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2010年12月31日 (金)

懐メロ好き

    NHKラジオ第1で放送している「思い出の昭和歌謡」(小沢一郎、長田暁二)を聴きながらブログを書いている。浅草では若者3人組の懐メロを歌うグループ「東京大衆歌謡楽団」が老人たちに人気があるそうだ。テレビの「歌謡コンサート」でしばしば出演される池田輝郎(57歳)も懐メロカバー曲がとても上手い。当時の雰囲気を出すというのは簡単なようでなかなか難しい。氷川きよしもレパートリーが広くて懐メロを得としているが、自分の個性が前面にでてしまう。ラジオは「りんごの歌」「東京の花売り娘」「「サーカスの歌」「誰か故郷を思わざる」「おんな船頭唄」「チャンチキおけさ」など。ディク・ミネの「人生の並木道」(古い録音なのでよかった)。ミスター・テイチク楠木繁夫の「緑の地平線」が聞けるといいなあ。石原裕次郎「俺は待ってるぜ」(小沢一郎は日活映画の脇役だった)

古典美への旅

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    仏像ブームである。奈良の社寺も今年は平城遷都1300年祭で観光客が賑わったそうだ。ただ信仰心というよりも携帯片手に博物館、文化財めぐりという感じである。ケペルも奈良大和路の古寺を訪ね歩きたいという願望はあるものの、すこし歩くと足がだるくなるり疲れるのでもう無理かもしれない。せめて和辻哲郎の「古寺巡礼」と亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」を書架から取り出してパラパラと読む。大和路を訪ねるなど年寄りが書くことと思うだろうが、和辻が30歳、亀井も34、35歳くらいのときに書いている。西洋の学問を学んだ2人が、日本精神にふれた驚きがあふれている。「だが私には法輪寺を訪れるもう一つの理由がある。それはこの寺がいかにもみすぼらしく、荒廃の情況を呈しているからである。私は荒廃に心をひかれるのだ」と亀井は書いている。法隆寺、法輪寺、法起寺は「斑鳩三塔」として知られるが、亀井の訪れた頃は日中戦争が始まった昭和12年頃でさびしかったのだろう。いまは車が走り、ゆるキャラのシンボルが賑やかで、信仰の対象としての巡礼の旅ができるのだろうか。「古寺巡礼」「大和古寺風物詩」以後60年以上が経つが、入江泰吉の写真集が有名であるが、二書に優るような巡礼記が書けないのはいかなる理由からだろうか。

2010年12月30日 (木)

現代ヒューマニズム論においてロマン・ロランは語らねばならない

    日本にもノーベル文学賞候補といわれる作家がいるが、作品を映画化して商業主義となることや、ファションや流行として取り上げるのが好ましいどうかかねがね疑問に思っている。日本人には高邁かつ清らかな精神ということを失なっているのだろう。ロマン・ロラン(1866-1944)ほどノーベル文学賞にふさわしい作家はいないと思う。ロランはベートーベン、ミケランジェロ、トルストイの伝記を書き上げたが、これが「ジャン・クリストフ」の基礎となったことはよく知られている。この天才音楽家ジャン・クリストフ・クラフトの物語はヨーロッパの名声を得て、1915年のノーベル文学賞を彼にもたらした。ロランの立派なところは受賞後の活動であろう。多くの作家はノーベル賞受賞後、執筆活動に著しい低下をみるものである。大江健三郎にしても川端康成にしても代表作を受賞後に創作することはなかった。川端などはノーベル賞そのものが重荷となったようにもみえる。ロランの誠実な高邁な思想はノーベル賞受賞後も変わることは無かった。第一次世界大戦前後のフランス女性アネット・リビエールの生涯を平易な文体で描いた小説「魅せられたる魂」は多くの読者を得た作品である。ロランは絶対平和主義の立場で運動を展開したが、第二次世界大戦の終結を見ずに亡くなった。かつて日本でも高等学校「倫理」でロマン・ロランは教材として取り上げられたが、今ではほとんど取り上げられないそうである。現代ヒューマニズム論においてロマン・ロランは欠くことのできない一人だと思う。

干し柿

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干柿の影を障子に数へをり  藤岡万里

   干し柿が美味しい季節だ。けっこう高価なので今年はまだ口にしたことがない。お正月には食べたい・・・。

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2010年12月29日 (水)

戦場カメラマン

    最近、なにかと戦場カメラマンという職業が注目されるようになった。フリーの人が多いので資金に苦労する。渡部陽一は「自転車操業です」といっていた。だからバラエティ番組に出演してタレント活動で取材費用を稼いでいるのだろう。山路はモテるので女性から支援してもらっていたのだろうか。渡部陽一のゆっくりとした口調で話す感じがとても聞きやすい。いかにも戦場カメラマンという風貌も面白い。今回の山路騒動で知名度がアップして人気者になったのは渡部陽一だろう。渡部陽一はお笑い芸人として生きるべきだろう。

陸軍内務班の制裁

    最近の映画やドラマではほとんど見ることはなくなったが、かつては軍隊映画といえば初年兵のシゴキの場面がとても印象的だった。亡くなった親父などもそういうシーンを見ると軍隊生活を思い出すようだった。とくに南道郎(昭和元年生まれ)は軍人をやらせたら右に出る俳優はいない。「陸軍残酷物語」「二等兵物語」「潜水艦イー57降伏せず」「人間の条件」「兵隊やくざ」「独立愚連隊」など意地悪な古参兵が戦争映画には欠かせないキャラクターだった。野間宏の「真空地帯」の映画をみたが木谷(木村功)は石切陸軍刑務所から仮釈放されて部隊は大阪の連隊のようである。かって「またも負けたか八連隊」という俗謡があって、大阪は商人出身が多くて算盤よりも重いものをもつたことがなく、ひ弱ですぐに退却するという話を聞いたことがある。この俗謡は西南戦争のころであるが、第二次大戦中も言葉としては存在した。

    陸軍内務班ではどのような制裁があるのだろうか。初年兵にとって、もっとも猛烈なシゴキ屋さんは、初年兵係上等兵以下の古兵(2年目以上の一等兵)である。フンドシ洗いから靴みがきまで全部やらされ、少しでも気にいらないことがあれば痛烈な罵言や私的制裁を加えられる。古兵たちにとっては自分たちのみじめな初年兵時代への報復を兼ねて、大きな刺激と楽しみであっにちがいない。

チャンチュ  比較的軽い処罰法で、鼻の頭を人さし指ではねあげる。これをやられると目に涙がたまり、視界がさえぎられジーンとくる。

対向ビンタ  二列に向き合って並んで、交互に相手の頬を手のひらでなぐり合う。最初はお互い手加減をしているが、次第に本気になり、力がこもってくる。

空中戦  基本体操の腕立て伏せをして、「右旋回、左旋回」などという号令に合わせ、片手を上げる。罰が重いときは、逆立ちして同じことをする。

自転車  二つ並べた机の間に身体を両腕で支え、ペダルを踏むポーズをする。古兵から「平道、上がり坂、下り坂」あるいは「前方から中隊長殿」といわれれば、その状況に応じて足を回転させ、表情・動作をかえなければならない。

整頓くずし(拉縄を引く・妙高おろし) 拉縄は野砲の引き鉄を引く綱のこと。衣類の整頓の悪い兵隊の巻脚袢のはしを拉縄にみたてて一気に引くと、その上に積み重ねられた衣袴などが整理棚から一度にくずれおちてしまう。連隊によっては「妙高くずし」といって、竹刀で衣類を舞い上げるなど、種々の趣向がこらされている。

拾い兵  錬兵場で銃口蓋などを紛失すると、班の連帯責任となり、一列横隊にはいつくばって、見つかるまで探さなければならない。

魚の絵  枕おおいの洗濯を怠った兵に与えられる罰則で、枕おおいにチョークで魚やカッパの絵をかかれ(水がほしいの意)それを持って各班回りをさせられる。

歩兵銃へのおわび  銃の手入れを怠った兵に対する罰則。「三八式歩兵銃殿。手入れを怠って申しわけございません。今後は気をつけますからご勘弁ねがいます」と大声でとなる。

せみと犬  柱の高いところに昇り「ミーン、ミーン」と鳴く。力が尽きて下へ落ちれば「ワン、ワン」と犬の真似をする。肉体的苦痛は小さいが、次の「うぐいす」同様、自尊心を最も強く傷つけられる罰。

うぐいすの谷渡り  並んだ寝台の上を飛び越え、下をくぐり、そのつど寝台の下から顔を出して「ホーホケキョ」と鳴く。

おいらん  銃架から銃を一挺はずして、そこから罰を受ける初年兵が頭を出し、廊下を歩く者を、声色を使いだれかれとなく呼びとめる。

  ここに集めた制裁は主に陸軍のものであるが、呼び方や細部にわたっては時代や各連隊によって異なっている。外国の戦争映画をみても諸外国には日本のような天皇陛下を頂点とした階級制、赤化への嫌悪、などはみられず、日本独自のイジメ体質が国民性として存在するとみている。

ともあれ1日の日課が終わり、やがて寝床につく。初年兵の耳に消灯ラッパがひびく。

「新兵サンハ 可哀ソウダネー マタ寝テ 泣クノカヨー」

偉人を演ずることはキャリアのアップになるのか?

    人気俳優が歴史上の人物を演ずることはたいへん興味深いことではある。今年の「龍馬伝」で福山雅治は確実にそのキャリアをアップしたといえるだろう。しかしながら多くの場合、歴史上の人物を演じるということは危険な冒険ともいえる。これまで人々が抱いてきたイメージを壊し、違和感が生ずる場合もある。むかし「水戸黄門」でこれまで悪役を数多く演じてきた俳優が演ずるにあたって物議をかもしたことがある。「人間の条件」では西村晃、佐野浅夫が2人とも出演し、悪い上官を演じている。最近のテレビ版「忠臣蔵」で田村正和の大石内蔵助もかなり無理があった。アメリカの青春スター・ジェフリー・ハンターはイエス・キリストを演じてそのキャリアの低下を招いた。もちろんイエスはいかなる俳優が演じたとしても納得する人も少ない役柄の一つであろうが。聖女ジャンヌ・ダルクもロシア系のミラ・ジョボヴィッチが演じたが、こちらはキャリア・アップとなり3年後のバイオハザードでブレイクした。

 

    これまで多くの名優が果敢に歴史上の人物を演じてきたが、そのなかでも違和感のあるものを挙げてみよう。

 

スペンサー・トレーシーのエジソン(1940)

 

タイロン・パワーのレセップス(1938)

 

ゲーリー・クーパーのマルコ・ポーロ(1938)

 

ジョン・ウェインのジンギスカン(1956)

 

モンゴメリー・クリフトのフロイト(1962)

 

ジェラール・ドパルデューのコロンブス(1992)

 

 

女優に賞味期限はない

    デズニーのドラマ「ハロウィーンタウン」を見ていると、なんと懐かしのデビー・レイノルズ(78歳)がでている。可愛いおばあさんである。デビーといえば夫のエディー・フィッシャーをエリザベス・テーラー(78歳)に略奪されたスキャンダルは有名。ちょうど大桃・麻木のようだがもう50年以上も昔の話で2人とも水に流しているらしい。ソフィア・ローレン(76歳)も息子がプロデュースした映画「微笑みに出逢う街角」(2002)に出演していた。カトリーヌ・ドヌーブ(67歳)も「輝ける女たち」(2006)、「しあわせの雨傘」(2010)など出演作は続いている現役女優だ。フェー・ダナウェー(69歳)、ミア・ファロー(65歳)も日本未公開の作品が多いがまだまだ現役。日本女優陣はもっと凄い!。森光子(90歳)、千石規子(88歳)、淡島千景(86歳)、赤木春恵(86歳)、菅井きん(84歳)、淡路恵子(77歳)、草笛光子(77歳)。ちょっと失礼な表現ではあるが、「女優に賞味期限はない」と感じるこの頃である。

映画は観てみないとわからない

     映画は監督や配役などで何となく出来栄えを予感するものだが、期待を大きく裏切る作品もときはある。もちろん良いほうに。映画「純喫茶磯辺」(2008)は雨上がり決死隊の宮迫博之主演で、ダサい喫茶店の話ということで、つまらないコメディを予想していた。ところが宮迫、娘の仲里依沙、麻生久美子の3人の演技が予想外の佳作をうんだ。気取らず、ありのまま、自然な演技、これらは言うは易く、行うは難し、名優ほど力んだわざとらしいものになる。とくに仲の才能はすばらしく今後が期待できる女優である。「ヤンキー君とメガネちゃん」の足立花、「日本人の知らない日本語」の臨時教師ハルコ、など笑わせてくれる。

昆陽池と行基

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    伊丹の昆陽池は都市にはめずらしく、ユリカモメなどの野鳥が飛来する自然のオアシスである。伝説ではこの池をつくったのは行基(668-749)ということになっている。伊丹市には行基町という地名があり、昆陽寺(伊丹市寺本)がある。行基は畿内を中心に民間への布教や貧民救済のために布施屋を設置し、また池溝などの土木開発をしたといわれる。初め政府の厳しい弾圧を受けたが、天平初年から緩和され次第に重用されるようになっていった。行基伝承は伊丹だけでなく、近畿地方、また全国に開基伝承が広がっている。行基により創建されたと称する寺院は全国に約1400寺あるといわれる。寺院の縁起は、歴史的物証がなく多少疑わしくとも、詐欺罪にはあたらず大目にみてもらえるらしい。これは鎌倉時代の東大寺を中心として、行基への追慕ないしは行基への信仰が高まったものと考えられているが、どのような事情で広まったのか明らかではない。伊丹の昆陽池伝承も本当に行基と直接つながるのか疑問である。昆陽寺も奈良時代の創建を示す考古学的な遺物を知らない。鐘楼の銘には宝暦10(1760)年と刻まれた銅鐘がある。行基との直接的な遺物はないが、この地方の農民たちが行基を追慕していたことは明らかである。

小説、漫画に出てくるヒロインの名前

   出版社に勤務する久木祥一郎は突然、閑職である調査室行きを命ぜられる。これまでの人生に虚無感を覚え始めた彼の前に、松原凛子という美しい人妻があらわれ、2人は情事を重ねる。渡辺淳一が1995年に日本経済新聞に連載した「失楽園」は一大ブームとなり、その年の流行語大賞に選ばれた。ところでヒロイン凛子という名の「凛」の字は、1990年に人名用漢字に追加されたもの。したがって実際に凛子という名の女性がいたとしても20歳の女性ということになる。だが小説の死体検案書には松原凛子の年齢は38歳とある。作家が小説を書くとき名づけ事典などでチェックするわけではないので、こうした間違いはしばしばあるだろう。ここでは私の個人的な好みで印象に残ったヒロインの名前をあげる。

