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天地真理が昭和48年、パリに行ったとき、ジョーン・バエズにキスしてもらったとうれしそうに「スター千一夜」で語っていた。バエズは「ドナ・ドナ」で知られるフォーク・シンガーで当時の若者なら誰でも知っていた。「ドナ・ドナ」は荷馬車に揺られて子牛が市場に売られていく歌と思うだろうが、実は作詞家のイツハク・カツェネルソン(1886-1944)はポーランドのユダヤ人で、イスラエルの労働リーダーとなり、アウシュビッツの強制収容所で亡くなっているので、歌の中には民族虐待への恨みがこめられているもののようである。アメリカではジョーン・バエズが歌ったが、のちにヨーロッパではクロード・フランソアが歌った。1960年代というのは一つの歌が世界にすぐに広まっていくというさきがけの時代だった。ギリシア出身のヴィッキーが「待ちくたびれた日曜日」「私の好きなチョコレート」「白い十字架」「カーザ・ビアンカ」といずれも日本語で歌いヒットした。天地真理が「恋はみずいろ」をカヴァーしたり、「ちいさな私」が「水色の恋」と改題されたのもヴィッキーの人気にあやかったものであろう。
国がそれまでの発展の流れから、凋落の流れへ変わってゆくとき、社会全体にさまざまな兆候があらわれる。現在の日本は今、重大な岐路に立っている。米格付け会社が日本国債の格付けを引き下げことに関して、菅首相が「そういうことに疎い」と発言したことが波紋を広げている。国民はまますます不信におもうだろう。首相の発言は国会答弁での「与謝野氏を三顧の礼をもってお迎えした」ことと関連している。孔明は忠節の人。与謝野経済財政相は変節漢、やはり首相の「三顧の礼」の故事には違和感がともなう。また孔明は軍師だろう。先の竹中平蔵にしろ、与謝野にしろ、経済通といわれる人が日本を再建できるだろうか。朝日の社説などを読んでも増税論議には積極的である。やはり大企業の味方なのだ。しかし所得のない年金生活者にとってもっとも恐れるのは消費税増税である。ヨーロッパは最低でも15%、国によっては20%ある。アメリカは基本的には消費税ゼロ(ただし地域により異なる)。税体系が異なるので簡単に比較はできないらしい。「そういうことに疎い」(自分なら言えるだろうが・・・)が消費税をゼロにして景気を回復しようという発想はどうしてでてこないのだろうか。
野球というスポーツは団体競技であるが、かなりの面で、個人記録の栄誉をたたえるというスポーツでもある。そして投手の夢は完全試合の達成である。パーフェクト・ゲーム。なんと心地よい響きであろう。しかしこの完全試合を2度達成した選手は日本でも大リーグでも一人もいない。「神様は2度微笑むことはない」といわれる。
60歳に近くなった天地真理がいまだに自宅でピアノを弾きながら、再びステージに立てる日を夢みながら歌のレッスンに励んでいる姿がテレビで紹介された。そこにはかつての白雪姫といわれた伸びやかな声も麗しい姿もない。だが当人の心の中では、往時の気持ちそのままでいるように歌うことを楽しんでいるようにおもわれる。そういえばピンク・レディーや森昌子も活動を再開している。中澤裕子や安倍なつみといった旧メンバー10人で「ドリーム・モーニング娘」が結成された。彼女たちに全盛期のような人気が再び甦るのであろうか。
夕陽に消えたヒロインが、朝日とともに帰ってくる。そんなことが起りうるのか。人間の力をもってして時計の針を逆周りにすることに挑戦するだろう。しかし残酷なことを言うようだが神様は2度微笑むことはないだろう。戦後ストリッパーとしてもっともその名が知られる一条さゆり。60年代後半に絶頂期を迎え、「一条さゆり濡れた欲情」では女優としても成功をおさめた。しかし大阪あいりん地区での三畳一間の晩年は哀れなものであったという。
現代のキリスト教神学の中心的課題は、イエスをどう理解するかという問題であろう。ドイツのプロテスタント神学者、ルドルフ・カール・ブルトマン(1884-1976)は、イエスはユダヤ教を批判したけれども全体としてはユダヤ教の枠内にあるといっている。つまりイエスはいわゆる教祖ではなく、キリスト教は使徒たちのキリスト教宣教を以ってはじまったというのである。イエスの弟子たちは、イエスの死後、インマヌエル(神われらとともに存す)の原事実を発見し、ここからイエスを理解した。こうして、「神の子が人となった。それがイエスである」という言い表しが成立したのである。
歴史書を紐解くと昔も今もあまり変わらぬと感じる。唐代では中央に居って成績の上がらぬものや、貶謫されて地方官に出ているものが多く、また地方官に出ても早く転遷されることを欲したので、地方の事情に慣れている胥吏が勢力をもち、貪欲で人民を苦しめたり、収賄等の悪事を働いたりしたことは列伝や食貨志に枚挙に暇がないほどである。思えば今の世となんら変わらぬ。政治家は不正な献金で私服を肥やし、役人は収賄や横領をし、企業家は巨額な脱税をする。学生たちは薬物や飲酒運転で悪事を繰り返す。メディアはやらせの虚偽の事件を垂れ流す。後世の歴史家は平成の日本をどのように評するだろうか。
加山雄三は神奈川県茅ヶ崎市から名誉市民賞を贈られたそうである。だが現在は茅ヶ崎市には住んでいないそうだ。1939年から1970年まで結婚前まで住んでいたという。変な話だ。名誉市民賞というのはほとんど多くの市にあるだろう。受賞の規定はあいまいで為政者の人気取りにすぎない。百害あって一利なし。阿諛追従のはかない茶番劇の舞台となる。地方自治体は国家のやることを真似したがる。国には春・秋の叙勲がある。そこで市でも名誉市民賞を創設しようというものであろう。さだまさしが長崎市名誉市民、古田敦也が川西市名誉市民である。小浜市ではオバマ大統領に特別名誉市民を贈る計画が上がったそうだが、その後はどうなったのかは不明である。
しかし学者が学問で業績を残したり、スポーツ選手が金メダルや新記録を樹立したりすることは、豆腐屋のオジサンが豆腐をこさえたり、天麩羅屋のカミサンが天麩羅を揚げることとと何ら変わりはないはずである。名誉市民というならば、先ず豆腐屋のオジサンにあげたいものだ。
今年になってからでも連日のように有名人が亡くなっている。最近では、漫才師の喜味こいし(84歳)、社会学者のダニエル・ベル(91歳)、花柳小菊(90歳)と著名人ばかりだ。だが人生とは不思議なものだ。花柳小菊はダニエル・ベルの本を読んだことがないかもしれない。ダニエル・ベルは花柳小菊の映画を一度も見たことがないかもしれない。花柳小菊は東映時代劇でお馴染みだ。いとし・こいしは関西のお笑い大御所。朝日新聞の訃報記事も大きい。ハーバード大学のベル教授は世界的な影響力のあった学者。なぜか記事がすごく小さい。簡単な略歴だけだ。1950年代には「イデオロギーの終焉」論を、60年代から70年代にかけては「脱工業化社会」論を展開して、知識・情報化社会の到来を予測した。ほかに「資本主義の文化的矛盾」「二十世紀文化の散歩道」などの著作がある。
旧聞になるが、六代目三遊亭円生は名人だったが、運悪く死んだ日が上野動物園のパンダのランランと同じ日(1979年9月3日)だったので、新聞の扱いがパンダよりも小さかったという。
いまは新聞記事は機械的なもので、ダニエル・ベルの記事も共同通信からの記事をタレ流しているだけなので、ネット情報以上のものではない。新聞社が故人の生前の業績を評価して、訃報記事の分量を調整するということは土台、無理なことかもしれない。
市民というのは身勝手なものでたいした考えもなく自分の住んでいる町に美術館がほしいという要望をだすことがある。人口30万から50万人の規模があればなんとか運営も可能かもしれないが、8万人、9万人という規模ではなかなか運営していくのは困難である。美術館はお金のかかるものであることを十分に認識しなければならない。もし間違って建ててしまってからがまた大変である。どんなに利用者数の少ない美術館でも愛好者はいるだろうし、市民運動とかで閉館には反対するであろう。直営が無理とならば、指定管理制度を導入するが、館としての個性をだせるかどうかは未知数である。公民館に美術ホールで市民の描く油絵や、お年寄りの手芸品などを陳列するような、文化祭のような市民美術館になってしまうのである。海外の若手芸術家を発掘するという学芸員の努力があっても、市当局や古い館長のレベルでは、現代美術は理解できないものも多い。また独立の美術館なら思い切った企画もできようが、文化財や古美術との複合した美術博物館なら最悪である。美博はどうしても美術系学芸員と文化財系学芸員が対立するので館が一つにまとまりにくい。現代アートと市民のからの寄贈されたお雛さまが並んでいる。お笑い美術博物館が全国にもある。そんなことにならないよう、小さな町に住む人は電車に乗って大きな街の美術館へ行こう。そして「オルセー美術館展」とか「レンブラント光の探求」「シュルレアリスム展」などを見るほうがよいだろう。土地には文化人という方がいて芸術論で熱く文化を語るが、美術館経営が失敗したときに責任者は誰もなのり上げることなく、ツケは若者たちにまわされるのである。
英雄たちが活躍する三国志は日本人にも親しまれている。先日の国会でも菅直人首相が72歳の与謝野馨を野党から経済財政相に起用したことについて「三顧の礼で迎えた」と答弁した。かつて小渕首相も78歳だった宮沢喜一を蔵相に迎え入れたときも「三顧の礼」が引用されたことがある。広辞苑に「優秀な人材を迎えるときに取る、手厚い礼儀」とあり、故事の引用としては適切なのだろう。しかし、何か腑に落ちない。それは言葉が軽いからだろう。劉備が天才的な戦略家である諸葛孔明を三度にわたって訪問し、軍師として迎えいれたのは孔明27歳、劉備47歳のときである。20歳も年下の白面の一青年を、75kmも離れた孔明の家宅(劉備のいる新野から隆中までの距離)に三度も行ったのだから、関羽や張飛としても面白くない。だが周囲に不満の声がでてるのはわかっていても、それでも劉備は孔明を起用したいという固い決意があったのであろう。遊泳術に長けた老人に礼を尽くすということとは本質的に別物である。やはり口は上手いが菅直人には深い教養というものがない。それが証拠に、三顧の礼をもって迎えた蜀の国は魏によって亡ぼされてしまった。亡国の故事を引用するとはなんたる不見識か。
少年倶楽部に昭和8年から14年まで連載された島田啓二の「冒険ダン吉」は日本人に熱帯アジアのイメージを与えるのに大きな影響があった。だがダン吉は南洋のどこの王となったであろうか。椰子の実が繁り、ゾウがいるところか。熱帯アジアのインドから東南アジアにかけてらしい。しかし、話のなかには、キリン、カバ、ゴリラ、ダチョウなどアフリカに分布する動物まで登場する。島田は海外に一度も行ったこともなく、動物の知識もなかったので、その点では、キプリングの「ジャングル・ブック」とは大きく違う。「ジャングル・ブック」に登場する動物はほとんどいまもインドの森を歩き回っているという。
