« 2010年9月 | トップページ | 2010年11月 »
Arletty (1898-1992)。娼婦の妖艶さと、貴婦人の気品を合わせもち、大人の女性の香気を感じさせる。パリ郊外のクールブヴォワで生れる。貧しい家庭に育ち、16歳のとき軍需工場で働いた。その後速記タイピスト、マネキンなどの職を転々として苦労しながら舞台を目指すようになり、22歳のとき夢がかなってリックのレヴューで初舞台を踏んだ。映画入りは1931年。遅いデビューではあったが、その後幾多の名匠たちの作品に出演、人気を呼んだ。ハスキー・ヴォイスで、人間味あふれる悲喜劇を舞台に粋なパリの下町の女房などを演じて、なんともいえないフランス女性の魅力を出した。本業はあくまでも舞台だったが、映画は「ミモザ館」「北ホテル」「あらし」「悪魔が夜来る」「天井桟敷の人々」「外人部隊」などある。1966年に失明するが、数本の映画でナレーションを務める。晩年もラジオに出演して健在ぶりを示した。享年94歳。
日本史の人物を時代順に図書を紹介。「額田王」の著者の阿部静枝(1899-1974)は歌人。
額田王 阿部静枝 創元社 昭和27年
山上憶良 川崎庸之 お茶の水書房 昭和25年
藤原鎌足 田村円澄 塙書房 昭和41年
在原業平・小野小町 折口信夫 大岡山書店 昭和4年
平将門の乱の研究 大森金五郎 冨山房 大正12年
法然と親鸞 木下尚江 金尾文淵堂 明治44年
平清盛 大町桂月 興文社 大正11年
源頼朝 山路愛山 玄黄社 明治42年
曽我兄弟と北条時政 三浦周行 東亜堂書房 大正5年
運慶 滝川駿 圭文館 昭和37年
足利尊氏 佐野学 青山書院 昭和27年
一休・曽呂利・良寛 武者小路実篤 講談社 昭和12年
斎藤道三残虐譚 柴田錬三郎 講談社 昭和44年
織田信長 桑田忠親 角川書店 昭和31年
真田幸村 小林計一郎 人物往来社 昭和41年
徳川家康 山路愛山 独立評論社 大正4年
山田長政 三木栄 古今書院 昭和11年
由井正雪 進士慶幹 芳川弘文館 昭和36年
水戸黄門 坂本辰之助 民友社 大正2年
山鹿素行先生 井上哲次郎 素行会 明治43年
井伊大老と桜田事変 矢橋三千雄 大盛堂 昭和3年
鉄州と次郎長 岡本綺堂 六芸社 昭和13年
公爵山県有朋伝 徳富猪一郎 昭和8年
高杉晋作 奈良本達也 中央公論社 昭和40年
坂本龍馬 池田敬正 中央公論社 昭和40年
汗血千里駒 坂崎鳴々道人稿 雑賀柳香補 春陽堂 明治16年
坂本龍馬 弘松宣枝 民友社 明治29年
幸徳秋水が明治43年6月、伊豆の湯河原で逮捕された。当時、東京朝日新聞の校正係員だった石川啄木(1889-1912)は大きな衝撃を受け、さっそく「時代閉塞の現状」を書く。そのなかで啄木は、「我々青年を囲繞する空気は、今やもう少しも流動しなくなった。強権の勢力は普く国内に行亘っている。現代社会組織はその隅々まで発達している」と述べ、そのような時代の雰囲気を「理想喪失の悲しむべき状態」と表現している。この年のある秋の一日。
時代閉塞の現状をいかにせむ 秋に入りてことにかく思ふかな
