琴はしずかに・八木登美子
八木重吉(1898-1927)は明治31年2月9日、東京府南多摩郡堺村のかなり富裕な農家、八木籐三郎、八木つたの次男として生まれた。向学心のある重吉は鎌倉師範に進み、次いで東京高等師範(現在の東京教育大学)に進んだ。内村鑑三の著作に感化されてキリスト教に入信したのは、大正8、9年ごろである。卒業して兵庫県御影師範の英語教員となり、大正14年3月、千葉県東葛飾中学校に転任した。翌年3月に結核を発病し、昭和2年10月に転地先の神奈川県茅ヶ崎で没した。享年29歳。生前に刊行された詩集は「秋の瞳」(大正14年)のただ1冊だけである。第2詩集「貧しき信徒」は没後4ヵ月目の昭和3年2月に刊行されている。
素朴な琴
この明るさのなかへ
ひとつの素朴な琴をおけば
秋の美しさに耐えかね
琴はしずかに鳴りだすだろう
「貧しき信徒」(昭和3年)所収
八木重吉は大正11年7月、東京高等師範の学生時代に家庭教師として教えた17歳の女学生の島田とみ子(1905-1999)と結婚し、桃子と陽ニをもうけた。残されたとみ子夫人はミシンの内職、デパートの店員等をしながら二人の子供を育てたが、昭和12年に桃子(15歳)、昭和15年に陽ニ(16歳)の2人の子供が相次いで失うという不幸があった。4年間、茅ヶ崎の南湖院で働くうちに、昭和19年の末、歌人の吉野秀雄(1902-1967)の家に住み込みの手伝いとして働くようになった。とみ子が肌身放さず持ち歩いていたのは、八木の書いていた詩のノートであった。
ある日、とみ子が一所懸命たらいの中の洗濯物をごしごしやっている姿をみた吉野は、その姿を見て急に好きになりプロポーズした。昭和21年10月、二人は再婚した。吉野秀雄には4人の子供がいた。子供たちはすぐに新しい母になつき、暗く悲しい家庭に明るい光が射した。吉野秀雄に次の歌がある。
重吉の妻なりし今の我が妻よ
ためらわず彼の墓に手を置け
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