江戸の海外交流の実態(本当に鎖国だったのか?)
江戸幕府は海外との貿易を統制し、キリスト教を禁止するという対外政策を進めた。いわゆる鎖国政策ということは小学生でも知っているが、実際は長崎をはじめ、薩摩・対馬・松前の「4つの窓口」を通して海外交流がおこなわれていた。
島原の乱後、寛永16年(1639)、幕府はオランダ人以外の西洋人が日本にくることを禁じ、オランダ人も長崎の出島だけに住まわせて、かつてに貿易することを禁じた。もともと鎖国は禁教を目的とするもので、貿易を縮小制限するものではなかった。「鎖国」という語は、1801年に長崎のオランダ通詞志筑忠雄がエンゲルベルト・ケンペル『日本誌』の一節「今日の如く、自国を鎖して国民をして国の内外において外国人と通商せしのないことが、日本にとりて利益なりや否やの検討」という項目を翻訳したとき、「鎖国論」と題したことにはじまる。ケンペル自身は日本の鎖国を国家の統治形態、君臣の安寧のために必要であったと説いている。「鎖国」は幕末にいわゆる「開国」が問題になってから、「鎖国は祖法なり」という意味で使われだした表現である。実際は、日本は朝鮮と国交を結んでおり、また朝鮮・中国とも通商していたから、厳密な意味では鎖国ではなかった。釜山には倭館が開設された。これは外交折衝の場であり、取引場は、はじめ豆毛浦に設けられたが、1678年に草梁倭館に移された。草梁倭館は広さ10万坪に及び、出島の約25倍である。対馬藩の朝鮮貿易は、17世紀後半に拡大し、長崎の海外貿易をしのぐ勢いをみせた。西洋事情や科学知識も長崎出島を通じて伝えられ、蘭学(洋学)がおこった。大槻玄沢は「新井白石に草創され、青木昆陽に中興し、前野良沢に休明し、杉田玄白に隆盛する」と評した。
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