漫画「巨人の星」は星飛雄馬が選手生命をかけて中日相手に完全試合を達成して終わる。しかし、その代償は余りに大きい。それほど投手にとって完全試合は勲章なのであろうか。
これまで日本プロ野球で完全試合を達成した選手は1950年の藤本英雄(巨人)以来、槇原寛巳まで15人が記録している。16年間、完全試合はない。西口文也(西武)は9回終了まで完全に抑えながら、延長で完全試合を逃している。つまり、完全試合は実力だけでなく、運が左右する。15人の投手をみると、藤本、金田、槇原以外は大投手というほどではない。米田哲也、小山正明、鈴木啓示、別所毅彦、江夏豊、稲尾和久、村田兆治、村山実という大投手は完全試合を達成することはなかった。
コマーシャルで流れる懐かしい歌。ノーランズの「ダンシング・シスター」(1980)洋楽にはあまり関心なかったが、5人姉妹のノーランズだけはよくテレビで見ていた。ところが最近は、YouTubeで簡単に映像を見ることができる。よくみると、パワフルな歌唱をみせているのは五女のバーニー。クールファイブの前川清か。バーニーは乳がん、というニュース、姉妹で3人目で遺伝なのだろうか。ところで、この曲は世界のほとんどの国ではブロックされていて聴くことができないらしい。日本はいいことか、悪いことか知らないが、著作権には甘いので、いまは野放図の状態。いろいろ珍しいものをみることができる。
今年のバレンタインデーで一番多くチョコレートをもらうのは、おそらく日本ハムの斎藤佑樹くんだろう。だが彼はプロで何の実績も残していない。度を超したフィーバーぶりはむしろ気の毒にすら思える。ヒーローを待望したり、偶像をつくりあげるのは罪なことである。つまるところ人間みな同じ。王様も乞食もみな死ぬ。
三田村鳶魚によると、「江戸は泥棒に始まり、泥棒に終わる」という。戦国武士の残党が昭和の特攻くずれ、アプレゲールのように、群盗となって大暴れ。武田の臣、高坂弾正は、高坂甚内となって大盗賊として知られた。現在は甚内神社(東京都台東区)というのがあって、神様として祭られている。菅原道真は出世コースから外れ、大宰府へ左遷されて不遇のうちに没した。都では道真の怨霊がでるという噂で神社がつくられたが、いまでは学問の神様として全国各地に天満宮がある。
つまるところ、釈迦もキリストもみんな後の人のでっちあげた話で聖人となっただけのこと。人はみな死ぬし、エライ人などいない。みんな金になるからもちあげているだけなのである。金も名誉もチョコレートも要らぬ。清貧に生きたい。
ヒラリー・ローダム・クリントンは1947年10月26日、イリノイ州シカゴで生まれた。父ヒュー・ローダムはカーテン生地の会社を経営し、繊維業界の大物であった。厳格な共和党支持者で、戦時中は海軍で太平洋戦線に出征する水兵の訓練にあたった。ヒラリーが育ったパークリッジは冬寒いことで知られるが、「寒さに耐えられずになにができるか!」と、零下20度でも暖房を使うことを許さなかったという。(参考:「リビング・ヒストリー」ハヤカワ文庫)
ツイッターというものがあって、ケペルのブログ記事を多くの人に紹介してくださるかたがいる。たいがい図書館関係の人らしくケペルのことを「転向」と決めつけておられるようだ。たとえば「図書館長は有資格者に限定すべきか」など、図書館にお勤めの人なら司書職制度確立を願い、有資格者の館長を望むであろう。いまでも日本図書館協会は「緊急アピール」などといっている。しかしこの論議も随分と長い経過がある。「緊急」とついているのは、一部に「いつまでこの論議をつづけるのか」「本当に実行する気があるのか」という声があるからだろう。ケペルはむかしからこのような論議に参加したことはない。ブログがあって初めて世の中に対して自己の意見を述べる手段をもてるようになった人間である。もちろん論文を発表して意見を述べるという手段をとらなかったわけではない。そのためには日本図書館協会や日本図書館研究会にも属して何十年も会費を納めてきた。しかし、論文は書けども書けども不採用になった。論文の質の問題かもしれないし、団体の方向や意見と異なることが原因かもしれない。しかし一個人として真剣に図書館の問題を考えたのであるから、異なる意見を採用してほしかったという気持ちはいまでもある。意見が他者と異なることは辛いこと、悲しいことではある。職場でも、「バカヤロー」と罵声を浴びせられたことが何度もある。民主的に討議するというルールづくりができていないことを今でも悲しく思い出す。いいたのはケペルは権力に媚びたり、なにがしかの団体の利益のために意見をいうのではない。自由な一個人として発言するのである。大新聞やメディアでもスポンサーやパトロンへの配慮からいえないことがあるという。ブログはそういう意味ではもっとも民主的な道具だと考えている。
屋敷に一歩も出たこともない庭師が主人の急死により、人生が一変する。新聞社のインタビューを切っ掛けに、マスコミがその知性を賞賛し、時代の寵児となる。ピーター・セラーズの晩年の作品に「チャンス」という変わった映画があった。現代は多様な才覚のある人が自分を売り出すためにあの手この手を繰り出す。知性派といわれる人たちの本はほんとうに100年後も読み継がれていくものなのだろうか。1年間に5冊、10冊と出版する人に中身のあるものがあるのだろうか。勝間和代、斎藤孝、中谷彰宏、苫米地英人、茂木健一郎、香山リカ、そして池上彰。書店には彼らの本が毎月のように並ぶ。大量出版にブームづくり。しかし昨年の書籍販売は2兆円を下回った。幸せになる本、教養がつく本、などというのは安易なものでは身につかない。一人の天才が10年以上かかって一冊の薄い本を執筆して、しかも難解で読めない。しかし再読し、すこしは理解できるようになるまで10年かかる。それが名著といわれるもののセオリーだろう。大手出版社は粗製乱造で自ら墓穴を掘ったものである。大学教授も安易な新書版で小遣い稼ぎをせずに、本来の学究的研究に精進してもらいたい。
菅首相の施政方針に「最小不幸社会の実現」とあるが、今の世の中、悪いことばかり。右も左も真っ暗闇じゃあ、ござんせんか。失業、病気、貧困、犯罪、汚職。先日、社会保障が充実しているとされた豊中市で姉妹が餓死するという事件が起きた。高槻市では生活保護費を支出していたように見せかけ、着服していた生活福祉課長が逮捕された。老人介護サービスに名を借りた悪徳商法も横行している。庶民は今でも生活が苦しいが、政府や財界は消費増税をして日本経済を立て直すと言い切っている。政府、企業、役人たちは利権という私欲でこの国を滅ぼそうしている。
中国観光旅行から帰ってきた人が八達嶺からの万里の長城をみて、「始皇帝の偉大さに感心した」と言っていた。だが実は八達嶺付近の長城は秦代のものではない。今日のように内外をレンガで被覆するようになったのは、明末である。つまり始皇帝よりも1800年ぐらい後のことである。だがこの観光客を笑えない。われわれは京都観光して御所を見れば、平安時代の源氏物語の王朝絵巻を想像する。実は現在の御所は光厳天皇が1331年に鎌倉幕府の要請により、即位したとき皇居と定めたところである。紫式部の時代からは300年以上も後の話である。御所の位置も現在より約2km西にあったという。
水無瀬神宮(大阪府島本町)は後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇を祭神としてまつることで知られている。琵琶や筝の演奏、和歌、蹴鞠などに優れた後鳥羽院は、この地が気に入り、離宮を建てて、たびたび訪ねたという。また後鳥羽院によって和歌の上句と下句を2人で唱和する連歌の起源がつくられた。のち宗祇は「水無瀬三吟百韻」を残した。
だが、水無瀬というと地が歌詠みの地であるのは「伊勢物語」82段に惟喬親王が毎年春になると水無瀬離宮で過ごされたことに由来する。交野の渚の院で右馬頭が詠んだとされるのが、有名な「世の中にたえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし」「散ればこそいとど桜はめでたけれ うき世になにか久しかるべき」という歌がでている。
在原業平と交友があった惟喬親王は文徳天皇の皇太子であるが、藤原良房の反対で皇位を継ぐことはできなかったといわれる。
昔、卒業式では当たり前のように歌っていた「仰げば尊し」。最近ではほとんど歌われることが少なくなっているらしい。そんな中、なぜか台湾の卒業式では「青青校樹」(仰げば尊しの中国語バージョン)が今でも歌い継がれている。もともと「仰げば尊し」の原曲はアメリカのものである。伊沢修二は明治8年アメリカに官費留学し、ハーバード大学で教育学を研究、メーソンから音楽を学んだ。1878年、帰朝、東京師範学校から文部省に転じた。1882年から1884年までに音楽取調掛は欧米の曲に日本語歌詞をつけて唱歌集「小学唱歌集」全3巻を編纂。「蝶々」「蛍の光」「仰げば尊し」「庭の千草」などが収められている。これが小学唱歌の始まりである。1892年には「小学唱歌」全6冊が編纂された。明治34年以降になると新作の唱歌も作られるようになる。明治43年、「尋常小学読本唱歌」、明治45年、「尋常小学唱歌」(茶摘、汽車など)が編纂されている。
ナックルを武器に米独立リーグで活躍する吉田えり投手。結果は0勝4敗、防御率12.27だったが、今年はどうだろうか。トラブル続きだった女優の沢尻エリカに復活はあるのだろうか。賞金1000万円を辞退した水嶋ヒロの「KAGEROU」初版43万部のベストセラー。ほんとうに作家としてやっていけるのだろうか。紅白落選の美川憲一。さぞかし落胆しているかとおもいきや、「落ちたのはしょうがない、それも人生よ」と前向き発言。新曲とディナー・ショーと仕事は順調だ。ケペルとしては参院選落選の岡部まりの芸能界復帰が気になる。ガッツ石松が監督する映画「罪と罰」に主演するという話は本当なのだろうか。いっこうに現実味ある報道がないが・・・。数年前に粉飾決算で三洋電機会長を辞任した野中ともよはどうしているのだろうか。女性が脚光を浴びるとしても、それは磐石なものではなく、一時的なボストにすぎない。栄光があれば、没落すぐにやって来る。
現行法令では政令に定める公共図書館の館長は司書資格を有しなくてもなれることになっている。これに対して長年、図書館長は有資格者であるべきだ、という意見はよく聞いた。名館長といわれた信田さんなどベテランの図書館員に多い意見である。(信田昭二「館長には司書有資格者が必要」図書館雑誌1989.9)これに関して、経験的な感想をのべたい。
