無料ブログはココログ

« 悪徳検定商売繁盛記 | トップページ | 図書館長は有資格者に限定するべきか »

2011年1月24日 (月)

田中智学と磐梯山噴火

   明治21年7月15日、福島県会津磐梯山が突然噴火し、数ヵ村が壊滅し、477人の犠牲者を出すという惨事となった。被災者たちの救済・復興は困難をきわめた。

    日蓮宗の田中智学(1861-1939)は、写真師吉原秀雄を説き伏せて、7月20日に上野駅を立ち、磐梯山周辺に滞在して写真撮影を行い、7月29日に帰京すると、8月上旬から各地で幻燈会を行ない、その入場料、義捐金を罹災地に送ったという。さらに彼は、読売新聞に「磐梯紀行」として30回にわたって連載している。(明治21年8月5日~10月6日)

   このように田中の企画力・実行性がその伝道活動にもおおいに用いられて、その初期から機関紙による文書伝道・幻燈布教などを実施し、日蓮宗の宣伝に努めた。のちに、田中は日蓮宗の革新を志し、還俗仏教者となって、在家主義の新仏教運動に入っていく。明治24年立正安国会(のちの国柱会)を創立する。さらに日本国体学を提唱して高山樗牛、姉崎正治らの支持を得て、明治後期の国粋主義的色彩を強く帯びるようになる。田中は大正3年、新たに国柱会を組織した。

宮沢賢治と国柱会

   宮沢賢治は大正10年1月24日、25歳のとき上京して鶯谷の国柱会館を訪れている。そこで理事をしている高知尾智耀から、文芸によって大乗の教えを広めるように言われ、創作に熱中する。やがて妹トシの病気の知らせをうけて花巻に戻ることになるが、7ヵ月ほどの東京生活で書いた原稿の量はおびただしいものであった。賢治が生前に稿料(5円)を受け取った唯一のものといわれる童話「雪渡り」もこの年に書かれている。田舎青年の宮沢賢治が国柱会の師である田中智学に直接話しができたかどうかは定かではないが、賢治文学を理解するうえで彼の信仰心が国柱会から一定の影響を受けた事実を無視することはできないだろう。ただ現在においては、生涯賢治は国柱会に関係したとする説と早期離脱説とがあり、今後の賢治研究の成果を期待したい。

« 悪徳検定商売繁盛記 | トップページ | 図書館長は有資格者に限定するべきか »

「宗教」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 悪徳検定商売繁盛記 | トップページ | 図書館長は有資格者に限定するべきか »

最近のトラックバック

2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31