での温泉旅行などをお奨めする。そのさいには、大きなホテルではなく鄙びた土地の旅館を選んで欲しい。土産物もその土地の物産で、その土地の人が経営する店で買って欲しい。星野仙一が仙台へ行ったり、斎藤佑樹が北海道へ行ったりすることは、国土の観点から考えてもいいことである。プロ野球機構はある程度、全国のバランスも考えるようになってきた。狭い国土ではあるが、国民が誰しも豊かな暮らしができるよう知恵をだしあって、できることから取り組んでいこう。

風は思いのままに吹く

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  イエスのもとに夜、しのんでユダヤ人の指導者ニコデモがやって来ます。地位の高い人で年齢もイエスよりかなり上の人でしょう。イエスに質問します。イエスは「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこから来て、どこへ行くのかは知らない」と。ニコデモは法廷でイエスを弁護しますが、イエスは処刑されます。埋葬の際にニコデモは約百斤の没薬と香料を捧げた。伝説によればニコデモは、その後キリスト教に入信したといわれています。

饅頭がこわい

   数人の若者が話をしている。「お前、何が怖い」「実は、オレは饅頭が怖い。思い出しても気持ちが悪い」聞いた一同、嫌な奴だから、饅頭で脅かしてやろうと、男を部屋に閉じ込めて、饅頭を100個ばかり置いた。そこで壁に穴をあけて中をのぞいてみたところ、男は「あァ、怖い、怖い」と言いながら、ムシャムシャ喰っている。騙されたかと、怒り出して、「まだ怖いものがあるか」と怒鳴りつけると、「まだある、お茶が一杯怖い」と。おなじみの落語「饅頭がこわい」だが、この話は元は北宋末の葉夢得の随筆「避暑録話」にある。原話は、口と腹、ときたま本音を使い分けた政治家の渡世術を皮肉ったものである。現在の日本にも「饅頭がこわい」と言っている政治家が多い。

政治家は「嘘も方便」

   「英雄、人を欺く」という。佐藤栄作の沖縄返還交渉で「核抜き、本土並み」はウソだった。これまでずっと政府、外務省は密約により核兵器の持込を容認していた。日本国民はずっと騙されていた。核拡散防止条約に批准している日本は違反になるし、佐藤栄作のノーベル平和賞受賞など噴飯ものだ。政治家は「ウソも方便」と言うだろう。そんなとき、鳩山由紀夫が「普天間移設の理由を軍事的抑止力を挙げたのは方便」と発言した。沖縄県民だけではなく、民主党内からも党の結束をみだすと批判がでた。本人は講演で広辞苑をひきあいにして「方便は仏教語で、真理を導くための手段」と釈明している。方便の語源は、梵語の「ウパーヤ」で仏が衆生を救うために用いるいろいの手段のこと。さすれば、鳩山は自分を仏様か宇宙人であると思い、国民を衆生とみて、諭しているという感覚なのだろうか。

日曜洋画劇場

    今夜「アイアンマン」をみる。アニメは知らない。グィネス・パルトローが出演しているから観た。「恋におちたシェイクスピア」のような作品を期待しているのだが、最近は娯楽作品にでている。結婚して2児の母親としてはお金がいるのだろうか。映画は意外と楽しめた。超合金のロボットが決闘するシーンは迫力満点。ジェフ・ブリッジスも懐かしい。最近の「日曜洋画劇場」はSFアクション中心のプログラムだ。淀川長治が解説していた頃も視聴率の取れるアクションか、名作かで揺れたが、長寿番組となっている。やはり吹き替えでみれるのはいい。

2011年2月20日 (日)

笑顔が一番

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    「笑う門には福来る」毛吹草には、「笑う所へ福来る」、世話尽には「笑う家に福来る」とある。「笑いは緊張の緩和から来る」とはカントの言葉。「笑い」は人の心を晴らし、健康のためにもよいものである。にこやかな顔をしている者には、憎しみの情も自然に消えてしまうのである。「笑い」は自分をも、自分のまわりも明るくする。福は明るい所が好きなのである。「笑う門」にはやって来るのである。ロンドンのタイムズ紙も「友を得、人の心を動かすための一番の方法は、にっこり微笑むこと」と述べている。ロイヤル・メールの依頼で実施された全国調査によると、たいていの人は、まず笑顔に注目する。調査を受けた半数近くが、無愛想な人とは仕事上の取り引きをしたいとはおもわないと述べた。「ヒューマン・フェイス」の著書ブライアン・ベーツは、「自然に笑顔が出る人のほうが、無愛想な人より、私生活でも仕事でもうまくやっていける」と述べている。

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笑顔で思い出す女性タレントは?安倍なつみ、宮崎あおい、永作博美・・・古いところでは、榊原郁恵か。なぜか小柄な女性が多い。

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老いたる馬は道を忘れず

    斉の桓公が孤竹という小国を攻めたときのこと。往きは春だったが帰りは冬で、寒さと雪のために道を失い困っていると、宰相の管仲が「老馬の智を用うべし」といった。年老いた馬は本能的な感覚によって、道を探しあてるものだという。そこで駄馬のうちから1頭の老馬を選んで車から解き放った。一同それについて行軍すると、無事道にたどりつくことができた。

オー・ミステイク!!

    昨夜、日本テレビのニュースで「菅首相は退陣する可能性を否定しませんでした」と報じた。これはアナウンサーの原稿の読み間違えで、正しくは「否定しました」だった。

  作家の車谷長吉は連載の中で、「四国八十八ヵ所」と書くべきところを「四国四十八ヵ所」と書いてしまった。同氏の代表作が「赤目四十八瀧心中未遂」だったからと本人は弁明していた。

2011年2月19日 (土)

日本近代図書館思想とモルレー

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    アメリカ人のディヴィッド・モルレー(1830-1905)は明治6年から11年までの間、文部省の学監として明治政府の文部行政に関わったお雇い外国人である。文部大輔の田中不二麿(1845-1909)にも援助したらしく、アメリカ流の自由主義教育はモルレーからの影響があったと考えられる。ただし、近代的な図書館思想が具体的にどのような面でモルレーが果たしたのかは、いまのところ不明である。

春には首相退陣はあるか?

   菅内閣の支持率低下がとまらない。予算関連法案の年度内成立と菅のクビをひきかえという噂まで飛び交う。ともかく水面下で菅降ろしは始まっている。今後考えられるシナリオは三つしかない。一つは菅が予算が可決しなくても、このまま首相の座にいすわり続け、国民の非難に野党が折れる。二つ目は、イラ菅が投げ出して衆議院解散。三つ目が一番考えられるケースで、民主党代表選挙。ポスト菅には岡田、前原、野田らの名が浮上している。早晩、菅の退陣は時間の問題とみるべきだろう。

悲しみは空の彼方に

Photo_3 サンドラ・ディー、ファニタ・ムーア

   ラナ・ターナー主演の大時代のメロドラマ。クローデット・コルベールの「模倣の人生」(1934)のリメイク。見所はラナとジョン・ギャヴィンの恋愛よりも、黒人女中の母娘。娘のスーザン・コーナーは混血だが、一見したところ白人と変わりがないので、少女のときから白人で押し通そうとしていた。しかし信仰心の篤い母ファニタ・ムーアは黒人であることを隠すのはよくないと教え、二人はいつも対立する。この悲劇が見るものの心をうつ。公民権運動が起るときなので、人種問題への捉え方には問題があるかもしれないが、通俗的ドラマとしては成功している。ファニタの盛大な葬儀で終わるラストも感動的である。当時、アイゼンハワー大統領の誕生日にホワイトハウスで歌った黒人歌手マヘリア・ジャクソンも登場している。ハイティーン娘のサンドラ・ディーがとても可愛い。「避暑地の出来事」でブレイク。トロイ・ドナヒューも端役で出演している。このあとすぐサンドラが歌手のボビー・ダーリンと結婚したというニュースでガッカリした思い出がある。いまはもうサンドラやトロイもいないが、ファニタ・ムーアは元気である。人の運命は判らない。

2011年2月18日 (金)

まぼろしのグリコ文庫

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    こどもの頃、お菓子屋さんのガラスケースのなかに本が並べてあった記憶がある。あれは「カバヤ文庫」といって、カバヤの製品を買って引換券を集めると本が景品としてもらえるのである。カバヤ文庫のことは、坪内稔典の「おまけの名作」という本に詳しく書いている。ところが同じ頃、グリコもやはりおまけで本を景品にしていたのである。南洋一郎の「密林の凱歌」「緑の無人島」、横山美智子「銀の十字架」など。カバヤが児童文学の名作であるのに対して、グリコはオリジナル、書き下ろし文学である。実はグリコ文庫は戦前からあったようで、「軍歌集」「万国国旗集」といった簡単な実用向の本があったそうだが詳しい実態はわからない。おそらく納本制度もスタートしていないので国立国会図書館にもグリコ文庫は所蔵してないかもしれない。

リトグラフの発明者ゼネフェルダー

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    ゼネフェルダー(1771-1834)は日本ではその名前はほとんど知られていないがドイツはもとより欧米諸国では著名な人である。もともとは劇作家であるが、石版画(リトグラフ)の発明により後世に名がしるされた。版を彫ってインキをつけて、紙に押しあてて同じ模様を何枚も作る技術を印刷という。版の形は凸版、平版、凹版、孔版の4種類がある。現在の印刷技法のほとんどが平版であることから(オフセットの発明はアイラ・ルーベル)、ゼネフェルダーは印刷の源流をなすといえる。演劇家であった彼は戯曲を自分で安く印刷しようと実験をかさね、凸版でも凹版でもない方法で楽譜や絵画等を美しく印刷する方法を1797年から1798年頃に完成させた。モーツアルトの楽譜の印刷で成功し、その技術はたちまちヨーロッパ中に広まった。

彼岸会と春分・秋分

    「暑さ寒さも彼岸まで」と言われる。「彼岸」とは春分・秋分の中日として、その前後7日間を意味する。この7日間に仏教寺院では彼岸会法要を行い、人ひどは墓参りをする。「彼岸」は「此岸」の対語であり、生きているこの世である此岸から理想界である彼岸に到達することが、「到彼岸」の意味である。とすれば「到彼岸」のための「彼岸会」は、季節の分かれ目である春分・秋分とは無関係である。なぜ本来無関係の2つが結合したのか、不明なところも多い。中国の浄土教が、この日太陽が真西に沈むところから、日没のところに阿弥陀仏国を観想して、喜び慕う心を起こすことを説くようになったことが初めらしく、大阪四天王寺で彼岸会に落日を拝む風習はここからきている。また中国で作られた経典に説かれた立春、春分など四季の8日に、仏事をおこなうと功徳があるという中国思想も加わったものである。

鎌倉仏教は宗教改革か?

    鎌倉時代における新仏教をどのようにとらえるか。ルターの「神に義とされるのは、ただ信仰のみによる」という主張と、法然と親鸞は浄土教の伝統に連なりつつ、「ただ念仏」、「ただ信心」とその根本精神を表明し、それが日本の仏教を変革する一つの端緒となった類似点はある。ただ日本の「鎌倉仏教=宗教改革」説は、近代日本人の宗教意識をほとんど説明しえていないところに、この説の大きな欠点がある。つまりヨーロッパ近代史においてルターやカルヴァンがはたしたような潜在的勢力をもちえなかったことがあげられる。わが国においてはじめて「鎌倉仏教=宗教改革」論をいいはじめたのは明治40年代の原勝郎であろう。これに対して、黒田俊雄は、鎌倉仏教の本質は、天皇家、藤原氏、有力寺社、そして武士の棟梁などの権門勢力が連合する、反動的な権門体制であったとして、「鎌倉仏教=宗教改革」説を否定している。鎌倉仏教と西欧の宗教改革とを類型的に考えることは無理があるであろう。(参考:原勝郎「東西の宗教改革」芸文2-7、1911年、黒田俊雄「日本中世の国家と宗教」1975)

2011年2月17日 (木)

本屋が舞台のロマンティック・コメディ

    「ユー・ガット・メール」(1998)と「ノッティングヒルの恋人」(1999)はともに本屋が舞台の恋愛映画。前者はメグ・ライアンが経営するニューヨークの児童書店。後者はヒュー・グラントが経営するイギリスにある旅行書専門の書店。外国映画で書店の様子がわかるので興味深々。メグは児童書に詳しく、子どもたちを集めておはなし会なども開いている。ハリー・ニルソンの「オーバー・ザ・レインボー」やエルヴィス・コステロの「She」など主題歌もいい。メグ・ライアンやジュリア・ロバーツにはロマコメが似合う。だが本屋が舞台の映画もこれからなくなるだろう。インターネットの書籍販売が普及して、書店ビジネスそのものが崩壊している。街の本棚が消滅しつつある。

裸体表現と芸術

Photo_2 ビゴーの諷刺画

   西武渋谷店で開催中の「シブ・カルチャー」展が会期途中で作品に対する苦情のため中止された。「百貨店にふさわしくない」というのが主催者側の理由だが、信じられない出来事である。具体的にどの作品かは明らかではないが、現代アートで裸体表現はつきもの。また鑑賞者の賛否は当然両論あるはず。拒絶反応が大きいということは逆の心理からみれば、刺激的なものといえる。途中で打ち切るなら、もともとのコンセプトは何んだったのかという疑問が生ずる。日本は115年前の黒田清輝の「朝妝図」の裸体画問題から進歩していないらしい。百貨店の体面を保つというより、近年顕著にみられる企業のトラブルを回避するための自己保身であろう。だいぶん前にモディリアニの裸体画を観た大阪の女性議員が「不快感をおぼえた」と騒いで問題になったこともある。なにかしらの圧力があって表現の自由が奪われていく時代になっていく気がしてならない。