かつては補助金をもらうためには図書館長は有資格者でなければならいという法令が定められていた。現在は撤廃されている。むかし図書館建設が決定したある自治体では、若手の職員に通信教育で司書を取ることを命じて、俄か館長にしたてたという笑い話もある。結局、図書館は補助金を得て完成したが、ご本人にとっては資格を取るための心労、プレッシャーは大変だったらしく、数年で辞職してしまった。
もちろん図書館内に長年勤める職員のなかから、生え抜きの司書を館長に据えればそれでよい話であろう。ところが少し大きい規模の図書館ならば、館長というポストもいろいろあって、現場の叩き上げよりも、外部からもってくるほうが、当局にとっては都合のよい人事ができる。図書館現場としては、当然、職場のことをよく知っている職員が館長になってくれればよいと考えるだろう。しかし、大所高所からみると、これにもいろいろ問題点があるようだ。むしろこの問題のほうが弊害となる職場もある。
長年、その職場にいる人が所属長になると、これまでの人間関係から、派閥に属する人は意見が通りやすくなり、反対派は退けられてしまう。新館長は職場内の問題には精通しているので、自分の意思で決定できる。反対意見には耳を傾けなくなる。もしかりに、図書館には素人だがマネンジメントに能力のある新館長が着任すれば、派閥の両方から意見を聞き、公正な判断で処理することも期待できる。それに図書館職場はとかく人事が硬直しやすく、旧弊がはびこりやすいので、新風をいれることができる。行政・お役所にはつねに人事刷新することは不可欠である。ながく同じポストにいれば業者との癒着はおこりやすい。田舎にいくほど名館長という人がいて、10年、15年、20年と館長職にとどまる人がいるが、実態は長く続けたことによる悪弊もある。ただ表面化しないだけである。
図書館長を法令で司書資格のみにすれば、限られた人材しかポストにつけず、人事の硬直化は免れない。ものごとには一長一短あろうが、自分の経験から言うと、管理責任者(マネンジメント)というのは、専門家(スペシャリスト)でなくてもよいと考えている。
「図書館長には有資格者が必要」という考えは図書館員なら誰しも考えていることだろう。信田さんや図書館界が声を出してからでも20年以上が経つ。しかし、未だ実施されないのは、案外と本音では、みんなが司書では館運営が上手くいかないことをわかっているからなのではないだろうか。信田論文は有資格者の図書館のほうが図書館経営が上手くいっていることをデータ分析によって立証しようとしたものであるが、現在のように館運営に効率化が求められる時代にあって、情報のスペシャリストの館長よりも、管理運営に能力を発揮する館長のほうが適任のように考える。
京都祇園に「漢字ミュージアム」が開館した。漢字の博物館がどうして「漢字博物館」ではなく、漢字ミュージアムなのか。入館料は大人800円と高い。あの今年の漢字の協会が設立している。受験料はがっぽりとるが、何の資格もない。それでも受験者は多いという。自分の知識をためしてみたいのだろう。中国検定というのものの例題。「蜀の初代皇帝劉備は昔、商いをしていた。その商売とは?」「答えはムシロ売り」三国志を読まずともアニメや漫画によく登場するので知っている。自信がつく。それが検定の実態だ。検定商売はおいしい。日本漢字能力検定協会が必要以上の巨額な利益を生み社会問題となった。しかし○○検定は減るどころか増えつつある。高額な受験料を取りながら、実質は何の役にも立たない証書だけというのは悪徳商法の一つとみてよい。なぜか自治体が身近な郷土にまつわる問題をつくって○○検定としているところもある。市民のお役所に対する信頼感からか真面目な受講者も多い。大学教授や郷土史家も関係しているようだが、もっと社会的な影響力を見抜く眼はないものだろうか。それのどこが悪いといわれればそれまでの話だが。大学教授はクイズなどに関わることより本来の学究を本分とすべし。
落語家の林家三平が女優の国分佐智子とご婚約というめでたいニュース。国分の叔母は東條英機の孫と結婚している。つまり林家三平と東條英機は遠縁関係となる。縁は異なもの味なもの。戦後も66年が経過すればいろいろと面白いことがある。
1761年に秘匿出版された「キリスト教暴露」は、ドルバック(1723-1789)の哲学、宗教関係の著述としては最初のものであった。そのなかで「宗教は人間の幸福と進歩の敵である」と断言した。ポール・アンリ・ティリ、のちのドルバック男爵が生まれたのは1723年12月8日、ライン河沿いのエーデスハイムという小都市であった。父のヨハン・ヤコブス・ディートリヒや母のヤコベア・ホルバッハについては何も知られていない。ドルバックの将来を決定したのは伯父のフランツィスクス・アダム・ホルバッハであった。この伯父はルイ14世末期のパリへ移住して、事業で産をきずいた。若きドルバックはパリで、ディドロー、ルソー、グリムら啓蒙思想家と交遊した。とくにディドローを通じて百科全書に鉱物学、化学、博物学などの項目を執筆した。彼は主著「キリスト教暴露」において「キリスト教徒は、実は真実の美徳をなにひとつ持たず、国家にとっては無用の長物であり、市民としては迷惑きわまる危険な存在にすぎないであろう」と述べている。
ローマの古いことわざに「本にはそれぞれの運命がある」というのがある。なかなか味わいのある格言だ。人の人生と同じように本にも幸せな本もあれば不運な本もある。ケペルの店に納まった本はしあわせだろう。ところが最近は紙で印刷された本はスペースをとるので、だんだんと居場所がなくなってきたようだ。図書館でも町の本屋でも、あちこちに散らばり、さがすことができなくなって、そのうちにあとかたもなく亡くなってしまうかもしれない。電子書籍で何でも読めると無知な人は思うだろうが、実は意外と電子書籍で閲覧できる本は著作権の壁もあって限られている。それでも本は売れなくなってきたから、身近な町の駅前の小さな本屋や、裏町の古本屋は消えていってしまった。東大の村田喜代美教授は、「本は氾濫する情報と異なり、確かな歴史と未来への教養を形づくる」と言っている。しかし本は当然のこと積読ではだめで、読まなければならない。イギリスの諺に「本はつねにひもどかなければ木片にすぎない」と積読を戒めている。
戦後の売春防止法が施行される頃、日本映画では数多くの娼婦、遊郭、赤線を描いた作品が作られた。「渡り鳥いつ帰る」(1955)もその一つ。物語は伝吉(森繁久弥)が戦禍の中に妻千代子(水戸光子)と娘(二木てるみ)を見失い、なじみの女おしげ(田中絹代)が経営する娼館「藤村」の主人となっている。伝吉、千代子、おしげを中心に藤村で働くアプレ娘たちの実態を描く。女優陣が豪華。久慈あさみ、岡田茉莉子、淡路恵子、桂木洋子、高峰秀子、田中絹代、水戸光子、七大女優の競演である。なかでも淡路恵子が戦後のアプレ娘の雰囲気がでている。映画では藤村は「カフェー」「サロン」という看板があり、ホステス募集とある。女給という言葉も使われている。永井荷風の原作だそうだが、戦前の「玉の井」のような純和風なものではなく、和洋折衷である。久慈のように和服の女もいるし、淡路恵子のようにドレスのホステス風な娘もいる。時代は昭和27年という設定なので、このような戦後風俗も消えていく運命にあるという男の哀惜が映画に感じられる。
昭和46年のことだった。「育児の百科」(岩波書店、1967)など小児科医として知られていた松田道雄(1908-1998)が河出書房の「世界の歴史」の第22巻「ロシアの革命」を執筆したので、みんな驚いた。「育児と革命」の二つは無縁のように見えたからだ。ところが松田の脳のなかでは繋がっている。
もっとスケールの大きい例としてはジャン・ジャック・ルソーだろう。ルソーは今日ではフランス革命の自由・平等・博愛の基盤となる社会思想を形成したことで知られている。ところがもともとは、音楽の記譜法、音楽論、音楽療法を研究していた。やがて「エミール」のような教育思想、そして「人間不平等起源論」へと転換していく。
「セーラー服と機関銃」のような奇妙な取り合わせ。 このような事例はいくらでもあるだろう。「図書館史」(芸艸社、1936)の和田万吉は「能と謡」(有光社、1945)がある。「ロシアにおける広瀬武夫」(弘文堂、1961)の島田謹二(1901-1993)は、「フランス派英文学研究」(南雲堂、1995)がある。「支那貨幣考」(京都印書館、1944)の穂積文雄(1902- )には、「小泉八雲の社会思想」(有斐閣、1949)や「英国産業革命史の一断面」(有斐閣、1956)がある。いわばヘンリー・ベッティンガーが提唱した三角測量法式研究法であろうか。専門分野とすこし離れた地点を探り、両地点を比較検討して、面としての広がりをもたそうとする。比較文学や東西交渉史など文学や歴史、芸術などの分野で試みられるが高度な学術研究となると至難である。成功例は語学力のある学者たちである。いずれも長寿であるということも共通している点である。
戦後の日本共産党の指導者であった宮本顕治(1908-2007)は、明治41年、山口県光井村(現在の光市)の肥料米穀商の長男として生まれた。旧制徳山中学校から松山高等学校へ進んだ。東京大学在学中から新進の左翼活動家として脚光を浴びた。昭和6年秋、女流作家の中條百合子(1899-1951)と知り合い、翌年2月には本郷動坂に新居を構える。昭和26年1月21日、百合子が急死したのちは、百合子の秘書であった大森寿恵子(1920-2010)と再婚する。平成19年7月18日に宮本顕治が亡くなり、平成22年1月4日、妻の寿恵子も後を追うように亡くなる。昭和左翼の閨房も歴史となった。新聞の訃報記事は小さな扱いであるが、大森寿恵子は「極光のかげに」の著書で知られた高杉一郎の義妹(妻の妹)にあたる。
養老の滝というのは孝行な少年が父のために、ここで酒泉を発見したという伝説に因んでいる。岐阜県の養老の滝のほか、千葉県にある栗又の滝も養老の滝と呼ばれている。
だれしも60歳前後になると、介護すること、また介護されること、になる。老人問題はひとごとではない。マスコミがよくつかう超高齢者社会という言葉からは、社会の厄介者というマイナスの面がクローズアップされてくる。敬老思想が影をひそめ、老人の存在が若者の生活を圧迫しているかのように発言する人も多い。本ブログの匿名コメントには非常識な意見もみられる。だぶんこれら露悪家も社会人としてはよきパパでありよきママなのだろう。虚妄の国家の人口政策を憂慮するより、まず人として大切なことがあるのではないだろうか。