亜紀 あき 片山恭一「世界の中心で、愛をさけぶ」

杏里 あんり 高橋治「風の盆恋歌」

夏野子 かやこ 津島佑子「寵児」

杏子 きょうこ 室生犀星「杏っ子」

琴美 ことみ 宮本輝「海辺の扉」

小雪 こゆき 大江賢次「絶唱」

佐知子 さちこ 松岡圭祐「千里眼」

沙耶 さや 伊達一行「沙耶のいる透視図」

志乃 しの 三浦哲郎「忍ぶ川」

知寿 ちず 青山七恵「ひとり日和」

千波 ちなみ 瀬尾まいこ「優しい音楽」

巴 ともえ 若杉慧「エデンの海」

夏枝 なつえ 三浦綾子「氷点」

夏美 なつみ 馳星周「不夜城」

七瀬 ななせ 筒井康隆「七瀬ふたたび」

那美 なみ 夏目漱石「草枕」

野枝美 のえみ 久美沙織「薔薇の冠 銀の庭」

初江 はつえ 三島由紀夫「潮騒」

初実 はつみ 綿矢りさ「蹴りたい背中」

万亀 まき 林真理子「本を読む女」

マヤ  美内すずえ「ガラスの仮面」

繭 まゆ 野島伸司「高校教師」

真弓 まゆみ 村松友視「時代屋の女房」

美嘉 みか 美嘉「恋空」

美沙 みさ 円地文子「霧に消えた人」

藻奈美 もなみ 東野圭吾「秘密」

雪子 ゆきこ 石坂洋次郎「青い山脈」

葉子 ようこ 有島武郎「或る女」

里矢子 りやこ 夏樹静子「星の証言」

烈 れつ 宮尾登美子「蔵」

    ところで登場人物に具体的な名前がないものもある。記憶が80分しかもたない数学者の「博士」とその「家政婦」と息子「ルート」。小川洋子の小説には「博士の愛した数式」をはじめ登場人物に名前がでてこない作品が多い。あるセミナーで参加者から理由をたずねられた。「名前をつけることで余計なイメージを植えつける。舞台は日本でもないし、地球のどこでもかまわない」という。ケペルがむかし図書館に勤めていたとき、カウンターに小川洋子という名の人が登録にやってきた。雑誌などで見た女性作家によく似ていたが、別人なんだろうか。やはり、小川洋子や村上春樹の小説の描く世界は「私の土地がモデルです」と騒ぐことはいいがなものか。もともと大正から昭和初期にかけて青年期を過ごした作家の小説には、名前こそあったものの何を職業としているのかあいまいなものが多かった。かれらの多くは、地主の家庭から出たので具体的な職業、職場、職業感覚が描けなかった。戦後に源氏鶏太ででこの風潮を変えたといわれる。サラリーマンに大いに受けたのは、そこに濃密に職業が描かれていたからだ。松本清張なども、登場人物の名前、年齢、住所、職業、生い立ちから収入にいたるまで緻密な配慮をはらっている。そのことをもって登場人物に現実感が生まれ、読者はリアリティを感じるのである。名前、職業などリアリテイを意図的に描かないことで無国籍性世界を描くのも現代の流行小説かもしれない。

イギリスのことわざ

物の値打ちは、それが無いときに、いちばんよくわかる

つまずきは、転落を防いでくれる

苦悩を最も隠す者が、苦悩に最も耐えうる者である

なべがやかんを黒いと言う

不思議なことは9日しか続かない

指輪をなくしても指はある

If I have lost the ring I still have the fingers.

ゆっくり急げ  Make hasts slowly.

満足しない者は何を持っていないのと同じ  He has nothing that is not content.

生きて学べ  Live and learn

ウンビリョン(隠秘峠)と人間の条件

    なぜか深夜に目覚めてしまい寝つけないので録画していた映画を2本見る。一つはユン・ソクホ監督のKBS単発ドラマ「ウンビリョン(麗しの峰めぐり逢い)」(1997)、もう一本は小林正樹監督の「人間の条件第3部」(1959)。この時代も国も異なる作品ながら、なぜか人間とか生といった本質的な問題を自問させられる所に作品の力があるのだろう。友人の恋人を好きになってしまった男の思い出を美しい映像と音楽で描いた文芸作品。イ・スンウォンの小説「ウンビ峰」は地図から名のない峠を見つけだし、小説の題材に取り上げた。近くの町の人も知らない「神秘が隠された地」という意味を込めて、作家は隠秘峰(ウンビリョン)と名づけた。小説のヒットとともに、この名が標識に載り地名として定着したという。「冬のソナタ」(2002)の3年前の作品だが、冬ソナと類似シーンがいくつかある。2500万年の時をへて一巡する星のように、人間も2500万年後には同じ出会いや出来事を繰り返すというシーンは、ポラリスと同じ。バスの中でソンヘ(イ・ヨンエ)がチョンウ(イ・チャンフン)に凭れかかって眠るシーン。冬ソナ通学バスでのチェ・ジウとペ・ヨンジュンと同じ。主演のイ・チャンフンは「招待(インヴィテーション)」でもイ・ヨンエと共演している。まことにうらやましい俳優さんである。優しくておとなしい人物が多い。野球帽をかぶり素足のままのイ・ヨンエ。結婚して子どももいるイ・ヨンエ。こうした時間の経過も冬ソナと同じ。季節は冬というのも同じ。冬ソナが何年もあたためていたものを集大成したものであることが改めてわかる。ソンへはユジンだ。「人間の条件」は全部で10時間くらいある作品なので少しづつ見ている。第3部は、田中邦衛が南道郎にイジメられて自殺する。この作品全体のテーマは軍隊の非人間性である。しかし軍隊という過去の出来事だけの話であろうか。むしろ現代でも企業、官僚組織、職場、学校といった人が集まるところではなにかしらの差別、イジメ、非人間的な行為がなされていることを訴えているように思える。人が人を支配するためには、数人の生贄を出すような恐ろしい思考が人間の中にある。またそれを傍観する弱い心がある。軍隊だけではなく、大きな組織の中では精神に障害をきたしたり、自殺に追い込まれたりする者の出ることをみてきた。人間であること、自然であること、自由であること、を叫びたい。

2010年12月28日 (火)

世界人物史 大祚栄(だいそえい)

    渤海国の建国者・大祚栄(在位698-719)といってもあまりなじみがない人物かもしれない。しかしわが国と渤海国(15代、228年間)との関係は深いものがあった。聖武天皇の神亀4年(727)、突然渤海国の使節がわが国を訪問してきた。12年を経た天平11年(739)にも、使者己珍蒙(きちんもう)等が出羽国に到着した。このとき日本に高麗人参が初めてもたらされたといわれる。以後、926年、契丹に滅ぼされるまで渤海は35回も来貢している。

    大祚栄。廟号は高宗。高句麗人とする説と靺鞨人とする説がある。高麗滅亡後(668)、698年の契丹族の反乱に乗じて、靺鞨族を統合して勢力を確立、則天武后の軍を破り、698年に震国を建てて自ら震国公と称した。713年に、唐の玄宗皇帝から渤海郡王に封ぜられ、それ以後は、国号を渤海とするようになった。(参考:鳥山喜一「渤海史考」、内藤虎次郎「日本満州交通略記」、津田左右吉「渤海考」、鎌田重雄「渤海国小史」)

世界人物史 ジェファーソン

  トマス・ジェファーソン(1743-1826)は、バージニアの大農園主の子に生まれ、弁護士となった。バージニア植民地議会議員を経て大陸会議の代表となり、独立戦争の開始後、「独立宣言」(1776)の起草にあたった。ワシントン大統領のもとで初代国務長官となったが、フェデラリストのハミルトン財務長官と対立、自らリパブリカン(民主共和党)を創設して国務長官を辞任した。(1793)1800年の選挙で連邦派を破って、第3代大統領(1801-1809)となった。ジェファーソンの最大の業績は、1803年ミシシッピ川以西の広漠たるルイジアナをナポレオンから買収し、国土を倍加させたことである。農業経済の優先と自作農制度を理想として、西部農業が発展する基盤をつくった。

すけこまし

    サラリーマンを対象とした簡易な統計「夫婦問題調査室」によると、「浮気・不倫の経験がある」と答えた人は34%、「浮気・不倫はバレなければいい」が15%と、きわめて高い数字が報告されている。いま巷では「優しい嘘」や「残酷な沈黙」が話題となっている。男女の関係に良い、悪いと責めるのは酷だと擁護の意見もある。姦通罪というのは戦前の話で今の日本人には理解できない倫理だろう。40代というのはバブル全盛のとき若い時代だったので恋愛上手だ。それまでの日本人の学生時代は男女交際など無縁であったが、トレンディードラマを地でいくような交際術、シャレた会話上手な男も急増してきた。ジゴロといえば聞こえはいいが、いわゆる「すけこまし」だ。会見で印象に残るのは、自ら気の利いた言葉「残酷な沈黙」を使った心理である。こういう言葉は当人が使うべきではない。記者が新聞見出しに考えるものであろう。たとえば三波春夫が舞台で「お客様は神様です」と言うだろうか。レッツゴー三匹のギャグで使えば、さも三波春夫が使うような気になるが、実際に使用したとは思えない。麻木久仁子の「優しい嘘」を受けて、それに対応して「残酷な沈黙」と使ったのは、大桃に対して無神経である。「僕が悪い」といった男がすぐに「残酷な沈黙」マスコミうけする言葉を言うことが厭らしい。やっぱり大桃が一番傷ついたのだろう。古い歌の文句がうかぶ。「♪泣いた女がバカなのか、だました男が悪いのか」論語に「巧言令色少ないかな仁」とあるが、口の軽い男は信用できない。

2010年、お騒がせ著名人カラオケ大会

2010年もあとわずか。今年を騒がせたあの人が歌うならコノ曲!大トリは紅組の小林麻央。

大桃美代子「別れても好きな人」(シルヴィア)ツイッター謝罪会見でも元夫に未練

市川海老蔵「血の雨の西麻布」(とんねるず)泥酔事件も示談成立

木村拓哉「宇宙戦艦ヤマト」(佐々木功)実写版も客席ガラガラ

小沢一郎「さすらい」(克美しげる)招致拒否なら離党勧告も

野口みずき「一人の道」(ピンク・ピクルス)もう走れません

村木厚子「お金をちょうだい」(美川憲一)郵便不正事件の慰謝料3670万円也

山路徹・麻木久仁子デュエット「ぼくたちの失敗」W不倫

菅直人「お呼びじゃないの」(ゆうゆ)支持率急落

渡哲也、館ひろし、加納竜「勇敢なる水兵」「戦友」「露営の歌」など軍歌メドレー、「坂の上の雲」出演

小林麻央「ああそれなのに」(美ち奴)「元気をだして」(竹内まりや)「夫婦春秋」(村田英雄)「だんな様」(三船和子)メドレー

2010年12月27日 (月)

哲人大統領マサリク

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     現代史のなかで哲学者で政治家という人物はあまり思いうかばない。チェコスロヴァキアの初代大統領トマーシュ・マサリク(1850-1937)は数少ない哲人大統領といえる。モラヴィア地方の御者の息子で、若い頃は鍛治屋などをしながら苦学してウィーン大学に学び、プラハ大学の哲学教授となった。「具体的論理学」(1885)ほか多数の著作を発表。1891年、青年チェコ党から推されてオーストリア帝国議会議員となり、民主的連邦制改革を唱えて現実主義運動を展開した。大戦勃発とともに、1915年亡命先のロンドンでチェコスロヴァキア民族会議を組織、独立達成後は1918年10月大統領に選ばれた。議会制民主主義擁護、民族問題解決などに尽力した。

不倫という文化現象 世界史における不倫と現代日本

    古代イスラエルにおいては、必ずしも厳格な一夫一婦制がとられていたというわけではないが旧約聖書からは一夫一婦制が理想と見られていたことがうかがわれる。中世西欧キリスト教世界においては結婚が宗教的な意味をもつものであり、とくにカトリック教会においてはトリエント総会議(1545-1563)以来離婚が原則として認められないことが確認されている。プロテスタント倫理においても結婚は永続性をもつことが確認されている。世界史において有名な話はイギリス王ヘンリー8世の離婚騒動であろう。ヘンリーはキャサリン妃と離婚し、アン・ブーリンと結婚、エリザベスが生れた。これによってイギリスはローマから分離したイギリス国教会を成立させた。その後、ヘンリーは第3の妃ジェーン・シーモアと結婚し、翌年待望の男子(エドワード6世)が生れた。この一連の王室スキャンダルはイギリス・ルネサンス誕生の発端となり、劇作家シェークスピアなどが活躍する華やかな時代を生むこととなった。日本でも文化が爛熟した江戸時代、西鶴や近松が男女の情話を悲しくも切なく描いている。1996年「日本経済新聞」に連載された渡辺淳一の「失楽園」は九木祥一郎(55歳)、松原凛子(38歳)のW不倫の果ての心中物語であるが、日本社会の基底には不倫文化があることをあらためて証明した。年の瀬に起こった桃久仁合戦にジャーナリズムの関心が集中するのも現代における不倫願望の世相の一つの現れとみえる。「不倫は文化だ」という説は正しい。

2010年12月26日 (日)

愛は誰にも裁けない

    この一年、一番印象に残ったニュースは?やはり海老蔵。否、大桃美代子のツイッター爆弾発言だろう。麻木久仁子が弁護士をつけて不倫を否定し、「優しい嘘」を展開したが、大桃も結婚生活は破綻しておらず不倫であったと発言しバトルを展開。今日の山路徹の会見でも「不倫ではないと言っても通用しない。不倫です」とあっさりと認めた。結局、世の中によくある話。でも一番信頼していた夫にだまされた大桃にとっては「残酷な沈黙」だった。知性派タレントが、知性ではなく情に流され、切なさ最高!。これからは知的女性より痴的女性の時代か。大桃が韓国ドラマにはまって韓国に短期留学している間に、麻木との間に交際が進行してしまったのだ。命がけの取材をしている男にひかれる気持ちもわかるし、夫に裏切られてツイッターに書き込んだ女の気持ちもわかる。「これも愛♪あれも愛!たぶん愛、きっと愛!」 でももう終わった話かな。独占したいと思うのが愛だけど、この愛をひきずって生きていくより、別れた3人が茶飲み友だちで炬燵蜜柑、紅白みて除夜の鐘を聞くなんていいよね、ツイッターから始まった大桃騒動は、ちょっと切ない大人の愛の物語だった。ワイドショーのコメンテーターは山路のことをジゴロ(2人から金銭的援助を受けていたため)と批判しているが、2人の女性が山路のことを悪くいうどころか「尊敬している」と今でも言っているのを聞くと、愛情問題は第三者には裁けないと思う。「優しい嘘」は流行語になりそうだ。大桃を傷つけて別れたくなかったという山路の気持ちわかる。「♪嘘は罪じゃない~嘘でもいいの」恋愛のエッセンスが満載の話だ。

中国飲酒詩

    古来人間のあるところに酒があり、また詩がある。飲を好む者必ずしも文を能くし詩を賦するとは限らず、詩客必ずしも酒客たるわけではない。ただ中国には伝統的に陶淵明、李白、杜甫、白居易、蘇東坡などの大詩人が飲酒を高らかに詠う飲酒詩の伝統のようなものがある。杜甫は「李白 一斗 詩百篇」と詠っている。初唐の人、王績も酒好きだったらしく、「常に陶淵明を愛し 醴を酌みて枯魚を焚く」とある。「醴」とは、ひと晩だけかもしてつくった酒。あまい酒。「枯魚」とは干した魚。

呪文

    呪文は唱えることば自体が、意味する事柄、事物、動作を超自然的影響力を与え、唱える者の願望を実現させるという観念に立つため、願望の対象を具体的、比喩的に含むことが多い。

     もっとも知られている呪文は「アブラカダブラ」ABRACADABRAで、アラム語「私が言うとおりになる」の意。

     ハリー・ポッターでしばしば登場する呪文の一つに「ルーモス、光よ」(Lumos)がある。ただし杖がないとできない。忍者の映画で「臨兵闘者皆陣烈在前」という九字護身法が有名であった。「隠密剣士」のブームのとき当時の小学生はほとんど知っていたし、なかには手で印を結ぶ子どももいた。女の子は可愛く「テクマクマヤコン」と「ひみつのアッ小ちゃん」のミラーに呪文を唱えていた。でも意味を知らない子がいた。意味は「テクマク→逆さ読みすると→クマクテ→熊喰って」「マヤコン→ンコヤマ→うんこ山」つまり「熊食ってうんこ山」という意味。水木しげるの「悪魔くん」の呪文は本物。「エロイム エッサイム 我は求め訴えたり」(Eloim,Essaim)は18、19世紀のフランスで流布した魔法書に記されている。  ただし、呪文は一文字でも間違えると効果がない。外国のものは発音が大事。もちろんお経や聖書でも正しく読むとパワーがある。

