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2010年12月14日 (火)

赤埴源蔵

   源蔵は普通「赤垣」姓を以て呼ばれているが、記録などによると「赤埴(あかばね)」が正しい。赤埴源蔵重賢(1669-1703)は、信濃国飯田の出身で、祖父は赤埴十右衛門、父は赤埴一閑、母は高野忠左衛門女。源蔵は馬廻役の江戸勤番で、浅野家断絶ののちは、江戸の芝浜松町に浪宅を構えて高畠源五右衛門と称し、吉良邸の動静をさぐることに専念していた。

   「徳利の別れ」という話は後世の創作で実際の源蔵は下戸であったという。親類書によると、源蔵には兄はなく、弟妹があり、妹は阿部対馬守正邦の家臣田村縫右衛門に嫁していた。源蔵は討入りの三日前に妹の嫁ぎ先を訪れたが、あいにく縫右衛門は不在で、妹おさみと舅の與左衛門とに対面した。そのとき、源蔵は今生の別れと美服をまとっていたが、それを知らない硬骨の舅は赤穂旧臣の不甲斐なさを苦々しく意見したという。源蔵には妻子はおらず、享年は35歳。

  河竹黙阿弥(1816-1893)の歌舞伎「赤垣源蔵」(仮名手本硯高島)は、義士銘々伝の一つで、四世市川小団次の当り芸で安政5年(1858年)に初演された。明治期に入っても、「赤垣源蔵・徳利の別れ」は講談で庶民の人気をはくし、昭和の流行歌では上原敏の「徳利の別れ」(野村俊夫詩、阿部武雄曲、昭和13年)、三波春夫「元禄花の兄弟、赤垣源蔵」(北村桃児詩、春川一夫曲)などがある。

           徳利の別れ

  さげた徳利を 撫でながら

  仇を討つ日は 何時のこと

  明日は 明日はで 酔うて寝りゃ

  夢で兄者が また叱る

          *

   元禄花の兄弟 赤垣源蔵

  酒は呑んでも

  呑まれちゃならぬ

  武士の心を忘れるな

  体こわすな源蔵よ

  親の無い身にしみじみと

  叱る兄者が懐かしい

            ▽                 ▽

  迫る討入り

  この喜びを

  せめて兄者によそながら

  告げてやりたや知らせたい

  別れ徳利を手に下げりゃ

  今宵名残の雪が降る

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