毎日、むかしのホームドラマ「気になる嫁さん」を見ている。佐野周二、浦辺粂子が懐かしい。むかしのドラマには必ずお年寄りが出演していたが、最近のドラマには若い人だけで家族が描けていないような気がする。お手伝いのタマはスーパーが嫌いで商店や市場で買物をする。そんな古風な日本人がいなくなった。近くのお豆腐屋さんの老夫婦が首吊り自殺をした。かつては賑っていた商店街もいまではスーパーやコンビニで買物をする人ばかりで、シャッターを下ろしたままの店が目立つ。先日、地代の滞納を苦に老姉妹が焼身自殺をした。老人たちにはまことに住みにくい世となった。食い扶持減らしのために姥捨て山に捨てられるという話があったが、いまも変わらぬ世の中なのか。豊葦原瑞穂の国といいながら、お米さえ満足に食えぬとはなさけなや。施政方針演説で「いのち」を連呼したのは、ポーズだけなのか。お年寄りが自殺する国は滅ぶ。
英国女優を感じさせない大きな目とベビー・フェイスが魅力のスザンナは、長い間、英米の映画で活躍をみせた。1月14日、骨髄ガンのため死去した。72歳だった。日本でも多数映画は公開され、その名前は知られていたが何故か新聞での訃報記事の扱いの小さいことに驚かされた。「ひとりぼっちの青春」(1969)でアカデミー助演女優賞の候補にもなったが、いまひとつ決定打がなかったのかもしれない。
王立アカデミーで2年間学ぶ。1960年、映画界入りして「フロイド」(62)でハリウッドにも進出。翌年には「トム・ジョーンズの華麗な冒険」、「わが命つきるとも」(66)、「素晴らしい戦争」(68)などイギリスの名作に出演。「ジェーン・エア」(71)は話題となった。70年代後半からはハリウッドの出演が多く、ハリウッドで成功した英国女優の一人であった。
英語でチャールズはドイツ語でカール、フランス語ではシャルルと発音する。世界史の人名をカナ表記するとき、主に現地音に近いものを採用する。たとえば、英語でアレクサンダー、フランス語でアレクサンドル、ギリシア語でアレクサンドロスだから、現在の教科書ではアレクサンドロス大王と表記されている。ジュリアス・シーザーもユリウス・カエサルとなる。むかしはケーザルという表記もあって混乱した。だが例外もある。ポール・ニューマンの「Paul」は、ラテン語では「Pauls」(パウルス)なので、イエスの弟子はパウルスとするところだが、長い間の慣例で「パウロ」と言っている。「Javier」もハビエルではなく、慣例により「ザビエル」という。フランクリン・ルーズヴェルトは最近は、フランクリン・ローズヴェルトと表記されることが一般的である。ロナルド・レーガンも俳優時代には「リーガン」と表記されていたが、レーガンに統一された。
懐かしいCMが面白い。高度経済成長の昭和30年代頃、CMソングの四天王は楠トシエ、天地総子、中村メイ子、弘田三枝子だった。ロート製薬のパンシロン。渥美清が「パンシロンでパンパンパン」と歌うと、肩車していた女の子も歌う。歌が上手だ。のちの沢田聖子(当時5歳)。
バブルの頃。JR東海のクリスマス・エクスプレス。深津絵里、牧瀬里穂らが山下達郎の歌にあわせて素晴らしい表情を見せる。TBCというエステのCM。会社の面接。セクハラの質問に対して、「あたし脱いでもすごいんです」と。北浦共笑。「絶対にキレイになってやる!」という坂井真紀のCMも印象的だ。古柴香織(美栞了)、裕木奈江などCMで魅力を発揮している。
「若いという字は苦しい字に似てるわ。涙が出るのは若いというしるしね」アン真理子の「悲しみは駆け足でやって来る」(1969年)あの頃は学園紛争が終わって若者の間にシラケムードが漂っていた。藤圭子、日吉ミミも悲しい歌を歌っていた。カルメン・マキの「時には母のない子のように」も物悲しかった。兼田みえこ「私もあなたと泣いていい」、藤野ひろ子「鳩のいない村」、田中のり子「鳥になった少年」なんでラジオから悲しい歌ばかり聞こえてくる、どうして若者たちは悲しい曲をリクエストしたのだろうか。「♪悲しくて 悲しくて とてもやりきれない このやるせないもやもやを 誰かにつげようか」
東京新宿駅より京王線で約1時間、終点高尾山口駅より高尾登山電鉄ケーブルカーに乗り換えて高尾山駅より徒歩約20分。今東京都内のパワースポットとして注目されている。高尾山はもともと山岳信仰にもとづく霊場、修験道の山として長い歴史をもつ山。その中腹にある高尾山薬王院には参拝者が増えている。日帰りの登山コースとしても人気だ。
ザ・ピーナッツは日本歌謡史に最も重要な位置をしめるシンガーである
芸術の歴史をたどる場合、時代の様式、民族の様式とかが先にあって個々の作家がこれに倣うのではなく、一時代、一民族を代表するような天才が個々の様式の総和、あるいはその最大公約数としての時代様式の概念が成り立つのであろう。ルネサンス、バロック、ロココ、古典主義、ロマン主義、自然主義、印象主義、フォヴィズム、シュール・レアリズム、ポップ・アートなど美術史においては常に先駆的役割を果たした芸術家に注目していく。これは他のジャンルにおいてもだいたい同様であろう。たとえばポップス&歌謡曲。去年の紅白歌合戦でのJ-POPと歌謡曲の割合は2対1だった。ここ50年の歌謡史をみても、演歌・歌謡曲がどんどん衰退し、ポップスが漸次隆盛していく傾向が明らかである。とくに音楽産業に関わる評論家にはポップス重視の人が多い。だがラジオなどのリスナーには、やはり懐古的なものを好む人も多い。芸術に優劣があるのだろうか。たとえば現代美術がギリシア美術を超えたといえるだろうか。J-POP全盛の世にあってもナツメロは永遠に歌い継がれのではないだろうか。
作家の花村萬月はテレビの機能を「真面目な番組より、孤独な少年がボーッと見てられるものが大切なんじゃないかな」とある雑誌で語っていた。花村はかってアルコール依存症だったが、断酒に成功し、創作活動の疲れを、2輪レース、F1、格闘技などを見て楽しんでいる。「独りぼっちでアパートで、コンビニの弁当を食べている人が楽しめる番組」というわけである。たしかにバラエティは高視聴率なのは、日本人がそれだけ孤独であることなのかもしれない。明石家さんま、北野武、とんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、タモリなど人気者を見ているとすぐに時間も忘れて過ごすことができる。テレビの機能として大切だろうな。ドラマ派のケペルとしては、いつの間にかテレビにみかけなくなった美人女優さんが気になる。朝ドラ「都の風」のヒロイン加納みゆき(49歳)最近おみかけしませんが舞台なんでしょうか。天才子役といわれた早勢美里(32歳)ドラマ「伊豆の踊子」の薫を演じた。黒須麻耶(27歳)もどうしているのだろう。ショムニの宝生舞も引退したらしい。やはり芸能界は厳しい。むかし人気のあった篠原ともえ、遠藤久美子らもなんとか芸能活動を継続しているようだ。鈴木あみ、相川七瀬らミュージシャンは頑張って活動しているようだ?
皇太子が昨年10月13日、滋賀県と岐阜県の県境にある伊吹山(標高1377m)を約4時間30分かけて山頂まで登られた。「歴史に触れながら楽しい登山をすることができた」と話す。日本武尊が伊吹山の山の神に暴言をはいて神の祟りを招いて死んだという故事がある。皇太子は山頂にある日本武尊への鎮魂を祈ったのであろうか。あるいは祖先の粗暴な行いを山の神に謝罪したのであろうか。
また百人一首に「かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」(藤原実方朝臣)と詠まれているように、伊吹山は薬草の生地で名高い。ところがこの歌の伊吹とは下野国の伊吹山であることは、顕昭が袖中抄に説いて以来ほぼ定説化されているが、まだ近江と美濃との国境の伊吹山と思う人が多いようである。
ビートルズが世界中を席捲した1960年代後半、日本にもGSブームがやって来た。たぶんどんな片田舎の中学生でもエレキをテケテケテケとひく真似をしただろう。ザ・ブルーコメッツの「青い瞳」をドラマ「何処へ」で聞いた印象は強烈だった。「♪旅路の果ての孤独な街で 俺は悲しき恋を知ったのさ」この曲の異国情緒はGSの方向性を決めた。愛する女性は、おさげの花ちゃんではなく、長い髪の少女。別れの一本松ではなくて、北国、中世のシャトー、教会。まるでグリム童話の世界だ。だから女性の名はカタカナでなければいけない。「僕のマリー」(ザ・タイガース)、「愛するアニタ」(ワイルドワンズ)、「すてきなサンディー」「恋をしましょうジェニー」(カーナビーツ)、「想い出のジュリエット」「マドレーヌ」(ランチャーズ)、「ジョセフィン」(バープル・シャドウズ)、「まぼろしのシェラザード」、「想い出のシェリー」(ザ・シェリーズ)、「気ままなシェリー」(アウト・キャスト)、「黒い瞳のアデリーナ」(リリーズ)、「アフロデティ」(ク・ガーズ)、「愛しのアンジェリッタ」(プレイボーイ)、「青い瞳のエミ」(.ルビーズ)、「すてきなエルザ」(ライオンズ)、「白夜のカリーナ」(バロネッツ)、「すてきなクリスチーヌ」(フィンガース)、「サリーの瞳」(レンジャーズ)、「愛しのサンタマリア」(ビーバーズ)、「太陽のジュディー」(サニー・ファイブ)、「涙のシルビア」(フェニックス)、「港のドロシー」(ベアーズ)、「さよなら、ナタリー」(.ルビーズ)、「ファニーの恋人」(キングス)、「赤い靴のマリア」(ワイルドワンズ)、「霧の中のマリアンヌ」(レオビーツ)、「赤毛のメリー」(ガリバース)、「いとしのリナ」(タックスマン)。そして加山雄三まで「愛しのスミちゃん」じゃなくて、「幻のアマリリア」という曲がある。
伊達直人の名前でプレゼントすることが続いている。不思議な現象ではある。だが今年こんなこともあった。毎年、正月は老人介護施設は寂しい静かな雰囲気だ。大晦日、紅白歌合戦で植村花菜の「トイレの神様」を聞いて、孫たちがおじいちゃん、おばあちゃんに会いに行こう」と言い出した。どこの施設でも例年とは違って、家族の面会で賑やかなお正月を迎えたらしい。そういえば、昨日電車に乗っていたら、若い人がお年寄りに席を譲っていた。そういった小さなことも恥ずかしがらず、行動できる人が多くなった。すすんで小さな親切をする人が「カッコイイ」と思える社会になればいい。昭和38年頃、茅誠司が「小さな親切運動」を提唱した。お年寄りへの援助、街の清掃・美化、社会奉仕、車いすやランドセルの寄贈。形はいろいろあるけど、それぞれの人ができる範囲で行動することは素晴らしい。
日本の国土には自然災害の発生しやすい条件が多い。火山の噴火、地震やこれにともなう津波の発生、梅雨期の集中豪雨や台風などの豪雨による土石流や洪水、豪雪と融雪期の洪水および地滑りなど、気象災害も多い。日本での地震速報はほとんど毎日のようにあるが、近年は世界各地の自然災害のニュースも多い。2004年のスマトラ沖地震では28万人以上の死者がでている。2005年のパキスタン地震は8万6千人以上、2008年の四川大地震では約6万9千人の死者がでた。2010年1月のハイチ地震では31万2千人と発表されたが正確な数は不明。