ジェットコースター忠臣蔵

    忠臣蔵を題材にした映画、ドラマは少なくみても100本以上はあると思う。昨夜放送のABCドラマ「忠臣蔵 その男、大石内蔵助」140分で松の廊下から討ち入りまでを、よく知られた挿話を多数入れて構成したもので、「あらすじ忠臣蔵」という感じだった。スポンサー(ビール、メナード)の要請かも知れぬが主演の高齢化がいささか気になる。とくに田村正和(67歳)、妻りく岩下志麻(69歳)は、実年齢を20年はオーバーする。逆に大石主税は余りに幼く討ち入りは無理に見える。とくに田村は高齢のためか病気のせいか、声がでておらず、聞き取りにくい。ミスキャストが多かった。老齢すぎる山本学の堀部弥兵衛、弱そうな義士たち・尾美としのり、勝村政信など。清純すぎる傾城・石田ゆり子。やはり赤穂義挙をドラマチックにするためには事件の背景をもう少し掘り下げる必要がある。たとえば千坂兵部を登場させて、上杉綱憲(吉良上野介の子)の援護できない事情を描く。松の廊下で脇坂淡路守を登場させて「オノレ、不浄の血で汚すとは何事か」と吉良の額の傷にさらに扇子で殴打する場面、畳替えの畳職人の江戸っ子の心意気などないのは淋しい。こうなると一年かけた大河ドラマでも総花的、ジェットコースター的になってしまう。そこで義士銘々伝というふうに毎回47人の1人づつにスポットをあてたシリーズ物が見たい。

烙印の学者たち 矢野仁一

Img_0029 矢野仁一(昭和34年)

    戦前、東洋史学界の人で、一般読書人に最もよくその名が知られていたのは矢野仁一(1872-1970)であろう。昭和45年1月4日、97歳で亡くなって早くも40年以上が過ぎた。最もよく普及した東洋史の概説書である『東洋史大綱』(目黒書店)も今では古書店で見つけることすらめずらしい。(文庫本なら「アヘン戦争と香港」がある)矢野仁一の名は「世界大百科事典」「アジア歴史事典」にも見当たらない。戦後も長く生きたが、日本の史学界は「矢野仁一」を抹殺した。だが『東洋史大綱』は昭和13年当時の考えがわかるので、同時代性という意味で歴史資料としての価値は高い。

    東洋近現代史を専門とする矢野が満州国建国という事件とかかわることは当然の成り行きであった。「満州における我が特殊権益」(昭和9年)、「満州国歴史」(昭和13年)の刊行。リットン調査団の報告書にある「満州は常に中国の領土である」という一文を歴史的に否定することが歴史家としての努めと信じたのであろう。(満州国建国は一般に歴史的必然と見られていた)矢野の学説「満州は支那本来の領土ではない」は松岡洋右によって政治的に利用され、太平洋戦争が進むなかで、矢野は大アジア協会と関わり、戦争遂行に積極的に協力していく。敗戦による公職追放。昭和27年、京都を去り、長い倉敷での余生。戦後は中華人民共和国を評価している。最後の論文は「理由のわからなぬ中共の文化革命」だった。だが史学界は誰も相手にする人はいなかった。なぜかカルピス(三島海雲)から「古中国と新中国」(昭和38年)と「中国人民革命史論」(昭和40年)の二書が刊行されている。王道楽土の理想国家などというアナクロニズムを擁護した学者には再評価などということは決してやってくることはないだろう。

2010年12月25日 (土)

森川杜園と奈良人形

Photo 森川杜園「羊」

    奈良人形は木彫彩色の人形で、一刀彫のような素朴な刀法の味をあらわした彫りに特色がある。奈良人形の沿革については、詳しいことはわからないが、元禄期に興隆した岡野松寿家'(岡野平右衛門、1628年没)が始まりといわれる。文化期(1804-18818)のころ、9世松寿が能楽の人形をつくるようになってから世に知られるようになった。明治の松寿保徳まで13代続いた。幕末から明治中期にかけて奈良人形の中興の祖といわれるのが森川杜園(1820-1894)である。近代日本彫刻の先駆をなし、松園とその芸術は近年、高い評価がなされている。明治10年、第1回勧業博覧会に「蘭陵王置物」を出品し、鳳凰賞(三等賞)を受けた。この出品に際して事務所に提出した物品製造法には「功用刀数寡少ニシテ風致古雅ヲ愛ス」と記されている。奈良人形の特質として「古雅」があげられる。これは、舞楽、能、狂言などを素材とした写実的形式のうちに理解できるであろう。杜園は能楽や狂言を題材とした人物像や、鹿などの動物像を得意とした。など(参考: 浅井允晶「森川杜園の芸術における国学的展開」史泉51 昭和52年3月)

大桃騒動は現代の後妻(うわなり)打ち

退屈な女より もっと哀れなのは悲しい女です

悲しい女より もっと哀れなのは不幸な女です

不幸な女より もっと哀れなのは病気の女です

病気の女より もっと哀れなのは捨てられた女です

    知性派タレント大桃美代子がツイッターで元夫の不倫相手を実名で暴露したことが話題となっている。下手をすればタレント生命にもかかわる行為である。いったい何が彼女をそうさせたのか?

    事件の発端は、大桃のつぶやきではなく、実は4年前の離婚から始まっていた。別居していたわけでもなく、ただ仕事を一所懸命にしていた大桃に夫山路から突然、離婚話を切り出された。なんども断わりながらもついに不承不承に離婚を承諾した。実は離婚の影で夫と麻木久仁子との親密な交際がはじまっていることを後で知った。三角関係のもつれというよりも、不実なのは山路と麻木である。麻木は男女関係には「やさしい嘘」があると大桃を挑発している。だが金銭で繋がった2人の関係もそう長く続くはずはなかった。この話を鶴屋南北の「東海道四谷怪談」に喩えるならば、山路は民谷伊右衛門で、大桃は岩か。金に困った伊右衛門を見初めたお梅(麻木)が資金援助する。山路伊右衛門は産後の薬といって大桃岩に毒をのませはしないが、一方的に離婚をせまり、ぼろ雑巾のように妻を捨てた。納得のいかない大桃岩は離婚後もわだかまりや釈然としないものが残っていた。あとで山路と麻木に騙されたと知った大桃岩に驚きとともに怒りがこみ上げる。「この恨み、晴らさでおくものか、うらめしや~」江戸から平成へと歳月は流れども、人間の感情や男と女の業は変わらない。中世には夫が後妻と結婚するとき、先妻が予告のうえで後妻を襲う風習があった。竹刀の代わりに、ツイッターを使った現代の「後妻(うわなり)打ち」である。弁護士がしゃしゃり出て、最高裁の判例を持ち出して、不倫を正当化するとは言語道断。庶民感情は大桃の味方だ。12月22日が麻木の会見、24日が大桃の会見。実は12月23日は奇しくも鶴屋南北の命日なのだ。「悪いのは僕です」と御当人は気障に言っていたが、ヒモ体質の男ほど罪深いものはない。世のご亭主諸君、奥さんを大事にしてますか?

2010年12月24日 (金)

大桃美代子ツイッター暴露騒動

    ツイッターで元夫の不倫を暴露した問題でタレントの大桃美代子(45歳)が都内で会見を開いた。ドラマや小説で使いつくされた三角関係のもつれだが三者三様にそれぞれの言い分が食い違っているところが面白い。大桃は世間をお騒がせしたことを謝罪したうえで、「2人の婚姻関係を後で知り、感情を抑えられなかった」と述べている。元夫の山路徹(49歳)と麻木久仁子(48歳)が交際していた時期2006年以前は結婚関係にあった。数日前の会見で麻木は不倫ではないと主張していた。傍にいた弘中惇一郎弁護士も「婚姻関係が破綻している場合は不貞とか不倫ではないというのは最高裁の判例にある」と釈明している。ところが本日の大桃の会見で彼女自身は「当時、山路との結婚生活は破綻していなかった」と述べている。おそらく大桃の心のなかには山路への愛情がまだ残っていたと思う。山路から一方的に三行半を突きつけられなぜ承諾したのか。女性レポーターから質問がとんだ。涙ながら離婚をしぶしぶ承諾したのは自分が仕事が忙しくて家事が十分にできなかったという至らなさからきた負い目であった。日本の男女共同分担はまだ途上で、家事は妻がするという意識が残っているようだ。大桃の言葉からは山路への未練が何度も聞かれた。つい1月前に山路がミャンマーで拘束され釈放されたときも心配で連絡をとっている。それが麻木という自分より3歳年上の同業者に夫を奪われたという悔しさ、腹立たしさ、から感情を抑えきれずに、ツイッターに書き込んだのである。世論は大桃を非難するが、他人のプライバシーを犯したことはいけないことではあるが、むしろ大桃の気持ちを推察するに、彼女こそ被害者であり、情状の酌量の余地はあまりある。大桃は悲しみをこらえて成田空港で携帯に書き込みしたのだろうか。(韓国ドラマのワンシーンみたいでとてもドラマチックだ)麻木はその後、山路に多額の金銭的援助をし、負担となり、一流の弁護士に相談するほどのトラブルとなり、最近は山路と離婚している。麻木の不倫の代償も大きかった。「不倫ではない」とするのは弁護士までつけた麻木のこじ付け、強弁である。不倫と知りつつ、男のやさしさが欲しかったのだろう。むしろ今回の騒動で弁護士同席の会見や不倫を否定するなど主婦層からの麻木への反発やイメージダウンは大きい。麻木も哀れな女であり、非難されることはない。ただし、2人の会見を聞いた印象では大桃に味方したい。

    もう1人の当事者の山路は「ただ一ついえるのは悪いのはすべて僕です」と言っているが、大阪弁でいう「ええカッコしい」である。長身でやさしく、戦場ジャーナリスト、とすべてが揃った男性、他にも交際女性がいても不思議ではない。ただし金はなし。大桃、麻木というイイ女をみんな不幸にしている典型的な「だめんず」タイプ。なぜか世の女性がこのタイプ惹かれのも恋愛の不思議。つまり社会の男女関係はつねにアンバランスなのだ。男と女はモテて悩み、モテずに悩む。男女関係はドロドロであるべし。もっと自分の気持ちに正直になれ。みんなスマートでカッコよすぎる。ツイッターのない時代なら、大桃は髪を振り乱して「このやろう、泥棒猫」と麻木に言っていただろうに。今年、「セカンドバージン」が話題になったが、麻木が鈴木京香ということになろうか。愛人が妻より年上の場合、女にとってもっとも屈辱的なパターンである。山路が20代の若い女性に浮気したというなら、大桃もそれほどキレなかっただろう。相手がライバルの少しランク上のタレントであることに怒りのボルテージはヒートアップしたのだろう。「人生は最高のナンセンス劇」恋愛の王道ともいえる三角関係、むしろそんな悩みをかかえる人がうらやましい。それにしても大桃さん、美人ですね。これまで何度も大桃をみたが、今日の大桃が今までで一番美しかった。女性は世間に注目されると綺麗なるのだろうか。人生の愛憎劇は素晴らしい。老人には恋も金も何もなく、ただ死あるのみ。クリスマス・イブ、恋に悩む若い人たちに乾杯!。

2010年12月23日 (木)

一橋治済と徳川家斉

    徳川第11代将軍・家斉(1773-1841)は吉宗のひ孫にあたる。岩本内膳の娘・お登美は大奥老女梅田の縁で大奥に奉公にあがったが、一橋治済(1751-1827)の目にとまって、安永元年(1772)、一橋屋敷に引き取られた。翌年、豊千代(のちの11代家斉)を生む。10代家治の正室は二女をなすがいずれも早世、侍女お品も貞次郎を生むが夭折する。そのため一橋から豊千代が迎えられて、天明2年(1782)に元服。まだ、若年だっために御三家が後見し、老中松平定信が政務を補佐することになった。定信失脚後みずから政局にあたったが、幕政の紊乱を招いた。反面、文化・文政期には文化の面には注目すべきものを残した。将軍職を世子の家慶に譲って隠居後もなお大御所と称して政治の実権を握っていたのは父親・治済の遺伝かもしれない。

天皇誕生日

    昭和8年12月23日午前6時39分頃、皇太子誕生。7時前に誕生を知らせるサイレンが東京市内18ヶ所で二度鳴った。サイレンが2度なら親王、1度なら内親王と決められていた。昭和天皇にはすでに4人の子がいたが、すべて女子だった。誕生時の身長は50.7cm、体重は3260gだった。名は『周易』から「明仁」(あきひと)とされた。今日、天皇陛下は喜寿に当たる77歳の誕生日を迎えられた。

2010年12月22日 (水)

外国映画の原題

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    外国映画のタイトルをみても意味がわからないことが多い。あとで辞書を引いてやっと理解する。自分の英語力のなさを痛感する。ネット時代で英語のホームページも開くが、やはり視覚的にすぐ理解できないとあきらめてしまうことが多い。高校時代、単語の数を増やすより、英語構文を覚えて読解力をつけろ、といわれたが、入試に無関係となったいま、日常的には看板とか広告とか雑誌の見出しとか、反射的に理解しなければならない。そのためには単語力が必要である。映画の原題から面白そうなタイトルをさがす。「Randam Harvest」直訳すれば「無作為な収穫期」なんとこれが記憶喪失のメロドラマ「心の旅路」。戦時中にこのような甘美なロマンスものをつくっていたアメリカの余裕。「Lovers Must Learn」直訳すると「恋人たちは学習しなければならない」これが「恋愛専科」(1967)この映画のヒットで「殺し屋専科」(1968)、など○○専科という映画が続いた。スザンヌ・プレシェットが綺麗だった。

body odor    体臭

barn     納屋

anchor    錨

boundary     境界

bower    あずまや

channel   経路

tweet          小鳥のさえずり声

monarch     専制君主

dirt      泥

foam     泡

hell      地獄

odor      匂い

realm     王国

residence  邸宅

sphere    天体

stall      売店

strait     海峡

temperature 温度

tomb      墓

incessant       ひっきりなしの

mellow     円熟した

nasty      不潔な

neutral     中立の

naclear     原子核の

preparatory   準備の

radiant      輝かしい

shabby      みすぼらしい

slack       ゆるい

somber      黒ずんだ

sultry       むし暑い

tense       緊張した

tidy         きちんとした

tolerable     堪えられない

tolerant      寛大な

transparent    透明な

unfit         不適当な

萌え寺・了法寺

Photo

    アニメ・漫画規制の都条例が可決されたが、巷ではいま萌え寺が話題になっている。東京都八王子にある日蓮宗の了法寺。寺の入口にポップな美少女イラストの看板がある。「とろ弁天像」が安置されており、若者たちの癒しのスポットとなっている。とろ美というイラストレーターが協力して、住職の何んとかお寺に若者たちが集まってほしいという願いが実現し、萌え寺といわれるようになったという。檀家も了解しているらしいし、きっと日蓮さまも理解してくださるはず。はなまるマーケットで菊池桃子がレポートしていた。桃子にも萌ぇ~!南都の大寺では仏像ブームに便乗して高額な拝観料をとったり、盛大なロックコンサートをしている。坊主まる儲け。

2010年12月21日 (火)

