施耐庵
水滸伝説話が発生したのは、北宋の末年から南宋の初めにかけてであるが、これが講談になり芝居になって語り継がれていき、ほぼ現在の形の水滸伝にまとめられるようになったのは、明の初め頃といわれる。その編者である施耐庵の詳しいことは長く不明であったが、近年に墓碑銘が発見されたことにより、大体のことが明らかになった。本名を施子安といい、字を耐庵という。1331年に科挙に合格し進士となったが、2年ほどで役人生活を辞め、故郷の白駒に戻って著述に専念した。「水滸伝」は門人の羅漢中(1330頃~1400頃)と共作した。張士誠(1321-1367)に招かれたが固辞し、災いのおよぶのを恐れて淮安に移って同地で75歳くらいで没した。これらから推測すると、施耐庵の生没年は、1296年頃~1370年頃となる。
« 荻野目慶子の「海潮音」 | トップページ | 風樹之嘆 »
「世界史」カテゴリの記事
- 李氏朝鮮はなぜ元号がなかったのか?(2023.05.24)
- ハインリヒ5世(2023.05.23)
- 劉裕と陶淵明(2023.05.22)
- ポーランドの英雄ヤン・ソビエスキ、国王に即位する(2023.05.21)
- ゴンブルサ事件(2023.02.18)
コメント