このように「自然災害」が今日では重要なキーワードの一つであるが、「自然災害」という用語は1970年以前の百科事典には項目に見当たらない。もちろん地震、台風など個別の項目はあるものの、トータルな「自然災害」の研究は環境問題がクローズアップされてからのようである。おそらく世界で最初に研究対象としたのは、ドイツの哲学者イマヌエル・カントではないだろうか。ドイツといったが、実は彼が生まれた町ケーニヒスベルク(「王の山」の意)は当時は東プロイセンでドイツだったが、現在はロシアの領土になっている。つまりポーランドとリトアニアに挟まれたロシアの飛び地なのだ。スターリンが同志のカリーニンに因んで「カリーニングラード」と命名したが、いま改名論議が再燃し、昔のケー二ヒスベルクに戻そうという意見もある。そのカントが31歳のとき、ポルトガルのリスボン大地震のニュースを聞いた。1755年11月1日のことである。死者は6万人を超えたといわれる。自然科学者でもあるカントはいち早く「地震について」という研究論文を発表している。地震は契機それ自体を抑えることが不可能であり、不可抗力ととらえられるために「自然災害」とみなされるが、知性で科学的に研究しよう試みた初期の学者なのである。
センター試験問題が新聞で公表されている。世界史Bは全問選択問題なので、歴史は暗記物という言い方は時代遅れとなった。むしろ理解力が求められている。ど忘れで答えられなかった、という言い訳は通用しない。むしろ古代から20世紀末の現代史まで、イスラームやインド、アフリカなども含めた歴史事象の幅広い把握が要求されている。固有名の暗記は求められないが、事件、出来事の経過、順序の理解は必須である。たとえば、エジプト史で、①アレクサンドリア建設②プトレマイオス朝滅亡③アラブ人によって征服された、など簡単であるが、歴史の流れを問う設問なのであろう。
異文化接種を問う出題も目立つ。トルコ系遊牧民はイスラームなどの諸宗教を受容した。イスラーム教徒の多数派はスンナ派(スンニー)と呼ばれ、小数派はシーア派。11世紀トルコ人が建国したセルジューク朝(1038-1194)はスンナ派。エジプトを征服してカイロを建設したファーティマ朝(909-1171)はシーア派。(解答番号30)。スンナ派は多数派と覚えよう。
ただし、受験生たちの成績に差をつけるためには、一見難しいように見せて、実はやさしい、というテクニックをとっているように見える。たとえば第3問の21である。「ライヤットワーリー(ライヤートワーリー)制」とは難問であろう。むかしの山川出版社の教科書「世界史B」には無い。現在のものはわからない。手元の数研出版の「世界史辞典」では「ザミンダール」の項目でふれている。つまり18世紀イギリスのインドで、ザミンダール(ザミンは土地、ダールは保有者の意)は、北インドで行われた税制で、領主層の地税納入制度。ライヤットワーリー(ライーヤトワーリー)制は南インドの耕作者(ライーヤト)に土地保有権を認め、彼らから直接地税を徴収することである。つまり④の設問は×。もちろん、ライヤットワーリーを知らなくても、「1960年のアメリカではヴェトナム戦争の費用が国家財政を圧迫した。○」と理解できれば、正解できる。印象としては、難しい出題は引っ掛け、ダミーのようなもので、正解は重要な事項というのを受験生は頭の片隅にいれておくことだろう。つまり出題者と受験生との知恵くらべ。これが本当の歴史を勉強した人が実力が発揮できる問題であるかはさておき、やはり受験勉強というのは試験対策の上手な者が勝利するという印象はある。
南海電車にのって関西空港へ。今年は兼高かおるのように世界に羽ばたくぞ!ただしお金を使わずにネットで画像体験。YuTubeで映像をみよう。とりあえず空港までのアクセス。難波から堺、岸和田、泉佐野、そして関西空港から憧れのハワイへ。パンナムのセカンドバックを肩にかけていたら皆驚くだろうな。
堺といえば仁徳天皇陵(大仙町)。正式には百舌鳥耳原中陵といい、5世紀初めとされる前方後円墳。大鳥神社にはヤマトタケルと大鳥連の祖天児屋根命を祀る。伊勢の能褒野(のぼの)で死んだヤマトタケルの霊が白鳥(白いサギという説もある)となって飛来したという。ヤマトタケルの墓とされる場所は3ヶ所あるが、大阪府羽曳野にある白鳥陵もその一つ。「古事記」では、白鳥が河内の志畿に降り立ったので、そこに墓をつくったとされる。
冬のやわらかな日差しを浴びてひっそりと咲く冬の花の愛らしさに心がひかれます。早咲きの水仙、椿、梅が関西以西では咲き出します。沈丁花の花芽も心なしかふくらんできました。南九州では水仙、マーガレット、キンセンカ、ストックなどが綺麗に咲いています。
元旦から7日までを大正月というのに対して、今日は小正月という。小正月は生活に密着した農民的な性格をおびており、農村では現在でも大切な行事として残っている。京阪神では「女正月」という。女は正月の間、仕度や接待に忙しかったので、女が正月気分を味わえるのは女正月(おんなしょうがつ)になってから。俳句では音数律の関係で、「めしょうがつ」という。なお、東北地方では近年まで正月に削り花を飾り、松の内に対して花の内、花正月と呼んだ。
「伊藤、少し慎んではどうかね」と明治天皇にたしなめられたほど伊藤博文の好色は有名だった。「坂の上の雲」の加藤剛ではマジメで堅物の印象だ。日本歴史で好色をあげるとすれば、古くは桓武天皇だろうか。寵愛する女性が35人はいたという。戦国時代の武将も多数の側室をもつことは当たり前だった。女好きといわれた豊臣秀吉には有名な淀殿のほか、記録にあらわれるだけでも16人の側室がいる。松の丸殿(京極高吉の娘)、加賀殿(前田利家の娘)、三条殿(蒲生賢秀の娘)、お種殿(伏見の地侍高田次郎右衛門の娘)、備前殿(山名禅高の娘)、三の丸殿(織田信長の五女)、姫路殿(織田信包の娘)など名家の娘が多い。朝鮮へ渡ろうと肥前の名護屋城(佐賀県唐津市鎮西町)に滞在したときも、広沢局を側室とした。かつてこの地の城主名護屋経述の妹で、20歳であった。九州在住のときも大名の妻女たちの多くは、秀吉に招かれてもてあそばれたという。
色好みでは徳川家康も秀吉に負けていない。公式では2妻15室だが、陰にどれだけいたかは不明である。だが家康は秀吉のように高貴な姫君よりも、身分の低い女を選んでいる。健康的な野育ちが好みだった。家康が今川家に人質にとられていたときに正妻築山殿と結婚したが不和であった。のち武田勝頼との内通の嫌疑で殺害したという不幸な経験もあったからかもしれない。西郡の方、お万、お愛、お竹、お都摩、お茶阿、お亀、お万、お梶、お六、お牟須、お六、お夏、お仙、阿茶。側室のなかには後家女が多い。
美術史というのは一見面白そうだが、実はやっかいなシロモノである。たとえばルネサンス以降の美術の流れをみると、ルネサンスとマニエリスム、バロック、ロココと新古典主義、ロマン主義から理想主義へ、印象派からフォーヴィスム、表現主義からシュルレアリスムへ、抽象と具象絵画。こうして各時代の先駆者を並べれば、だいたい世界美術史となる。しかし各国で伝統的な描き方で制作している芸術家などは評価の埒外となる。日本の雪舟も、北斎も、大観も、世界美術史には無縁である。歴史家のアーノルド・トインビーは西欧だけが全世界ではないとして、34の世界の諸文明に分類した。これならばアメリカもロシアも世界美術に加わる事になる。レーピン(1844-1930)やセーロフ(1865-1911)は世界美術史に入れるほうがいいだろう。
「地球にやさしい」などと大企業のPRをよく耳にする。政府もエコを呼びかける。近所のスーパーには2つのタイプがある。コープはポリエチレンのレジ袋はなく(必要な人には5円で販売)、エコバッグをすすめる。割り箸はくれない。スーパー万代はレジ袋をつけてくれるし、弁当を買うと割り箸をくれる。もちろんトレイや牛乳パックのリサイクルは実施している。エコバックにマイ箸、が地球環境にやさしいのだろうか。そもそもレジ袋は石油のなかでも用途が少ないポリエチレンでできている。なぜ、レジ袋は無料かというと、不用なものでつくるから無料でわたせるのだ。レジ袋は薄くて便利だから、ゴミ袋として再利用できる。レジ袋をなくせば、新たにゴミ袋を生産するので、あまり意味がない。自治体では有料で指定のゴミ袋を使用させるところもあるが、自分が住んでいる市では幸いにもスーパーのゴミ袋でOKなのでムダなく始末できる。割り箸も間引きや枝打ちの材木を使用しているので、環境破壊しているわけではない。日本製の割り箸を使うと環境破壊になるという誤解が生じた結果、中国から安い割り箸を輸入するようになった。しかし、中国では、端材ではなく材木として使える木を伐採しているので、森林破壊につながる。日本の国土を守るが中国の森林を破壊することが許されるのだろうか。自然や環境に国境はない。地デジ移行で大量の使えるテレビの粗大ゴミが出るが、家電業界など大企業とメディア業界のエコ・ポイント制度なども疑わしいものである。
司馬遼太郎の「坂の上の雲」などをみると幕末に生まれた明治の青年は、現代の青年とどのように違うのか、少しはわかる。しかしあくまで歴史的な事件を背景としたフィクションであり、もっと日常的、生活的な視点でその変化をつかむということは案外と難しい。わかりやすい例は2組の夫婦を例にとって観察することである。明治43年生まれの100歳男子と大正3年生まれ96歳の妻の夫婦(Aとする)、昭和5年生れの80歳男と昭和9年生れの妻76歳(Bとする)。Aは戦争の応召体験があり、家を空襲で焼いている。戦前に結婚し、配給時代の苦しさを知っている。Bは少年期が戦時中なので知識としては知っているが、世帯主ではないため、本当の意味での苦しさは知らない。ただ空襲の恐怖を戦後の荒廃を知っているため、話はよくする。昭和30年ごろ結婚し、貧しいながらも神武景気、所得倍増、高度経済成長と共に歩み、家電製品などの消費体験が強い。AとBとは僅か20年の差であるが、生活ぶりは大きく異なる。Aは幼少期は農家で育ち、自活する能力がある。妻は和服で和風の生活。Bは農業経験もなく、都会の労働力として人生の大半を過ごし、わずかの年金で暮らしている。妻は洋服しか着たことなく、インスタント食品中心の食生活である。もちろんBのほうが車もあり、暮らしぶりは豊かになったように見えるが、狭い家の中は物品であふれかえり、収拾がつかない状態である。Aは実際には故人になっているケースが多いが、もし生きていれば、日本の伝統的な簡素な暮らしで美しく生活しているだろう。B老人は高齢者になってもドライバーなので交通事故が多発する。核家族の時代なので、認知症などの介護になると大変。孤独死も急増している。
最近、80歳くらいの老人から戦争体験を聞くということがよくあるが、実はその話は嘘ではないにしろ、あくまで少年期の視点でしかない。語り継ぐ戦争体験というが、100歳老人とは微妙な違いがあるであろう。しかし、その違いを無視して、一絡げに戦争体験者とするところに不自然なものが生ずる。とくに最近の戦争を題材にしたものは、ある種の思い込みで製作されているものが多い。ドラマ、映画もそうだが、とくにドキュメンタリーなどは日帝の残忍さ、非道さが前提でストーリーをつくるので、真実がみえてこない。