英単語を覚える

Photo_3 世界一の高い標高にある都市エルアト

    昨夜、NHK「地球イチバン」では南米ボリビアのエルアトを紹介していた。矢部浩之、大高洋夫、美輪明宏、兼高かおる。兼高さんも美しいけれども、隣にすごい美人がいる。ほとんど喋らない。ヨンアというトップモデル。韓国人なので日本語をまだ勉強中なのか。語学を習得するって大変だろうなあ。

ambiguous あいまいな

auxiliary 補助

bent    曲がった

conspicuous 人目につく

definite  明確な

dental   歯の

destitute 欠乏した

durable  持続性のある

effective  効果的な

elaborate 入念な

flexible   曲げやすい

haggard  やつれた

homesick 家を恋しがる

男根を切られた美男僧

Photo_2 住蓮房(左)、安楽房(右)の供養塔(近江八幡市千僧供町)

    安楽坊遵西(1171-1207)は法然の高弟である。明恵は「摧邪論」で、法然について「深智ありといえども、文章を善くせず」といっている。法然は文字を書くのが苦手だったらしい。遵西が法然の口述筆記をして「選択本願念仏集」を書いている。俗説としては、美男であった遵西には女性信者が多数集まり、その中に後鳥羽上皇の愛妾であった松虫と鈴虫という美人姉妹がいたことから、密通の嫌疑をかけられ、羅切(男性器を切断すること)のうえ、六条河原で斬首された。ために師である法然は讃岐へ、親鸞は越後へ配流されることになった。浄土宗の受難の背景には、興福寺を中心とした南都北嶺の攻撃が背景にあったことはいうまでもない。

2010年12月20日 (月)

以心斎の墨蹟 「雪」

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    武者小路千家第7代家元・全道宗守・以心斎 宗安(1830-1891)は若年時に患った疱瘡により、失明に至ったが、茶の心は聊かも衰えることなく、かえって心眼が開け、正しい伝統を次代に伝えることができた。以心斎という号は「肉眼を以て看ず、心眼を以て看る」という意である。画像は「雪月花」の3文字を3人が合作したうちの宗安の「雪」という字である。やわらかな真っ白い雪が浮んでくる。

献上された都鳥

名にし負はば いざこと問はむ都鳥

    わが思ふ人はありやなしやと

  伊勢物語第9段「東下り」で知られる都鳥。霊元上皇は歌道に通じた教養人であった。あるとき、都鳥というのはどんな鳥か見たいといった。それを聞いた徳川将軍吉宗は、さっそく隅田川へ行って自分で都鳥を射とめ、それを矢があたったままのかたちで箱につめ、急使をたて上皇のところに送らせた。京都の御所では吉宗から都鳥が献上されると聞いて、もっとりっぱな籠にでも入れて、生きたままの都鳥がくるのであろうと予想していたら、箱がとどき、あけてみたら矢にささったままの死鳥がでてきたので、おおいに驚いたという。

花の吉原百人斬り

日本中どこにでもある秋葉原

 

    2008年に東京秋葉原で起った無差別殺人事件(死者7人)や2001年の附属池田小学校事件(死者8人)のように現代都市では一体何が起ってもおかしくない状況にある。ヒットラーやポルポトなど独裁者による大量虐殺を除くと、個人での大量殺人は航空機爆破のようなテロ行為、カルト教団による集団自殺などである。たとえば金賢姫の大韓航空機爆破事件(死者115人)、南米ガイアナのジム・ジョーンズによる集団自殺(914人)である。殺人犯罪としては、韓国の禹範坤による事件(57人)、バージニア工科大学銃乱射事件(32人)、都井睦男・津山三十人殺し(30人)、フレッド・ワースト、ローズ・ワースト夫婦によるウエスト事件(12人)などである。むかし江戸の遊郭吉原で享保7年5月、血なまぐさい殺人事件が起こった。下野佐野の百姓次郎左衛門が、吉原へ足しげく通ったが、遊女八橋は次郎左衛門をすげなくあしらった。田舎百姓の次郎左衛門は、劣等感も手つだって遂に逆上し、八橋を殺害して捕らえられたという。いわゆる「吉原百人斬り」という事件だが、芝居に脚色され有名であるが、実際に死者が何人でたのかは不明である。警察官の禹がカービン銃を乱射して57人を殺害した事件も、発端は同棲していた女が禹の胸に止まった一匹のハエをとるために叩いたのが原因であった。吉原の八橋が次郎左衛門に何を言ったのか、戯作者の妄想をたくましくするところである。

首引き

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    「首引き」とは遊戯の一種。向き合った2人が輪にした紐を首にかけて引っ張り合い、引き寄せられた方を負けとするもの。この遊びは世界中にあり、中世ヨーロッパでは「首引き猫」という。顔に血がのぼり、痛みで顔をゆがめているその姿が、向いあって唸り声をあげている猫に似ているところからその名がつけられたらしい。

恐怖の有名税

    いま日本で一番多く有名税を支払っている人は歌舞伎界のプリンス、市川海老蔵だろう。もちろん有名税というものが実際に金額として数字で示せるわけではない。だがある事件を契機としてマスコミなどの注目を浴びて、それによってプライバシーが阻害され、社会的信用を失い、CM契約が無くなり、イメージとしてのマイナス要因が生じているのが事実である。現時点では海老蔵は暴行を受けたという被害者であるにもかかわらず、謝罪と反省の日々を過ごしている。身から出た錆とはいえ、あまりに高い有名税である。有名税による一番高い代償を支払った人は元イギリス皇太子妃ダイアナであろう。結婚、離婚、そして衝撃の交通事故死。パパラッチによるストーカー的な行為によってかけがえのない命という途方もなく高い税を払わされた被害者である。

   有名税の起源は明らかではないが、明治になって新聞が発行されるようになると、政治家や小説家の名声を慕って、来訪し、弟子にさせろといったり、迷惑行為をされることが出るようになった。「有名税」の言葉そのものは比較的新しく、1991年以前の広辞苑には無いが最新版には収録されている。

2010年12月19日 (日)

車谷長吉の小説家論

    朝日新聞の「悩みのるつぼ」という欄に、「小説が書きたい」という71歳の老人に対して、車谷の回答が面白い。(朝日新聞2010.12.18)①小説は善人には書けない②小説を書くには覚悟がいる③多趣味な人には小説は書けない。作家になること以外のすべてのことを捨てる、などハードルが高い。ここでいう小説とは主に私小説、純文学系を前提として論じているのであろうか。現在はケータイ小説やライト・ノベルズのようなものもあり多趣多様なので作家になる人の経歴もまちまち。水嶋ヒロや爆笑問題の太田光、劇団ひとり、さだまさし、なかにし礼、中村敦夫、高橋洋子、青島幸男、俵万智、乙武洋匡など専門家でなくとも小説家といえる人はいる。ただし、タレントでも小説が書ける人、書けない人がいる。その差はどこにあるのだろう。車谷は「頭のいい人は書けない」と論じている。「人には真・善・美・偽・悪・醜の六つの要素が備わっている。頭のいい人は偽・悪・醜について考えると頭が痛くなってしまう」という。実例として和辻哲郎や柳田国男が小説を書きたかったが成功しなかったことをあげている。そういえば思いあたる。高浜虚子も小説家としては失敗したし、歴史家の家永三郎の小説なども読む人がいるだろうか。小説は「虚」によって「実」を破ることである。やはり嘘をつくことでテーマが見えてくる。「頭のいい人は小説は書けない」といったが、では漱石や鴎外は頭が悪いのか、そうではない。車谷はこれらの人は「頭の強い人」と分類している。「強い」という比喩に説明はないが、頭が痛くならずに、人間の苦悩や悪を突き詰めて考えることのできる人なのであろう。既知の事実を追求する雑学博士は時間と根気さえあれば可能であるが、やはり小説を書くということは向き、不向きがあるのだろう。その証拠に国語で作文の課題はあるが、小説を書くという課題や宿題はない。小説を書くことは誰にでもできることではないのだ。

世界女優史 リリアン・ギッシュ

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    リリアン・ギッシュ(1896-1993)は無声映画時代の名花として、「国民の創生」「イントレランス」「散り行く花」「東への道」「嵐の孤児」など映画史に残る作品に出演している。晩年、「八月の鯨」(1987年)でベティ・ディビスと老姉妹を演じて話題になった。アメリカ映画協会の「最も偉大な女優」(1999)で第17位に選出されている。生涯独身であった。

  テレビサスペンス「ヒッチコック劇場」第64話「毒をもって毒を」でも特別ゲストとして出演している。60代後半の彼女は瞳が往年の名残りをとどめている。「ヒッチコック劇場」の掉尾を飾るものとして往年の大女優を起用したものであろう。

新しいということと流行病

    師走もあと13日で終わる。年末恒例のレコード大賞や紅白ももうすぐ。新聞では2010年の回顧の論評。朝日新聞によると年間ベストセラー第1位は「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーのマネジメントを読んだら」である。今年のランキングのキーワードは「学び直し」。手近なノウハウ本ではなくより深い知識、つまり教養的、哲学的に知に触れたいという傾向が強い。小説部門は村上春樹の「1Q84」、冲方丁「天地明察」、湊かなえ「告白」、吉田修一「悪人」、桐野夏生「東京島」など映像作品の原作が多く、文学的には低調な1年だった。そんな中で識者のイチオシは星野智幸「俺俺」、朝吹真理子「流跡」。話題の本というのは、つねに新しさをもっている。読書家はこれまでの実社会の経験をへているので、新しさにインタレストを感じるのであろう。しかし一般の読書家はむしろ発行年数を相当に経過した作品であっても読まず嫌いということがあるから、手垢のついた名作物を読んでも感銘をうけることが多い。教養書では「学び直し」のブームで池上彰や斎藤孝の本がよく売れるが、「わかりやすい」というだけで新鮮味は乏しい。オスカー・ワイルドは「流行とは我慢のならない醜さの一種である。だから半年ごとに流行を変える」と皮肉たっぷりに言っている。流行をもっとも端的にあらわすのは歌謡曲であろう。かつて流行歌といった。レコード大賞もCDの時代となっても「レコード」とは昭和臭いにおいがただよう。朝日新聞のレコード大賞の受賞曲のランキング・ベスト3は「ルビーの指輪」「喝采」「また逢う日まで」だった。なんと昭和臭いことか。EXILEなど平成のレコード大賞はあまり心に残らないらしい。平成のベストセラーも10年後も読まれ続ける本はどれだけあるのだろうか。

 

 

酒は静かに飲むべかりけり(牧水)

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    今日は酒と祇園をこよなく愛した歌人・吉井勇(1886-1960)の没後50周年の命日。八岐大蛇、酒呑童子、堀部安兵衛、赤垣源蔵、雷電為右衛門、松平忠直、国定忠治、平手酒造、森の石松、芹沢鴨、大村益次郎、黒田清隆、大町桂月、横山大観、若山牧水、吉井勇、張飛、陶淵明、李白。これらに共通するものは何か?呑ん兵衛、酒飲みである。大トラの失敗談は世に五万とある。牧水や吉井勇のように粋な飲み方はできないものか。いまテレビのワイドショーでは連日、市川海老蔵の暴漢殴打事件を放送しているがあれからもうすぐ1月となる。いま反省と謹慎の毎日を過ごす海老蔵だが、事態は元暴走族リーダーの示談を拒否して法廷へ持ち越されることとなった。SMAPの草薙剛が公然わいせつで逮捕された事件や中川昭一の酩酊会見というのもあったが遠い昔のように思えてくる。年の暮れ、酒は家で静かに飲むのがよさそうだ。

2010年12月18日 (土)

郡上凌霜隊の悲劇

    慶応4年4月10日、江戸本所中ノ橋の料亭「菊屋」に集結した一団の武士が船に乗り込み、暗い海上へ消えて行った。総勢47名、17歳の朝比奈茂吉を隊長に、53歳の坂田林左衛門を副長に仰ぐ郡上藩の精鋭「凌霜隊」であり、一行は会津若松鶴ヶ城応援のため編成されたものであった。下総の行徳に上陸。ここから船で江戸川をさかのぼり、関宿を経て前林に上陸する。小山の初陣から5ヵ月余で転戦に転戦を重ねて鶴ヶ城に入った。城下は既に西軍が侵攻しており、城は籠城戦にはいっていた。凌霜隊は開城の日まで西出丸の防衛にあたった。会津開城後は囚人同様にして故郷の郡上八幡に護送され、禁錮の処罰を受けて入牢、死罪を言い渡されたのだったが、明治3年2月に釈放された。しかし赦免はされても世間の目は逆に冷たかった。朝敵の汚名は、世の中が落ちつくにつれてますます拭い得ぬものとなり、いつしか凌霜隊の名は歴史から消えていったのである。

名君だった松平忠直

Photo 大分市の浄土寺にある忠直の墓(中央) 愛人お蘭(左) 娘おくせ(右)

    福井第2代藩主・松平忠直(1595-1650)といえば連日酒色にふけり、領民を次々と惨殺し、家臣の妻を奪い、笑わぬ愛人を喜ばせるために妊婦の腹を割いたという暴君として知られる。とくに忠直を有名にしたのが菊池寛の『忠直卿行状記』(1918)。さらに海音寺潮五郎も『悪人列伝』の中で「日本史上類例のない暴悪な君主」と書いている。実際の歴史資料でも参勤交代の令に服そうとせず、江戸出府の時期がきても福井から出立しなかったり、あるいは国は出たものの、途中で狩猟に興じて出府の遅延をはかったりしたとある。幕府もついに元和9年春、突如忠直に隠居を明治、同時に豊後の萩原わ配流を決定した。忠直は1650年、大分市郊外の津守の館で病死している。ところで忠直の行状の中には、中国殷周の帝王の故事と似ているため作り話であろう。鯖江市の長久寺には、忠直が鳥羽野開拓につくしたとして土地の人たちが建立した宝篋印塔が残っている。実は忠直は名君だったのではないだろうか。

Photo_2 宝篋印塔(鯖江市・長久寺)

若者よ、都会を捨てて田舎へ行こう

   超就職氷河期が続いている。といっても、それは都会の優良企業へ就職や正規職員の話であって、地方は人口減少や労働力不足が深刻な問題となっていると聞く。もちろん都会で育った若者が全く知らない土地で、就農することは勇気のいることだろう。しかし座して待っていても仕事はやってこない。「自分の人生を終わりにしたかった」と考えている若者にいいたい。包丁を振り回しても何の解決にもならない。アルバイトでもいいから農林水産にチャレンジしたらどうか。まずレンタルビデオで借りて「深呼吸の必要」という沖縄を舞台にしたサトウキビを刈る若者たちの映画をみて労働のイメージをつかむ。そしてネットで求人情報をさがし、希望先を申し込む。または相談センターへ行く。リック一つでGO!人生は大きな深呼吸をして新しいことにチャレンジすることが必要だ。

ヌンク・ディミィティス

   イエスが生れて40日経ったときに、ヨセフとマリアは幼子イエスをエルサレムの神殿へ連れていった。シメオンという老人はイエスを待望のメシアと認めて、腕に抱き、祝福した。そのとき彼が歌った「今こそ僕を安らかに去らせたもう」という有名な賛歌は、「ヌンク・ディミィティス」(Nunc Dimittis)と呼ばれる。

    主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために教えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです

    またアンナという84歳になる女預言者がいた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき近づいてきて、幼子が神の約束された者であると語った。

