河田小龍
河田小龍(1824-1898)は文政7年、高知城下片町で土生玉助の長男として生れた。1990年版の「コンサイス日本人名事典」にもその名前はなく、これまで土佐の郷土史でその事績を知るのみであったが、近年、坂本龍馬を啓発した開明派の知識人として評価が高まり、今では広く知られるようになっている。嘉永5年にはアメリカから帰国した中浜万次郎を3ヶ月、自宅に逗留させ、藩命により取調べを行う。その記録は『漂選紀畧』4巻に図版入りで詳細にまとめられている。安政元年、坂本龍馬は築屋敷の寓居を訪ね、小龍より海外事情を聞き、これが龍馬が海外に目を向ける契機となった。「小龍云へるには、従来俸禄に飽きたる人は志なし。下等人民秀才の人にして志あれども業に就くべき資力なく(中略)其人を作ることは君(小龍)これに任じたまへ、僕(龍馬)は外に在って船を得べし」(「藤陰略話」)とある。小龍の門人、近藤長次郎(1838-1866)、新宮馬之助(1838-1886)、長岡謙吉(1834-1872)らはのち、龍馬の亀山社中や海援隊で活躍したが、いずれも短命だったため、河田小龍の名声を伝えることができなかった。龍馬は、京都河原町の酢屋で小龍らの海外新知識をふまえて新政府への展望を長岡謙吉に筆記させて「船中八策」としてまとめた。これはのち「新政府綱領八策」として発展する。現在、高知県立美術館には河田小龍の絵画が多数収蔵されている。(参考文献:松井巌「河田小竜」土佐史談56)
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