悲運の人、吉良義周
吉良左兵衛義周(1686-1706)は吉良上野介義央の養嗣子。だが上杉綱憲の次男であるから、実際は義央の孫である。4歳のとき養子となった義周は、義央が刃傷事件で高家の職をやめ隠居したので、その後を継いだのである。討入りのときは18歳で、武器をとって応戦したものの、武芸は不得手であり、不破数右衛門に斬られて、そのまま気絶して、一命は助かった。翌日、幕府に事件の状況を書面で提出している。
2月4日、吉良邸に討入りした四十七士の処分は切腹と決定した。同時に義周は家禄没収、信濃国高島城へ配流となった。理由は討入り当夜の行動が不届きであったからである。現在の感覚ではわからぬ、武家社会特有の道理があるのだろう。ともかく18歳の若者にとっては酷な処分であった。
配流先の信濃高島藩の藩主は諏訪忠虎である。義周は2月16日には到着した。義周の見張りを担当した大目付は、義周の自殺を案じて、小刀はもちろん扇子や鼻紙の携帯をも禁じた。また、庭の小石もすべて拾って隠したという。高島城の冬の厳寒に慣れないためか義周は病に伏せる毎日だった。生来から虚弱な体質であったとも伝えられている。宝永元年には実父の上杉綱憲と義央夫人・富子が死去した。相次ぐ身内の不幸が精神的にこたえたのであろうか。義周は宝永3年正月20日に亡くなった。2月4日には高島城外の法華寺に土葬された。奇しくも2月4日は義周が配流の申し渡しと、赤穂義士の切腹が行われた日である。高島城南丸に幽閉されること3年、若き高家の旗本はついに江戸の地を踏むことなく21歳で没した。ここに足利義氏以来500年近い年月の由緒ある三河吉良氏の嫡流は絶えたのである。
なお、ほとんどの人名事典では、この義周を「よしちか」と記しているが、義周が信濃高島藩に預けられた際の記録「矢島八兵衛満村覚書」には「ヨシマサ」とルビがふってあるので、あるいは「よしまさ」と読んでいたのかもしれない。
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