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2010年10月26日 (火)

本郷界隈明治文学地図

    明治10年代頃から、加賀屋敷跡に東京大学の各学科ができ、北隣の水戸の屋敷跡は第一高等学校となった。東大の前だけにこの辺りは知識人の町となり、徳田秋声、石川啄木、二葉亭四迷らが住んだ。それに続く千駄木町(もと太田摂津守屋敷)もまた、森鴎外や夏目漱石の家があり、藪下の通りから団子坂の辺りは菊人形や籔そばが名物で明治市民に親しまれた。

    ロンドン留学をおえた漱石が本郷区駒込千駄木町57番地に移ったのは明治36年3月のことである。この「猫の家」には明治39年12月7日まで住んだ。この家の持主は友人の斎藤阿具で、仙台の第二高等学校教授であったので、留守を借りていたのである。漱石の住む以前には2年あまり鴎外が住まったことがある。ここで漱石は「吾輩は猫である」を執筆した。漱石は散歩を好む。中川芳太郎の話によれば、千駄木から本郷3丁目の十字路を出て、そこから東に曲がって湯島天神社脇の切り通しを下り、池之端に出て、そこから根津権現様の社内を抜けて帰宅した。ある時は千駄木から上野まで歩いて、そこから電車で浅草までゆき、ここの第六区(私娼のいる家が集合している)という妙な所を通り抜け、公演内の蕎麦屋で腹をこさへて、そこからまた向島一帯の広い通りや、狭い道をあてもなく歩いた、とある。

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