施耐庵
水滸伝説話が発生したのは、北宋の末年から南宋の初めにかけてであるが、これが講談になり芝居になって語り継がれていき、ほぼ現在の形の水滸伝にまとめられるようになったのは、明の初め頃といわれる。その編者である施耐庵の詳しいことは長く不明であったが、近年に墓碑銘が発見されたことにより、大体のことが明らかになった。本名を施子安といい、字を耐庵という。1331年に科挙に合格し進士となったが、2年ほどで役人生活を辞め、故郷の白駒に戻って著述に専念した。「水滸伝」は門人の羅漢中(1330頃~1400頃)と共作した。張士誠(1321-1367)に招かれたが固辞し、災いのおよぶのを恐れて淮安に移って同地で75歳くらいで没した。これらから推測すると、施耐庵の生没年は、1296年頃~1370年頃となる。
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