ジョン万次郎と汽車ぽっぽ
土佐の漁師、中浜万次郎(1827-1898)は、天保12年1月、出漁して、難破、太平洋を漂流中アメリカの捕鯨船に救助され、アメリカを放浪、教育を受けて10年後に帰国した。後に幕臣として翻訳・通訳に従事したが、アメリカ東海岸での汽車初乗りの様子をこう述べている。「平常遠足等仕候には、レイロオと唱候、火車に乗参り候。此仕様は、船の形にして大釜に而湯を沸、湯の勢を以て凡一日三百里程も走り、尾形より外輪を覗候処、飛鳥之如くに・・・」と記している。弘化2年(1845)のことである。ジョン万次郎はおそらく初めて蒸気機関車に乗った日本人だっただろう。
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鳥島に漂着したのは五人で、万次郎は一番若かった。助かった仲間はハワイで一生を終えました。
利発だったからホイットニー船長がニューヘブンの街まで船で共に連れて帰った。当時はパナマ運河がないから、南米の寒いホーン岬を回って東海岸の街まで行ったり来たりの航路です。
万次郎は旅費を稼ぐために、まだ米国になっていないカリフォルニアで砂金取りもしました。日本人ガリンペイロの先駆けかもです。最初の銭稼ぎ仕事は樽作り。
鯨船で日本沖も操業した万次郎ですけど、天測も出来る万次郎は副船長になってたから、陸を見るだけで涙をのんだ。希望峰も回ったり、地球を何周もしてやっと、中国行き客船のチケットを買い、自分小舟を載せてハワイの仲間と逢ってから帰り船にのりました。
日本を避け、琉球沖で陸地に向けて小帆かけ舟を降ろした。鎖国日本に対して慎重な考えで、琉球と日本の距離感は蒸気船で漁師してたからこその距離感覚だったのでは。近くだったのかもです。
当時は、イワシ肥料で大豆がとれ豆腐や醤油が普及した時代でもあった。
鰹節も枯れ節の製法で江戸に出してた。万次郎は土佐清水出身ですが、船主は鰹節の土佐の宇佐の人でした。
土佐の人間のわりに、控え目な性格なので、開国どさくさ時代に日本の僥幸として役に立った人で、信念と行動体力の方です。
無理くりですが、カツオが日本にとって大事な縁のある魚やと思います。
投稿: さぶろた | 2010年10月24日 (日) 10時17分
こんにちは。見知らぬ国で辛い労働に耐えながも言葉を覚え、日本に米国の最新事情をもたらす。異文化との接触が若い万次郎さんにはすべて新鮮な驚きだったのでしょう。マルコ・ポーロ、イブン・バトゥータなど名前だけ知っているのではなく、歴史に残る旅人が何を考えて未知の世界と交流したか、もうすこし丹念に調べてみたいと思います。
投稿: ケペル | 2010年10月24日 (日) 12時30分