秋の文化の日を前に今年もはなやかに叙勲がおこなわれている。やはり「天は人の上に人をつくらず」の福沢諭吉だけに徹底している。福沢は「政治と教育とは分離す可し」という信念をもっており、学者の権威はあくまで尊重されなければならない、と述べた。そのため学者が世俗的な栄位で格づけされことを憂慮していた。その最もあらわな逸話がのこっている。大槻文彦による国語辞典「言海」が完成して出版祝賀の会のあった明治24年6月のこと、諭吉にも出席して祝辞を述べるように依頼があった。そして、諭吉もいったんそれを承諾したが、伊藤博文の祝辞が最初にあることを知って、祝辞だけをおくって出席しなかったという。叙勲にも反対している。「車屋は車を挽き豆腐屋は豆腐を拵えて書生は書を読むというのは人間当たり前の仕事をしているのだ。その仕事をしているのを政府が誉めるというならば、まず隣の豆腐屋から誉めて貰わなければならぬ」(福翁自伝)王貞治や吉永小百合の文化功労賞は国民だれでもが知っている人だけにわかりやすい。政府はこれでは誰も文句あるまい、といいたげである。いかにも幼稚な選考だ。野球や女優を生涯かけて尽力している人が偉いなら、ほかの分野にもいるはずだ。ただ知られないだけの違いである。スポットの当たる人にさらに栄位を与えるのは名声を利用しようとする下心があるとしか思えない。隣の豆腐屋に賞をあげたい。
南方熊楠(1867-1941)が大英博物館で所蔵資料の整理係をしていた1897年3月、ロンドンに亡命した革命家、孫文(1866-1925)と出会う。同じ年の2人は、すっかり意気投合し、孫文がロンドンの清国公使館に拘束されるまで、ほとんど毎日のように会っていた。孫文がロンドンを去るときも熊楠は駅で見送りしている。
夏目漱石(1867-1916)と綱島梁川(1873-1909)と2人が面識あるかは知らない。ほぼ同時期に活躍した人である。漱石の「吾輩は猫である」が「ホトトギス」に発表されたのが明治38年。梁川の『病間録』が同年、梁江堂から刊行している。漱石の『吾輩は猫である、下編』が刊行された年に、梁川の『回光録』がでている。両書は明治末期の大ベストセラーだった。
日露戦争後の社会は、大和魂とふりまわしている風潮があり、漱石などは文明批評や芸術論を繰り広げながら、間接に資本主義体制を批判していた。梁川も病弱ながらも、宗教的体験者として自己省察の道を選んだ。当時の文壇は、独歩、露伴、透谷、緑雨、樗牛などがいた。漱石は朝日新聞だったので、毎日新聞の木下尚江(1869-1937)と比較される位置にいた。綱島梁川の文名を知る人は今日ではほとんどいない。忘れられた思想家といえるだろう。かつては岩波文庫にもあったが、今日入手は難しい。「広辞苑」には簡明に記している。「綱島梁川。思想家、評論家。名は栄一郎。岡山県生れ。早大卒。美術・文芸評論で活躍し、宗教に関心を深め、「予が見神の実験」は反響を呼ぶ。著は西洋倫理学史、病間録」とある。
ささやくような甘い歌声で「低音の魅力」といわれた歌手フランク永井の命日。2年前、肺炎をこじらせ死去した。76歳だった。
若い頃、フランク永井は芝浦の米軍キャンプでトレーラーの運転手をしていたそうだ。事故で退職し、生活費を稼ぐために独学で歌を覚えて、米軍のクラブ歌手となったという。そういえば初期のフランク永井のヒット曲には車に関する曲が多い。「♪つらい恋ならネオンの海へ 捨ててきたのに忘れてきたのに バック・ミラーにあの娘の顔が 浮かぶ夜霧のああ第二国道」(夜霧の第二国道)、「♪からのトラック思いきりとばしゃ ビルの谷間に灯がともる 今日もとにかく無事だった」(13,800円)、「♪おもかげまぶたに裏路へ 出れば冷たいアスファルト 似た娘乗せてゆくキャデラック テイル・ランプがただ赤い」(東京午前三時)。
「有楽町で逢いましょう」などの都会派ムード歌謡もいいけれど、お得意のジャズをもう一度たっぷり聞きたかった。
雑誌「一個人」2010年12月号の特集は「キリスト教入門」である。めずらしや。西洋の書物ではカトリシズムかプロテスタンテイズムか明確であることが多いが、日本におけるこの種の出版では、ほとんど入門的なもので美術書のガイドブックに近いものが多い。