パーキンソンの凡俗法則

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    シリル・ノースコート・パーキンソン(1909-1993)は、著書「パーキンソンの法則」(1958)の中で委員会が原子力発電所と自転車置き場の建設について審議する様子をたとえ話として比較している。これは一般にパーキンソンの凡俗法則といわれている。

    原子炉の建設計画は、あまりにも複雑であるため一般人には意見をいうことが困難で、あるいは関心がなく、審議は着々と進む。一方、自転車置き場は身近であるため些細なことでも議論は白熱し、時間を最もムダに消費する。国会の予算審議も案件よりも、相手の失言やスキャンダルへの質問のほうが責めやすく、党利党略のテレビ受けする論議になりやすいのと似ている。

   パーキンソンというイギリスの学者は風変わりな学者である。「EAST AND WEST」(1963)も「パーキンソンの歴史法則」という副題があるが、内容は単なる東西交渉の世界史の本である。彼の真骨頂はパーキンソンの法則にみられるように風刺家にあるようだ。「ホレーショ・ホーンブロワーの生涯とその時代」という海洋帆船小説も執筆している。

普通の人が学ぶ時代がきた

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   インターネットが普及して便利になったと思うが、これまでの情報とは主に生活での身近な暮らしの情報、あるいはすでに紙媒体で知られた既知の百科事典のような情報(ウィキペディア)であった。ところが最近、サイニイ(CiNii)を利用すると、これまでにないより高度で学術的な知識が得られる。サイニイとは国立情報学研究所の学術情報サイトで、紙媒体の学協会誌がオンラインで無料開放している。つまりこれまで図書館へ行かなければ閲覧できなかった学術論文が手軽に自宅のパソコンで閲覧できる。論文も普通の人が手軽に読める時代がきた。(もちろんすべてオープンアクセスできるわけではない)むしろ東大や京大のような有名大学の原著論文よりも、地方の女子短期大学の紀要や専門高等学校の中に隠れた面白い論文がある。時宜にあったテーマや興味をひく論文が必ずみつかるはず。さすがに論文だけに注釈が精緻で週刊誌や総合誌よりも、高度で論点が整理されていて読むコツさえつかめば、わかりやすくためになる。これまで民間の者が書いた論文は、先行論文にあたっていない、と門前払いをされた悔しい思いがあったが、これからは大学側が民間に論文を開放して、教授陣がどのような研究をしているのか可視化が進めば、新たな入学希望者も増加するし、研究者も注目度が高まることは学術の高度化にも繋がる。これまで生涯学習といえば、老人が高い金を払ってカルチャー教室に行って、一方的な講義をきく、という、まるで信者が説法を聞くことと同じスタイルであったことに疑問があった。営利的なカルチャー志向では本物の学問にはならない。修了証などよりも、学びの喜びを知ることが大切である。

美人すぎるジェラード警部の妻

Tumblr_l36qegpsjz1qb7dheo1_500    「逃亡者」第69話、70話。「錯乱」ジェラード警部の妻マリーが登場する。キンブルと偶然に同じバスに乗り合わせ、バスは事故を起こす。マリーは失明し、キンブルとの2人旅となる。お互いに素性を知らぬまま、同世代の会話がはずみ、次第にうちとけあうようになる。しかし逃亡者と知ったマリーは警部の妻としての行動にでる。シリーズ中でも傑作の一つだろう。ジェラードの妻を演じたのは50年代の清純派女優、バーバラ・ラッシュ。記憶に残る名作はないものの、ジェフリー・ハンター、オーディー・マーフィー、ジェフ・チャンドラーらの相手役をつとめB級映画に花をそえた。バーバラの魅力はキリッとみつめた瞳にあるだろう。「錯乱」は大人しいバーバラの最高の熱演だったように思う。

 

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新語の危険性

    毎年多くの新語が生み出される。その中で流行語となるのは便利で使いやすいから、あるいは一言で多くの複雑な問題を含んでいるためである。「ガラパゴス化」という新語は、まさにその典型例であろう。いまインターネットで検索すると多くの文章事例が見つかるだろう。ガラパゴスとは南アメリカ、エクアドルの西方約1000kmの太平洋上にある島である。島名の語尾に「-化」(形や性質がかわること)をつけてどのような意味をもたせているのか。定義はあいまいであるが、ガラパゴスが特異な生物相で知られることから、転じて、携帯電話やコンピューターが日本独自で進化したものの海外市場で振るわないことを揶揄して使われることが多い。経済やビジネスの世界で使われるので、日本製品を海外により多く売る、ということが前提となっている。ところが流行語となると、ビジネスだけでなく諸分野でも「ガラパゴス化」は使われだす。たとえば教育でいえば、「日本の大学はガラパゴス化でいいのか」というように。これなどは論者はハーバード大学への日本人学生が世界に比べて少ないことをあげて、日本の教育のあり方を指摘しようとするものである。そうすると、逆になぜ「ガラパゴス化ではいけないのか」という声もでてくる。またガラパゴスという現実に住民の暮らしている土地に対して否定的な意味で使うことの是非も生じてくる。またシャープは情報端末に商品名として使用する。他国の地名を勝手に商品名に使う日本人の厚かましさ。そもそも「ガラパゴス化」などを使用する人たちは限られている。主婦や学生、隠居老人には不用の言葉である。ビジネスマン、大学研究者たち、言葉の使用は思想と直結する。新語には多くの危険性を孕んでいる。新語を使うことで人の気をひくのは結構だが、そのために本質的な議論が見逃されて、海外に誤解をうむことのないように注意したほうがよいだろう。

2011年2月16日 (水)

漱石は、サビシーい!

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    夏目漱石の生い立ちは、まるで親に捨てられたような幼年時代であった。それでもぐれずに漢籍と英語を学んだ。留学したロンドンでは、下宿屋で泣いて過ごしたという。

     いまインターネットで「漱石」、「淋しい」と入力すると、実に多くの文章がでてくる。漱石全集の総索引を調べても「淋しい」「淋しさ」「淋しみ」などの使用例が多い。俳句にも「淋しいな妻ありてこそ冬籠」がある。有名なところでは小説「心」の「先生」は、自ら「私は淋しい人間です」と言い、青年の「私」にも「ことによると貴方も淋しい人間ぢゃないですか」と問いかけている。「私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代わりに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己れとに充ちた現代に生まれた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わなくてはならないでしょう」が名言として知られている。「彼岸過迄」では須永市蔵が「もう怖い事も不安な事もありません。其代り何だか急に心細くなりました。淋しいです。世の中にたった一人立っている様な気がしています」(松本の話)とある。また大正3年の学習院輔仁会での講演会「私の個人主義」で、「個人主義の淋しさ」を述べている。当時、三宅雪嶺の国家主義と漱石の個人主義が対立していた。朝日新聞の文芸欄の担当責任者として悩ましい問題を抱えていた。(参考:小田島本有「彼岸過迄と池辺三山」釧路工業高等専門学校紀要33、1999年)

忘れな草

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    中世のころ、騎士ルドルフとその婚約者ベルタとが、ドナウ河のほとりを散歩していたとき、ベルタが岸辺に青い花を見つけほしがったので、ルドルフは、岸を下りて、その花を摘もうとしたが、あやまって河の中に落ち、手に花をあげながら、「vergiss mein nicht (私を忘れないで)」といって、水中に没したという悲しい伝説がある。イギリスではこの花を「Forget me not」という。ワスレナグサが特に愛されるのは、その花の美しいそら色が青い眼を想わしめるためであろう。

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王安石「梅花」「石榴詩」

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    寒さの中で、どの花よりも先に春を伝えてくれる梅の花。明治19年に開園した熱海梅園は、日本一の早咲きの梅で知られる。今年も既に梅まつりが開かれているという。

          梅花           王安石

牆(かきね)の角(すみ)なる数枝の梅

寒を凌ぎて独り自ずから開く

遥かに知る 是れ雪ならざるを

暗香の有りて来るが為なり

    土塀の隅にある四、五本の梅が寒さにもめげず咲いている。遠くからみてもそれが雪が降ったのでないことがわかる。どこからともなくよい香りが漂ってくるからだ。

   王安石(1021-1086)は神宗の時、宰相に任ぜられ、改革を断行したが、あまりに急激すぎて反対にあい、ついに失敗してしまった。梅花を見て「凌寒」「独自」の二字に、王安石は心境を託したとみられる。

    王安石は色彩感覚に富んだ詩を残した人のようで、冬が白梅なら春は紅の石榴を歌っている。「万緑叢中一点紅。動人春色不須多」(「万緑叢中に紅一点あり。人を動かす春色は須らく多かるべからず)この句は王安石の詩「咏石榴詩」として人口に膾炙されたが、今日までに全編が残っていない。「事後文集」には「王直方詩話にいう。荊公(王安石)が内相となり、庭園内を散歩していたところ、ざくろが一叢あった。枝はよく茂り、わずかに紅の花がついていた。興を起した荊公はそこで、濃緑万枝に紅一点あり 人を動かす春色は須らく多かるべからず といったそうだが、自分は残念ながらまだその全文を読んでいない」とあり、かなり前から逸文となっていたようだ。

    今日の日本でも「紅一点」という漢語よく使われる。多くの男の中に混じってただ一人の女性を花にたとえて紅一点というようになった。紅一点の出所については「万緑叢中」「万緑枝頭」「濃緑万枝」などあり、王安石より以前の唐代の詩句の可能性もある。中村草田男の俳句「萬緑の中や吾子の歯生え初むる」の「萬緑」を王安石の詩句に由来するとしたのは山本健吉だそうだが、いささか無理なこじつけのように思える。麻雀の役満に「紅一点」があるそうだが、それは王安石の漢詩に由来するものであろう。

2011年2月15日 (火)

臆病なウサギ

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   「逃亡者」第68話「臆病な兎たち」キンブルは新聞広告で運転手募集の記事をみる。雇い主はベニーという美しい女性だった。アルバカーキからカリフォルニアまで運転してほしいという仕事だ。実は彼女は別れた夫から娘を連れていくつもりだった。娘のナンシーがウサギから野兎病がうつり高熱をだす。キンブルはペニシリンを盗むため薬局にしのびこむが、警官に見つかる。・・・・逃亡者の追跡劇もさることながら、1960年代の社会問題が盛り込まれている。今回の特別ゲスト、スザンヌ・プレシェットは自立した女性で離婚問題ということもあるが、かつて自分が運転中、自動車事故をおこして両親を死なせたことがあり、そのため精神的にハンドルが握れない。アメリカでは女性ドラバーが多いが、そのような精神的な後遺症も増加していた時代であった。キンブルをバス停まで送りとどけたあと、ベニーは自ら運転して新しい人生に向かっていった。

龍馬脱藩の道

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    龍馬脱藩のルートを特定することは、日記だけではわからず謎も多い。文久2年3月24日土佐高知を出た龍馬と沢村惣之丞は、佐川、津野、梼原までの90kmを歩き、25日夜は那須信吾宅に泊まった。梼原から韮ヶ峠を越えて、泉ヶ峠で1泊し、27日には長浜(現大洲市)の支援者宅に宿泊。4月1日には下関の白石正一郎宅に入った。断定できる資料は少なく推し量るしかない。

2012年に世界は終わる!?

    「スター・ウォーズ」の監督で知られるジョージ・ルーカスは「2012年に世界は終わる」と大真面目に話したという。ルーカスに限らず、2012年を「世界の終わり」とする噂は広まっている。インターネットの人気サイトに「世界の終わり」、「2012年」と入力するなら、いまや膨大な情報が得られるだろう。古代マヤの暦が2012年で終わっていることが理由であるが、日本人にはこの現象には理解に苦しむ。おそらく欧米人には終末思想が深層意識にあるのだろう。「世界の終わり」とは実際的にどういう状態になることを言うのか。まるで小松左京の日本沈没やノアの洪水のようなことなのであろうか。

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宇宙英雄ペリー・ローダンを知ってますか?

