烙印の学者たち 矢野仁一
戦前、東洋史学界の人で、一般読書人に最もよくその名が知られていたのは矢野仁一(1872-1970)であろう。昭和45年1月4日、97歳で亡くなって早くも40年以上が過ぎた。最もよく普及した東洋史の概説書である『東洋史大綱』(目黒書店)も今では古書店で見つけることすらめずらしい。(文庫本なら「アヘン戦争と香港」がある)矢野仁一の名は「世界大百科事典」「アジア歴史事典」にも見当たらない。戦後も長く生きたが、日本の史学界は「矢野仁一」を抹殺した。だが『東洋史大綱』は昭和13年当時の考えがわかるので、同時代性という意味で歴史資料としての価値は高い。
東洋近現代史を専門とする矢野が満州国建国という事件とかかわることは当然の成り行きであった。「満州における我が特殊権益」(昭和9年)、「満州国歴史」(昭和13年)の刊行。リットン調査団の報告書にある「満州は常に中国の領土である」という一文を歴史的に否定することが歴史家としての努めと信じたのであろう。(満州国建国は一般に歴史的必然と見られていた)矢野の学説「満州は支那本来の領土ではない」は松岡洋右によって政治的に利用され、太平洋戦争が進むなかで、矢野は大アジア協会と関わり、戦争遂行に積極的に協力していく。敗戦による公職追放。昭和27年、京都を去り、長い倉敷での余生。戦後は中華人民共和国を評価している。最後の論文は「理由のわからなぬ中共の文化革命」だった。だが史学界は誰も相手にする人はいなかった。なぜかカルピス(三島海雲)から「古中国と新中国」(昭和38年)と「中国人民革命史論」(昭和40年)の二書が刊行されている。王道楽土の理想国家などというアナクロニズムを擁護した学者には再評価などということは決してやってくることはないだろう。
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