「積んどく」の棚の分厚い本を見る。岩下壮一の「カトリックの信仰」。外題からして明確である。文庫本ながら966頁ある。精緻の限りをつくして述べている本書の著者は何者か。岩下壮一(1887-1940)。東京大学でケーベルに哲学を学び、ギリシア哲学、中世哲学研究のため欧州留学中、司祭となる。吉満義彦らとともに日本におけるカトリック神学研究の先駆者として、昭和14年「カトリック研究」を刊行した。岩下の研究業績は日本では無教会主義者たちによるカトリシズム批判に対抗したものである。原始キリスト教を良しとする信仰が日本にも一般に流布しているが、岩下のようにカトリック神学を理論的に研究した本書は有益なものである。(参考文献:小林珍雄「岩下神父の生涯」昭和36年、井伊義勇「復生の花園 岩下壮一神父の生涯」一路書苑 昭和16年)
おりたちて今朝の寒さを驚きぬ露しとしとと柿の落葉深く(伊藤左千夫)
日本列島は冬型の気圧配置となり、北海道で初雪が観測された。夕刊には今年の文化勲章、文化功労者が発表された。文化と名がつくわりには、図書館界や出版界からの人物がいつもいないのを不思議に思う。いまさら王貞治や吉永小百合など家にトロフィーが山ほどあるだろうに、と思うのは私だけなのか。
明治の東京は地方から上京した青年たちで活気に満ちていた。平成の日本はどうだろうか。明治と比べれると、快適で豊かな暮らしであるのは当然なのに何故か明るく活気に満ち溢れているとは思えない。東京はまだ日本の富が一極に集中するのでましなほうだろう。地方は過疎で限界集落がでている。大都市近郊のベッドタウンはどうか。宝塚の逆瀬川駅周辺はかなり酷い状況になつりりある。近くのパンネルは最近、閉店した。駅前にアピア1.2.3とあるが、アピア3のダイソーは10月限りで閉店する。集客力のある100円ショプに見放されてはもう商業施設としては苦しい。コウヨーというスーパーも数年前に撤退している。個人店も次々と閉店している。「図書館は集客力がある」ということで宝塚メディア図書館が平成21年6月に誕生したが、集客力の挽回の決め手にはならなかった。関西学院の大学生たちが企画して活性化を図るというニュースもあったがどうしたのか。大学は薬物汚染や学生の不祥事でそれどこではないだろう。市民は車で郊外のディスカウント・ショプでまとめ買いをするのだうか。市民ひとりひとりが町の元気をとりもどそうとする日常的に実践をしていないように感ずる。行政やラジオ放送ではイベントをやって都合のいい情報を流しているようだが、町は死屍累々の体である。
明治10年代頃から、加賀屋敷跡に東京大学の各学科ができ、北隣の水戸の屋敷跡は第一高等学校となった。東大の前だけにこの辺りは知識人の町となり、徳田秋声、石川啄木、二葉亭四迷らが住んだ。それに続く千駄木町(もと太田摂津守屋敷)もまた、森鴎外や夏目漱石の家があり、藪下の通りから団子坂の辺りは菊人形や籔そばが名物で明治市民に親しまれた。
ロンドン留学をおえた漱石が本郷区駒込千駄木町57番地に移ったのは明治36年3月のことである。この「猫の家」には明治39年12月7日まで住んだ。この家の持主は友人の斎藤阿具で、仙台の第二高等学校教授であったので、留守を借りていたのである。漱石の住む以前には2年あまり鴎外が住まったことがある。ここで漱石は「吾輩は猫である」を執筆した。漱石は散歩を好む。中川芳太郎の話によれば、千駄木から本郷3丁目の十字路を出て、そこから東に曲がって湯島天神社脇の切り通しを下り、池之端に出て、そこから根津権現様の社内を抜けて帰宅した。ある時は千駄木から上野まで歩いて、そこから電車で浅草までゆき、ここの第六区(私娼のいる家が集合している)という妙な所を通り抜け、公演内の蕎麦屋で腹をこさへて、そこからまた向島一帯の広い通りや、狭い道をあてもなく歩いた、とある。