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   世界一長い小説は何んだろう。はっきりはしないが、ドイツで1961年に刊行された「宇宙英雄ペリー・ローダン」シリーズはおそらく長さでは一、二の物語だろう。日本語訳がハヤカワSF文庫として、1971年から刊行され、現在394巻「ブロトグレーネの反徒」が出ている。若いころからジュブナイルはあまり読まなかったので知らない。話は人類初めての有人月着陸船スターダスト号が、ペリー・ローダン少佐とレジナルド・ブルに4人の乗組員を乗せて出発する。そこで異星人アルコン人と遭遇する。美女トーラは、気位が高く、はじめローダンに対して反感を抱くが、やがて彼の超人的な活躍に接するうちに次第に魅かれていく。ローダンは、やがて地球を宇宙大帝国の首都惑星にしていくという壮大なスケールのSF小説。

愛欲の十字路

    むかしグレゴリー・ペックとスーザン・ヘイワード主演で「愛欲の十字路」(1951)の古代イスラエル史劇があった。ダビデ王が入浴していた人妻のバテシバに心を奪われて、夫のウリヤを戦場へ行かせて殺し、人妻を手に入れる。聖書にある有名な話であるが、つまりは姦淫や傲慢といった人間の弱さを祈りで克服してダビデは偉大な王となったということであろう。日本人にはあまりなじみのない聖書の故事であるが、西洋人には血肉となっているようだ。キリスト者では、すべての人間は不完全なもので、過ちはある。悔い改めれば赦される、という思想はここからきている。ところがダビデほどの放蕩や暴虐な行為はしていないのに、不倫行為として社会的に制裁をうけることがある。不倫をした警察官は免職にされたり、俳優、タレントはもとより、野球選手、美人アナ、お天気姉さんに至るまで、事実無根なものでも、報道されれば生涯にわたって残るスキャンダルとなってしまう。たとえ真実であれ個人的求愛行動が世間の関心事なのであろうか。最近、よく耳にする「婚活」(結婚活動の略)とは、一種の生殖をうまくするための動物の求愛ディスプレーといえる。鳥は異性の注意をひくために様々な信号をおくるが、人間はプレゼントを贈ったり、短いスカートをはいたり、赤い口紅をぬったりして、抱きついたり、キスしたり、異性と交際する。こうした人間の愛欲は本来的に個人的自由の問題であり、ジャーナリズムが批判したりするのはおかしいことである。

皇太子教育掛候補はポルノ収集家?

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   狩野亨吉(1863-1942)は東京帝国大学数学科・哲学科を卒業し、明治31年、一高校長、明治39年、42歳にして京都大学文科大学長に就任して民間から幸田露伴、内藤湖南を招き独特の学風を作ったが、2年にして辞し、再び公職に就くことはなかった。昭和17年に78歳にして亡くなったが、その頃は忘れられた思想家という感があった。思想家として江戸時代の自然科学思想に関心を持ち、とくに安藤昌益を紹介したことは高く評価されている。天皇裕仁の皇太子時代に山県有朋らから、東宮御学問所の御用掛として杉浦重剛に先だって推薦されたが、唯物論者たるのゆえをもって、断わっている。多くの若い学者たちは隠者の風のある狩野を尊敬していた。夏目漱石の「吾輩は猫である」に出る苦沙弥のモデルともいわれる。だが安倍能成は次のことを記している。「先生が終生独身生活を遂げられたのは、周知の事実であって、その為に先生を崇敬する者もあるが、この故を以て先生を性欲を超越した枯木寒巌の如き人物と思ふのは甚しい誤解である。先生は人一倍人間の性欲現象に関心を持ち、先生の倫理学に於いて人間の性欲的エネルギーは重大な位置を占めて居ると聞いて居る。ただ恐らく先生は性欲的交渉を生きた異性と重ねる煩累を嫌われたものと想像される。しかしこれはあくまでも私の想像である」(狩野亨吉遺文集年譜附記より)

   狩野の死後、遺品、蔵書の中から多数の浮世絵、春画、芸妓などの資料が蔵書10万冊の中から出てきた。生涯独身であった彼が学術的資料収集のためであるのか、性的好奇心であるのはわからないが、現代風にいえばオタクのポルノグラフィー・コレクションである。岩波書店員時代の小林勇も、狩野家に出入りしているうちに、遺品を整理することになり、狩野の手になる大量の性的創作画文を発見し、取り扱いに困惑したという(「隠者の焔」)。生前一冊の本を出版することがなかった狩野であるが、いつの日が狩野亨吉画文集の刊行されることが望まれれる。

2011年2月14日 (月)

タイタニック2は評判ほど悪くない

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    「タイタニック2」を観た。死んだはずのデカプリオを回収して蘇生させるというのは全くのデマだった。話はストレートで、1912年から100年経つて、同じ日、同じコースをタイタニック2が処女航海する。設計者ヘディンとエイミー、それとエイミーの父の沿岸警備隊が絡む。主演・監督・制作のジェイン・ヴァン・ダイクはあのメリー・ポピンズのディック・ヴァン・ダイクの孫。ユニヴァーサルなので特撮やセットも水準以上。ストーリーもシンプルでパニック映画の好きな方ならB級映画も楽しめる。

のりちゃんが登場しない「あしたのジョー」

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    山下智久主演の実写版「あしたのジョー」が公開されている。まだ見ていないが、キャスティグによると、白木葉子が香里奈で、食料品店の看板娘・林紀子(のりちゃん)の役者名がないところを見ると、またも登場していないらしい。週刊マガジンに連載中は、金持ちの娘の白木葉子よりも、ジョーはのりちゃんと結ばれると思って読んでいた。結局、のりちゃんはマンモス西と結婚した。人生とはこんなものか、と悟った感じだった。経済的にとくに恵まれてなかったというわけではないのに、ジョーに淡い恋心を抱いた林紀子は薄幸な印象のする女だった。あれから40年たっても陽があらない運命なのだろうか。

2011年2月13日 (日)

顔見世

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    約400年前、京都の四条河原で出雲の阿国が創始したかぶき踊りが、歌舞伎の起源だとされる。江戸時代、顔見世は翌年1年の一座の顔ぶれを披露する興行を意味し、17世紀中期(万治・寛文ごろ)から始まった。古くは「つらみせ」ともいった。京都以外ではその伝統が次第に廃れていった。明治39年、南座の経営に乗り出した松竹は、伝統をふまえながらも、豪華な顔ぶれによる大興行として顔見世を復活させた。以来、100年余り1年も途切れることなく、現在に至り、師走の京都の風物となっている。顔見世には出演する歌舞伎俳優の名前を連ねた招き看板が掲げられる。(参考:「南座松竹経営顔見世百年記念史」松竹南座)

戦時下のラジオ番組

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   大阪毎日新聞昭和17年12月12日にラジオ欄。「前線だより」「公に奉ずる」「すべて戦争へ」など戦時色を感じる。娯楽といえば、吉川英治「新編忠臣蔵」(守田勘弥)ぐらい。夜は奥田良三、石井亀次郎、宮下晴子らの戦時歌謡。石井と宮下は夫婦だ。ドイツは同盟国なのでクラシックはよく流れた。奥田良三の大ヒット曲は「命かけてただ一度」。ドイツ映画「会議は踊る」でリリアン・ハーヴェー嬢が喜んで馬車に乗って城へ行く場面で流れる。「♪若き日のまぼろし 命かれて ただひととき 青春の花は咲く」と日本語歌詞で歌うレコードが、いまYouTubeで聴ける。

2011年2月12日 (土)

文部省唱歌「故郷」

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   誰もが口ずさみ懐かしい幼年期やふるさとを思い出させてくれる歌といえば、定番は唱歌「故郷」(高野辰之作詞、岡野貞一作曲)かもしれません。

 「故郷」は1914年の尋常小学校唱歌として発表された。高野は明治9年の生まれで長野県の人。2年遅く生まれた岡野は鳥取県の出身。2人のコンビによって「春が来た」「春の小川」「朧月夜」「紅葉」などの名曲も生まれたが、性格的には対照的であった。高野は東京音楽学校に、邦楽科の設置に尽力したり、後に「日本歌謡史」「日本演劇史」などの大著を書いた文学博士であった。人との交際も多く、酒も飲んだ。身体も大きく、人にも声を大にして話すほうだった。他方、岡野は生まれた鳥取を出て、岡山へ行ったのが15歳、その前年に姉の影響でキリスト教の洗礼を受け、その姉を頼って岡山の教会へ行く。そこでの宣教師よりの音楽教育が、東京音楽学校への進学となってゆく。クリスチャンとしての、誠実、温厚な性格もその折りに培われたのであろう。退職後も亡くなる直前まで、自宅近くの教会でオルガンを弾き続けていたという。

   現在、高野の母校である永田小学校と岡野の母校の修立小学校とは姉妹校の縁を結んでいる。

義経奥州下り

    京を追われた義経が、奥州平泉をめざして落ちのびんとする。加賀安宅では弁慶が偽勧進帳を読み上げんとする場面は有名である。越後をすぎて出羽への入口に念珠ヶ関がある。ここでも厳しい詮議を受ける。「虎の尾を踏み毒蛇の口を逃れる心地して陸奥へぞ下りける」とある。酒田まで北上し、そこから船に乗り最上川をさかのぼって八向楯近くの本合海で船を降りた。亀割山を越えたとき、北の方のお産が近づいた。弁慶が安産を祈ったところが、いまでは亀割子安観音となり、子授けと安産の守り神として信仰されている。瀬見温泉には、義経の子、亀鶴が使った産湯として、石鉢状の手湯が設けられている。こうして栗駒山を仰ぎ見ながら、栗原寺(りつげんじ)を過ぎて、平泉の藤原秀衡のもとへと到着する。

明星の反戦詩

   与謝野晶子の反戦詩「君死にたまふことなかれ」はとくに有名である。日露戦争に応召した弟の寿三郎は、10ヵ月前に結婚したばかりだった。寿三郎が旅順攻略の決死隊に志願したとき、晶子は明星9月号に「君死にたまふことなかれ」をのせたので、物議をかもした。当時「太陽」の記者をしていた大町桂月は、晶子を「乱臣」「賊子」と罵った。だが「明星」にはもっと激しい反戦詩がのっていた。内海信之(1884-1968)は反戦詩を書いたために与謝野鉄幹から非難された。内海は明星を辞めて、犬養毅の護憲運動に身を投じた。

異議あり!!「あなたが選ぶ昭和の名女優」

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昭和らしい雰囲気がある紙京子のブロマイド

 

  朝日新聞beランキングに「昭和の名女優」のアンケート結果、1位の吉永小百合、2位夏目雅子、3位大原麗子から30位の京マチ子まで発表されている。その他は八千草薫、池内淳子、岩下志麻、大竹しのぶ、高峰秀子、浅丘ルリ子、松坂慶子、田中裕子、市原悦子、栗原小巻、岸恵子、杉村春子、竹下景子、原節子、太地喜和子、倍賞千恵子、桃井かおり、森光子、秋吉久美子、岸田今日子、高橋恵子、香川京子、酒井和歌子、田中絹代、加賀まりこ、樫山文枝、若尾文子。自分の好きな淡路恵子、島田陽子、薬師丸ひろ子は選外。2度も叙勲された扇千景が番外は当然としても、高峰三枝子、山口淑子(李香蘭)、山田五十鈴、轟夕起子、入江たか子、淡島千景、乙羽信子、沢村貞子など大物も選外というスゴイ結果となっている。あまたいる大女優を押し分けて、吉永が1位なのは知名度と国民的女優といえるイメージであろうが、2位、3位は、女優の評価とは別の要因があるように思える。つまり具体的な映画作品の演技や女優としての評価というよりは、イメージ先行の結果であろう。

 

    舞台女優は女優とはみなされないのか山本安英、水谷八重子、東山千栄子、北林谷栄、奈良岡朋子、長岡輝子、渡辺美佐子、光本幸子、波野久里子、英つや子、岩崎加根子、加藤治子、日色ともえ、佐藤オリエ、劇団四季の藤野節子、久野綾希子、女剣劇の大江美智子、不二洋子、京唄子らは落選。

 

   本業は歌手だが女優としても活躍した奈良光枝、美空ひばり、由美かおる、小川知子、山口百恵、小泉今日子、浅野ゆう子、菊池桃子、南野陽子、中山美穂、西田ひかる、酒井法子らも惨敗。

 

    テレビでおなじみの女優さん。小林千登勢、弓恵子、広瀬みさ、夏純子、大谷直子、岡崎友紀、吉沢京子、土田早苗、栗田ひろみ、尾崎奈々、榊原るみ、坂口良子、岡田可愛、松尾嘉代、新藤恵美、紀比呂子、早瀬久美、小川ひろみ、浅茅陽子、杉田かおる、水沢アキ、壇ふみ、原日出子、万田久子、伊藤麻衣子、伊藤かずえ、鈴木保奈美。お嫁さんにしたい女優やアイドル女優も選外。市毛良枝、沢口靖子、古手川裕子、樋口可奈子、斉藤由貴なども選外。鰐淵晴子、十朱幸代、三田佳子、山本陽子、内藤洋子、星由里子、浜美枝、松原智恵子、和泉雅子、梶芽衣子(太田雅子)など吉永のライバル女優も不運だ。宝塚歌劇のスターはなぜいないのか。春日野八千代の初舞台は1929年だからズバリ昭和だ。小夜福子、葦原邦子、月丘夢路、越路吹雪、新珠三千代、明石照子、淀かおる、寿美花代、有馬稲子、真帆しぶき、那智わたる、藤里美保、麻鳥千穂、内重のぼる、加茂さくら、甲にしき、上月晃、古城都、八汐路まり、初風諄、郷ちぐさ、大原ますみ、榛名由梨、汀夏子、鳳蘭、安奈淳、松あきら、瀬戸内美八、高宮沙千、順みつき、麻美れい、遥くらら、東汐巴、大地真央、平みち、黒木瞳、秋篠美帆、神奈美帆、剣幸。大浦みずき、日向薫、杜けあき、ひびき美都、南風まい、こだま愛、毬藻えり、涼風真世、そして鮎ゆうきが昭和最後のスターか。

 

