一橋治済と徳川家斉
徳川第11代将軍・家斉(1773-1841)は吉宗のひ孫にあたる。岩本内膳の娘・お登美は大奥老女梅田の縁で大奥に奉公にあがったが、一橋治済(1751-1827)の目にとまって、安永元年(1772)、一橋屋敷に引き取られた。翌年、豊千代(のちの11代家斉)を生む。10代家治の正室は二女をなすがいずれも早世、侍女お品も貞次郎を生むが夭折する。そのため一橋から豊千代が迎えられて、天明2年(1782)に元服。まだ、若年だっために御三家が後見し、老中松平定信が政務を補佐することになった。定信失脚後みずから政局にあたったが、幕政の紊乱を招いた。反面、文化・文政期には文化の面には注目すべきものを残した。将軍職を世子の家慶に譲って隠居後もなお大御所と称して政治の実権を握っていたのは父親・治済の遺伝かもしれない。
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