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2010年12月14日 (火)

「大たこ」の業務妨害に思う

   「ここが日本一悪い店か」と因縁をつけて、雨水のついた傘を振り回して「たこやき」を販売できなくした大阪市職員が逮捕された。公務員は法をかざして自らが正義だとおもっているのだろうか。たしかに市有地であり法的には明らかに不法占拠だが、1972年の開業以来という。長年不法占拠状態を放置してきたこれまでの行政怠慢の責任はどうなるのか。もちろんこういう話は世の中に数えきれないほど多くあり、法律で解釈されるものであろう。しかし法律だけでなく、人倫の基本として考えるならば、古典には社会通念にはとらわれない別の考えも存在することも許されるだろか。

    たとえば、こんな話を孔子は述べている。孔子が葉という小さな国に訪れた時の話である。葉公は自慢していった。「私の国には「正直者の躬」という若者がいる。直躬は、父がある日どこからともなく迷いこんできた一匹の羊を誰れ知るまいと思って、自分の家の羊の群れの中にそっと加えて素知らぬ顔をしていた。ところが、直躬は、これをうかがい知っていて、みずから役人に訴え知らせた。こんなことはなかなか出来るものではないが、ほんとうに正直すぎるほど正直な立派な男である」と葉公は話した。

   この話を聞いた孔子は、「私は王さまとは少し考えが違います。なるほど、その躬という方は、この上もなく正直な方のように思われますが、はたしてその方はそんなことまでして心安らかなものがあるでしょうか。同じ家族の一人として、社会人として、また道徳的に考えてみて、それで自ら満足が得られるのでしょうか。私の考えでは、そんな場合には、父は子のために隠し、子は父のために隠す。それは理屈の上では割り切れないものが残りましょうが、かえって、そうした生活態度の中にこそ、直そのものがあるような気がしてなりません」と言われた。『論語』子路18にある有名な節であるが、原文は漢字44字の短いものながら、意訳して記した。この話を小学生にしてみても、迷った羊を正直に届けた躬がえらいというだろう。ジョージ・ワシントンの折った桜の木の挿話のように単純明快に。ところが孔子の説くところは奥が深い。この挿話でみるかぎり孔子は法律よりも人間の自然の情を優位においている。孔子が唱えた儒家思想よりも、国家は法家思想を採用したがるものである。当世も規制、規制の時代である。法律至上主義の現在においてこの孔子の説くところは容れられないだろうが、親子の自然な感情を大事にするところに社会が成立する。「大たこ」を威力で撤去させようとする役人の暴走は、現代人が陥りやすい誤った行動を代表しているように思う。公に抵抗する「大たこ」の味は反骨の味、庶民の味である。もちろん不法占拠を容認せよと言っているわけではない。ただし犯人は「悪いのはどっちや」と怒鳴っていたことから、日ごろから不法占拠を憎む感情が強かったのであろう。立ち退きとは無関係の部署にいる市職員が酔った勢いとはいえそこまで関心をもつのは法令遵守しない者には暴力をもってしても従わせるという異常心理が強く作用するからであろう。だがたとえ店が違法であっても平穏に営業しているのに公務員が個人的感情をもって威喝し暴行すれば、業務妨害は明らかであろう。行政マンは法律に基づき行為すべきものであるが、人としての自然な感情を培うことが肝要であろう。

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コメント

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難しい話ですね。親子の愛 本物かどうか
宿命 宿業 犯罪者の父親 
徳のある親 嫌われ者の親
子はどうするのでしょうか
親子の生活環境と社会教育の中で 生きる親子
愛人の告白というのも 昔 ありましたね

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