河田小龍(1824-1898)は文政7年、高知城下片町で土生玉助の長男として生れた。1990年版の「コンサイス日本人名事典」にもその名前はなく、これまで土佐の郷土史でその事績を知るのみであったが、近年、坂本龍馬を啓発した開明派の知識人として評価が高まり、今では広く知られるようになっている。嘉永5年にはアメリカから帰国した中浜万次郎を3ヶ月、自宅に逗留させ、藩命により取調べを行う。その記録は『漂選紀畧』4巻に図版入りで詳細にまとめられている。安政元年、坂本龍馬は築屋敷の寓居を訪ね、小龍より海外事情を聞き、これが龍馬が海外に目を向ける契機となった。「小龍云へるには、従来俸禄に飽きたる人は志なし。下等人民秀才の人にして志あれども業に就くべき資力なく(中略)其人を作ることは君(小龍)これに任じたまへ、僕(龍馬)は外に在って船を得べし」(「藤陰略話」)とある。小龍の門人、近藤長次郎(1838-1866)、新宮馬之助(1838-1886)、長岡謙吉(1834-1872)らはのち、龍馬の亀山社中や海援隊で活躍したが、いずれも短命だったため、河田小龍の名声を伝えることができなかった。龍馬は、京都河原町の酢屋で小龍らの海外新知識をふまえて新政府への展望を長岡謙吉に筆記させて「船中八策」としてまとめた。これはのち「新政府綱領八策」として発展する。現在、高知県立美術館には河田小龍の絵画が多数収蔵されている。(参考文献:松井巌「河田小竜」土佐史談56)
アレクサンドロス大王は哲学者ディオゲネスの評判を聞いて、コリントにいた彼を訪ねた。哲人は酒樽を住まいとし、毎日のんびりと暮らしている。大王は「お前の好きなものは何か。望みがあったら遠慮なく申してみよ」というと、日なたぼっこをしていた哲人は、面倒臭さそうに、「そこに立っていられたのでは日陰になって困る。早くどいてくれ」と答えて、大王を追いはらおうとした。哲人は何よりも束縛をきらい、自由と酒を愛した。大王は、「もし私がアレクサンドロスでなかったら、ディオゲネスになりたい」といったという。
この逸話は世界史の中でも秀逸のエピソードとしてよく知られる。酒を愛し酒樽で寝ているディオゲネスもよいが、教えを請おうとした大王の人柄も好ましいものである。史書によれば、アレクサンドロス大王は人に対しては傲慢さや尊大さはなく、謙譲であったと伝えられる。
きのうは気圧の谷の影響で、近畿は昼過ぎから本降りになった。なんとなく、うそうそと寒い。秋になって初めておぼえる寒さかな。長袖シャツに股引を着る。秋寒、やや寒、そぞろ寒、肌寒、うそ寒。
うそ寒と いひつつ字引 ひきてみる 星野立子
読書の秋。読売新聞の調査によると、「1ヵ月に1冊も本を読まなかった」という人は52%もいるという。話題の電子書籍も「利用したことがある」という人はわずか6%にとどまっている。2010国民読書年の運動はさびしい結果となった。