    映画では夏川静江、原駒子、千葉早智子、及川道子、高津慶子、川崎弘子、市川春代、山路ふみ子、飯塚敏子、逢初夢子、伏見信子、桑野通子、三宅邦子、水久保澄子、三浦光子、高杉早苗、水戸光子、花柳小菊、山根寿子、風見章子、宮城千賀子らは懐かしい。

   戦後では、中北千枝子、関千恵子、杉葉子、折原啓子、津島恵子、三条美紀、西條鮎子、若山セツ子、花井蘭子、宮城野由美子、滝花久子、細川ちか子、相馬千恵子、野上千鶴子、月丘千秋、高倉みゆき、利根はる恵、市川和子、筑紫あけみ、久保菜穂子、大空真弓、小畑絹子、宇治みさ子、桂木洋子、左幸子、宮城まり子、高千穂ひづる。久我美子、香川京子、久慈あさみ、岸旗江、英百合子、島崎雪子、広瀬嘉子、小園蓉子、木村美津子、倉田マユミ、日高澄子、草笛光子、山本富士子、喜多川千鶴、千原しのぶ、長谷川裕見子、星美智子、田代百合子、川上康子、中田康子、三谷幸子、村田知栄子、浜田百合子、野上千鶴子、田村秋子、井川邦子、幾野道子、羽鳥敏子、岡田茉莉子、南田洋子、北原三枝、司葉子、安西郷子、吉村実子、西原泰子、井田綾子、水原真知子、小田切みき、阿部寿美子、有田紀子、小林トシ子、角梨枝子、高田敏江、紙京子、杉田弘子、牧紀子、桑野みゆき、小山明子、嵯峨美智子、団令子、田代百合子、丘さとみ、花園ひろみ、入江若葉、芦川いずみ、青山京子、大川恵子、叶順子、中原ひとみ、三ツ矢歌子、白川由美、水野久美、中原早苗、清水まゆみ、笹森礼子、吉行和子、野添ひとみ、桜町弘子、中村玉緒、朝丘雪路、鳳八千代、緑魔子、馬渕晴子、日比野恵子、山東昭子、江波恭子、藤村志保、香山美子、高田美和、御影京子、坪内キミ子、大川栄子、大楠道代、赤座美代子、しめぎしがこ、岩本多代、生田悦子、宇津宮雅代、奈美悦子、丘みつ子、岡江久美子、田島令子、中野良子、金沢碧、岡まゆみ、結城しのぶ、叶和貴子、石田えり、宮崎美子、有森也美、池上季実子、荻野目慶子、岸本加世子、小林聡美、富田靖子、田中美佐子、常盤貴子、手塚理美、早乙女愛、名取裕子、真野響子、真野あずさ、紺野美沙子、仁科明子、風吹ジュン、片平なぎさ、原田知世、渡辺典子、斉藤とも子、萩尾みどり、賀来千香子、三浦リカ、島田淳子、柿崎澄子、増田未亜、松雪泰子、松下由樹も昭和にデビューか。

    NHKの朝のヒロインも国民女優への道は険しく、30位以内に入ったのは、田中裕子、大竹しのぶ、樫山文枝の3人だけである。林美智子、藤田弓子、山口果林、真木洋子、高橋洋子、藤田美保子、秋野暢子、中田嘉子、鈴鹿景子、高瀬春奈、五大路子、新井春美、友里千賀子、相原友子、熊谷真実、山崎千里、星野知子、中村明美、藤吉久美子、小林綾子、加納みゆき、古村比呂、若村麻由美、藤田朋子、山口朋子。

  筑波久子、根岸明美、宮下順子、白木マリ、真理明美、三原葉子、前田通子、紅千登世、万里昌代、若杉嘉津子、炎加世子、渥美マリ、大信田礼子、絵沢崩子、白川和子、谷ナオミ、寺島まゆみ、風祭ゆき、竹田かほり、田中真理、亜湖、伊佐山ひろ子、竹井みどり、烏丸せつ子、朝岡実嶺、川島なお美らセクシー系は番外か。個人的には北沢典子、鈴村由美、梓英子、磯部玉枝、佐藤友美、篠ひろ子、永島瑛子、洞口依子、川上麻衣子やプッツン女優の藤谷美和子も気になる。脇役の吉川満子、飯田蝶子、毛利菊枝、浦辺粂子、村瀬幸子、清川虹子、岸輝子、浪花千栄子、菅井きん、千石規子、初井言栄、赤木春恵、樹木希林、泉ピン子らにも1票入れたい。それでも大物がもれていた。志穂美悦子だ。

 

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2011年2月11日 (金)

ディズレーリとグラッドストン

Gladstone グラッドストン

    保守党のディズレーリと自由党のグラッドストンは共にすぐれた政治家であることを除いてはきわめて異なっていたが、この2人の闘争の間にイギリス社会の民主化は漸次進んでいった。1832年の選挙法改正はイギリスの民主化の上に画期的なものであったが、それはまだ普通選挙からはかなり遠いものであった。しかし1867年、1884年の両度にわたって第2回、第3回の選挙法改正が行われてその内容は次第に普通選挙に近いものとなっていった。グラッドストンは小英国主義をとって植民地の拡大に反対し、アイルランド問題では小作人を保護する土地法案を成立させたが、1868年アイルランド問題でつまづいて辞職した。保守党のディズレーリに政権を譲って2大政党による典型的な議会政治となった。

栃木で歌麿をさがせ

Photo_2 歌麿「三福神の相撲図」

    喜多川歌麿(1753-1806)の出生地には川越、京都、江戸説など種々あって定説はない。近年は栃木に一時暮らしていたのではないかという説があり、市関係者が昨年から本格的に調査したところ、「三福神の相撲図」と「鐘正馗図」が発見された。どちらも寛政3年から5年頃に描かれたもので、歌麿の肉筆は貴重なものである。

文楽の首(かしら)

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    義太夫節という浄瑠璃を使って演ずる人形芝居を文楽という。2003年にはユネスコ世界無形遺産にも認定された。文楽のかしらは、役の年齢、身分、性格などに使い分けられ、現在男のかしらは約40種類が、女のかしらが10数種類がある。立役には、文七、検非違使、団七、源太、若男、舅、大舅、鬼一、寅王、正宗、定之進、武氏、金時、与勘平、陀羅助、又平、三枚目など、女形には娘、老女形、傾城、婆、八汐、お福などがある。

明治期の図書館貸本屋論

   「図書館は無料貸本屋か」という論議が館界には古くからある。そもそもこの論議はいつ頃から誰が提起したのか、定かではない。古いところでは、湯浅吉郎(1858-1943)の名前があげられる。湯浅半月の名で明治初期の新詩の詩人として広く知られた人物だが、アメリカに留学し、創成期の図書館に貢献もしている。明治37年4月、京都府立図書館館長に就任したとき、談話が「京都日出新聞」に載っている。「自分の方針は図書館を貸本屋にすることだ」と述べている。当時、図書館には閲覧主義と貸本主義があり、アメリカから学んできた湯浅は、貸本主義を支持していたのである。

美女はマンボがお好き

    マンボは1950年代、ラテン音楽とジャズの融合により生み出された新しいダンス音楽で、ペレス・プラードなどによって世界中に広がった。日本でも美空ひばりがいち早く導入し、1952年に「お祭マンボ」をヒットさせた。映画ではイタリアのソフィア・ローレンが「河の女」(1955)で「マンボ・バカン」を歌い踊るシーンが話題となった。翌年、フランスのブリジッド・バルドーが「素直な悪女」でマンボを踊る。もともとバレリーナだったバルドーはダンスが得意。黒人がたたくボンゴにあわせて踊るステップは社交ダンスのチャチャチャだという。パートナーと距離をとり、その距離を利用して自分の魅力を十二分に振りまく。手が届きそうで届かない位置から相手を誘惑する。こうして罪作りのダンスを踊って、バルドーは一躍世界中の男性を虜にした。

2011年2月10日 (木)

安倍能成の思想的限界

    戦後日本におけるオールド・リベラルの代表的思想家、安倍能成(1883-1966)の人生観を形成したものは何か。カント哲学の研究で知られるが、スピノザの思想の影響があるといわれる。安倍によれば、スピノザは隠遁生活をしていたにもかかわらず、世をすねることなく、人間に積極的な楽しみを持っていた。安倍もアポロ的なものを好み、福沢諭吉や白樺派同人のような楽観的で明るく前向きに生きる人々に高い評価を与えていた。なぜ楽天的なものを好んだのかは友人藤村操の自殺が関連しているという。反面、社会主義的なものや、左翼的なものには好意的ではなかったのは当然のことと思われる。このような思想的影響は東京大学がお雇い外国人として招聘したラファエル・ケーベル(1848-1923)の思想を抜きにしては考えられない。安倍はケーベル先生を「最も精錬された個人主義者」として敬愛していた。ケーべルは哲学と音楽を21年間も講義したが、ピアノが堪能で日常、楽しんでいた。つまり学生たちがケーベルから学んだ人生論とは「自分に合った好きなことをせよ」ということと解していた。自己にとって本質的なことを守って、それ以外は捨てて、自分の個性に適するもののみに関わるように仕事を限定するようにしていた。しかし、このような社会的な態度が昭和という戦争への歴史過程の中で文化的指導的の役割を担う安倍が十分に果たしきれたとはいえない。中見真理は論稿「安倍能成と朝鮮」(清泉女子大学紀要54)の中で朝鮮に滞在期間(1926年~1940年)の行動や生活を仔細に調査し、進歩的文化人の限界性を論じている。安倍の私生活に関して言えば、一高時代、同級生だった藤村操の妹恭子と結婚している。安倍にとって藤村の自殺は生涯忘れられぬものになっていたはずである。

七歩の才・曹植

    曹操は14人の女性によって25人の男子がいた。曹操の後継者には3男の曹丕と5男の曹植が有力視されていた。曹植(192-232)は文才に優れ武芸もよくした。「世説新語」には兄の曹丕の命によって七歩歩む間に詩を賦したという有名な故事が伝わる。「煮豆燃豆萁 豆在釜中泣 本是同根生 相煮何太急」(ただし現在はこの詩は真作としない見方が有力である)若い頃儒教思想であったが、兄の文帝、甥の明帝に迫害される不遇の人生を過ごしていくなかで、世に出て貢献しようとする志も実現できず、詩作は次第に道家思想によって自己を慰めたような詩風に変化していく。陳王におとされて、不遇のうちに41歳で亡くなるという悲劇的な人生であった。

図書館設置の動因について 4分類(清水正三案)

    清水正三は図書館設置の動因を大きく次の4つの類型化している。

A型 住民主導型  60年代以後、東京をはじめとすして全国の大都市に多くみられた現象。

B型 議員主導型 議員や委員のなかでとくに図書館に熱心な議員らよって図書館設置がすすめられた例。

C型 行政主導型 首長または行政部内の特定部課、または特定人あるいは委員会が図書館設置の動因となる。

D型 図書館主導型 図書館も広い意味では、行政の一機関であるが、この場合一応切り離して考えてみる。

(参考:「玉造町立図書館調査報告書」図書館問題研究会 1984)

学問の専門化と民衆化

   自分が以前に書いた論文がどのように読まれるかは気になるところである。しかしすべての文献に目が通せるわけではないので、連絡がない限り一生涯知らぬままということもあるだろう。ところがネット時代になり検索機能も向上すると、名前などから該当の論文がヒットすることもある。さらに学術論文はPDFで閲覧できる。以前の「図書館学の創成期における毛利宮彦氏の事績について」という小稿を新藤透という若手の先生が論稿「昭和初期刊行の図書館学専門書にみられる選書論について」(山形県立米沢女子短期大学紀要45号 2010年)で小生の論文を取り上げ、論評してくれている。在野の老学徒としては感謝、感謝。また大学紀要の内容がネットで瞬時に読めるとはありがたい。新藤透は気鋭の近世史専攻の史家か。つまり大学の研究者も一般の研究者もネットを通じて、研究動向が共有できるいうことである。学問は象牙の塔の大学にのみ存するものではなく、一市井、あるは自然界に存する、といえる

サルトルで眠れない

    戦後、日本の知識人たちにサルトルは人気があった。実は私はいまだに実存主義というものがさっぱりわからない。「実存の本質は自由である」という。とにかく特定の主義・主張に依存せずに、真実の自己を実現しようとするものであるらしい。だが本家のサルトルはマルクス主義に傾き、ソ連を擁護した。その当時の雑誌「世界」の主張は、そのまんまである。そしてソ連の実態が悪であるとわかると、反スターリン主義をとる。今度は毛沢東の中共を支持。どうも思想家というものは、勝手な幻想を抱くもので、正確な実態を把握することは不得手とみえる。日本の進歩的知識人というものもだいたいサルトルと似たような軌跡をとるようにみえる。それでも過去の思想、発言の過ちを認めた人はいない。サルトルを心酔した世代ではないが、なんとなくブルジョワ的なものに嫌悪感をいだいていた。「サルトルで眠れない」という早瀬優香子の歌があるが、これも無内容な歌詞で、日本人のフランスへの幻想はいつまでもあるらしい。

