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2010年12月 9日 (木)

王政復古の大号令

    慶応2年12月25日、孝明天皇(1831-1866)崩御の知らせに京都では毒殺説の噂が流れた。アーネスト・サトウの日記には次のようにある。「風評では崩御の原因は天然痘だといわれたけれど、幾年か後に、私は裏面の消息に精通する日本人から、帝はたしかに毒殺されたのだと教えられた。」

    そして暗殺の首謀者は岩倉具視ではないかとする説が有力である。崩御の前日、岩倉が天皇に新しい筆を二本献上したが、その筆先に毒がつけられていたのだという。天皇は筆を舐める癖がおありで、その癖を岩倉が利用したという。日本医学史学会の佐伯理一郎は「天皇が痘瘡にかかられた機会をとらえて、岩倉具視が女官に出ている姪をして天皇に一服盛らせたのである」(「日本医事新報」)と断定している。また、ウィキペディアには「1975年孝明天皇の典医を努めていた伊良子光順の拝診日記が発見されたが、その内容には毒物による中毒死を推察させるものである」とあり、「コンサイス日本人名辞典」にも「その病状からも(毒殺による)疑いが濃厚といわれる」とある。

 孝明天皇には、6人の子がいるが、うち5人は早死にしている。結局、典侍中山慶子の産んだ皇子祐宮(さちのみや)が天皇に即位する。祐宮もほかの子どもたちと同様にひ弱な少年だったという。なんとか他の皇子皇女のように早死にすることは免れたのである。明治天皇の幼少時の写真は存在していない。横井小楠は「色浅黒く、見るからに聡明な天皇だった」と印象を述べている。おそらく現存する内田九一が撮影した写真の「豪毅英邁」とうたわれた風貌であろう。宮中で育ちでありながら、なぜか相撲と乗馬が得意という。慶応3年、突如、文武両道に長じた青年君主に大変身している。慶応3年12月9日、大政復古の大号令を発する。

        *  *  *  *  *  *

順子内親王(1850-1852)  3歳

第一皇子(1850)   0歳

第二皇子(1852-1912) 睦仁親王、明治天皇

皇女富貴宮(1858-1859)  2歳

皇女寿満宮(1859-1861)  3歳

皇女理宮(1861-1862)  2歳

  養子文秀女王(円照寺)福喜宮

  養子敦宮貞愛親王、妙法院

  養子泰宮智成親王(北白川宮)

  養子易宮戴仁親王(三宝院)

  猶子山階宮晃親王

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