本との出合いは、新しい価値と文化をつくる。むかし図書館に勤めていたとき、こんな議論があった。どんどん新しい本が棚に並ぶので、古い本を棚から抜いて書庫にしまう。奥付を開いたり、本をみたりしていては時間がかかってしまう。そこで背のラベルに発行年を記しておけば、本の抜き取りに便利だという人がいた。たとえば今年に入った本には2010年だから「010」とすれば人目でわかる。機械的で合理的で除籍作業もスムースになる。でもいい本や絶版になって手に入らなくなった本も作業の流れて書庫に入ったり除籍になってしまうだろう。多少棚づくりはその図書館の生命だから、時間をかけても選書したほうがいいということで、実施には至らなかった。やはりどこの図書館でも選書は大切。選書屋(ブックデザイナー、ブックコーディネーター)という職業や市民に選書をゆだねたりするところもあるそうだが、個別の本だけではなく、蔵書構成を十分に知った選書が求められる。読み手の顔がみえるためには、日々カウンター業務をしている職員でなければいけない。これは大図書館であっても、街頭の小さな文庫であっても同じ。いい本とは新刊とは限らない。むしろ出版年がかなり経過した本に良書は多い。名著とか日本図書館協会が選定しなかった本でも良書はある。むかし公共図書館は選定図書しか買わないというところがあったが、そういう図書館は蔵書が魅力的ではなかった。権威主義から脱したところに図書館の本質がある。
「愚者は食を語り、賢者は旅を語る」というヨーロッパの諺がある。むかしからヨーロッパ人はキリスト教の布教やアラビアの織物、アジアの香辛料、中国のシルクや陶磁器などを求めて商人たちがはるか遠い旅をしていた。プラノ・カルピニ(1182頃-1252)やルブルック(1220頃-1293頃)は、モンゴル人にキリスト教改宗をすすめるためカラコルムを来訪した。2人の報告書は当時のモンゴル、中央アジアを知る貴重な史料となっている。モンテ=コルヴィノ(1247頃-1328)は1294年大都(現在の北京)に到着し、中国でキリスト教を布教した。コルヴィノの要請で新たに7人の司教が中国へ派遣されることなり、うち3人が大都に到着した。しかし彼の死後、布教はふるわず、明朝末期(16世紀末)にイエズス会宣教師が訪れるまで、中国のキリスト教はほとんど消滅した。マルコ=ポーロ(1254-1324)はモンゴル帝国の大都を訪れフビライに仕えた。帰国後、ジェノヴァでの獄中生活で、同囚であったピサの物語作家ルスティアーノ(生没年不明)に口述して筆記されたのが「世界の記述(東方見聞録)」で、この書の中で、当時の日本をジパング(Zipang)と呼び、豊かな黄金の産地としている。ジパングがジャパンに由来するかは不明である。新説に拠れば、中国語のJihon(ジーフン)が16世紀に東アジアに来航したポルトガル人によってヨーロッパ諸語に取り入れたとする。イブン・バットゥータ(1304-68/69/77)はアフリカ、アラビア、イラン、インド、中国などを歴訪した。彼の口述を筆記した著書「三大陸周遊記」(原題「都会の珍奇さと旅路の異聞に興味をもつ人々への贈り物)はアラビア語旅行文学の傑作といわれる。(Ibn Battutah)
土佐の漁師、中浜万次郎(1827-1898)は、天保12年1月、出漁して、難破、太平洋を漂流中アメリカの捕鯨船に救助され、アメリカを放浪、教育を受けて10年後に帰国した。後に幕臣として翻訳・通訳に従事したが、アメリカ東海岸での汽車初乗りの様子をこう述べている。「平常遠足等仕候には、レイロオと唱候、火車に乗参り候。此仕様は、船の形にして大釜に而湯を沸、湯の勢を以て凡一日三百里程も走り、尾形より外輪を覗候処、飛鳥之如くに・・・」と記している。弘化2年(1845)のことである。ジョン万次郎はおそらく初めて蒸気機関車に乗った日本人だっただろう。