明治から現在まで日本人はどのようにかわったのか?というテーマは最も重要なテーマでありながら、皮相的な見方しかできないが、本質をみぬかなければいけない。80歳はもはや外見からみると老人であるが、いわゆる戦後派であり、団地、アパートかマンションで暮らし、マイカーでドライブし、ロカビリー、ビートルズをステレオで聴いた世代なのだ。たしかに元気な老人も多いが、健康食品などの宣伝のイメージで誤解を生んでいるが、高齢者夫婦だけの生活実態は悲惨なものが多い。
近藤長次郎の墓(梅花書屋氏墓と刻まれている。龍馬の直筆ともいわれるが定かではない)
龍馬は慶応元年5月、長崎(現在の伊良林地区)で亀山社中(のち海援隊に発展)という貿易商社をつくり、薩長両藩のために、外国からの武器の調達にあたった。まるで龍馬はレット・バトラー(「風と共に去りぬ」)みたい。女の子にモテるわけだ。今回(第34話「侍、長次郎」)は近藤長次郎(大泉洋)が主役だった。トーマス・グラバーから汽船ユニオン号(桜島丸)と銃7300挺を長州に周旋。長次郎は長州からの謝礼で洋行を決意し、ジャクソン号に乗り込んだが、不運にも天候不順で、上陸したところを社中同志に見つけられ、盟約違反を問われて翌年1月14日、小曽根乾堂邸別棟の亭で切腹した。29歳。その時、龍馬は薩長連合のため、三吉慎蔵と上京中だった。「己が居ったら殺しはせぬのじゃ」(「千里駒後日譚」)と悔しがった。墓は長崎市寺町皓台寺の小曽根家墓域にあり「梅花書屋氏墓」とだけ刻まれている。文字の筆者は龍馬、高杉晋作、小曽根乾堂かといわれるが不詳である。
亀山社中隊士の名前の判明するものを記す。
高松太郎(坂本直)(1842-1898) 土佐
池 内蔵太(1841-1866) 土佐
萱野覚兵衛(1842-1893) 土佐
沢村惣之丞(1843-1868) 土佐
近藤長次郎(1838-1868) 土佐
新宮馬之助(1838-1886) 土佐
長岡謙吉(1834-1872) 土佐
石田英吉(1839-1901) 土佐
宮地彦三郎(1839-1916) 土佐
中島信行(1846-1899) 土佐
安岡金馬 土佐
野村辰太郎(野村維章)(1844-1903) 土佐
坂本清次郎 土佐
山本復馬 土佐
吉井源馬 土佐
白峰駿馬(1847-1909) 越後
橋本久太夫 越後
黒木小太郎 因幡
関 義臣(1836-1918) 越前
渡辺剛八 越前
三上太郎 越前
小谷耕蔵 越前
腰越次郎 越前
佐々木栄 越前
蒲田運次郎(佐柳高次) 讃岐
小曽根英四郎 肥前
陸奥宗光(陽之助) 紀伊
女優の仁科亜希子(57歳)が再婚。お相手は大手広告代理店の幹部社員。最近、テレビのトーク番組でよく見かけるが、晴れやかな笑顔が印象的だった。熟年を過ぎて輝く女優さんもいる。「キーハンター」に出演していた大川栄子(63歳)をSEGA家庭用ケーム機のCMでみた。若い頃と変わらない笑顔。河原崎健三夫人。幸福は表情にあらわれる。国際派女優といわれた島田陽子(57歳)や中野良子(60歳)がその後国内で活躍の場がなく低迷した。三田佳子(69歳)はトップ女優となりながら息子の不祥事で女優活動を休止するという不遇にあった。「気になる嫁さん」の榊原るみ(59歳)はロサンゼルス在住。昨年秋には夫の映画監督と2人自動車事故。その後が「気になるるみちゃん」だ。人間塞翁が馬か。
新聞小説の起源は明治初期の小新聞に現れた雑報続き物(ニュース・ストーリー)で、それが戯作者出身の記者によって草双紙風の続き物となった。新聞小説が人気をよんだのは、明治20年代からで、尾崎紅葉・幸田露伴らの文学的作品と講談・人情の噺など大衆読物が登場してくる。明治末から大正初めにかけて夏目漱石、森鴎外、島崎藤村、永井荷風、芥川龍之介の作品が連載され、新聞の発行部数が100万部を超えるようになった。大阪朝日新聞の最初の連載小説は「集散離合・連枝の後栄」。明治12年2月21日から3月12日。署名はないが、岡野半牧(1848-1896)と推定される。本名は武平。別号は桐廼舎鳳居。現在、朝日新聞には川上弘美(1958年生れ)の「七夜物語」、東郷隆(1951年生れ)の「青銭大名」が連載中。
朝日新聞社の石川啄木と読売新聞社の土岐善麿とは新進歌人として併称されながら未知の関係であった。明治44年1月13日、二人は初めて会い雑誌を出そうという話が成立した。誌名も啄木の案によって「樹木と果実」と決定した。創刊号は3月1日とし、二人はその後、毎日のように会って準備を進めたが、2月1日、啄木は慢性腹膜炎と診断され、帝大青山内科に入院し、退院は3月15日であった。
土岐善麿(1885-1980)は、明治18年6月8日、東京市浅草市松清町の真宗大谷派等光寺に生まれた。父善静、母観世(藤原家の出身)。土岐善静は学僧として知られた。
土岐善麿。本名は善麿、筆名は詩作時代は湖友のち哀果。明治37年に早稲田高等予科に入学。同期に若山牧水、北原白秋、服部嘉香がいる。卒業後、読売新聞社の記者として活躍する。処女出版「ローマ字三行詩」の「Nakiwarai」は、啄木に影響を与えた。啄木は善麿を「歌人らしくない歌人」として、その作品が日常生活がモチーフとなっていることを評価していた。明治45年4月13日、石川啄木は一禎、節子、京子、若山牧水に看とられながら死去。土岐善麿の生家の浅草等光寺で葬儀が行なわれた。
わが友の、寝台の下の
鞄より
国禁の書を借りてゆくかな。
土岐善麿は歌人、国文学者、ジャーナリスト、新作能の作者、杜甫の研究家、田安宗武の研究、日本式ローマ字論者、国語審議会の会長などを歴任したり、多方面に活躍している。かわったところでは、日本最初の駅伝競走の企画実行者は土岐善麿である。京都から東京までのマラソン・リレーを企画・実行し、それを「東京奠都記念東海道駅伝徒歩競走」と命名したとされる。
土岐は戦時中も批判的良識を守った。戦争に非協力的な歌人として、歌壇の内部から攻撃にさらされた。戦後の民主主義の時代になり、土岐のリベラルな芸術家、文化人を図書館界は望んだ。昭和26年3月、東京都立日比谷図書館長となる。昭和27年5月、日本図書館協会理事長の中井正一が急死すると、8月に新理事長に土岐善麿に白羽の矢が当たった。善麿はこの時すでに67歳であったが、新生の図書館の問題が山積するなか、本人自ら難局にあたられたようだ。土岐は柔軟な思考力で、知識人らしい生き方を貫いた人である。
氷壁に魅せられた登山家たちの誇りと友情を描いた『氷壁』は井上靖(1907-1991)の代表作の一つである。この作品の着想は井上が昭和31年9月、穂高の涸沢に月見登山に行き、同行者の安川繁雄から、ナイロンザイル切断の遭難事件があったことを知ったからである。井上は小説にするため、その後3回穂高を見に行った。登山というより取材旅行というべきだろう。井上は登山経験はなかったものの、京都大学在学中から登山への関心は深く、山岳部の部室で山男の話をよく聞いてたらしい。また『氷壁』の前作『あした来る人』に登場する曽根二郎や大貫克平らも登山家である。井上は地図を広げて机上登山を楽しんでいるタイプなのかもしれない。穂高以外の山へは登ったことがないという。後年、西域、シルクロードを旅行されているが、新聞記者タイプの取材旅行なのであろう。旅と詩情で井上ほど成功をおさめた例はほかに知らない。
昭和29年の秋、高知県で15歳の少年が野原で16歳の少女にオルゴールを聞かせながら銃で射殺するという事件があった。少年の家は映画館を経営しており地元の資産家の息子。そして少女はその家で女中をしていた。少年の供述によると、動機はなんと映画をみたことにあるという。当時、若尾文子、南田洋子の「十代の性典」が人気を呼んでいた。思春期に目覚めた少年が、手近な女性に手をだして妊娠させてしまった。始末に困り果てて殺害して、自分も死のうと思ったが死にきれなかった。イタリア映画「明日では遅すぎる」で思春期ものが日本でもつくられ、性典ブームとなった。三島由紀夫の「潮騒」もこのブームの延長線にある。戦時中に性を抑圧した反動で、戦後に急激に性は解放されたが、性教育は遅れをとり、明日では遅すぎる状態となった。
吹田の万博公園にあった国際児童文学館が2009年の12月27日を最後に閉館してから1年が経つ。資料は東大阪にある大阪府立中央図書館へ移管された。(つまり廃止ではなくて、移転か?)2010年5月には一応再オープンしている。とはいえ独立館当時の機能としては見るべきもない。1979年5月オープンだから25年の寿命、人間で喩えると佳人薄命という印象である。児童読物を中心に古い貴重な資料を保存しているという役割があるだけに、四半世紀という期間はあまりにも短い。国立国会図書館よりも児童資料はたくさんあった。完全な失敗例だったといってよい。失敗の原因は何か。スタート時からゴタゴタの連続だったが、部外者にはわからないことも多い。①まずコンセプトが明確ではなかった。基本構想では「研究機関である」といい、条例では「子ども図書館である」といっていた。最後まで図書館と研究機関で彷徨い中途半端に終わった。②運営そのものが府の直営でなく、委託運営であることが、基盤を弱くした③規模が適正だったのか。バブル経済のとき大きなハコモノを建設したが、維持コストを考慮していたのか疑問である。④関西人の気質。学者・文化人はシャレやアホなことを好む。いいかげんで、ちゃらんぽらん。継続性がない。児童文学館の運営には関西人の悪い面が出た。1990年ごろ、「大阪国際児童文学館は滅ぶ」といえば、「アホ言うな」と一笑に付されただろう。だが現実に起きてしまった。思えばアレクサンドリア図書館の70万巻のパピルスも消滅した。ペルガモン図書館の蔵書20万巻もない。古代ローマ図書館10万巻も残らず衰退した。大阪国際児童文学館の顛末は日本図書館史上、最悪の出来事である。これを反省しないのも関西人の特長である。建物は忽然として無くなったものの、大阪国際児童文学館と検索するとホームページとしてはでてくる。資料が府立図書館に移管されて、名称はゾンビのように残っていた。何十年後か再び独立するまで仮住まいで忍んでいるのかもしれない。奇妙な話だ。
この時期になると阪神淡路大震災を思い出す。むかし椋平広吉(1903-1992)は地震の前には特殊な虹がでるといい、それを地震の前兆現象と主張したが、多くの学者からは否定された。阪神大震災でも発光現象はあったというが、たしかにこれが前兆だというようなものはいまのところわからないのが事実である。「鯰が騒ぐと地震あり」と江戸時代から信じられた。また関東では「なま暖かいと地震がある」という。だが気象と発震との関係も解明されていない。日ごろの防災対策の準備を万全に!