離島にこそ図書館を

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  インターネットの普及で、情報格差の解消が是正されてきた面はあるが、地域の文化的リテラシー形成はこれとは別次元の問題である。本による読書は、生涯の健康や幸福、学習基盤を形成する。また本は氾濫する情報と異なり、確かな歴史と未来への教育を形づくる。だが人口過疎の村や離島には、いまだ図書館どころか、本屋もないとろが多い。週刊雑誌を読むにも一週間は遅れる。いま本当に本が必要なのは過疎の村や離島に住む人々であろう。ぐるーぷ「あいらんだあ」は30年以上も前から離島の支援活動をしている。河田真智子は38年間、離島をめぐり歩いて、さまざまな活動に取り組んできた。図書館人にとって、とくに注目すべき活動は、島へ本を送ることである。沖永良部島など50の島へアンケートを出して、希望するところには100冊ずつ、本を贈ってきた。(送料は役場負担)昭和53年、最初に本を送ったのは、伊豆諸島の最南端の青ヶ島だった。人口200人の日本で一番小さい村には、図書館はなく、公民館の一部の本棚だけがあった。いまでは村立図書館もできているが、蔵書の多くは「あいらんだあ」の寄贈本が核となったものである。(参考:河田真智子「島に本を送って10年」 「しま」№139 日本離島センター)

津軽のケネディ・田澤吉郎

    太宰治(1909-1948)は生誕100周年を過ぎたが、いまだブームは衰えない。生前太宰を知る人も一人また一人と亡くなっていく。女優の高峰秀子は昨年末に亡くなった。「津軽のケネディ」といわれた衆議院議員の田澤吉郎も2001年に亡くなっているが、太宰を知る一人であった。田澤は「津軽」に「陽子の婿」として登場する。「津軽」は戦時中に書かれた小説とも紀行文ともいえるものだが、フィクションはあるものの、実在の人物が詳しく描かれている。陽子というのは太宰の兄・津島文治(1898-1973)の長女で、弘前の地主の息子・田澤吉郎と結婚した。太宰が生家の金木に帰ったとき、陽子とその夫・田澤もいたらしい。田澤は26歳の青年で、早稲田大学を卒業し、都会的な経験もあったので、おそらく太宰とは話があったのであろう。初対面ながら太宰に好印象を与えたようである。後年、弘前大学の森田喜郎が田澤に太宰の印象を聞くと、「たいへん控え目で、感じのよいものだった」と語っている。(参考:森田喜郎「太宰治「津軽」に描かれた「陽子の婿」 いずみ通信 1999年4月)

2011年2月 9日 (水)

エジプトの近代イスラーム思想

Img_0032 ムハンマド・アブドゥフ

  アフガーニ(1838-1897)は、アフガニスタン、エジプトと遍歴するうちに、帝国主義に対抗するためには、イスラーム諸国の団結と自由主義制度の導入の必要性を説き、アラブ諸国・インド・インドネシアなどに深い影響を与えた。

   アフガーニの影響をうけたムハンマド・アブドゥフ(1849-1905)は、アラービー運動での政治的敗北のあと、イスラーム法を合理的に柔軟に解釈することによって、イスラームを現代の課題に適合させる道を開いた。1899年には、大法官(ムフティ)の地位に昇進するアブトゥフをナショナリズムのジロンディストといいヨーロッパ改革者の同盟者とされた。

   アブドゥフの弟子ラシード・リダー(1865-1935)は、師とは異なる厳格な正統主義の立場わとり、イスラームを固定化しこれを現実に押しつけていく原理主義的立場を示した。のちのムスリム同盟団の運動にも大きな影響を与えた。

愛情問題は裁けるのか?

    千葉県警の男性警部がNHK女性記者と不倫関係になったとして懲戒処分された。いわゆる現行法規には姦通罪はなく、基本的に不倫しているだけでは裁かれることはないと思っていた。地方公務員法では、その職務の遂行に支障を及ぼすような場合には処分の対象となる。交際相手がヤクザの情婦とか、マスコミ関係とかだと情報漏洩の問題もでてくる。この千葉県警の場合は、守秘義務違反にあたる情報漏洩はなかったとあり、処分理由はイマイチ納得できないところがある。愛の流刑地ではないが、「法律で愛が裁けるのか」

ネット以前とネット以後

  インターネットの普及が人類にどのような影響をもたらしたか、という評価は現在進行形なので定説というものはない。チュニジアに始まった政治変革もやはりネットによるものであった。政治、経済、文化、すべての面で人類史に変革をもたらすものであることは間違いない。そのような壮大なテーマはおいておくとして、文章を書くという私的な事柄すらも、変化がみられる。ブログネタをさがしたければ、他の人の記事が参考になるだろうし、今日の出来事やあらゆる情報が容易に入手できる。かっては作家が数万冊の書斎をもち、調べていた労力もかなりな部分は一般人でさえも共有できるようになった。司馬遼太郎や松本清張などの書斎をみるとネット以前の世代であることが明らかになる。夏目漱石が自身のことを水陸両棲動物と喩えた。これは江戸と明治、近世と近代、という意味であろう。昭和の人はネット以前とネット以後に分けられる。ネット以後の作家の書斎はもっとコンパクトなものになるであろう。赤川次郎は作家的地位を確立したのは、ネット以前なので、いまだに原稿用紙を使っているという。会社員時代、英文タイプを使用したのでキー操作は苦にはならないのだが、パソコンと原稿に書くのとは微妙に違うからだという。膨大な資料を駆使して書くタイプではなく、喫茶店でスラスラかけるので、原稿用紙を持ち歩くという。最近の作家はほとんどパソコンなので、送信も回線を通じておこなうので、昔のように編集者の人が家に原稿を取りに来ることもない。赤川次郎も原稿をファクスで送っているそうである。それにしてもあれだけの分量をよく書けるものだと思う。やはり職業作家は量をこなさなければ本物ではない。書籍の電子化で、さらに情報収集は簡便になるだろう。いまでも一部の専門論文がPDFで読むことができるが、なかなか入手しにくい論文が、読めることがうれしい。人文系だけでなく自然科学の論文も読めるようになって幅が広がれば百科全書派が生まれ、新しい思想が人類の未来に貢献することもあるだろう。ネットを使いたおす人が多く生まれれば、これまでの図書館はどのように変化していくのか、アナログとデジタル、両面をみつめていきたい。

2011年2月 8日 (火)

夕陽の丘

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   石原裕次郎と浅丘ルリ子の共演は「世界を賭ける恋」(1959)「銀座の恋の物語」(1962)「雲に向かって起つ」(1962)「憎いあンちくしょう」(1962)「若い人」(1962)「花と竜」(1962)「何か面白いことないか」(1963)「夜霧のブルース」(1963)「赤いハンカチ」(1964)「夕陽の丘」(1964)「二人の世界」(1966)「帰らざる波止場」(1966)「夜霧よ今夜もありがとう」(1967)「嵐来たり去る」(1967)が主要な作品。やはりムード・アクションといわれる、波止場、恋人を探す、殺人、ヤクザ、このようなムードはおそらくジャン・ギャバンの「望郷」のイメージされるような世界がお手本になっているだろう。「夕陽の丘」に登場する北洋ホテルという安宿の女将が細川ちか子で場末の女の雰囲気をかもしている。劇中で裕次郎は「俺は待ってるぜ」をギター弾き語りでサービス。また浅丘がセミロングとショートの二役でサービス。ストーリーの展開はまどろっこしいところがあるが、推理サスペンス菊村到の原作だからだろうか。浅丘の演技力が伸びてきた頃である。またこれ以降、裕次郎の顔がむくんだように脂肪がついてくるので、裕次郎・ルリ子のベスト作品は実はこの「夕陽の丘」かもしれない。

有害無益な○○賞は本当に必要なのか?

   「斎藤佑樹にはオーラがある」という。「オーラ」とは「人や物が発する霊気ないし独特な雰囲気。アウラ」と広辞苑にある。たしかに人の価値や実力はなかなか目には見えないものなので、オーラが見える人は、実は自分が鋭敏な感性を持っているという自己陶酔にすぎないのではないか。私は人物を評するのにオーラなどというあいまいなものは信じない。むしろ斎藤がシーズンに入ってプロの洗礼を受けることを想像する。英雄待望論というのが世にはあるらしい。芥川賞の作品の宣伝文句には「本物出現」とある。わざわざ「本物」と拘るところが作家的実力が見未知数なのを物語っているようにみえる。直木賞はかなりの実力者から選考しているので安定している。しかし赤川次郎は候補にはなったが、直木賞は受賞することはできなかった。受賞しなかった作家がものを書き続けていくというのも面白い。国民栄誉賞も現存の人に与えるのは感心しない。とくにスポーツ選手はまだ若い。生きていれば将来どのような汚名をこうむることがあるかわからない。国民の不名誉になることもあるだろう。歌舞伎などで、生まれた家柄ゆえに、小さいときから「オレは将来は人間国宝だ」といって育つことも本人にとっては可哀そうなことである。その他の名誉市民賞も、春秋の叙勲も、いかなる世俗の栄誉も感心しない。賞、冠、ブランド志向はカッコわるいと思いたい。

八百長と国民栄誉賞

   大相撲の不祥事はいろいろな波紋の広がりをみせている。千代白鵬は柔道の山下泰裕の弟子で、山下と仲のよかった千代の富士の部屋に入門することになった。つまり2人の国民栄誉賞と八百長は見えない糸で繋がっている。恵那司は下位力士で知らないが、岐阜県の恵那峡と関係があるだろう。相撲は地元を四股名としているだけに、郷土に不名誉なことである。また先輩力士に「恵那桜」がいたが、無関係でもやはり、影響はあるだろう。むかし「ちゃんこ恵那桜」を開店していた。四股名は武士が職業相撲にかわった際に用いたのが始まりで、武士としての体面上、実名を出すのをはばかって郷土の地名などを取り入れたともされる。

破落戸

漢語「破落戸」(はらくこ)を充てて、「ごろつき」と読む。無頼漢のこと。ゴロゴロしているような生活をしているところからついたのだろう。「阿婆擦れ」とは、「悪く人ずれがして、厚かましいこと」古くは男女ともにいったが、いまは多くは女性をさしていう。

国男、京助、信夫、熊楠

   日本民俗学の創始者である柳田國男(1875-1962)は法制局参事官として内閣文庫を預かっていたとき、アイヌ語関係図書を整理する必要から東大の国語学者の亀田次郎(1876-1944)からアイヌ研究で知られた金田一京助(1882-1971)を紹介してもらった。そして金田一を通じて、國男は折口信夫(1887-1953)と知りあいになり、沖縄旅行をはじめ各地の民間伝承の調査旅行を盛んに行った。南方熊楠(1867-1941)の神社合祀反対意見書は「南方二書」として柳田の手によって出版された。南方は菌類学、生態学の視点から、神社の統廃合は、鎮守の森をなくす、環境破壊であると断じたのである。

訓読みに困ったら

    実業家の池田成彬(1867-1950)が若いころ、老教師から「池田ナルヨシ」と呼ばれた。自分の名は「シゲアキです」と答えると、先生は「自信をもって読めない漢字はすべてヨシと読むことにしている」と返事された。成る程、自分の名前は読みづらい。そういえば源義経、徳川慶喜は、知っていなければ誰も「ヨシ」とは読めないだろう。菅原是善(道真の父)、安倍能成(哲学)、糸井義男(野球)、木村嘉男(美容)、森口輝善(議員)、小杉善信(放送)、みんな「ヨシ」と読む。訓読みに困ったら、どんな字でも「ヨシ」と読めばいい。大半はあっている。ちょっと言いすぎかな。

2011年2月 7日 (月)

ドイツ的キリスト者とドイツ告白教会

    ドイツは宗教改革の母国である。そこでは宗教改革者マルチン・ルターやジャン・カルヴァンの信仰を受け継ぐプロテスタントが多数派になった。だがナチスドイツ時代(1933-1945)のナチスの追随者たちは「ドイツ的キリスト者」と呼ばれ、プロテスタント教会で支配的となった。こうした動きに対して反ナチ運動を起こした牧師のディートリッヒ・ボンヘッファー(1906-1945)はマルティン・ニーメラーらと牧師緊急同盟を結成した。1934年には「ドイツ告白教会」が結成され、カール・バルトによるバルメル宣言が可決された。1944年7月、ヒトラー暗殺計画は失敗に終わり、翌年、ボンヘッファの関与が発覚し、絞首刑に処せられた。戦後。東西ドイツ分裂の時代、「ドイツ福音主義教会」(EKD)が結成された。

岸恵子の見た新星マリア・シュナイダー

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    世界的にセンセーショナルを捲き起こした「ラストタンゴ・イン・パリ」をパリのプルミエで見た一人の日本人女性がいた。この夜の招待客は、そうそうたる知名人ばかりで、ジェラール・ウリー監督とミシェール・モルガン夫妻、ミッシェル・ドロワ夫妻、そして主役の新星マリア・シュナイダーがいた。岸恵子はフランスの映画監督イヴ・シャンピとともにこのプルミエに出席していた。

彼女、母親らしいひとと来ていて、大抜擢をうけたこの夜の主役にしては、一見、実になにげない普通のブルジョワ娘といった感じでした。顔にひとはけの化粧もなく、耳のあたりでプツリときりそろえてある栗色の髪の下の細いうなじが、青白く、むしろ、いたいたしいような感じ。ジーパンに今はやりの、スキー場で着るような極太毛糸でザクザクと編んだ、背中と腕にいれずみのような模様のある上衣を無雑作に着て、無雑作といえば、なにもかもが無雑作にみえる女性、というより乙女でした。