植田正治写真美術館

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    男性誌「GQ」では今年最も輝いた男として、秋元康、香川照之、白鵬、孫正義、西沢立衛、野口聡一、本田圭佑、向井理の8人を選んだ。ほかには石川遼、イチローなど色々いるけど、女性ならやっぱりあの人。ましゃ様。NHK大河ドラマ「龍馬伝」で450億円の経済効果をもたらした男・福山雅治とはどんな人なのだろうか。いつまでも青年の面影を残すがすでに40歳をこえて、ますます格好よくなっていく龍馬・雅治に惚れ直した女性も多いのではないだろうか。シンガー・ソングライター、俳優、ラジオDJ、ギタリスト、音楽プロデューサー、作詞家、作曲家、そして写真家。個展も開きプロ級の腕。その福山が「人生の師」と仰ぎ敬愛する写真家が植田正治(1913-2000)である。植田は、国内はもちろんのことフランスをはじめとする諸外国で高い評価を受けている写真家だそうだ。鳥取県西伯郡境町(現境港市)で生れた。鳥取といえば砂丘である。植田の写真には、空や砂浜そして砂丘を背景として、被写体をまるでオブジェのように配置した演出手法の作品を多数残している。写真芸術のことは分からないが、植田正治写真美術館は大山の麓に位置するところに1995年に設立された(設計・高松伸)。

東方朔は九千歳

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    年の瀬もおしせまりまして、今年もあと2週間となりました。そこで厄払い。「鶴は千年、亀は万年、浦島太郎は八千歳、東方朔が九千歳、三浦大介百六つ」といいます。仙人をもちだせば、房中術の祖、彭祖は800歳だった。かの達磨大師は150歳。モーセが120歳。日本人では熊襲を征討した景行天皇が143歳、垂仁天皇が139歳、孝安天皇が137歳。天海が107歳。確実なところでは泉重千代が120歳。100歳代の長寿者をみると画家や彫刻家が多い。平櫛田中(彫刻家)107歳、小倉遊亀(日本画家)105歳、片岡球子(日本画家)103歳、北村西望(彫刻家)102歳、奥村土牛(日本画家)101歳、直原玉青(日本画家)101歳。先日亡くなられた童画家の林義雄は104歳だった。林画伯は100歳を過ぎても作品を発表されていたとか。寿命長久をめざすなら絵を描くことをおすすめします。鶴亀、鶴亀。

2010年12月17日 (金)

イエス・キリストの生い立ち

    「イエス」とは、ヨシュアというへブル語名のギリシヤ語の形で、「主は救い」を意味している。これは、マリヤから生まれてくる男の子の名を「イエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」(マタイ)という主の使いによって与えられた解釈と合致している。

    「キリスト」とは、へブル語の「メシヤ」のギリシヤ語訳で、「油注がれた者」という意味である。旧約時代においては、神は人を特定の聖職に召された時、その任務を遂行するために必要な御霊と力を授けられたことの象徴として、油を注いで任職した。一方、イスラエルの民は、その歴史を通じて王、祭司、預言者の職を一身に兼ね備えた救い主を待望してきた。こうしたことを背景にして、「メシヤ」は神によって立てられた救い主に対する術語として用いられるようになった。復活後の使徒教会において、メシヤのギリシヤ語訳である「キリスト」はイエスに対する呼び名として広く用いられるようになった。

    イエスの生い立ちについて、特にマタイとルカの福音書が伝えている。マタイはどちらかというとヨセフの立場から描いており、ルカはマリアの立場から描いている。しかし、二つの福音書の記述には一致点も多く見られる。イエスがベツレヘムで生まれたこと、ヨセフの許婚者であったマリアより生まれたこと、ダビデの家系であること。そして特に注目すべきことは、マリアがまだ処女であった時に、イエスは聖霊によって宿り、神の御子として生まれたという事実を一致して伝えていることである。

シメオンの祝福

Photo_4 「抱神者シメオン」アレクセイ・イェゴロフ画

    シメオンは幼子イエスを抱いて賛美し、こう言った。「この幼な子はイスラエルの大勢の人をたおれさせたり、立ち上がらせたりする運命を持っています。また、大勢の人から反対される運命も持っています。それらは、大勢の人が心のなかでこっそり思っていることが、はっきりと、おもてにあらわれるようになるからです。あなた自身も、つるぎで胸をさされるような思いをすることでしょう。」

  抱神者(ほうしんしゃ)シメオン(Simeon)は「ルカによる福音書」に記された幼子イエスを抱き上げた人物。

正太の初もうで

    むかし、むかし、あるところに、正太という若者が母親とふたりで暮らしていました。正太は親孝行者でしたが、家が貧しくて、働いても暮らしは楽にならず、そのため苦労ばかりしていました。ある年の暮れのことでした。正太は、「せめて正月ぐらい、お母さんに好きな酒と餅ぐらい食べさしちゃりたいもんじゃ」と思いました。一夜あけて、正月元旦です。正太は福神様へ初もうでに出かけて行きました。正太は心をこめてお祈りをしました。すると、後からひとりの老人が正太を呼び止めるのです。

「わしに用かいの」

正太は、見も知らない老人なので、いぶかしそうにたずねました。

「あんたに、こりょうやろうと思うての」

老人はにこにこ笑いながら、袋を正太に渡しました。

「こりゃあなんかいの」

    正太は不思議に思って、その袋を受け取ったものかどうかまよってますと、老人はそれにかまわず、「この袋は宝袋ゆうて、不思議な袋じゃあ。大事にせえよ」と言ったかと思うと、煙のように姿を消してしまいました。正太は手に持っていた一文銭を一枚、その中に入れてふところへしまっておきました。家に帰った正太は、その袋を取り出してお母さんに見せました。するとどうでしょう。たった一文銭一枚しか入れなかった袋の中には、黄金色に光る大判が一枚あるではありませんか。正太もお母さんもびっくりしてしまいました。そして、いったん閉じた袋をもう一度開けてみました。すると今度は、大判が二枚になっているのです。袋はほんとうに宝袋で、二枚のお金を入れれば四枚、四枚入れれば八枚というふうに、だんだん増えていくのです。あくる日の正月2日、正太はこうして開くたびに増えていった大判を百枚以上ももって、福神様に行き、老人の姿をさがしましたが、見当たりません。三日も五日も、毎日、福神様にお参りして老人をさがしましたがみつかりませんでした。それは神様が正式に授けてくださったものだったのです。正太は初もうでのおかげで、しあわせな毎日を過ごすことができたということです。(広島の民話)

イエスの裁判

    ゲッセマネで捕らえられたイエスは、大祭司カヤパのところに連れて行かれ、彼に死刑を宣告する目的で急遽召集された最高法院サンヘドリンの裁判にかけられた。その場で多くの偽証者たちが、イエスに不利な申し立てをしたが、どれも有罪の決め手にはならず、イエス自身は何をいわれても押し黙ったままでいた。だが最後に、大祭司があなたは神の子キリストなのかどうか」と尋ねると、イエスは答えていった。「あなたの言うとおりだ。あなたがたは間もなく、人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗っているのを見るであろう」

    自分をはっきり神の子と認めたこの返答によって、イエスの死刑は決定され、人びとは顔に唾をかけたり、目隠しをしておいて殴り、「キリストなら、打ったのが誰が当ててみよ」といったりして、彼を辱めた。そして夜が明けると、ローマ官憲の手で死刑を執行してもらうため、イエスを縛って、イエスを縛って引き立てて、総督ピラトの前に連れて行った。

    ピラトの尋問に答えてイエスは、ユダヤ人の王と自称していることは認めたが、そのほかは不利な証言をされても一言も口をきかず、ピラトには、イエスは明らかに無罪だと思われた。そこで彼は、毎年過越の祭りに囚人をひとり特赦する慣例を利用してイエスを釈放しようとし、特赦の要求をしにやっていた群衆に「おまえたちは、ユダヤ人の王を許してもらいたいか」と尋ねた。しかし、祭司長らに煽動された群衆は、暴動と殺人の罪で投獄されていたバラバという男の赦免と、イエスの処刑を要求し、「バラバを許せ。その人を十字架につけよ」と叫びたてた。その猛烈な勢いを見たピラトは、水で手を洗って見せて、「この人の血について、私には責任がない」と宣言した。すると群衆は声をそろえて「その責任は我々と我々の子孫の上にかかってもよい」と叫んだので、ピラトはついに、イエスを処刑するため、兵士たちに引渡した。

2010年12月16日 (木)

キス代1万円

    ベルリンオリンピック200m平泳の金メダリスト兵藤秀子(前畑秀子)は戦後、夫と死別、岐阜県の女性文化相談所長をしていた時の話。(昭和24年ころ)23歳の女性から悩ましい相談を持ち込まれた。結婚を口約束した公務員に交際中の女性がいることがわかったので、慰謝料として5万円もらいたいという相談だ。ただ2人はキスを一度かわしただけであり、兵頭所長は1万円で折り合えないかと提案、話は無事解決した。金メダリストの大岡裁きだった。

2010年12月15日 (水)

どこへ消えたガールポップ達

    日テレ系音楽の祭典。幕張メッセイベントホールからの生中継。浜崎あゆみは「Love song」を歌った。浜崎は2001年から始まった同番組を連続出場しているという。あの頃、女性ポップガールが脚光を浴びたが女性シンガーの競争は熾烈である。SPEED、安室奈美恵、小室ファミリーが全盛だった。鬼束ちひろ、小柳ゆき、矢井田瞳、鈴木あみ、華原朋美、相川七瀬、モー娘。島谷ひとみ、hitomi、持田香織、鈴里真帆、八反安未果、椎名林檎、久宝瑠理子、みんなどうしているのだろう。ガール・ポップの草分けは沢田聖子か。フォーク系から出発した沢田は学園祭などで活躍し、女性シンガーソングライターとして80代後半に確立。谷村有美、野田幹子らとともにガール・ポップという言葉が生れた。その多くはいまもミュージシャンとして活動しているケースが多いが、宇田多ヒカル、大黒摩季、綾香、中島美嘉などトップ・アーティストの活動休止が続出。大塚愛は産休。この隙に路上ライブしていた植村花菜、いきものがかり、が華やかなステージで大声で歌っている。女性シンガーの新旧交代は早い。

2010年12月14日 (火)

天野屋利兵衛は実在したか

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    「忠臣蔵」に登場する天野屋利兵衛は商人ながら義に厚く、赤穂義士討入りの際、武器や武具の調達をして、義士を陰で支援したことで芝居や映画などでよく知られた人物である。仮名手本忠臣蔵10段「天河屋」では天河屋義兵衛として登場するが、大坂の商人・天野屋利兵衛がモデルであろう。ただし天野屋利兵衛(1661-1733)は実在したが、赤穂事件と関係したかは不明である。

    ただしネットなどで調べると、さまざまな巷説があって面白い。第1は、5代目天野屋利兵衛は経営に失敗したが、赤穂塩で豊かな浅野藩が「赤穂塩」の販売を天野屋に取り扱わせるようにして援助した。それで経営再建した天野屋は、商売繁盛して、浅野家に恩義を感じていたという説。第2は、岡山県英田郡西粟倉村は天野屋利兵衛潜居の地といわれる。西粟倉村は古くから砂鉄の産地で、備前長船の刀鍛冶勝治はこの地で刀剣を鍛えた。天野屋は良質の鉄の産地で鉄を調達し、三木の刀鍛冶で鍛えて、義挙に必要な武器を揃えたという説である。西粟倉村の話は昔は観光パンフレットなどにも紹介されたこともあるが、昨今、寺田屋にもみられるように、史実と虚像の論議も厳しく、この伝説も抹殺されるかもしれない。天野屋と赤穂塩を関連させた説も歴史のあと知恵のようで、史料や文書があるわけでない。「天野屋利兵衛は男でござる」の名セリフや神崎与五郎の馬喰丑五郎堪忍袋(韓信の股くぐりのパクリ)など「忠臣蔵」にはそういった類の俗説も多いが、巷説として温存してもいいのではないだろうか。

イプセンはなぜノーベル賞を受賞しなかったのか?

   最近はノーベル賞とか金メダルとか文化勲章とか権威ある賞の話題が多い。このような賞というのはだいたい20世紀の設立されたものであるが、初期の人はかならずしもこのような権威に対して有難く頂戴する人ばかりではなかったようだ、夏目漱石は博士号すら頑なに固辞した話は有名である。明治人の気骨とでもいうべきであろうか。たとえばノーベル賞のなかでも一般人でもなじみのあるのは文学賞である。シェリ・プリュドム、モムゼン、ビョルンソン、ミストラル、エチュガライ、シェンキェヴィチ、カルドゥッチ、キップリング、オイケン、ラーゲルレーヴと1901年から1909年までの10人の受賞者のうちで、いま日本で読まれ続けるのは「クオ・ヴァディス」のシェンキェヴィチと「ジャングルブック」のキップリングぐらいではないだろうか。当時まだ存命だったトルストイ(1910年没)、チェーホフ(1904年没)、ゾラ(1902年没)、イプセン(1906年没)などはなぜ受賞しなかったのだろうか。とくにイプセンは「人形の家」(1879)の傑作を残し、世評も高く、鴎外や漱石の小説にもでてくる。女性解放運動にも大きな影響を与えた。イプセンと同時代のノルウェーのビョルンソンはノーベル賞を1903年に受賞している。つまりはノーベル賞は穏健な近代理想主義で社会通念に反するものは排除していたのであろうか。トルストイも無政府主義な思想が不利になった。公平な賞などはこの世に存在しないのである。

吉良邸討入り

    吉良邸内の斬り合いは終わったが、肝心の吉良義央の姿が見えない。そのうち炭小屋とおぼしき場所に人の気配がした。中から二、三人飛び出してきた。間十次郎が槍で突くと、武林唯七が、残る一人を斬り捨てた。引きずり出してみると白無垢の小袖をつけている。これこそ仇の吉良上野介義央である。大石内蔵助が調べると、確かに亡君の刀傷の傷あとがあった。間十次郎は内蔵助の指図でその首を打ち落とした。主君の刃傷以来、約半年を経てその仇敵・吉良義央を討ち、主君の鬱懐を晴らした浪士たちは感極まって落涙したといわれる。

時はきたれり大石が

四十七士を引き連れて

雪の夜道をひたひたと

めざすは本所松坂町

手筈通りの采配に

吉良の屋敷の表裏

門を掛矢で突き破り

雄叫び上げてなだれ込む

天の助けか雪明かり

忠義のあかし吉良の首

ものの見事に討ち取りて

男子の本懐遂げにけり

艱難辛苦浪々の

身は報われて男泣き

向かうは高輪泉岳寺

赤穂浪士の晴れ姿

ここに残して伝えける

「大たこ」の業務妨害に思う

   「ここが日本一悪い店か」と因縁をつけて、雨水のついた傘を振り回して「たこやき」を販売できなくした大阪市職員が逮捕された。公務員は法をかざして自らが正義だとおもっているのだろうか。たしかに市有地であり法的には明らかに不法占拠だが、1972年の開業以来という。長年不法占拠状態を放置してきたこれまでの行政怠慢の責任はどうなるのか。もちろんこういう話は世の中に数えきれないほど多くあり、法律で解釈されるものであろう。しかし法律だけでなく、人倫の基本として考えるならば、古典には社会通念にはとらわれない別の考えも存在することも許されるだろか。

    たとえば、こんな話を孔子は述べている。孔子が葉という小さな国に訪れた時の話である。葉公は自慢していった。「私の国には「正直者の躬」という若者がいる。直躬は、父がある日どこからともなく迷いこんできた一匹の羊を誰れ知るまいと思って、自分の家の羊の群れの中にそっと加えて素知らぬ顔をしていた。ところが、直躬は、これをうかがい知っていて、みずから役人に訴え知らせた。こんなことはなかなか出来るものではないが、ほんとうに正直すぎるほど正直な立派な男である」と葉公は話した。