ヒッチコックの映画「疑惑の影」。チャーリー(テレサ・ライト)は叔父(ジョゼフ・コットン)に秘密があると感じている。図書館で古い新聞で調べようと思うが、閉館まぎわ。やっとの思いで新聞記事を見て、ビックリ仰天!この映画をみて、図書館は夜間も開けてほしいと思うだろう。ところが昔こんな変な話があった。佐賀県では高校補導連盟から図書館へ「不良化防止のために、女子高校生の夜間利用をやめてほしい」と申し入れがあった。そこで佐賀県立図書館では、退館時間を男子20時、女子18時という男女差を設けた。さすがに明白な男女差別で苦情もあり、そう長くは続くことはなかっただろうが、1990年5月から半年間くらいは実施していたであろうか。伝統的にアメリカの公共図書館は夜間開館を実施しているところが多いが、日本では夜間開館を実施しているところはいまだに少ない。2010世界経済フォーラム男女平等指数(ジェンダー・ギャップ指数)日本は94位。
聖ニコラ(サン・ニコラ)はサンタクロースの名でも知られている聖人であるが、野村佑香がイタリア半島を船でぐるっと一周する旅番組で、バーリというところで守護聖人ニコラを祭っていた。「ニコラ」といえば少女ファッション誌で佑香タンのデビューしたところ。なにか不思議な縁。それはさておき今年はイタリア統一150周年だそうだ。カヴ―ルは1859年オーストリアと開戦し、ソルフェリーノの戦いで勝利した。1860年カヴ―ルはナポレオン3世し交渉し、サルデーニャによる中部イタリアの併合を認めさせた。イタリア南部ではガリバルディが赤シャツ隊を率いてシチリアに上陸し、さらに進軍してイタリア半島南部を占領した。こうして1861年3月イタリア王国が成立した。
学童用の背負い鞄ランドセルはオランダ語ranselから来ている。英語では肩ひもつき鞄satchelを使って、schoolchild's satchel という。
昨年12月25日、群馬県前橋にある児童相談所に「子供たちのために使って下さい」と伊達直人という名前の人から10個のランドセルの寄付があった。その後、小田原、岐阜、沖縄、長崎の施設で同じようにランドセルが届いた。今月10日までに、少なくとも13ヵ所で同様のプレゼントが確認されている。伊達直人とはかつて人気のあったプロレス漫画「タイガーマスク」の主人公。自分が育った孤児院が経営難で存続の危機にあると知り、孤児院に支援したという漫画に因んで善行をならったものだろうか。この報道を知った多くの人も賛同して全国各地で善意の輪が広がっている。昭和52年には毒入りコーラでイタズラの連鎖があって「愉快犯」という言葉も生まれたが、あれから34年後、「善意の愉快犯」が現れるとは。天国の梶原一騎もさぞや驚いているだろう。
多くの英雄には死後生存説が生まれているが、源為朝(1139-1170)の琉球渡来説などは最も歴史家が悩む説である。保元の乱で敗れた為朝が伊豆大島に流されて、大島を逃れて沖縄に渡り、王祖になって、再び大島に戻って自害したというのであるから、まずもって信じがたい話であろう。だが事実であるか否か、謎の部分は多いが検証してみる必要はありそうだ。
この伝説は羽地朝秀の書いた「中山世鑑」によって広く知られたもので、為朝が沖縄へやって来て、大里按司の妹との間に子ができた。これが1187年に即位した舜天王である。だが舜天の実在性や為朝沖縄渡来説は物証がないので今日、学界では否定されている。
本日は成人式。新成人は少子化を反映して過去最低の124万人。芸能人には三浦春馬、北乃きい、福田沙紀、南沢奈央、谷村美月、水原希子、蓮佛美沙子など。生まれた平成2年という年は、平成天皇の即位の礼が行われた。またバブル経済の崩壊が始まった。日本人が人質になって湾岸危機が発生した。ちびまる子やクレヨンしんちゃんが人気に。ヒット商品は「キリン一番搾り」「鉄骨飲料」。ベストセラーは二谷友里恵「愛される理由」、映画は「桜の園」(白鳥靖代、中島ひろ子)、「鉄拳」(桐島かれん)、「フィールド・オブ・ドリームス」(ケヴィン・コスナー)、「ゴースト」(デミ・ムーア)など。白鳥はヤクルトスワローズ土橋勝征夫人。桐島は4人の母親。20年の歳月はやはり重い。誰にも成人式の思い出はある。ケペルの成人式は公民館で京都大学教授・上田正昭の講演を聴いたのをはっきり思い出す。古代史の専門で、古代日本と朝鮮の文化の話は興味深い。上田先生はご健在である。最近、朝鮮の新聞に「日本神話は韓国が起源、日本の学者も認めた」というニュースがなされた。小学館から刊行された「日本の歴史2 大王の世紀」を再読してみよう。
NHK大河ドラマ「江 姫たちの戦国」。お市が浅井長政に嫁ぐが、浅井は朝倉義景と結んだため信長と対立する。市は3女の江を懐妊するが、殺そうと決心する。そのとき茶々が短刀を初に突き立て、お腹の子を殺すことを必死にやめさせようとする。今回の名場面だ。茶々を演ずるのは芦田愛菜ちゃん。6歳。つい先日は、ドラマ「トイレの神様」で花菜を演じて岩下志麻と共演したばかりだ。天才子役の誕生である。
ところでドラマには全然でてこなかったが、浅井3姉妹のほかに子は万福丸と万寿丸がいた。万福丸は小谷城の落城の後、処刑され10歳の生涯を閉じた。万寿丸は僧籍に入り福田寺の住職となり43歳頃まで生きたらしい。落城のとき万寿丸は赤ん坊であったことから、江の兄にあたる。また万寿丸と江との年齢差がないことから、万寿丸を側室の子と推測する人もいるが定かではない。
肉しゃぶ、すき焼、とうふ、ちくわ、焼そば、B級グルメブームで自治体は盛大なイベントをしているが、その影で孤独死が増えてがいる
大阪府の豊中市といえば、西部に伊丹と接して大阪国際空港があり、大阪大学豊中キャンパスがあり、服部緑地公園が整備され、文化・教育の町である。そんな豊中市の曽根駅前のマンションで昨日、60歳前後とみられる姉妹が栄養失調で死んでいるのが発見された。この部屋は電気やガスが止められており、財布には90円しかなかった。このマンションはもともと2人の所有であり、何らかの理由で大阪地裁の引渡管理物件になっている。
衣食住は文化の基本である。「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と憲法にある。これは国家の責任において一人の餓死者を出してはならないということと理解している。そのためには行政はあらゆる努力をしなければならないはずである。しかし経済不況の下、町にはホームレスが溢れ、自殺者、餓死者がいても小さなニュースにしかならない。この姉妹のケースは不思議である。もともと資産家で貧乏ではなく、数年前までは普通の暮らしだったらしい。年金などはもらっていないのかもしれない。経済事情の変化で困窮したのだろうか。電気、ガスが止められた時点で、行政支援はなかったのだろうか。マンションの所有者であれば、かなりの長い期間、固定資産税など相当額の納入者だったはずだ。資産のある者が収入が途絶えたとき、生活保護が受けられるのか詳しいことがわからないが、相談窓口に行くべきだったろう。生活保護の申請はなかったという。役所というところは、徴税システムは確実だが、支援を要する人に対する処置が遅い。申し込みがなければ、放っておくという悪弊がある。為政者にも言いたい。やはり市内から餓死者を出したというのは淺利敬一郎の責任は大きい。市長の仕事は式典やイベントに出席することではない。むしろ行政支援を本当に必要とする人に手をさしのべて、救うことにある。目立つ人気とりの集会などには出なくともよい。元気な老人、都合のいい人ばかりが集まるところだ。これでいい町だと安心しているところに本当の悲劇がある。老姉妹はクリスマス前後に誰からの支援もなく、飢え死にしたのだ。そこには人間の尊厳などのかけらもない暗黒の世界である。それに心を痛めない今の日本人が恐ろしい。
年末から年始にかけて音楽関係の物故者が目立つ。「奥飛騨慕情」の竜鉄也(74歳)、ロカビリー歌手の山下敬二郎(72歳)、ダークダックスの高見沢宏(77歳)。いずれも70歳代。今年はキングレコードが創立80周年を迎える。エイベックスは知らないが、キングといえば、ザ・ピーナッツだろう。それに平尾昌章、田辺靖雄、梓みちよ、伊東ゆかり、木の実ナナ、布施明とうかぶ。なぜかロカビリー、ツイスト、GSブームまでは所属のレコード会社と歌手が結びつく。たとえばコロムビアは美空ひばり、舟木一夫、ビクターは橋幸夫、クラウンは西郷輝彦、東芝は加山雄三、ポリドールはタイガース、テイチクは石原裕次郎、CBS・ソニーはブルー・コメッツ、そしてミノルフォンは山本リンダ。おそらくレコード会社ごとにテレビの歌番組が構成されていたからだろう。アナログからデジタルへ変わって、レコード業界もかわるだろう。しかし中古シングル・レコードはおかしな世界で、とくにGSレコードなどは当時全くヒットしなかった曲やグループでも、評価の高いものがある。世の中、誰も「イイ」と思わないだろう曲に限って、必ず「イイ」という人がいるらしい。曲だけでなく、ジャケットのデザインがサイケ調で時代の雰囲気が良く出ているとか、付加価値のつく場合もある。レコードも大切にしょう。
孔子が亡くなったのは、魯の哀公16年、紀元前479年といわれる。このおよそ2500年間、孔子に対する尊崇は、ほぼ一貫して中国の人々の中に根づいていていた。もちろん、長い歴史の流れの中で、孔子や儒教への批判が全くなかったわけではない。とくに近代になってから儒教批判は中国革命の重要な課題の一つであった。太平天国の洪秀全、戊戌変法の譚嗣洞、辛亥革命の孫文、五四運動の呉虞、陳独秀、魯迅にしても儒教攻撃をしている。とくに記憶にあるのは、文化大革命以降、1973年末ごろから始まった「批林批孔」という大衆的な批判運動であろう。翌年には周恩来に対する非難も出てきた。周総理の病状が悪化するとともにますます激しくなり、歴史の故事を利用して、呂后や武則天など女皇を賛美し、江青の即位のための世論づくりも行われた。1976年1月、周総理が没し、4月に天安門事件が起こった。同年9月、毛沢東が没すると文化大革命も急速に収束した。10月に華国鋒が首相に就任し、江青ら四人組は追放された。いまでは周恩来は「孔子を救った人」と見做されている。いま中国では孔子ブームが起っている。
明日から2011年大河ドラマ「江(ごう) 姫たちの戦国」が始まる。江(ごう)は浅井長政と織田信長の妹・お市の方の三女。秀忠との間に家光、忠長、千姫、珠姫(子々姫)、勝姫、初姫、和姫(和子)を産んでいる。五女和姫は1620年に後水尾天皇の正室となり、次女興子(おきこ)を産んだ。時あたかも家光が将軍となり、幕府は皇室に対しても露骨な圧迫を加えるようになり、憤激した後水尾天皇は興子内親王に譲位した。1629年、第109代明正天皇の誕生となり、21歳まで天皇位にあった。奈良時代以来、絶えてなかった女性天皇の誕生である。江戸時代、109代の明正天皇と117代の後桜町天皇、2人の女性天皇がいた。お江は天皇の祖母だったのである。