   抜粋した箇所だけ読むと、年配女優の意地悪い観察記録にとられるかもしれないが、岸恵子自身はこの映画「ラストタンゴ・イン・パリ」を賞賛しており、芸術かポルノか、という論争には、進歩的な姿勢をみせており、マリア・シュナイダーに対しても、新しいタイプの女優が登場したことを喜んでいるようである。「パリ・東京井戸端会議」という著書、評論家・秦早穂子との手紙から、岸恵子の好奇心の旺盛なことがうかがえる。

Img_0031_2 マリア・シュナイダーはアラン・ドロン、マルク・ポレルらとも親しかった

貧乏と名声

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    ゴッホは生涯、孤独と貧乏との戦いであったが、皮肉にも、彼の死後、ゴッホの作品は高騰し、いまでは一点、数十億円の価格で美術商たちに売買される。生前にはたった一枚の作品しか売れなかったこの画家のこの作品に誰が投資するのだろうか。サザビーのオークションには世界中から投機家たちが集まってくる。「芸術の神は嫉妬ふかい」という。真の芸術家はすばらしい才能を持つため、芸術の神はその才能に嫉妬して、芸術家は苦難の人生を味わう。芸術を解しない民衆が貧乏画家に嘲笑や迫害を加えるのも、芸術の神の仕業なのだろう。しかし、その芸術が一度、理解されるや、美術館に飾られ、画集が出版され、その孤独で悲劇的な人生はドラマ・映画化される。巷にブームが巻き起こり、名声が与えられると、作品を理解しない大衆も、知っているように褒め称える。「名声とは誤解の総括にすぎない」とは詩人リルケの名言である。だが生前に名声を得た作家が幸福であるか、不幸であるかは誰にもわからない。ノーベル賞候補と騒がれている村上春樹のように。

現代政治家の故事引用について

    新聞に載せられた政治家の発言に歴史故事がしばしば引用される。菅直人は諸葛孔明にちなむ「三顧の礼」、そして岡田克也は暴君ネロにちなむ「パンとサーカス」を使用している。相手を「独裁者ヒットラー」と呼んで攻撃する例は枚挙にいとまがない。「パンとサーカス」も過去に何度も多くの政治家は使用している。しかし、この言葉の裏には庶民への蔑視が潜んでいる。

    今回の名古屋トリプル選挙で河村たかし、大村秀章が圧勝した。選挙中に岡田が減税日本に対し、「パンとサーカス」と批判したことは民主党が民意に鈍感であることを示す象徴的な話であった。もともとこの言葉はローマの諷刺詩人ユウェナリスがネロ帝とドミチアヌス帝の支配した時代のローマ社会の退廃を描いたことからきている。皇帝は自らの批判を隠すために、民衆が喜ぶ穀物、パンを与え、劇場、円形競技場の娯楽施設を建設して、大盤振る舞いしたことをさしている。もちろんネロ帝のときに大規模な市民暴動が起っているので、この「パンとサーカス」政策が正当なものとは思えない。しかし、批評家ユウェナリスことは詳しいことはわからないが、おそらく自己の出世に失敗して、世に失望し、恨みを抱いていた人物であろう。増税、貧困に苦しむ庶民の気持ちなどを理解していたわけではない。岡田がユウェナリスの立場に立つことで、不況、貧困に苦しむ庶民の気持ちを蔑むような発言をしたことが、ますます民主党離れを加速させてしまった。故事引用は慎重にすべし。

歌姫たちの病気

   ソ・ジソブ主演の韓国ドラマ「ごめん、愛してる」を見ていると、耳慣れたテーマ曲。そう、あの中島美嘉の「雪の華」だ。Jポップも韓国では流行しているのだろう。パク・ヒョシンの歌もとてもいい。韓国でもヒットしたそうだ。ところで中島美嘉は耳の病気で休養宣言した。浜崎あゆみも以前から耳の病気で苦しんでいた。綾香はバセドウ病。中森明菜は何んの病かわからないが疲労で休業。そのほか、華原朋美は2007年6月以降、芸能活動を休業しており、精神的に不安定な状態が続いている。黛ジュンも原因不明の咽喉の病気で悩んでいるという。栄光のレコード大賞歌手であるが、その後は肉親の死、病気などで不調が続いた。昨年の暮れはレコード大賞も紅白歌合戦も見ていないという。歌手はストレスが多いし、ごまかしのきかない職業。ゆっくりと静養して、また元気な歌がききたい。

2011年2月 6日 (日)

トリスを飲んでハワイへ行こう

Photo_3   昭和36年9月に登場した寿屋(現在のサントリー)のキャンペーン広告「トリスを飲んでHawaiiへ行こう」このコピーは流行語になった。ところが当選しても、すぐハワイに行けたわけではなく、旅行積立金証書がもらえ、海外渡航自由化になってはじめて旅行が実現できるという時代だった。最近、「もう一度見たい日本のCM50年」というDVDが売れているそうだ。「みじかびのきゃぷりことればすぎちょびれすぎかきすらのはっぱふみふみ。わかるね」と大橋巨泉がいう。初恋の味カルピス、明るいナショナル、一粒三百メートル、ワワワ・輪が三つ、いいタッチ・カシミヤタッチ、クシャミ3回ルル3錠、伊東に行くならハトヤ、電話はヨイフロ(4126)、人間らしくやりたいな、ナンデアル・アイデアルじょ~しき、飲んですか、ありがとういいクスリです、お前ヘソねぇじゃねぇか、私にも写せます、大きいことはいいことだ、のびて縮んでまたのびて、おかあさ~ん・お味噌ならハナマルキ、ハヤシもあるでョ、君のはフトイ、がんばらなくちゃ、どうするどうする、きょうも元気だタバコがうまい、モーレツからビューティフル、ディスカバージャパン、スカッとさわやかコカ・コーラ、Oh!モーレツ!、わんぱくでもいいたくましく育ってほしい、僕つくる人ワタシ食べる人、かあちゃん一杯やっか、コニカはコニカいいと思うよ、おもかじ一杯のりたま三杯、パンシロンでパンパンパン、じっと我慢の子であった、トンデレラ・シンデレラ、ほっかほっかだよ・おつかさん、タコが言うのよ、ユンケルンバ・ガンバルンバ、女房酔わせてどうするつもり、ワタシはコレで辞めました、5時から男のグロンサン、すったもんだがありました、アスパラでやりぬこう、人間みな兄弟、どこまでも行こう、くさい臭いは元からたたなきゃダメ、ケンとメリーのスカイライン、歯の裏まっ黒、金銀パール・プレゼント、渡辺のジュースの素ですよ、お餅が入ってベタベタと、俺がこんなに強いのも当たり前田のクラッカー、イチ・ニイ・サンガリア、リンゴをかじると血がでませんか?、男は黙ってサッポロビール、姓はオロナイン名は軟膏、金鳥の夏・日本の夏、うれしいとメガネが落ちんですよ、う~んマンダム、クリープを入れないコーヒーなんて、のんびり行こうよ、見えすぎちゃって困るのお~、ちかれたび~、ハッキリ・クッキリ東芝さん、どっちが得かよーく考えてみよう、みんな悩んで大きくなった、ヒデキ感激!、読んでからみるか見てから読むか、ファイト!一発、ピッカピカの1年生、いまのキミはピカピカに光って、それなりに写ります、ちゃぷい・ちゃぷい・どんとぽっちい、投げたらアカン、幸せってなんだっけ・なんだっけ、元気ハツラツ!、亭主元気で留守がいい、24時間戦えますか、やわらか頭しています、お元気ですか~、すこし愛して、なが~く愛して、食べる前に飲む!    ネスカフェの「違いがわかる男のコールドブレンド」は40年続く長寿CM。松山善三、黛敏郎、中村吉右衛門、遠藤周作など文化人を起用。現在は大沢たかお。

トンガ王国と相撲

Photo トンガの人はなぜみんな大きいのだろう

    太平洋サモアの南、フィジーの東、大小約170の島からなるトンガ諸島。面積747k㎡、人口約8万人。首都はヌクアロファで、最大の島トンガタプ島にある。トンガ王国はすでに12世紀までには存在していたといわれ、最初の王朝ツイトンガからツイハァタカラウア王朝へ、そして現在のツイカノクボル王朝へとうけつがれてきた。戦後日本とも関係が深く、とくに1974年から2009年までトンガ出身の力士が大相撲に在籍していた。主な力士は南ノ島(父)、南乃島(子)、福ノ島、幸ノ島など。相撲部屋のお家騒動があったり、まだ外国人力士養成に慣れない時期でもあり、トンガ力士には不遇であった。トンガの人々はだいたいに大柄でタウファアハウ・ツポウ4世は1976年のギネスブックで世界で最も大きな国王(209.5㎏)として登録されていた。長男の現国王のジョージ・ツポウ5世(62歳)も身長は推定2m、体重は150㎏以上は、あるかと思える巨漢である。そこで一案であるが、大相撲解散という最悪の事態となった場合、相撲興行の拠点をトンガに移して、地元力士を育成し、ネットを通じて世界に配信するという新しい相撲ビジネスを構築してはどうだろうか。

不祥事が発生する構図

    大相撲のような特殊な世界のことはわからないが、警察、消防、市役所などという組織でなぜ不祥事が発生するのか、そういう組織の構造的要因を分析、研究することは必要だろう。だがこういう問題点を指摘する人はとかくその組織の上部に位置した人であることが多い。また外部のマスコミなど官僚組織の内部にいない人が調査することが多い。だからなかなか真相がわかりづらい。国や県の巨大な組織であれば権力構造が複雑でわかりづらいだろうが、町村であればいたってシンプルであるので説明しやい。役場は制服組と呼ばれる消防と、背広組と呼ばれる役人とにわかれる。当然、営利をもとめる団体ではないので、公務員は自己の昇進を第一として仕事に精励する。心理的には同期入庁の者との昇進時期を気にする。学卒か中途採用かで異なるし、学歴差、職場の経歴、人間関係で大きく差がつくことも多い。役所の場合、最高出世は助役であるが、まずほとんどの者は助役となることは夢みていない。部長も大半の者は諦める。次長どまりか、あるいは悪くても課長にはなりたい、とおもうのが人情だろう。55歳をすぎても係長のままで昇進がなければ、上から自分が期待されていないと思うだろし、後から入庁した者に昇進が抜かれているので、係長のボストに居続けることは、同じ職場のヒラの昇進を阻むことになるので、依願退職するものも出てくる。どのような基準で人事は選別するのだろうか。ここが民間と役所の大きな違いであるが、民間は会社にとって利益を生み出す人材、これが第一である。ところが、役所は管理者にとって都合のよい人物、たとえば自分の意見をそのまま聞いて実行する者とか、気心のあった部下、これがすべてである。いわゆる「なかよし人事」である。しかし「なかよし人事」が町民にとって幸福をもたらすものとは限らない。企業は生き残るために部下の能力を正確に調べるが、役所は個人の能力や研究業績などはほとんど調べず、単なる印象や噂で人事査定をしているように思える。こういったことを長年続けていくと、コースから外れたものは、組織に怨みを抱くようになり、不祥事発生の要因となる。一つの職場に固定的に長期間配置したり、極端な冷遇が役所の不祥事発生のパターンである。管理者は出先職場の職員との日常的な交流に心をくだくべきである。ある会社の社長が退職した社員と話しをしたとき、「社長はいつも叱咤激励、訓示をのべるけれども、一度でも社員にありがとう、を言ったことがありますか」と言われた。この言葉に目覚めた社長は社員のモチベーションを高め、ヤル気を興させることに意をつかい、会社の営業成績を目覚しく躍進させたという。役所ではこんな話は皆無である。

軍隊よりヒドい格差社会にも問題あり

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  昭和20年12月に進駐軍に両国国技館が接収されたが、翌年11月にメモリアルホールと改称し、11月場所を開催することができた。優勝は羽黒山が13戦全勝で制し、大横綱・双葉山はこの場所を最後に引退した。双葉去って65年、3月から開催される予定であった大相撲春場所は中止と決定した。

    竹縄親方(元春日錦)、千代白鵬、恵那司の3人に対して除名処分が下されるらしい。「まじめにやっている力士がほとんどなのに、一部の不逞の輩(やから)による不始末のために中止となることは残念無念」という相撲ファンの声が聞こえる。だが八百長問題や野球賭博問題を力士個人のモラルとして捉えることにこそ問題があるのではないだろうか。本質的問題を隠蔽と欺瞞のまま再開しても不祥事がなくなることはないだろう。むしろ伝統といわれる相撲社会の常識が現代の非常識なのである。関取と褌担ぎが違うのは当たり前というだろう。しかしプロ野球では2軍の最低年俸が400万円。角界16年の三段目・恵那司(31歳)の給料は、ゼロ。幕下以下の力士は基本的には無給。本場所手当の10万円と僅かの奨励金(図を参照)。つまり年60万円で外食したり、デートしたり、携帯電話代、その他の遊興費にしている。力士は部屋に住み込みなので家賃と食費、光熱費はない。国民年金はどうしているのだろうか。それにしても30歳の男子としてはヨメさんももらえず辛いだろう。つまり八百長という最低のことをするのは褌担ぎの怨嗟の声ではないか。幕内力士の豪勢な生活とは雲泥の差である。強い者がいい目をみる。「土俵に金が落ちている」というけれど、近代スポーツとして認められるには、所属する力士の最低保障や怪我や老後の保障まで考えないといい人材は集まらないだろう。大相撲の機構は法律の最低賃金法の適用には該当しなのかもしれないが、幕下以下の力士の最低限度の保証をしないと、今回のような事件は再発する。発覚した八百長は氷山の一角で、協会は過去から八百長は行われていたと認めたうえで、力士の極端な収入格差や各部屋に支払われる経費など、抜本的に見直すことが急務である。

