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2011年1月14日 (金)

英雄色を好む

「伊藤、少し慎んではどうかね」と明治天皇にたしなめられたほど伊藤博文の好色は有名だった。「坂の上の雲」の加藤剛ではマジメで堅物の印象だ。日本歴史で好色をあげるとすれば、古くは桓武天皇だろうか。寵愛する女性が35人はいたという。戦国時代の武将も多数の側室をもつことは当たり前だった。女好きといわれた豊臣秀吉には有名な淀殿のほか、記録にあらわれるだけでも16人の側室がいる。松の丸殿(京極高吉の娘)、加賀殿(前田利家の娘)、三条殿(蒲生賢秀の娘)、お種殿(伏見の地侍高田次郎右衛門の娘)、備前殿(山名禅高の娘)、三の丸殿(織田信長の五女)、姫路殿(織田信包の娘)など名家の娘が多い。朝鮮へ渡ろうと肥前の名護屋城(佐賀県唐津市鎮西町)に滞在したときも、広沢局を側室とした。かつてこの地の城主名護屋経述の妹で、20歳であった。九州在住のときも大名の妻女たちの多くは、秀吉に招かれてもてあそばれたという。

   色好みでは徳川家康も秀吉に負けていない。公式では2妻15室だが、陰にどれだけいたかは不明である。だが家康は秀吉のように高貴な姫君よりも、身分の低い女を選んでいる。健康的な野育ちが好みだった。家康が今川家に人質にとられていたときに正妻築山殿と結婚したが不和であった。のち武田勝頼との内通の嫌疑で殺害したという不幸な経験もあったからかもしれない。西郡の方、お万、お愛、お竹、お都摩、お茶阿、お亀、お万、お梶、お六、お牟須、お六、お夏、お仙、阿茶。側室のなかには後家女が多い。

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