   この話を聞いた孔子は、「私は王さまとは少し考えが違います。なるほど、その躬という方は、この上もなく正直な方のように思われますが、はたしてその方はそんなことまでして心安らかなものがあるでしょうか。同じ家族の一人として、社会人として、また道徳的に考えてみて、それで自ら満足が得られるのでしょうか。私の考えでは、そんな場合には、父は子のために隠し、子は父のために隠す。それは理屈の上では割り切れないものが残りましょうが、かえって、そうした生活態度の中にこそ、直そのものがあるような気がしてなりません」と言われた。『論語』子路18にある有名な節であるが、原文は漢字44字の短いものながら、意訳して記した。この話を小学生にしてみても、迷った羊を正直に届けた躬がえらいというだろう。ジョージ・ワシントンの折った桜の木の挿話のように単純明快に。ところが孔子の説くところは奥が深い。この挿話でみるかぎり孔子は法律よりも人間の自然の情を優位においている。孔子が唱えた儒家思想よりも、国家は法家思想を採用したがるものである。当世も規制、規制の時代である。法律至上主義の現在においてこの孔子の説くところは容れられないだろうが、親子の自然な感情を大事にするところに社会が成立する。「大たこ」を威力で撤去させようとする役人の暴走は、現代人が陥りやすい誤った行動を代表しているように思う。公に抵抗する「大たこ」の味は反骨の味、庶民の味である。もちろん不法占拠を容認せよと言っているわけではない。ただし犯人は「悪いのはどっちや」と怒鳴っていたことから、日ごろから不法占拠を憎む感情が強かったのであろう。立ち退きとは無関係の部署にいる市職員が酔った勢いとはいえそこまで関心をもつのは法令遵守しない者には暴力をもってしても従わせるという異常心理が強く作用するからであろう。だがたとえ店が違法であっても平穏に営業しているのに公務員が個人的感情をもって威喝し暴行すれば、業務妨害は明らかであろう。行政マンは法律に基づき行為すべきものであるが、人としての自然な感情を培うことが肝要であろう。

悲運の人、吉良義周

    吉良左兵衛義周(1686-1706)は吉良上野介義央の養嗣子。だが上杉綱憲の次男であるから、実際は義央の孫である。4歳のとき養子となった義周は、義央が刃傷事件で高家の職をやめ隠居したので、その後を継いだのである。討入りのときは18歳で、武器をとって応戦したものの、武芸は不得手であり、不破数右衛門に斬られて、そのまま気絶して、一命は助かった。翌日、幕府に事件の状況を書面で提出している。

   2月4日、吉良邸に討入りした四十七士の処分は切腹と決定した。同時に義周は家禄没収、信濃国高島城へ配流となった。理由は討入り当夜の行動が不届きであったからである。現在の感覚ではわからぬ、武家社会特有の道理があるのだろう。ともかく18歳の若者にとっては酷な処分であった。

    配流先の信濃高島藩の藩主は諏訪忠虎である。義周は2月16日には到着した。義周の見張りを担当した大目付は、義周の自殺を案じて、小刀はもちろん扇子や鼻紙の携帯をも禁じた。また、庭の小石もすべて拾って隠したという。高島城の冬の厳寒に慣れないためか義周は病に伏せる毎日だった。生来から虚弱な体質であったとも伝えられている。宝永元年には実父の上杉綱憲と義央夫人・富子が死去した。相次ぐ身内の不幸が精神的にこたえたのであろうか。義周は宝永3年正月20日に亡くなった。2月4日には高島城外の法華寺に土葬された。奇しくも2月4日は義周が配流の申し渡しと、赤穂義士の切腹が行われた日である。高島城南丸に幽閉されること3年、若き高家の旗本はついに江戸の地を踏むことなく21歳で没した。ここに足利義氏以来500年近い年月の由緒ある三河吉良氏の嫡流は絶えたのである。

  なお、ほとんどの人名事典では、この義周を「よしちか」と記しているが、義周が信濃高島藩に預けられた際の記録「矢島八兵衛満村覚書」には「ヨシマサ」とルビがふってあるので、あるいは「よしまさ」と読んでいたのかもしれない。

ブーリン家の姉妹と浅井三姉妹

    ナタリー・ポートマンとスカーレット・ヨハンスンの「ブーリン家の姉妹」(2008)。アン・ブーリン(1507-1536)とメアリー・ブーリン(1499-1543)とはどちらが姉であるか異説がある。映画ではアンが姉としている。姉のアンはヘンリ8世との間にエリザベスを産んだものの、王が待望する男子を出産しなかったため、その寵愛を失い、姦通罪の汚名を受けて処刑された。アンには指が6本あったといわれている。女たちの戦国はどの国でも似ている。来年から始まるNHK大河ドラマ「江(ごう)」浅井長政・お市の方の3人の娘たちの物語。長女は茶々(豊臣秀頼の母淀殿)、次女は初(京極高次の室)、三女はお江(お江与、おごよ、小督ともいう、将軍秀忠の正室)。女性が主人公の物語が流行なのだろう。

2010年12月13日 (月)

囲炉裏

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百年の煤も掃かずに囲炉裏かな 虚子

「いろり」は日本の民家の暖房と炊事を兼ねた炉で「ひじろ」「いじろ」「じかろ(地火炉)」ともいう。東北地方では「ひほど」「しびと」、長野・山梨・神奈川県地方では「ひじろ」「ひたき(比多岐)」「ひたきじろ」、九州では「ゆるり」「ゆるい」というとろが多いが、熊本県は「じろ」「いしろ」という、北陸地方は「えんなか」「いんなか」で、火のあり場を意味する名称や人のすわり場を意味する呼び名が多い。実際に「いろり」という地方はまれで、語の意味も明らかでないが、公認された名称になっている。いろりの周囲の座席には一定の決まりがあり、昔は厳守された。土間からみて奥正面が「よこざ」または「よこざしき」で家長の席、その右か左で炊事場に近い方が「かかざ」「けんざ」「こしもと」「けどもと」「なべざ」などと呼ばれ、主婦の座とされる。その相向いが来客の席で、「きゃくざ」「よりつき」などと呼ばれ、「よこざ」に対する下座は、「きじり」「きのしり」「よめざしき」「ばんどこ」などといって、雇人や嫁の席にあてられた。そこにはきびしい家父長制の存在がうかがわれる。

9738  +36

9829  +91

9847  +18

9756  -91

9537 -219

9584  +47

9589  +5

9610  +21

6歳少女が孔子平和賞?

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    中国はノーベル賞に対抗して急遽設立された「孔子平和賞」の授賞を9日、北京で行なった。ところが受賞者の連戦は受賞を拒否、代理で連戦とは無関係の少女がトロフィーを受け取ったという。このニュースは世界中から失笑を買ったが、なぜこの少女が受け取るようになったのか、事情がよくわからない。写真でみても少女は不快な表情というか、あまり嬉しくないような顔にみえる。受賞の意味などもさっぱりわからない様子である。なんとも変な出来事だ。

大体を読めるようになるには

    常用漢字は中学で「大体を読む」、高校で「主なものは書ける」ように定められている。新たに196字が追加され、新常用漢字が2136字になったので生徒も先生もたいへんだろう。入試などで難しい漢字が出されるかもしれない。だがブログ記事を書くとき、この漢字は常用漢字かそうでないか判別することは面倒である。常用漢字以外の漢字もふりがなをつけずに表記しますので悪しからず。たとえば「唐詩選」465首のうち一番好きなのは、杜甫の「春望」。「烽火三月連なり、家書万金に抵る」の「烽」は常用漢字にはない。「のろし」という意味で、熟語は「烽火」ぐらいしか思いうかばない。でもスラスラと読めたらいいだろう。

 じつ   胒懇 じつこん 

 ごう   毫毛 ごうもう

 わい  卑猥 ひわい

 りん   稟議 りんぎ

架空人名

    コンサイス日本人名事典は架空人名もかなり採録している。例えば多羅尾伴内、金田一耕助、丹下左膳、猿飛佐助などである。人名事典に実在の人物しか採録しないとすれば、弁慶など物語に登場するが半ば伝説化している人物など選択がむずかしくなるからであろう。広辞苑も一応は架空人物を載せている。光源氏という項目がある。しかし多羅尾伴内のような人物はないので、積極的ではなさそうだ。実用性を追求するならば、星飛雄馬、花形満、古代進、初音ミク、ジュリアン・ソレル、エイハブ、スカーレット・オハラ、サラ・コナーズ、リチャード・キンブルという架空名が事典として必須だと考えるのだがいいがであろうか。

痛車

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    アニメやケームに関連するキャラクターやロゴをかたどったステッカーを車に貼ったりする。初音ミクなど萌え系美少女キャラクターなどをモチーフにすることが多く、ドラえもんや鬼太郎などのアニメは痛車(いたしゃ)には使われない。だがオタク狩りと称される痛車狩という事件も起っている。

アジェンダ

   今年の流行語の一つに「アジェンダ」があげられていた。アジェンダ(agenda)とは、「実施すべき計画」あるいは「会議の議題」や「協議事項」「議事日程」などをさす。コンピューター分野では、現在進行の活動を優先順位で並べたリストの意味で用いられる。本来の意味は「予定表」。

act、ag と同じ語根の単語を集める。みな「行動する」という意味がある。action(行動)、active(活動的な)、activity(活動)、actual(現実の)、actuality(現実性)、actress(女優)、react(反作用を起こす)、agent(代理人)、agency(媒介)、agitation(扇動)

アジェンダ、アクション、エージェント、アジテーションなど語根は同じ。

常用漢字以外の漢字を学ぶ

 しょう 樟脳 しょうのう

 ちょ  樗散 ちょさん(役にたたない無能の人、でくのぼう)

 そん  樽罍  そんらい(酒だる)

 げい  猊下 げいか(高僧の敬称)

 かつ  狡猾 こうかつ

 さ   煩瑣 はんさ

 いん  慇懃 いんぎん

 てん  霑衣 てんい

2010年12月12日 (日)

石見神楽

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   石見神楽は、島根県西部(石見地方)に古くから伝わる郷土芸能で、豊作や豊農を祈願し歌や踊りを神に捧げる。華やかな衣装や表情豊かな面を身につけて人たちが太鼓や笛の囃子に合わせて、神話を題材にして舞う。映画「天然コケッコー」のなかで須佐之男命が八岐大蛇を退治する題材の三隅神社(浜田市)の例祭の神楽の様子がみえる。

渡る世間は年寄りばかり

   長寿番組「渡る世間は鬼ばかり」も最終シリーズ。出演者も高齢者が多い。赤木春江(86歳)、京唄子(83歳)、宇津井健(79歳)、70歳以上がズラリと登場する。「坂の上の雲」も加藤剛(72歳)の伊藤博文、渡哲也(68歳)の東郷平八郎とみな痩せ細っている。朝ドラ「てっぱん」の冨司純子(65歳)も皺が目立つ。むかし「スチャラカ社員」に出ていた藤純子の綺麗だったことか。歳月流るるが如し。

おもろい夫婦

    どつき漫才で知られた正司敏江・玲児の正司玲児さんが死去した。関西には夫婦漫才の伝統がある。蝶々雄二の夫婦善哉、唄子啓助のおもろい夫婦、敏江・玲児、そして大助・花子??・・ほかはレディ・ファーストなのに、なんで亭主が先なのか?蝶々雄二、唄子啓助、敏江玲児、みんな離婚したので験をかついで大助花子にしたのだろうか。ほんとの理由はナゾである。

広辞苑人名採録基準のナゾ

    広辞苑は現在、第6版(2008)をかさね、国語辞書でありながら固有名詞などを含む事典的な要素も十分兼ね備えた総合百科事典でもある。とくに人名などをみると、直江兼続、カメハメハ、ユルスナール、ケニヤッタ、ビル・ゲイツ、アン・サン・スー・チーと現在人名も豊富に採録している。特徴としては外国人名は生存中の人物も採録し、日本人名は物故者に限っている。日本の現存者を採用しない理由は評価が定まらないからであろうし、この原則を外国人に適用しないのは、世界の元首など利便性を重視したからであろう。

     現代人名で興味のあるのは多数の芸能人の中から採録する基準はどのようになっているかである。もちろんいかなる人名事典も採否を成文化して明確にすることは不可能であり、多少の揺れはあると理解している。いくつかの例をみると、次の3点が採否の基準と関連すると思われる。①知名度②活動期間③サプライズ

たとえば戦前期の女優5人を比較すると、○栗島すみ子、×酒井米子、×夏川静江、○岡田嘉子、○田中絹代。

○採録、×不採録、田中絹代のように戦前戦後も活躍した女優は当然として、岡田嘉子は樺太国境を越えソ連に逃亡したという特異な要素が採録にプラスとなった。

○植木等 ○ハナ肇 ○フランキー堺 ○坂本九 ○渥美清 ×夏目雅子

主演作品の多い俳優は採録されやすい。夏目の場合は活動期間が足りなかったからだろうか。

    6版以降に故人となられたかたで、マイケル・ジャクソン、森繁久弥、藤田まこと、谷啓、高峰秀子らは新版採録の有力候補者だろう。

○笠智衆 ×志村喬

    どちらも日本映画を代表する名優であるが、「生きる」「七人の侍」の志村喬を不採録としたのは理解できない。

○近藤勇 ○土方歳三 ×沖田総司

   沖田総司はコンサイス日本人名事典でも不採録になっている。

○(ジェラール)フィリップ ○(マリリン)モンロー ○(オードリー)ヘプバーン ×ケリー ×マックィーン

    外国映画俳優が採録される基準は厳しい。グレース・ケリー、スティーヴ・マックィーンが不採録である。

○ペック ×ホールデン

    1950年代アメリカ映画を代表する二枚目だが、採否の差はどこにあるのか。

○赤垣源蔵 ○小野寺十内 ○寺坂吉右衛門 ×俵星玄蕃 ×清水一角

   赤穂義士は多く採録されているが、架空人物や周辺の人物は不採録か。

○アベベ ×円谷幸吉 ○人見絹枝

  円谷3位、人見2位。お願い、円谷選手を載せて頂戴。

  しかし、このような基準で採録すると、スポーツ界などで故人が増えてくるだろうし、一書に収められるか別の問題も生ずる。

    いま話題の市川海老蔵は遠い先の話だが、広辞苑採録が約束されたような人である。将来、市川団十郎を襲名すればの話だが。

Joy To The World

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   電子書籍が話題となり、紙の出版文化は受難の時代を迎えようとしていますが、活字文化を守り、皆さまの読書生活のお手伝いをしたいと願っています。

今年も間もなく終わろうとしています。どうぞ素敵なクリスマス、お正月をお迎えください。

女性の書斎・ひとり好き 年内は31日まで営業しています。年始は1月6日(木)から営業します。

電子書籍は鉄砲伝来か?

