土岐善麿と石川啄木
朝日新聞社の石川啄木と読売新聞社の土岐善麿とは新進歌人として併称されながら未知の関係であった。明治44年1月13日、二人は初めて会い雑誌を出そうという話が成立した。誌名も啄木の案によって「樹木と果実」と決定した。創刊号は3月1日とし、二人はその後、毎日のように会って準備を進めたが、2月1日、啄木は慢性腹膜炎と診断され、帝大青山内科に入院し、退院は3月15日であった。
土岐善麿(1885-1980)は、明治18年6月8日、東京市浅草市松清町の真宗大谷派等光寺に生まれた。父善静、母観世(藤原家の出身)。土岐善静は学僧として知られた。
土岐善麿。本名は善麿、筆名は詩作時代は湖友のち哀果。明治37年に早稲田高等予科に入学。同期に若山牧水、北原白秋、服部嘉香がいる。卒業後、読売新聞社の記者として活躍する。処女出版「ローマ字三行詩」の「Nakiwarai」は、啄木に影響を与えた。啄木は善麿を「歌人らしくない歌人」として、その作品が日常生活がモチーフとなっていることを評価していた。明治45年4月13日、石川啄木は一禎、節子、京子、若山牧水に看とられながら死去。土岐善麿の生家の浅草等光寺で葬儀が行なわれた。
わが友の、寝台の下の
鞄より
国禁の書を借りてゆくかな。
土岐善麿は歌人、国文学者、ジャーナリスト、新作能の作者、杜甫の研究家、田安宗武の研究、日本式ローマ字論者、国語審議会の会長などを歴任したり、多方面に活躍している。かわったところでは、日本最初の駅伝競走の企画実行者は土岐善麿である。京都から東京までのマラソン・リレーを企画・実行し、それを「東京奠都記念東海道駅伝徒歩競走」と命名したとされる。
土岐は戦時中も批判的良識を守った。戦争に非協力的な歌人として、歌壇の内部から攻撃にさらされた。戦後の民主主義の時代になり、土岐のリベラルな芸術家、文化人を図書館界は望んだ。昭和26年3月、東京都立日比谷図書館長となる。昭和27年5月、日本図書館協会理事長の中井正一が急死すると、8月に新理事長に土岐善麿に白羽の矢が当たった。善麿はこの時すでに67歳であったが、新生の図書館の問題が山積するなか、本人自ら難局にあたられたようだ。土岐は柔軟な思考力で、知識人らしい生き方を貫いた人である。
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