「働かざるもの食うべからず」という言葉がある。70歳はあろうかと思われる高級紳士服を着ている老人を通勤電車でよくみかける。重役か医師か弁護士か大学教師かしらないが高給をとっていそうだ。日本では樽の中のディオゲネスはあまり尊敬されない。悪質な中学生に夜間イタズラされそうだ。勤勉な国民性か、老人になっても働くことが美徳であるという社会的風潮がある。もちろん電気、ガス、水道代はもとより携帯などの通信費やレジャーにもかかる。医療費や税金も高額である。老人といえども金がなくては生きてはいけぬ。むかしの蓄えなどはつかい果たした人も多いだろう。無為徒食という四字漢語が否定的に使う人と肯定的に使う人に分かれる。無為徒食は是としたい。働かなくてもいい。もう十分に仕事をされたのだから、あとはあなたのしたいことをゆっくりと人生を楽しみなさい、といいたい。好々爺という言葉がむかしはあったが、そのような老人にも出会うことはなくなった。株や投資でギスギスしていろ老人ばかりである。著述業というのもかってはのんびりしていた。みんな詩歌では生きてはいけないから本業があった。文豪といわれる森鴎外でさえ軍医の職務で多忙だった。斎藤茂吉、木下杢太郎、西東三鬼は医師、加藤楸邨、木下利玄、太田水穂、土屋文明、島木赤彦、釈超空、会津八一、窪田空穂、中村草田男は教師だった。川田順は会社員。臼田亜浪、土岐善麿は編集人。中村憲吉は酒造業。伊藤左千夫、古泉千樫は牛飼いだった。みんな慎ましく暮らしながら芸術的で美的な人生を送っている。むかし著述業だけではよほどの資産家しか存在できなかった。現代は著述業はビジネス産業であり、斎藤孝、中谷彰宏、苫米地英人、勝間和代などの自己啓発本は書店に山積みされている。著者の死後も売れ続ける本ではなそうだが、売文業として割り切っているところが現代的でもある。
市民が知らないところで、地方行政は今とんでもないことになっている。国政に関してはジャーナリズムの指弾は強い。ところが地方行政は新聞記者削減などで独自取材は少なく、行政からのプレスに頼るだけの紙面構成がめだつ。これでは真相はわからない。公務員の収賄事件がなくならないのはなせか。これを個人のモラルの問題だけと捉えるべきではない。行政の構造的なものからくる悪弊が一因である。業者は安定的な収益を得るため、何年間も受注をえたいと考える。担当課長と親しくなるためいろいろ工作を図る。図書館で最も大きい経費はコンピュータ・システムの委託料である。機器はリース契約が一般的であろうが、分館システムのある図書館では年間数千万円になる。5年間契約でも、継続更新すれば10年間で億単位の仕事である。ところがコンピュータというもの一度、納入すればなかなか現場は変更したがらないのが常である。機種が違えば細かいところで操作法が変わる。最近は正規職員だけでなく、アルバイト、委託業者、ボランティアも端末操作をするので、第一歩から説明しなければならない。しかしそれでも同業者が継続することの弊害は大きい。ユーザー会などと称して親睦をはかってくる。職場外で業者との接触は断っているので自分は出席しないことにしていた。目的は館長はじめ有力館員への抱きこみ戦術である。自分はユーザー会にはでないので当然、職場内で干された状態となってしまう。契約切れの時期になると機種選定の書類作成がはじまる。いまでは外部の職員を交えた選定委員会が行われている。もし図書館内部が推薦する機種と違うメーカーがとれば、職場内部からは不平の声がおこるだろう。それでもいい、と思っている。5年ごとに変更することメリットは大きい。現在の技術ではシステム移行はどのメーカーでも可能のはずだ。むしろ業者との癒着を断ち切ることが大切なのだ。いまの図書館はコンピューター会社とマーク会社の奴隷になっている。