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関東大震災後における社会の変容

   震災後の東京の変貌を考現学の今和次郎(1888-1973)は街頭の社会、風俗をスケッチなどに残して観察するというユニークな手法で実証的な研究成果を残している。つとに銀座デパートにおける和服と洋服の統計的調査などはよく知られるところである。しかし、このような流行の視点だけではなく、彼は本所深川の貧民窟付近の風俗を採集して、震災後の復興に置き去りにされた階層、社会格差が存在していたことも着目している。

2011年2月 5日 (土)

資本主義と社会主義

   最初に「資本主義」Kapitalismusという語を使用したのはカール・マルクス(1818-1883)であるが、「資本主義」という概念そのものを発見したのは、マルクスではないといわれている。現在の研究では、フランスのいわゆる空想的社会主義者といわれるピエール・ルルー(1797-1871)ということになっている。「社会主義」(socialisume)という語もルルーが論文「個人主義と社会主義」(1834年)で最初に使用したといわれている。つまり「社会主義」が「資本主義」に先行して語が成立し、社会主義思想の普及とともに「資本主義」の概念が成立したというのである。社会の現状をきびしく批判し、社会主義の概念を考案したルルーは著書に「人間性について」(1840)があるが、オノレ・トーミエのリトグラフ「当世代議士鑑」(1848年)には「社会問題の警句のコレクションを持ち、かの偉大なる哲学者は国民議会の集会に向かう」と皮肉たっぷりのカリカチュアがある。

Photo_6 ピエール・ルルー

シャルコーとフロイト

Photo_5 ブルイユ「シャルコーの臨床医学講義」

   ジャン・マルタン・シャルコー(1825-1893)は19世紀の神経学者として声望が高く、ヒステリーの発見者として知られている。フロイトは1885年から数ヶ月間、パリのサルペトピエール病院でシャルコーに学んだ。レオン・ドーデ(アルフォンス・ドーデの長男)は「シャルコーは背の低い男だった。堅肥りで顔が大きく見え、首は牝牛のよう、額は狭く、そして頬は横に広い。口はへの字に曲がって厳めしく思索的だった。青々と髭を剃り、髪は直毛で、オールバックになでつけていた。目には狂気に近い光があった」と記している。

幸福な晩年だったキートン

Img_0030 58歳の誕生日(1953年)にエレノア夫人から祝福のキスを受けるキートン

  チャップリンと並ぶ喜劇役者といえばバスター・キートン(1895-1966)である。ところがキートンはトーキーとなって人気が落ちて、晩年は不遇だったという印象がある。だがパントマイムが持ち味のキートンには映画の大役はなかったものの、テレビのショー番組やヨーロッパの舞台公演などで忙しかったという。それにキートンは自分を偉ぶることなく、過去の映画をなつがしがることもしなかったという。1940年にはキートン45歳のとき、三番目の妻エレノア(当時21歳)と出会い結婚する。彼女は1966年、70歳でこの世を去るまでの25年間、キートンの最良の伴侶となり、仕事での良き協力者でもあった。

文章を書くことから何かがはじまる

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    立春も過ぎると気分的にすこし寒さが緩んだ気がします。退職し第二の人生が始まる人、学校を卒業して新社会人となる人、進学・入学する人、結婚生活が始まる人、みんな夢と希望をもって生きていかれかと思います。いま、人生の舞台に立とうとする人に求められることは何でしょうか。ケペルは「アイデア」「表現力」そして「ヒューマン・パワー」だと思っています。今日、町を散歩していたらお店屋さんから植村花菜の「トイレの神様」が聞こえてきました、この歌にはこの三つの要素がそろっています。ダンスもテクノポップでもなく、昔ながらのギターの弾き語りなのになぜ多くの人に感動を与えたのでしょうか。それは創作者の本当の心が表現されているからではないでしょうか。身近なテーマを選び、飾りや気取りがなく、素のままの方言で歌いかける、あくまで自然で人間らしく、これはいいかえれば「ヒューマンパワー」がもっともメッセージ性をもって人の心に届くということを証明しています。歌というジャンルだけでなく、芸術や政治や経済でも「アイデア」「表現力」「ヒューマン・パワー」が求められているのではないでしようか。ヒューマンパワー、いいかえればヒューマニズム、つまり人間主義。私はブログも大きな力をもつものだと思っています。文章を書くことから、つむぎだされた言葉は人と人とがつながることだと思います。

最後のガンマン

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  西部劇を久しく見ていない。黒沢明の名作「七人の侍」の翻案西部劇ジョン・スタージェスの「荒野の七人」からでも50年が経過している。7人の主演者はユル・ブリンナー、スティーブ・マックイーン、チャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーン、ロバート・ヴォーン、ブラッド・デクスター、ホルスト・ブッフホルツ。集団演技もさることながら、個々の性格が相殺されていないのがいい。だがロバート・ヴォーン(78歳)だけが唯一の存命者であることが悲しい。アクション・スターは身体を酷使したので寿命は短いのだろうか。

大森一樹と井筒和幸

   大森一樹の新作「世界のどこにでもある、場所」がもうすぐ全国公開されるという。震災以降、あまりメジャー作品はないように思う。いまは大阪芸術大学教授となり、のじぎく兵庫国体やら行政との関係も深いし、新聞の悩みの相談までしている。好人物が災いして、本業の監督業にさく時間が減ったのは残念に思っていた。本来、1978年デビュー当時、若手監督の旗手といわれた才人である。同年の井筒和幸はポルノから出発したが、現在はむしろ大森よりも注目される監督である。過激な言動やパフォーマンスもあるが、映画に専念すれば面白い作品をつくるパワーがある。大森と井筒は同じ関西出身ながら対照的な環境にあるが、対談すればどんな会話になるだろう。面白い映画は社会的な地位でつくれるものでも、人柄でつくれるものでもない。何を表現したいのか、人間に対する限りない愛情のようなものが明確に映像表現できれば共感をよぶことができる。2人にはその才能がまだあると思う。

大スターの娘

    当代活躍している女優またはエンターティナーで父または母がスターというのは大勢いるだろうが、まず思いうかぶのは、ライザ・ミネリか。父は監督のビンセント・ミネリ、母はジュディ・ガーランド。最近ではアンジェリーナ・ジョリーか。父はジョン・ヴォイト、母は女優マルセリン・バートランド。ジョン・ヴォイドは「真夜中のカウボーイ」「帰郷」などで知られるがアンジェリーナの風貌からその遺伝子をみつけだすのは難しい。最近、「ふたりのトスカーナ」という映画をみたがユダヤ系女性を演じたイザベラ・ロッセリーニに母の面影がはっきりと見て取れた。母はイングリッド・バーグマン、父はロベルト・ロッリーニ監督である。テイタム・オニール(ライアン・オニール)、ロミナ・パワー(タイロン・パワー)、ナンシー・シナトラ(フランク・シナトラ)、ターニー・ウェルチ(ラクウェル・ウェルチ)、メラニー・グリフィス(ティッピ・ヘドレン)、ブリジット・フォンダ(ピーター・フォンダ)などハリウッドは親の七光りが通用せず消えていった。ミア・ファローの母はモーリン・オサリヴァン、先日亡くなったマリア・シュナイダーはダニエル・ジュランの娘だった。「スター・ウォーズ」でレイア姫を演じたキャリー・フィッシャーは父がエディ・フィッシャーで、母がデビー・レイノルズである。

   娘が母親に似ているというケースは比較的稀な気がする。寺島しのぶは富司純子に似ていないし、IMALUは大竹しのぶに似ていない。柴本幸は真野響子に似ていない。宇多田ヒカルは藤圭子に似ていない。女の子は父親に似るというのは本当なのだろうか。

仮免総理

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    昨年の末、菅直人は1年を表す漢字として「行」を選んでいた。修行の一字「行」だというのである。国のリーダーが、なにをいまさら「修行」とは。トホホ・・・である。参院選敗北によるねじれ国会、外交の失敗、内閣支持率の低下などで弱気になっているのだろうか、「これまでは仮免だった」と発言した。新年早々は、国債格付けの引き下げに関して、「(経済に)疎い」と発言した。イラ菅から低姿勢、謙虚な姿勢とみるよりも、卑屈な態度と言うべきだろう。一国の総理として末期症状である。松本清張の著書に「史観宰相論」がある。大久保利通から田中角栄までを論評しているが、清張は現今を見ずに亡くなってよかった。政権がわずか1年ももたない仮免宰相では論評する気持ちにもなれないだろう。

2011年2月 4日 (金)

地域活性化の甘い罠

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    横溝正史の小説に農閑期の内職にとクリスマスに飾るモールの機械や材料代を買わせて金だけもちにげした男の話がでてくる。昔から田舎の地域振興にかこつけたインチキ臭い話は後を絶たない。いまでもリゾートやゴルフ場建設のような大ががりなものから小さなものまで「地域おこし」「地域振興」「地域活性化」というアイデアで一儲けしようとする人は後をたたない。イカサマ臭い地域おこしとは具体的にどんなものかわかない。結局、成功例だけが表面にでるが、失敗すれば恥ずかしくて文句もいえないから表面化しないのだろう。ゆるキャラ、ご当地名物うまいもの、ブームにあてこんだ土産品、たとえば愛の兜などは売れているのだろうか。映画のロケ地の誘致。日本中のほとんどの地域おこしは失敗している。あるいは、うまくいっても一時的なもので長続きしない。

    美術館や博物館なども観光客が呼べると建設したものの町の財政を逼迫するものも多数あるだろう。○○記念館というのも一時のブームが過ぎれば入場者は低下していく。霧島山新燃岳噴火、昨年の口蹄疫流行、今年は鳥インフル流行。「どぎゃんかせんといかん!」といった男は、そのまんま東へ逃げて行った。

   「地域おこし」とか「地域活性化」という言葉には罠がある。現在、衰退している地域に住んでいる人がいたとして、その地域の衰退という事象は、いきなり訪れたものではなく、時間をかけて進行してきたものである。つまり衰退の進行に人はなれ親しんできたとも言える。人口減少を招いているのは、ある意味「適応」である。ところが「地域おこし」で移住者を取り込み、新産業を興すとなると、環境は激変する。いままでそこに住んでいた人は、急激な変化についていけないかもしれない。必ずしも活性化は善ではない。誰が何を求めているのかを考えなくてはならない。

有為転変は世の常

   東京大学の図書館学者Nはいわゆる公共図書館が「中小レポート」を基本とする活動、貸出至上主義を批判する論者として知られる。新著で、他国の状況と比べ、貸し出しを最優先にする必然性は無いとしている。限られた図書費予算の中で学術書の購入の予算を増やせば、利用者に人気のあるポピュラー本が減り、自然と貸し出しは落ちる。もちろん中小の真面目な本だしている学術出版社の願いでもある。痛し痒しの問題だが、Nは短期的にみれば貸し出しは落ちるが、他のサービスの拡充に廻せばどうか、という複本購入にも批判的であるらしい。Nと仮名にする理由は未読なためだが、Nのこれまでの論文は読んでいるのでだいたい主旨はわかる。Nの新刊に図書館検定などがあるが、この類の本は売れるだろうが、国立の最高機関である教授がこのような本で稼ぐより、もっと図書館の未来に対して建設的な構想を考えるべきだと思う。Nには基本的な任務がわかっていない。1970年代の時点では多くの図書館はいわゆる日図協の選定した堅い本しか買っていなかった。学術書、教養書中心だった。1970年代半ばからリクエスト購入が軌道にのり、ポピュラー本が購入の中心的位置をしめるに至った。貸し出しも右肩上がりで、市民にも図書館活動が喜ばれたことは、行政への評価にもつながり、新館建設へと繋ぐことができた。1980年代、90年代までは飛躍への道のりだったと思う。Nは1960年代、1970年代の停滞の時代を実感していないのだと思う。これまでやってきたことを後の時代になって学者から否定されるのは多くの古い図書館員はおそらく好まないだろう。しかし好むと好まざるにかかわらず、時代は転変し、新しい人が新説を掲げて前時代を批判することは容易いことである。Nのような学者から教わった生徒がこれからの図書館を担うと思うと日本の図書館に未来はないと感じる。

粗大ゴミじゃねえ

  西城秀樹の歌に「粗大ゴミじゃねえ」というのがある。この歌が発表された直後に病魔に襲われ倒れた。「粗大ゴミ」とは広辞苑を引くと大型の廃棄物の意味しか説明していない。一般には、別の意味として「定年後、家でゴロゴロしている夫のこと」をさす言葉として使われることがある。役には立たず、といって捨てるのも大変という意味で、仕事以外に何の趣味も持たない、会社人間の哀れな末路を現している。評論家の樋口恵子が言い出したものといわれる。なぜ広辞苑で収録しなのかは憶測の域をでないが、おそらく女性の側からのネガティブ・キャンペーンの一つ、例えば、「粗大ゴミ」「加齢臭」などであり、好ましくないと判断しているのであろう。

秘められたミン・ジョンホの過去

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両班のシンボルは カッ(冠)という独特の帽子

  わかりにくいと思われた韓国時代劇が何故か日本でも数多くテレビで放送されるようになった。それは「宮廷女官チャングム」のヒットによるものだろう。ヒロインのチャングム(イ・ヨンエ)を常に見守り、いざというとき現れて救ってくれるナイトのようなミン・ジョンホ(チ・ジニ)。ドラマのミン・ジョンホは両班といわれる高い地位の人で、年齢からして当然結婚しているはずである。実は製作者の話によると、ドラマの中では説明されていないが、ミン・ジョンホはすでに妻と死別していたという設定だったという。当時、離別死別を問わず、結婚後に妻を失うということは男性にとって肩身の狭いことだった。もちろん再婚は可能である。しかし体面や家柄を重んじる当時の結婚において、いくら文武両道に秀でたミン・ジョンホでも、後妻に入ることは女性にとって好ましいことではなかった。ミン・ジョンホを慕う女官のチェ・グミョン(ホン・リナ)も諦めざるをえなかった。このような困難を乗り越えてソ・チャングムはバツイチのミン・ジョンホと結ばれたのである。

2011年2月 3日 (木)

名画モナリザのモデルは男性だった!?

