戦国、徳川の軍法
永禄4年の川中島の合戦で、上杉謙信が鼻のさきにある海津城を攻めることなしに、ほとんど全力で信玄のいる本営を襲撃しようとした。いわゆる車懸りの陣法といわれる。それは最も速やかに決戦を強いる一か八かの戦法なのだ。だがこの車懸り戦法などというものは、孫子の兵法はじめどの兵法書にも書かれていない。戦国武将にあっては、作戦に関する妙用や戦場の駆け引きにいたっては、主将その人の一心に存するもので、それは記録されるものではなかった。むしろ徳川泰平の世となって、続々と雨後の筍の如く出るというのはどうしたことか。甲州流軍学、越後流、長沼流、荻生流、竹中流、道灌流など兵学全盛となったが、これらすべてが実践むきでないことは幕末維新戊辰戦争などで明らかであろう。
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