神楽坂はん子の歌に「こんなベッピン見たことない」(昭和28年)がある。美しい女性の中でも、「ベッピン」と呼ばれる人は特別であり格別である。もともと「ベッピン」とは、普通の品物とは違うという意味の「別品」であり明治初期のはやり言葉だった。だが江戸時代からある。「咄本・諺臍の宿替」(1812年)に「すこぶる別品の当世旦那」とある。また1894年の「風俗画報」に「べっぴんの語源は鰻屋の看板だった」とある。美人の異称として使われだしてから、「別嬪」という字が宛てられた。漢字「嬪」の語義は、「身分の高い人の妻で、正室に次ぐ女性。転じて、婦人の美称」とある。個人的感覚では、「別嬪」というのは、美人度はかなり高い。スタイルよりも容貌に重点がおかれる。どの程度が「べっぴんさん」かは個人差があるのでなかなか難しい問題である。「別嬪さんになれるんやで♪」は時代にそぐわない女性差別的な表現が見られるという指摘も一部に取り沙汰されているが、最近は男性に対しても「イケ面」「男前」という容姿の差別化がよく聞かれる。大学のミスコンも復活したり、外見で差別することが一時よりも甚だしくしくなっている。たとえば、小説家の綿矢りさ、バイオリニストの宮本笑里、フィギアスケートの浅田真央、野球の斎藤佑樹やダルビッシュと才能と美を共有する人がスターの要件とされている。むくつけき野球選手やブサイクな名バレリーナでは人気がでないのだろうか。しかしながら容貌の良し、悪しを云々するのは、人生のある期間だけであり、はかないものである。器量や容貌の品評をすることは、「源氏物語」の「箒木」に「雨夜の品定め」と呼ばれる一段があり、平安時代からおよそ文化のあるところ起りうるものであるが、老人には容貌の多少の差はどうでもよく、やはり見た目よりも知性や内面的な美しさが気になるところである。
アメリカとイギリスとは歴史的には、もちろん独立戦争があったが、19世紀以来、もっとも世界をリードする緊密な友好国であろう。だが映画やドラマを見ると微妙な両国の関係がわかることがある。基本的にイギリス人は英語を話せない人間は劣っていると考えているふしがある。当然、発音にもうるさくて、米語をどのように感じているのかはビミョーなところがある。反対にアメリカ人はフランス語やフランスの文化に憧れるところが、建国以来あって、本国イギリスへの嫌悪感は伝統としてある。本音をいえばアメリカ人はイギリス人嫌いなところがある。1960年代、アメリカのテレビで最高視聴率を誇った「逃亡者」。無実のキンブル医師を執拗に追跡するジェラード警部は片腕の男以上にドラマでは悪役だった。アメリカ人でありながら、英国流のスタイル、生真面目な態度はいかにもアメリカ人が最も嫌うタイプの男だった。この役を地味なイギリスの舞台俳優であるバリー・モース(1918-2008)が演じたのは適役だった。「ベニスの商人」の守銭奴シャイロックのように、嫌われ者だった。アメリカの映画、ドラマには本音があらわれる。
ブラジル初の女性元首、ジルマ・ルセフ新大統領(63)が就任した。前例のない経済成長を任期中に実現したルラ前大統領の経済政策を継承し、一層の経済発展と国民生活の向上を誓った。就任式にはクリントン米国務長官や麻生太郎元首相が出席した。世界の経済成長が著しい国をそれぞれの頭文字をとってブリクス(BRICS)と呼んでいる。
1月15日からロードショー公開される「僕と妻の1778の物語」は作家の眉村卓(76歳)とガンで逝去した妻の実話をもとにした話だ。家のことは妻に任せきりだった生活は、妻の突然の死で一変する。映画と同じおもいをする男は世の中に多いだろう。妻を亡くした男、定年後、離婚した男、みな、同じような喪失感を味わっている。単身世帯が急増し、高齢化が進み、日本はいま「孤族の国」になろうとしいる。
女性漫画誌もいろいろあるが、男性誌のように週刊誌の漫画はない。月2回である。それは女性漫画家の体力限界だからだという。月に4、5本、しかも掛け持ちというのは男性にしかできない。何百食をつくるホテルの料理人が男性にしかできない仕事なのと同じ理由であろうか。ところで「花とゆめ」(白泉社)は4号が出たが、「マーガレット」(集英社)は3・4合併号だ。集英社のほうが大手だと思うが、やはり女性漫画家が正月休みをとるからだろうか。「マーガレット」の「メイちゃんの執事」「スイッチガール」が一月も読めなくなるのは淋しい。
asdertain 確かめる
assent 同意する
avow 公言する
compete 競争する
concede 認める
define 定義する
deliberate 熟考する
denote 示す
exaggerate 誇張する
foretell 予言する
imply 暗に意味する
induce ・・・させるようにする
interrogate 質問する
narrate 述べる
persist 固執する
peruse 精読する
ponder 熟考する
prescribe 規定する
renounce 放棄する
reprove 非難する
retort 言いかえす
ridicule あざ笑う
sneer 冷笑する
tease いじめる
withhold 差し控える
レオン・フレデリック 「アッシジの聖フランチェスコ」1902年
美術館・博物館も今日から開館しているところが多い。姫路市立美術館はベルギー西部のシャルルロアと姉妹都市提携しているので、近現代のベルギー美術にふれることができる。ベルギーの現代美術といえば、シュルレアリスムのルネ・マグリット(1898-1967)がよく知られているが、あまり日本では紹介されない作家の作品も知ることができる。世紀末の画家レオン・フレデリック(1856-1940)の作品もある。伊丹市立美術館では高橋由一、黒田清輝、青木繁、百武兼、五姓田義松、川村清雄、小山正太郎、和田英作などの作品を集めた「日本近代洋画への道」が1月15日から開催される。神戸市立博物館では幕末の絵師・歌川貞秀(1807-1879)の展覧会が開催中(2月13日まで)。最後に兵庫県立美術館はメンテナンスのため11日まで休館中。12日から。そして18日からは「森村泰昌」展。これまで女性に変身するイメージが強かったが、今回は戦争と革命の20世紀をテーマとしている。大阪と阪神間、そして播磨まで入れると、美術館・博物館は30館以上はあるだろう。それぞれがユニークな企画で競争しているだけに、この不況の時代、団塊の世代の学習スポットとしては最適である。
紅白歌合戦。「トイレを掃除したら女神様みたいに別嬪さんになれるんやで♪」美人の花菜ちゃんが歌うとさすがに説得力がある。合理的な根拠はないものの実害のない迷信はいつまでも好まれる。ケペルも大ヒット曲をねらって作詞家に挑戦!。「ワカメを食べるとハゲがなおるんやで♪」「風邪は人にうつすと治るんやで♪」「牛乳飲んだらボインになるで~♪」「食べてからすぐ寝ると牛になるで~♪」いろいろ考えたが嘉門達夫みたいで、どうもパッとしない。「夜に爪を切ると親の死に目にあえない」もどうも意味不明なところがある。ある本の説明によると、「両親などが死亡した場合、通夜のとき身内がそれぞれ爪を切って、棺の中に入れ一緒に葬る習慣があった。夜に爪を切るのは、親の死んだときに限られていたところから、夜爪を切ると、親の死に目に会えなくなるという言葉がうまれた」とある。(参考:「おもしろ雑学百科」永岡書店 1988)
「♪太陽のぼる かがやく海の はてなき広さを 心に持とう」(昭和57年制定 茅ヶ崎市立東海岸小学校校歌)弾厚作作曲 岩谷時子作詞。加山雄三が数年ぶりに母校(正確には加山は国民小学校なので母校ではない)を訪れ、小学生たち全員が加山の前で全国に歌を聞かせてくれる。「BS朝日5局共同特別番組、湘南から愛をこめて」という正月番組であった。子どもたちの元気いっぱいの声が聞けると期待した。だがテレビの映像で流れる小学生はピースサインをしてお行儀悪い。はしゃいでいる子、全然歌っていない子、列がバラバラ、子どもたちの心が全然ひとつではない、およそ校歌を全国に聞かせる、テレビ中継しているという意識のない、ただのバカっぷりをたっぷりと見せつけてくれた。なぜあの映像を流したのかも制作者の意図も真意もわからない。明らかに失敗の企画だった。一部の子しか校歌が歌えないようだし、来校した弾厚作(加山雄三)を子どもたちは知らない。先生も知らない。先生はなぜ指導をしないのか不思議だ。学校の今の現状をみて驚いた。これが現実だ。とくに前列の男の子がお行儀が悪いのだが、それが周りに伝染して最後まで続いた。途中でたまりかねた後列の女子が注意するシーンもあった。別の番組で植村花菜が母校の女子高で「トイレの神様」を歌ったときは感動ものだった。やはり大スターでも子どもにはかなわない。さすがに当の加山も呆れた感じだった。放任教育の実態をまざまざと見た。
札幌地裁での話。裁判員と裁判官が評議室のテーブルを囲んだ。みんな緊張して、雰囲気は硬かった。すると「私の趣味なんです」と裁判長が戦闘機のミニチュアをテーブルに置いた。「よくこんな細かい作業ができますね」裁判員から声がでた。裁判官はお堅いというイメージがあったが、急に身近に感じられたという。たしかに仕事以外一切無駄なことはしない、という人は何か冷たい感じ、非人間的な感じがするかもしれない。無駄なこと、無益なことに打ち込むほうが人間らしい、と感じることもある。趣味人の裁判長というイメージ戦略は成功したといえる。
この場合、「趣味」といっているが、「道楽」あるいは「遊び」に近いかもしれない。趣味にもいろいろある。絵画、音楽、スポーツ、釣り、ドライブ、園芸、ヨット、華道、茶道、俳句、短歌、料理、陶芸、読書、語学、切手やコインなどの収集、熱帯魚、旅行、登山などなど。つまり大人の趣味は仕事を離れた余暇活動という第二義的なものである。しかしながらこれら諸芸娯楽への関心は、人間や動物に本来遊ぼうとする傾向があり、人間には遊戯衝動Spieltriebがあるといわれる。シラーはこれを美的芸術活動の源泉と考えた。遊び本能説であるが、しかし本能や衝動を指摘しても、それらの概念が明確にされない限り、説明にはならない。そこでフリードリヒ・フォン・シラー(1759-1805)は「動物は欠乏が活動の動機である」として、余剰エネルギー説を唱えた。反対に、モーリッツ・ラーツァルス(1824-1903)は「人間は何もしないでいることをきらい、仕事をしていないときでも、休息するよりはむしろ擬似的仕事をして、仕事による疲労を回復する」とした。つまり裁判官は模型をつくることによる達成感で疲労を回復しているのであろうか。ロジェ・カイヨワ(1913-1978)は「遊び」を四つに分類している。
競争(アゴン) スポーツ、チェス
偶然(アレア) じゃんけん、くじ
模擬(ミミクリ) 人形 演劇
眩暈(イリンクス) ブランコ、登山
冒頭の裁判官の戦闘機のミニチュアは模擬(ミミクリ)にあたるのであろうか。有名人の趣味を調べると面白い。ゴルフ、乗馬、釣りを趣味とするスターは多い。加山雄三や八代亜紀の絵画など懲りようも一級品である。イ・ビョンホンの帽子あつめも知られていたが、いまではブランド物帽子ショップになっているそうだ。趣味と実益を兼ねるとは恐れ入る。
日本で一番人気の韓流スターはペ・ヨンジュンだが、作品の質・量でいえば韓国№1スターはイ・ビョンホンだろう。「キラースマイル」イ・ビョンホンは「アイリス」のようなアクション路線と「我が心のオルガン」のような文芸路線がある。「夏物語」(2006)は「我が心のオルガン」のような牧歌的な韓国の田舎が舞台である。時代は学生運動が激化した1969年。ボランティア活動で夏休みに農村を訪れたソギョン(イ・ビョンホン)は図書館で働く美しい司書ジョンイン(ス・エ)に出逢う。この物語は初恋を忘れられない男の一生を描く。図書館が火事となり村人みんなで消火にあたるシーンは「我が心のオルガン」の学校の場面を彷彿させる。むかしの韓国の田舎の話が好きなのはやはり日本人の感性にあうような気がする。南北の政治問題も背景にはあるが純愛映画の王道であり何度でも繰り返しみたくなる映画である。悲恋ものではあるが、号泣するほどでなく、短編の恋愛小説という感じ。映画に出でてくるスネリ村が実在するのかどうか知らないが、ロケ地の図書館や寄宿舎は本物だそうだ。飯島朋子「映画の中の本屋と図書館」は後編の刊行が2006年4月なので紹介されていないだろう。韓国には私設図書館のようなものが各地にあるのだろうか。韓国の地方の図書館事情に関する情報は少ないので映像で見ることができてうれしい。
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