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2010年10月 9日 (土)

内村鑑三「万朝報」を退社す

   三国干渉以来、日露関係は悪化し、世論には「臥薪嘗胆」を合言葉に、日露開戦のムードがあった。明治35年1月、日英同盟の締結により、官民の間に対露強硬策が叫ばれるようになった。東京帝国大学教授の戸水寛人、小野塚喜平次ら7人の博士らは明治36年1月に日露開戦の意見書を桂内閣に提出している。

   世論のこの動きに対して内村鑑三は開戦反対を唱えた。「万朝報」6月30日付で内村は、

「余は日露非開戦論者であるばかりでない、戦争絶対的廃止論者である。戦争は人を永久に殺すことである。そうして人を殺すことは大罪悪である。そうして大罪悪を犯して個人も国家も永久に利益を収め得やうはずはない」

と論じている。「万朝報」は明治25年、黒岩涙香によって創刊された日刊新聞で、発刊当時はあまり品のよくない暴露記事を主とした俗受けする記事が多かった。発行部数を伸ばそうと考えた黒岩は一流の人材を編集陣に招いて質の向上を図ろうとした。招聘された文筆家の中には幸徳秋水、堺枯川(堺利彦)、河上清らがいた。内村鑑三は札幌時代から親しかった黒岩四方之進(よものしん)の弟が黒岩涙香であることから、明治30年1月に英文欄主筆として迎えられた。明治31年5月23日には、新雑誌を創刊するため万朝報社を一旦退社するが、再び明治33年10月には再入社する。「万朝報」は明治30年代には東京でトップの発行部数を記録している。

 内村の堅い信念の非戦論に対して、黒岩は開戦論の立場をとったため、明治36年10月9日退社する。内村は「日露開戦に同意することを以て日本国の滅亡に同意することと確信」する旨を宣言した。

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