    電子書籍元年といわれた今年だが、ipadを自己の学習に上手く活用しているユーザーも増えている。ある人は自炊(自分でスキャンする)で100冊以上の電子書籍を取り込んでいつでも取り出せるように索引も作っている。スキャンの代行会社もある。安いところは1冊100円くらいだが、本を断裁するので、保存したい人は断裁なしの会社もある。1冊2500円と高くつく。最大大手の印刷会社・大日本印刷が電子書店をスタートさせた。ただし当初10万冊といっていたが、実際は3万冊くらい。やはり著作権の問題で、いい本は電子化されていないので魅力はない。出版社も電子書籍を徐々に販売しているが、まだ大きな動きはない。いまのとろ作家、出版会社、印刷会社、取次、図書館とそれぞれがプラットフォーム争いをしている。ユーザーがこまめに自炊しても社会的に大きな動きにはならない。たしかにグーテンベルク以来500年の大変化ではあるが、紙を断裁してゴミが生れるだけで、いまだ電子書籍から名作がうまれたという話は聞かない。書店や図書館といった仲介機関が不要になるかどうか、いまの時点ではなんともいえない。ある書店の副社長が言っていたが、「電子書籍は黒船とは思っていない。鉄砲伝来と考えている。いいものは使うほうがいいだろう」と。

一番なが~い歌謡曲

  植村花菜「トイレの神様」という異例の長い演奏時間の楽曲を完全に紅白歌合戦で歌うということが話題になっている。9分52秒である。もちろんこれより長い楽曲はこれまでにもいくらでもあるだろう。むかしの演歌師などの唄はだいだい長いものが多い。戦前、戦後の歌謡曲はイントロが長かった。藤山一郎の「丘を越えて」、霧島昇の「誰か故郷を想わざる」、北島三郎の「函館の女」も長い。

  レコード、CDリリースしたものに限れば、BOROの「大阪で生れた女」の35分というのがある。長淵剛「キャプテン・オブ・ザ・シップ」は13分9秒。森繁久彌「オホーツクの船唄」(4分55秒)。歌詞の文字数でいえば「鉄道唱歌」かもしれない。「♪汽笛一声新橋を」を1番から334番まで歌うと、1時間10分かかるという。「戦友」は14番まであり正確な演奏時間は知らないがテンポによっては長い。三波春夫の長編歌謡浪曲やさだまさしなどCDでは演奏時間は9分を超えるが実際に紅白での演奏時間は分からない。美輪明宏も長い歌は多い。「ヨイトマケの唄」(6分01秒)は最近、槙原敬之が、三波春夫の長編歌謡浪曲も島津亜矢が歌っている。「さとうきび畑」(寺島尚彦)の原曲は11分近くある。紅白で長い歌といえば、昭和41年の紅白歌合戦の大トリで三波春夫が歌った「豪商一代 紀伊国屋文左衛門」である。初出場の植村花菜が緊張しないで普段どおりに歌えるのか、楽しみである。

2010年12月11日 (土)

シェパード夫人殺害事件

   鹿児島で昨年6月、老夫婦を殺害したとして、強盗殺人罪などに問われた被告人の裁判員裁判で、死刑の求刑に対し、無罪判決が言い渡された。2人の命が奪われながら、犯人であることを示す証拠はなく、しかも被告が完全否定する重大事件。裁判員はDNA型鑑定や現場の指紋、遺族の感情などにより、状況証拠のみで死刑と決めたのだろうか。地裁判決は無罪。「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判における原則にもとづくものである。過去の例でも、被告が犯行を否認しているのに死刑が求刑され、一審判決で無罪判決が出されたのは3件しかない。まるで1954年アメリカ・オハイオ州で起きたサム・シェパード事件を思いおこす。青年医師サム・シェパードは、情け容赦ない憶測により、妻マリリンの殺人罪の判決を言い渡された。だが、その後の調査で侵入者が2人いた痕跡が見つかり、12年後、逆転無罪を勝ち取った。サム・シェパード死後、DNA鑑定により正式に無罪が認定されている。F・リー・ベイリー弁護士は「今、人々は親しげにサムを祝福し、過去の行き違いを水に流そうとしていますが、彼らのせいでサムは電気椅子に座らせられるところだった」と語っている。この冤罪の恐ろしさをキャンペーンしたのが、テレビドラマの「逃亡者」だった。アメリカのドラマを見ていると、陪審員による冤罪がよくテーマとなる。最近、日本でも裁判員を扱ったドラマを見ることがある。被告人への予断や偏見があるように感ぜられる。罪なくして罰せられる人を生むことだけは無くしてほしい。

2010年12月10日 (金)

常用漢字を学ぶ

    京都・清水寺で今年の漢字は「暑」と発表された。「暑」と「熱」との区別は意外に難しい。火気などの温度が高いのは「熱い」だが、気温が高いのは「暑い」だ。日常的には「熱」のほうが使用例は多い。灼熱の太陽、熱烈な歓迎、熱い仲など、「熱」は感情の高ぶりの激しさも表現できる。「自殺熱」という語は明治からある。(もしかしたら子規の造語かもしれぬ)なぜか広辞苑には収録されていないが、正岡子規が傍にあった小刀(実際は千枚通だった)で自殺を図ろうとしたとき(自殺念慮にまで至った、とある)、「自殺熱」という語を使っている。(「仰臥漫録」)子規は苦しみを以って創作への意欲へと転化さす、という強靭な精神の持主だった。

    今年も自殺者が3万人を超えるという情勢になっているというニュースがあった。長引く不況、就職難、ホームレス、介護疲れ、陰湿ないじめ、理由はそれぞれ異なるが、楽しいことをひとつでも思いおこしてほしい。今年は29年ぶりに常用漢字が増えた。どんな漢字か一覧表を見ただけではわからないが、熟語にするとわかりやすい。難しい字も多い。

 

  賄賂 わいろ

 

  覚醒剤 かくせいざい

 

  真摯 しんし

 

  禁錮 きんこ

 

  勾留 こうりゅう

 

  配膳 はいぜん

 

  失踪 しっそう

 

  謙遜 けんそん

 

  淘汰 とうた

 

  嘲笑 ちょうしょう

 

  五十鈴依媛 いすずよりひめ

 

  危惧 きぐ

 

嫉  嫉妬 しっと

 

  溺愛 できあい

 

  比喩 ひゆ

 

  臆病 おくびょう

 

  楷書 かいしょ

 

  傲慢 ごうまん

 

  羨望 せんぼう

 

  緻密 ちみつ

 

  補填 ほてん

 

  肥沃 ひよく

 

  戦慄 せんりつ

 

  完璧 かんぺき

 

  籠絡 ろうらく

 

  明晰 めいせき

正岡子規の母と妹

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   正岡八重(1845-1927)は松山藩の儒者、大原観山の長女として弘化2年、正岡常治と結婚。明治5年、常治死亡。夫の死後、裁縫を教えながら子規と律を育てる。上京し子規の最期を看取った。妹の正岡律(1870-1941)は子規の看護をしたが、はじめ子規はよく律に癇癪を起こした。子規の死後、共立女子職業学校に入学し、卒業後は和裁の教師となった。母の看病のため退職した後も、子規庵で裁縫教室を開いていた。NHK松山で制作された「子規と律 闘病7年兄妹の記録」(四国スペシャル)では難病の子規を支えた律の人物像が浮き彫りにされている。

今和次郎の考現学

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    今和次郎(1888-1973)は柳田国男、石黒忠篤のもとで農村民家の研究に従い、民家研究について民俗学的方法を確立。ついで現代風俗・世相を研究する考現学(モデルノロジオ)を提唱する。昭和3年の銀座のデパートにおける和服と洋服を調査したところ、女性の84%までは和服で、そのほとんどは外出着であった。男性の半数以上は洋服で、ほとんどはネクタイをし、胸にちらほらする時計の鎖は、彼らの重要な装飾であった。こんな風俗観察を、今は考現学と名づけた。

2010年12月 9日 (木)

片岡源五右衛門高房

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   片岡源五右衛門は尾張藩士熊井重次郎の子で、叔父の赤穂藩士片岡六左衛門の養子となり、片岡姓を名乗って浅野家に仕えた。元禄13年、主君浅野内匠頭に従って江戸に下向、翌年の殿中刃傷のときは江戸城大手下馬先で供待ちしていた。網打ち駕籠に乗せられて田村右京大夫邸(港区新橋3-3)に入った内匠頭は酒や煙草などの好みの物も与えられず、家来への連絡も許されないまま、庭前で切腹させられた。ただ検使・多門伝八郎のはからいで、切腹の庭にのぞむ内匠頭が書院を通るさい、はるか庭先から、片岡源五右衛門のみが拝領することができた。互いに無言のまま今生の別れをかわしたが、源五右衛門も断腸の思いで主君の最後を見送ったのである。

  風さそふ花よりもなほ我はまた

         春の名残をいかにとかせん

   内匠頭は哀切な辞世を残して三十五年の生涯を閉じた。

小野寺十内の妻

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  小野寺十内は武芸にも練達していたが、学問を伊藤仁斎に、和歌を金勝慶安に学んだ。妻の丹は、赤穂藩士灰方氏の娘で、2人の間に子はなく、夫婦ともに和歌を好み、十内は藩内随一の歌人といわれた。元禄15年9月、十内と丹は江戸と京都にわかれ、二度と会うことはなかった。そのため、2人は、愛情細やかな手紙を交わしあった。十内が切腹した後、丹は老母の死をみとると、夫の十内と養子の幸右衛門、それに、2人の甥、大高源五と岡野金右衛門、合わせて4人の義士の供養墓を西方寺の境内に建て、本圀寺(京都市山科区)へいって断食して没した。辞世の歌二首。

うつつとも思はぬ内に夢さめて妙なる法の華にのるらむ

夫や子のまつらむものを急がまし何かこの世に思いおくべき

ああ大阪駅

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  うれしかるかる大阪、汚なかるかる大阪。西日本に住む人なら誰でも一度は降り立つスポットは大阪駅前だろう。「♪阪神、阪神、大阪うめだ1番地」まてよ、この写真には阪神百貨店がない・・・。昭和13年ごろの大阪駅前風景。区画整理跡地に、阪神電鉄の地下駅および上部構造の百貨店建設工事が着手された。右は阪急百貨店(梅田駅)、向こう正面は工事中の国鉄大阪駅、その左にやはり工事中の中央郵便局。

「♪お店のつとめは辛いけど 胸にゃ、でっかい夢がある」なつかしの写真館。誰もが懸命に生きたあの時代を写真でたどる。

2010年12月 8日 (水)

海老蔵謝罪会見

    昨夜からテレビでは市川海老蔵ばかりが報道されている。無期限謹慎処分、90分という長き異例の会見となった。印象としては記者会見自体が舞台で演技しているように見えるが、海老蔵の表情には、やつれて、「自らの驕りが招いた」と謝罪する苦悩が現れる。釈明どおり一方的に殴られたとするならば明らかに被害者なのに気の毒にも思える。海老蔵が謝罪する際に壇上から降りて謝ったが(お辞儀の時間も十分にあった)、正しい作法なのでさすがに歌舞伎だと感じた。

    真相は両者の言い分に食い違いがあるものの、つまりは酒の上での喧嘩。それが大きく海老蔵バッシングになったのは、識者によると、これまで美女たちと奔放に遊んでいた恵まれた海老蔵に対する世の男たちの嫉妬だと分析している。私は歌舞伎の海老蔵の実力は知らないが、大河ドラマの宮本武蔵の印象がある。あれが不評だったのも、吉川英治の武蔵の人間修行という面が不十分だったからだろう。あと数年して海老蔵がどのようになるか期待したい。

    だが記者会見で事件の核心部分へのナゾはより深まった。海老蔵は暴力は一切していないといっているが互いが加害者であった可能性が高い。相手は全治4週間の診断書が出されているという情報もある。担当の医師は「故意に作った傷とは思えない」としている。また先に手を出したのは海老蔵だとする証言もある。海老蔵と暴走族リーダーとの関係は知人か初対面か両者の意見は食い違う。あとは警視庁の捜査を待つしかない。海老蔵劇場は豪華披露宴で開幕ベルが鳴る。ベトナムへ行って手掘りでルビーを採掘して麻央へ愛のプレゼント、前原が国会をサボって紋付袴で披露宴に出席、深夜の乱闘、涙の謝罪会見、犯人の出頭、示談か裁判か、海老蔵劇場、物語りは愈々佳境へ、乞うご期待。

2010年12月 7日 (火)

年金病

    年金病という言葉がある。もちろんどんな医学事典や広辞苑、現代用語の基礎知識、imidasなどを調べても見当たらない。医事評論家の水野肇の「夫と妻のための老年学」(1978)という本にある。

   人間は生きる目標のようなものがなくてはならないのはいうまでもない。それを失ったとき、人間は病気になることが多い。「年金病」といわれる病気がある。もちろん、ひとつの疾病ではなく、年金をもらうようになると病気になるというマスコミコトバである。アメリカの研究だが、60歳ごろの男の人たちのなかで、退職してそのまま家に入った人と、退職しても何か働いている人の健康状態を調べたところ、そのまま家に入った人のほうが、成人病にかかる率が圧倒的に高く、死ぬ率も高かった。この原因についてははっきりとはしないが、ひとつは何もすることがないと思うことがストレスになるのだとみられているのは、注目しなければならない。日本でも、戦前、役人の恩給の平均支給年限は約3年だったといわれる。つまり、恩給をもらうようになると平均3年で死ぬということである。(もっとも、現在は、天下りで働いていても年金がでるのでこのような数字にはならない)このように生き甲斐を失うと病気になるという例は多い。

    民間の終身年金というのがあって退職金などまとまった額を預けて、2ヵ月に1回、定額をもらう制度だが、だいたい78歳か79歳まで生きていないと、自分の預けた金額を受け取らずに死んでいくそうだ。もちろん100歳まで生きれば利息分も十分もらったことなるのだが、ほとんどの人は掛けた年金額を手にすることなく死んでしまうのだろう。まあ所詮はあの世へ金を持っていけるわけでなく、この世で生きている間に無一文にならなければ良しとしなければならない。水野肇は「年金病」という言葉を使ったが、この言葉はそれほど使われることはなく、また辞書にのることもなく、流行しなかった流行語となった。

海老蔵と「王様の耳」の話

    イソップにこんな話がある。王様はロバの耳をしていて、それをひた隠しにしているが、いつも髪を刈りにくる床屋は王様はロバの耳であることを知っていてかたく口止めされている。しかし床屋は何時までも黙っていることができず、井戸の奥に向って「王様の耳はロバの耳」と大声を出して叫ぶ。その声があらゆる井戸に伝わって皆に広がっていく。知られてしまった王様は「これは皆の意見をよく聞けるようにロバの耳になっている」という話。これと似た話は世界にあって、朝鮮には高麗の僧一然の「三国遺事」という書物に出てくる。ただし烏帽子つくりの話になっている。日本でも吉田兼好が「おぼしき事言はぬは腹ふくるるわざなれば」とあり、むかしから思うことを言わぬは鬱憤が積もるものである。海老蔵の酒癖の悪さはこれまで関係者の間では周知のことであろうが、歌舞伎界のプリンスなので口止めされていたのだろう。この度の事件で悪い噂や不利な情報が次々と現れるのは、積もっていた鬱憤が一挙にでたものかもしれない。

2010年12月 6日 (月)

マハトマ・ガンディ世界平和賞

    マハトマ・ガンディ世界平和賞の受賞者は日本人過去4人いる。笹川良一、中松義郎、池田大作、福永法源である。福永は法の華三法行の教祖で、現在は詐欺罪により12年の懲役、服役中である。

斎藤一と片岡利和

    テレビドラマ「新選組血風録」の放映の頃(昭和40年)、おそらく新選組副長助勤・斎藤一(1844-1915)がどのような人物なのか誰も知らなかっただろう。あれから40年以上を経ても、ケペルの頭の中は、斎藤一=左右田一平なのである。のちの「燃えよ剣」では、裏通り先生という医者の役なので、わずか半年の記憶にもかかわらず、あの飄々とした左右田一平のイメージが、新選組という史上最強の殺人集団という血なまぐささ、残忍性を男のロマンに変えている。