    パリのルーブル美術館には世界中から集められた30万点以上の名品があるが、なかでも至宝はダビンチの「モナリザ」である。謎のほほ笑みをたたえる美女のモデルは誰か?永遠の謎の一つとされた。もともと「モナリザ」という題は、ジョルジョ・ヴァザーリが美術家列伝で初めて記したものである。「モナ」は婦人、「リザ」とはエリザべッタの愛称であることから、ヴァザーリはこの女性がフィレンツェの豪商フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻エリザべッタ・デル・ジョコンドであると考えた。だがエリザべッタは当時まだ24歳であったから、肖像画の女性はもっと年齢が高く見える。そこで古来からモデルの女性は別人ではないかという説もあった。ナポリ公妃コンスタンツァ・タヴァロス、イザベラ・タラゴーナ、イザベラ・デステ、はてはダビンチの自画像説まである。最近ではモナリザの目の中に小さく書かれた「L」と「S」の文字が発見され、ダビンチの弟子で同性の愛人サライからインスピレーションを得て、モナリザを描いたという説がでている。つまりモナリザのモデルは男性だったというのである。サライは美少年で盗癖はあったがダビンチは可愛がったという。サライとは「小悪魔」という意味で、本名はジャン・ジャコモ・カブロッティという。ダビンチには25年間は仕えていた。

愛の結末は誰にもわからない

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    スターの結婚式がファンから祝福されるなら、スターカップルの破局はファンをがっかりさせるものであろう。ファンに衝撃を与えた大物カップルの離婚は誰れ?やはり第一位は美空ひばり・小林旭か。昭和38年に電撃結婚したが、わずか2年あまりで離婚。実際には2人は入籍しておらず、戸籍上、ひばりは生涯独身であったとか。昭和34年に江利チエミと高倉健と結婚したが、昭和46年に離婚。昭和45年に平幹二朗と佐久間良子と結婚したが、昭和59年に離婚。昭和46年に石坂浩二と浅丘ルリ子と結婚したが、平成12年に離婚。

   布施明・オリヴィア・ハッセー、森進一・大原麗子のスターカップルはともに昭和55年に結婚するも4年後には離婚している。スターカップルに永遠の愛はないのだろうか。

世界の高齢者元首

Photo_3 アブドゥライ・ワッド

    エジプト・アラブ共和国のムバラクが30年近くの長期政権で82歳という年齢にも驚かされるが、世界には彼より高齢の元首がいる。セネガル共和国のアブドゥライ・ワッドは84歳、ジンバブエ共和国のロバート・ムガベは86歳、サウジアラビア王国のアブドゥッラー・ビン・アブドゥルアジーズ・アール・サウードは86歳である。

    ちなみにムバラクが大統領に就任した1981年はアメリカ大統領はレーガンで、日本は鈴木善幸首相だった。イギリスのチャールズル皇太子とダイアナ妃のご成婚があった年だった。

まぼろしの理想図書館

   よく図書館長は有資格者でなければならいと図書館の世界ではいう。また自治体直営で館長をはじめ職員全体が有資格者で、正職員による図書館運営という職員体制を唱える人がいる。だが現実には、指定管理者制度や運営を委託する図書館が増え、臨時・非常勤職員が全体の62.7%でこの数字はますます増えつつある。理想論を熱く語るのが優れた図書館員のように思う人がいる。だがこれではいつまでも幻の邪馬台国を追い求める宮崎康平のようなものではないか。たとえば有資格者である専門館長と、行政から配属された無資格の館長との間でこれまでどれだけ運営に違いがあったのだろうか。一部に名館長といわれる人もいたものの実際はスタンドプレイのような単発のアイデアにとどまり、多くは地味で手固い無資格の図書館長のほうが館運営を上手くやってきた事例のほうが多い。また有資格の館長は、仕事への自信から、改革を急ぎ、過剰な図書の廃棄などをすることが多く、資料面からみると弊害のほうが大きい。全国的な組織としては文部科学省所管の社団法人の日本図書館協会があるが、ここに大きな期待を寄せることもはかない夢であることを知った。ある市立の図書館では分室の運営を市民のボランティアに任せているという。当初、運営が危ぶまれたが、7年を経過するが順調に運営されているという。問題点はあろうが、財政的危機の中で図書館を存続させるためには止む得ない選択だったと思っている。

2011年2月 2日 (水)

あの人が芥川賞作家?

   純文学分野における無名もしくは新進作家の作品に与えられる文学賞が芥川賞であり、大衆文学分野における無名・新進・中堅作家の作品に与えられる文学賞が直木賞である。ところが受賞後の作家活動をみていくと、芥川賞受賞作家の中には直木賞的フィールドで活躍した人が多くいる。由起しげ子、五味康祐、松本清張、石原慎太郎、菊村到、宇能鴻一郎らである。反対に高橋源一郎、村上春樹、吉本ばなな、島田雅彦らは芥川賞を受賞していない純文学系の作家もいる。

韓国映画の女性監督たち

Photo_3 「アメノナカノ青空」 イム・スジョン(左)はちょっと佐藤オリエに似ている

   日本でも荻上直子、河瀬直美、西川美和、井上奈巳、佐藤嗣麻子ら女性映画監督が活躍しているが、韓国映画も女性監督たちが進出している。「アメノナカノ青空」「肩ごしの恋人」のイ・オニ、「我が生涯最悪の男」のソン・ヒョニ、「ワイキキブラザーズ」「3人の友達」「我ら生涯最高の瞬間」「飛べ、ペンギン」「牛とともに旅行する方法」のイム・スンレなど活躍が目覚しい。

   「アメノナカノ青空」は病弱の少女イム・スジョンとカメラマンを目指す大学生キム・レウォンの淡い恋を描く。イム・スジョンは当時23歳だが高校生にしか見えない。ソ・ジソブと共演した「ごめん、愛してる」でブレイク。キム・レウォンはムン・グニョンと共演した「マイ・リトル・ブライド」で日本でもファンは多い。女性監督ならではのピュアな作品となっている。

Photo_4 我ら生涯最高の瞬間

スターと髭

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  最近の日本では髭をはやしている人をほとんど見たことがない。テレビのお笑い芸人にもあまりいない。むかしチャップリンのチョビ髭や、グーチョ・マルクスのように喜劇役者は珍型のヒゲで個性を出していた。ベン・タービンもオリヴァー・ハーディも髭がトレード・マークだ。もともと映画初期は登場する男はヒゲまたヒゲで、口ひげはもちろん、あご髭、ほほ髭みんな生やしている例も少なくなかった。髭だらけで顔の弁別がつきにくいというクレームもでた。だが夫人には髭男は人気があった。「ヒゲなきキスはバターなきパンの如し」という言葉が西洋婦人の間では囁かれていた。しかし時代の流れとともに、こざっぱりとした貴公子がモテるようになった。ディズニーアニメの「シンデレラ」も王子様には髭がない。最近の日本のイケメン・ブームも髭なしである。しかし口髭がトレード・マークのロナルド・コールマンは死ぬまで髭を落とすことがなかったが、洗練されて粋だった。クラーク・ゲーブル、アドルフ・マンジュウ、フレドリック・マーチ、ウィリアム・パウェル、デヴィッド・ニーブン、オマー・シャリフ、ショーン・コネリー、チャールズ・ブロンソン。男の魅力が漂う。うーム、マンダム!

Photo_2 ベン・タービン

Photo_3 スタン・ローレル(左)オリヴァー・ハーディ(右)

バートランド・ラッセルの平和運動

   バートランド・ラッセル(1872-1970)は、イギリスのウェールズのトレレックに生まれた。父アンバーレー子爵および母ケイト夫人がともに早く亡くなったため、3歳9ヵ月の頃から、父方の祖父ラッセル伯爵(1792-1878)夫妻のもとで養育された。祖父はホイッグ党の領袖として、二度まで宰相の印綬を帯びた政治家であったが、この祖父の没後、幼いバートランドは、厳格な清教徒であった祖母レディ・ラッセルの膝元で訓育された。バートランドはすでに少年時代に、徹底的な懐疑と思索の結果、独力で無神論に達したが、彼の生涯を貫く道義的な信念の形成には、祖母の影響がはっきり現れている。祖母が12歳のバートランドに贈った戒めの言葉は、「群衆のなす悪事に追随するなかれ」という聖書の句であった。

   二度にわたる世界大戦、広島・長崎への原爆投下、とくにビキニ環礁の水爆実験(1954年3月)は、ラッセルに大きなショックを与えた。彼は、原爆のときから水爆の可能性を予見していたそうであるが、実験の成功のショックは、それまでの西欧中心的平和思想をゆるがすものであった。1954年12月23日、BBC放送で核兵器の廃絶が地上のいかなる政治的・思想的対立をも越えた人類共通の課題であることをアピールした。ラッセルはその草稿を書き、アインシュタインが死の直前に署名した(ラッセル・アインシュタイン宣言)。彼は、核兵器の廃棄をアメリカ・イギリス・フランスに、さらにソヴィエトや中国にアピールし、1955年には、世界の代表的科学者を集めた会議を提唱した。1957年7月7日、第1回の会議がカナダのノバスコシア州のパグウォッシュという所でサイラス・イートンの援助で開催された(パグウォッシュ会議)。湯川秀樹、朝永振一郎、小川岩雄、マックス・ボルソ、フレデリック・ジョリオ=キュリーら10ヵ国22人の科学者が集まった。1961年には、みずから結成した百人委員会の委員長として国防省玄関前に座りこんで逮捕され、さらにトラファルガー広場で市民不服従運動の大集会を指導し、イギリス全土の核兵器基地にデモをかける。1962年には、ケネディとフルシチョフに長文の電報を送って、キューバ危機の回避に努力し、1965年には、ベトナム危機についていくたびかのアメリカ非難の声明を発し、1967年には、サルトルなどと協力、戦犯裁判をパリに開催してアメリカの有罪を宣告するなど生涯にわたり平和運動を貫いた。

    最後に、1966年12月に中国の核兵実験が成功して意見を求められた時、バートランド・ラッセルは次のように語っている。

   他の国が核兵器を保有するからといって、自分も持とうと考えることは愚かなことである。それは問題の解決に少しも寄与することにならないばかりでなく、核兵力を拡散させる機運を促進する。そしてこの軍備拡張と核兵力の拡散が予期しない大規模戦争を誘発する危険をはらむものである。核兵力が役立つような戦争の勃発は、もはや問題の解決や勝敗の決定どころの程度ではなく、相手もろともに自分も滅亡することである。いや、戦争当事国だけでなく、人類のほとんどが破滅する、いわば全人類の自殺行為である。

   1970年2月2日、ラッセルは97歳で亡くなった。

2011年2月 1日 (火)

珍しいハリウッドの金婚式カップル

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   ケペルの好きな女優にポーラ・プレンティス(71歳)がいる。都会的で明るくて面白い。1960年代のラブコメの女王だった。「ボーイハント」「男性の好きなスポーツ」など。夫君は才人のリチャード・ベンジャミン(73歳)。「さよならコロンバス」「キャッチ22」「シーラ号の謎」に出演の後、1982年監督デビュー。「リトル・ニキータ」「恋する人魚たち」など。スターカップルは離婚が多いハリウッドにあって、おしどり夫婦で今年は結婚50年になるそうだ。日本でいえば長門・南田カップルか。

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モンキー・ビジネス訴訟

    ケーリー・グラント(1904-1986)は、20世紀フォックスが彼の出演した映画「モンキー・ビジネス」(1952)のコマ切れシーンを、マリリン・モンローのセミ・ドキュメンタリー「マリリン」(1968)の中に自分の許可なく使用したのは契約違反として訴え、1972年4月に同社を相手どって100万ドルの損害賠償の訴えを出した。1974年8月30日、ロサンジェルス最高裁は、フォックスに対し10ドルの支払いを命じ、2年越しの裁判に愛嬌満点の終止符を打った。記者団に感想を聞かれたグラントは、二ンマリと笑って「われ勝てり!}と答えたとか。

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