煙管を折るの記
吉田松陰自賛肖像 松陰神社蔵
松下村塾の最も早い入門者の一人として増野徳民(1841-1877)がいる。安政3年11月25日には、増野に連れられて吉田稔麿((1841-1864)が入塾する。続いて近所の魚屋り息子松浦松洞(1837-1862)が入り、塾らしくなってきた。吉田松陰(1830-1859)は徳民に「無咎」(むきゅう)、松洞に「無窮」(むきゅう)、稔麿に「無逸」(むいつ)と名づけ、三人を「三無生」と親愛の情を込めて呼んだ。松陰が野山獄に入れられた時、三無生は釈放の活動をした。
当時のエピソードに、「煙管を折るの記」(安政4年9月)が知られている。ある日、タバコを吸っている塾生の話になると、松陰は嫌な顔をした。それに気づいた稔麿は、その気まずさから煙管を折り、禁煙を宣言する。すると全員がそれに従った。その場にいなかった高杉晋作も翌日、話を聞き、禁煙の難しさを自分の経験で諭し、励ました。塾生たちと松陰との師弟関係が伝わってくる話である。松浦松洞が描いた松陰肖像画にも師への敬愛がうかがわれる。
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