    ところで新選組隊士の中で誰が一番の凄腕だろうか。隊士・阿部十郎(1837-1907)は、「一に永倉、ニに沖田、三に斎藤一」の順であったと後年語っている。なるほど、永倉新八(1839-1915)は神道無念流、沖田総司は天然理心流である。では斎藤一の流派は何流であろうか。最近、赤間倭子の調査によると、播磨国で無外流を修得したということが判明した。

   斎藤一の事績としては、慶応2年4月1日、祇園石段下において、谷三十郎を斬ったこと、慶応3年6月22日、竹田銭取橋において、武田観柳斎を斬ったこと、などは「新選組血風録」左右田一平版で見た。最近、知ったことであるが明治の千島探検家・片岡利和(那須盛馬)と斎藤一は斬り合いをしているのである。慶応3年1月7日、中村庄五郎と那須盛馬の2人が四条小橋西高瀬川筋下ル船頭町にある浮蓮(うかれ)亭で飲酒した帰途、四条河畔で沖田総司、斎藤一、永倉新八と遭遇、斬り合いになった。この乱闘で沖田と永倉は那須の肩先と右足に深手を負わせ、斎藤は中井を切り立てたが、2人は逃走した。中井はその年の12月7日、天満屋事件で斬死している。那須盛馬は、北越戦争に参加し、明治天皇の侍従となり、貴族院議員として顕官に就いた。

   歴史的事績の貢献度で評価するならば、片岡利和のほうが斎藤一よりも顕彰されるべき人物であるはずである。ところが「斎藤一の会」というのは現在も存在するらしいが、「片岡利和の会」というのは寡聞にして知らない。これも左右田一平の飄々とした演技の賜物とケペルは思っている。

2010年12月 5日 (日)

馬籠と大磯

Photo_2 島崎藤村の墓(永昌寺)

    島崎藤村(1872-1943)は長野県木曽郡馬籠の生まれである。永昌寺には藤村と一族の墓がある。しかし墓は大磯の地福寺にもある。遺骨は大磯に納められ、永昌寺には遺髪のみを葬られたという。なぜ大磯を選んだかは謎とされている。昭和16年2月28日付けの妻へ宛てた手紙の中で「昨日午後、志ぎ立沢まで歩き、久しぶりで好い散歩をしました」とある。2月25日に初めて大磯の家を見つけて、ここでの生活が始まった。昭和18年8月22日に亡くなっているから、わずか1年半ばかりの大磯での生活だった。

鎌倉街道の謎

Photo 朝比奈切通し

    テレビ東京の番組「鎌倉街道歩き旅」を視聴。高崎から鎌倉まで160kmを5人の有名タレントが10日間リレーで歩く。懐かしい中野良子が出ている。後で調べると鎌倉街道というのは、1本の整備された幹線ではなくて、鎌倉から四方に網の目状に関東、中部に広がっており、正確なルートや本数は不明である。古道あるいは主要道の蔭となった間道、伝承鎌倉街道を含めると無数にある。地域も信州、越中にまで続いているらしい。日本の近代登山の父と呼ばれたウォルター・ウェストン(1861-1940)が明治25年と大正3年に安房峠や上高地からの帰路に用いたルートも鎌倉街道であったらしい。

    朝比奈切通しは鎌倉から金沢六浦津に抜ける重要な街道で朝比奈三郎義秀(和田義盛の三男)が一夜にして切り開いたことから朝比奈の名前がついたといわれる。(参考:阿部正道「鎌倉街道について」人文地理学の諸問題 1968)

マリー・ローランサンの母

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  第一次世界大戦後、ココ・シャネルのような新しい女性が現れた時代、男ばかりの画壇にあってマリー・ローランサン(1883-1956)のような女性画家もパリの社交界で人気を博して肖像画家として台頭してきた。マリーの母はポーリーヌ・メラニー・ローランサン(1861-1913)といい、縫い物をして生計を立てていた。ラテン語ができる教養豊かな人だったといわれる。22歳のときローランサンを生むが、私生児だった。父の名はアルフレッド・スタニスラス・トゥーレといい、のちに代議士になったが、1905年に亡くなっている。母と娘は、そこに猫を交えて強い絆で結ばれ、ローランサンはしっかりとした躾を受けた。成人するまでは父の経済的援助もあり生活はそれほど苦しくなかった。甘美で洒落た女性像を描き続け、晩年も愛人のシュザンヌ・モローとひつそりとパリで暮らした。

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 ローランサンの生家があるパリ北駅近くのシャブロル街63番地

2010年12月 4日 (土)

流行語大賞は単なる業界の宣伝か?

   ユーキャンの新語流行語大賞の発表があったが、結果は何となくストンとこない。面白くない。藤本義一(審査委員長)や俵万智、やくみつる諸氏が委員だそうだが、なぜだろう。やくは「ネガティヴなものは除く」と言う。つまり企業や体制に立つということであろう。だが世相、風俗は庶民的な素直な気持ちを代弁しなければ、納得いく成果は期待できないだろう。その典型が斎藤佑樹の特別賞。早くも来年のプロ入りでスターづくりをしているにすぎない。石川遼に代わってCM出演ナンバーワンになるし、もう母親が息子の自伝を出版している。つまりは流行とはいっても、すべて算盤づくで動いている。流行していない流行語大賞ってもう止めたらいいだろう。

  そこで自分流に気になる新語・流行語を選出。2010年は電子書籍元年であり、「国民読書年」だった。だがむしろ読書離れの進行した1年だった。流行語大賞には「キュレーション」に決定する。電子書籍にしろ報道にしろ、情報がオープン化している現在においては情報を握っているではなくて、情報をどう「キュレーション」できるかが最大の強みとなる。「キュレーション」とは「はっきりと区切る」というのが本来の意味だが、情報を収集し、選別し、意味づけを与えて、それをみなと共有するということである。

  そのほかに「ウィキリークス」「代替療法ホメオパシー」「悪しき隣人」「赤い官房長官」「暴れるからよろしく」などが候補にあがった。でも一番は「優しい嘘、残酷な沈黙」

あげまんの女

   「あげまん」とは、一緒になると不思議と相手の男にも運が向いて成功するという女性のこと。かつて海外で最も知名度の高い日本人俳優は三船敏郎だったが、今はおそらく渡辺謙だろう。しかし渡辺謙も難病や家庭問題などでスランプの時期があった。人生が開運したのはひとりの女性とめぐりあったことだった。「あげまん」とは南果歩にその言葉がぴったりするかもしれない。朝からのテレビ番組でも夫のおのろけ話ばかりしていた。南が前夫の辻仁成と離婚したのち、渡辺と付きあいだし頃、渡辺は「ラストサムライ」など海外での成功がはじまった。良き伴侶にめぐまれるとは善哉。巨人の谷佳知は今季打率.239、2本塁打と不振だった。やはり妻の参院選出馬が影響したのか。亮子は「さげまん」か。麻央は南果歩から亭主の更生方法と操縦術を伝授してもらったらどうだろう。

2010年12月 3日 (金)

海老蔵と琴光喜

   海老蔵殴打事件の全容はまだ明らかではないが、もし海老蔵が単なる被害者ではなく、挑発行為もしくは暴力行為が認められれば、先の大相撲の野球賭博事件で解雇処分となった大関琴光喜が気の毒におもえてくる。野球賭博はもちろん違法行為であるが、当初、相撲協会は自己申告すれば厳重注意で済ませるといっていた。琴光喜は暴力行為はしていないし、暴力団から恐喝をうけ、現金を脅し取られた被害者でもある。当時の世論の批判は厳しかったが、あるいみで批判をかわすために琴光喜はスケープゴート(身代わり)になったようなものだ。

璽光尊とマッカーサー

   大沢ナカ(のち結婚して長岡良子)は昭和20年6月25日、神からお告げがあったとして自らを「璽光尊」と名乗った。「世を救う神」として、世直しを宣言し、「京浜地方に大地震が起る」と予言した。GHQマッカーサーは本部にスパイを潜入させて調査していた。そしてポツダム命令違反や詐欺容疑で摘発、昭和22年1月、警察は璽光尊と幹部たちを食糧管理法違反で逮捕した。このとき信者だった双葉山が公務執行妨害で逮捕されている。金沢医大の鑑定で璽光尊は誇大妄想性痴呆症と診断され釈放されたが、その後宗教活動は衰退した。

遠い先のこと

   日本はサッカーのW杯招致に落選した。つまり2014年大会はブラジル、2018年大会はロシア、2022年大会はカタールとなる。アジアは規則上2大会開催できない。2034年大会に立候補するのか、まだ決まっていないが、自分には関係のない話である。なぜならたぶんもうこの世の人ではないからだ。世の中、自分がたぶんいなだろう先のことが話題になるのは結構笑える話である。

愛された霊能者

   松嶋菜々子、ソン・スンホンで「ゴースト」のリメイクが公開中である。ウーピー・ゴールドバークが演じた霊媒師を誰が演じているのだろう。やっぱり樹木希林だ。亡くなった人とコンタクトが取れたらいいとおもうだろう。巫女というのは日本にも古来から存在したが、一般的には非科学的なこと、インチキと考えるだろう。ところが1980年代から日本のテレビで宜保愛子(1932-2003)が登場するや高視聴率で霊視ブームという不思議な現象があった。その後、大槻義彦らの批判で宜保は自然とマスコミから姿を消したが、霊感商法のような露骨な金儲けはなかったし、詐欺罪で訴えられることもなく、なぜか国民に愛され人気のあった霊媒師だった。

アジアンはブサイクと美人のコンビ?

   よしもとのアジアンという女性お笑いコンビをご存知だろうか。あまり個性がどぎつくなく老人からみると2人とも性格がよくて可愛い感じがする。今いくよ、くるよのように大成するかどうかはわからない。2人とも素敵な女性だが、商売上、デブとブサイクキャラで売り出した。ところがボケの馬場園梓のほうは本来美人なので少し変化してきた。なんと2010吉本べっぴん芸人ランキングで第3位になっている。第1位は友近、第2位は桜の稲垣早希、第3位が馬場園。ぶちゃいく芸人第1位はアジアン隅田美保、第2位はハリセンボン近藤春菜(メガネキャラ)、第3位は南海キャンディーズ山崎静代(体が大きい)、3人とも若いしキレイです。吉本はずいぶん賑やかになった。新喜劇の藤井信子、山田スミ子、片岡あや子、中山美保は吉本の四天王美女だった。

戦時中公開の戦争映画

    戦時中に封切りされた戦意高揚を目的に撮られた映画の中で最も多くの日本人が見た映画は、おそらく日米開戦1周年を目前に控えた昭和17年12月3日封切りの「ハワイ・マレー沖海戦」であろう。海軍省の後援で全国の学生、軍需工場、婦人会などが動員され、占領地も含めると約1億人がこの映画を観たといわれている。

    ストーリーは、予科練に入隊した友田義一(伊藤薫)が山下教官(藤田進)たちから海軍精神を叩き込まれて一人前の飛行兵に成長していく過程と、真珠湾攻撃、マレー沖での活躍ぶりを記録映画風に再現している。だが現実での戦況は、この年6月のミッドウェイ海戦の敗北ですでに劣勢に追い込まれていた、という事実を1億人は何も知らなかった。

    日中戦争が始まってから戦争映画は数多くつくられた。主な作品を挙げると、小杉勇「五人の斥候兵」「土と兵隊」、佐分利信「西住戦車長伝」、藤田進「海軍爆撃隊」、大日向伝「燃ゆる大空」、井上莞「空の少年」、阪東妻三郎「将軍と参謀と兵」、高田稔「望楼の決死隊」、佐分利信「愛機南へ飛ぶ」、高田稔「決戦の大空」、中田弘二「シンガポール総攻撃」、山内明「海軍」、大河内伝次郎「あの旗を撃て」、藤田進「加藤隼戦闘隊」、渡辺義夫「轟沈」、星野和夫「君こそ次の荒鷲だ」、水島道太郎「肉弾挺身隊」、藤田進「雷撃隊出動」、長谷川一夫「後に続くを信ず」、高田稔「愛と誓い」など。

2010年12月 2日 (木)

あれから10年、年末いい曲聴こうよ

    年末になるとテレビの歌番組が多い。FNS歌謡祭とかベストヒット歌謡祭とか。今年のヒット曲が何か一つも思いうかばない。年末のレコード大賞もまたエグザイルなのだろうか。今年の歌だけでなくここ10年でも歌える歌がない。それが自分が老化した証拠なのだろう。社会のテンポについていくことができない。「LOVE2000」というhitomiというスタイルのいい女性がうたった歌があった。あのマラソンの高橋尚子が好きだった歌。「♪愛はどこからやってくるのでしょう、自分の胸に問いかけた、ニセモノなんか興味はないの、ホントだけを見つめたい」とストレートな気持ちをぶっつけた感じの曲である。あの歌がちょうど10年前か。hitomiも高橋尚子も環境に変化しているがどうしているだろうか。

海老蔵家の栄光と悲劇

    歌舞伎の市川海老蔵が深酒のうえ殴られ重傷を負った事件は新たな事実が報道され、歌舞伎界全体のイメージ低下も招きかねないほどの大きな波紋を広げている。

    市川海老蔵の本名は堀越孝俊である。堀越という姓は、甲斐の武田家に仕えた堀越十郎にさかのぼる。主家滅亡後、下総国植生郡幡谷村に移住、農業をしていたが、初代市川団十郎の父、重蔵のとき江戸に出て、重蔵は「菰の重蔵」と渾名された顔役で、幡随院長兵衛や唐犬十右衛門などの侠客たちと親交があり、初代団十郎(1660-1704)が生れたときは、唐犬が海老の画幅を贈って長寿を祝い、自ら名付け親となって海老蔵と命名したといわれている。初代は荒事芸の創始者で、元禄期の歌舞伎を代表する名優であったが、怨恨のため生島半六に舞台で刺殺された。8代団十郎(1823-1854)は若くして技芸にすぐれ、美貌だったため人気を集めたが32歳にして謎の自殺を遂げている。9代団十郎(1838-1903)は「劇聖」として近代歌舞伎を確立した。11代団十郎(1909-1962)は「海老さま」の愛称で人気を集めたが、団十郎襲名わずか3年で他界した。その長男が現12代団十郎である。その子の海老蔵は名家に生まれ、甘やかされて育ち、女と酒に溺れる青年期を過ごした。泥酔して奇声をあげ、暴れまわる。海老蔵の素行はこれまで周知の事実であったが、誰もが「触らぬ神に祟り無し」と遠ざけ、恐ろしげな暴走族との交際が取り沙汰されるなど、もはや彼の周辺には悪友だけが集まるようになったのだろう。名家にまつわる栄光と悲劇は尽きない。

2010年12月 1日 (水)

大和ドロップ

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    呉市には大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)が平成17年に開館している。そこには何と、全長26.3mの戦艦「大和」の模型がある。つまり10分の1の大きさ。お土産品の一番人気が大和ドロップ(380円)だそうだ。一度訪れてみたい。

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魔法の店

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  「裸の銃を持つ男」のレスリー・ニールセン(1926-2010)が11月28日、フロリダ州の病院で亡くなった。84歳だった。70歳すぎて白髪となってから、コメディ映画で大ブレイクしたが、経歴は古い。父は警官で、叔父に俳優ジーン・ハーショルト(1886-1956)がいる。第二次世界大戦中は、カナダ空軍に従軍、除隊後、低音の魅力を買われてカルガリーでラジオのアナウンサーをしていた。1956年「放浪の王者」でデビュー、同年の「禁断の惑星」の隊員役でその名を知られるようになる。テレビ出演も多い。「ヒッチコック劇場」第45話「魔法の店」もSF風な作品。レスリー・ニールセンはやはり宇宙もののイメージがあった。彼ほど長く愛されたスターも珍しい。

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