イギリスのヒッチコックはアメリカに進出して成功した。その功績はサスペンスを世界中に広めたことだろう。いまでもアメリカの現代劇の主流はヒッチコック流のミステリー&サスペンス劇といってよい。
メイドのアーディー(ルース・ローマン)には幼い息子がいる。いまは親友のジル(アン・フランシス)の屋敷に雇われている。しかしジルの夫ハワード(クラディウス・クーパー)やその母は2人をよく思っていない。ある日、アディーの息子がハワードの貴重な時計を壊してしまったのを機に、彼女を解雇する。アーディーはハワードを毒殺する。しかし、その嫌疑は妻のジルにふりかかった。ハワードの母は日頃からジルの浪費癖や男関係を憎んでいた。法廷ではアーディーの息子がジルの実の子であることが暴露された。ジルは濡れ衣であったが立証する手立てがなくなった。陪審員はジルを疑う。その夜、アーディーは自殺する。1時間ドラマとしては見ごたえ十分である。アン・フランシスやルース・ローマンという懐かしい女優さんにも出会える。この時代の女優は映画よりもテレビドラマに多数出演していたのだ。
フロイトによれば、男根期の男児は、性器に対する関心から、しだいにもっとも身近な女性である母親への愛着を、無意識のうちに強く感じ、父親に対する関心は嫌悪や反感を抱くようになるという。スタインベックの「エデンの東」には青年のエディプス・コンプレクスがよく描かれている。次男のキャルは父から疎まれている。父アダムはピューリタンの信仰にこり固まる古いタイプのアメリカ人。キャルは活動的で享楽的な新しいタイプのアメリカ人。この二つの世代が激しくぶっかりあう。フロイト流の父と子は、性欲と強く結びつけすぎるきらいはあるものの、その学説はアメリカ社会でつよく支持されていたようだ。戦後のアメリカ映画やドラマに父と子の対立を描いた作品は多い。
山手樹一郎は浅草電気館で「ゼンダ城の虜」を見た。フラビア姫を演じたアリス・テリーが綺麗だった。物語はイギリス人のルドルフがルリタニア国へやって来た。国王は戴冠式をあげて、美しいフラビア姫と婚約していた。だが王位をねらう悪のミカエル大公がいる。ルドルフと国王とは遠縁で顔も瓜二つ。姫はルドルフに恋心を抱きながらも、国のため民のためルリタニア王と結ばれる。山手は地方新聞の小説を構想していた。瓜二つの侍とお家騒動の話を翻案しようとひらめいた。桃から生れた桃太郎。右田新二郎という侍が、丸尾城主若木家の双子の兄弟で瓜二つの顔である。「桃太郎侍」はこうして誕生した。
パスカルは生来虚弱であり、健康が次第に衰えたので31歳のとき、ポールロアイヤール修道院に入り、禁欲生活を送ることになった。「人間は自然のうちで最も弱いひとくきの葦にすぎない。しかしそれは考える葦である」と述べている。思想はまず文章を書いて物の考え方をまとめることであろう。そしてブログはもっとも簡便な道具である。歌人の五島美代子は「オドロキ、タメイキ、ココロイキ」を心構えとしたという。それは感動と詠嘆と情熱と言い換えることができるかもしれない。短歌を詠むときだけでなく、ブログの記事を書く場合にも書き手の感動、詠嘆、情熱をありのままに、素直にあらわしたい。
人妻の恋愛が姦通罪に問われた時代に、恋愛の自由を実際の行動にうつして世間の注目を浴びた一組の男女がいた。柳原白蓮(37歳)と宮崎龍介(30歳)。閨秀歌人白蓮は九州一の炭鉱王伊藤伝右衛門の妻でありながら、東京大学の社会思想団体「新人会」の宮崎龍介と恋におちた。大正10年10月22日付の東京朝日新聞には、
「もはや今日はわたしの良心の命ずるままに、不自然なる既往の生活を根本的に改造すべき時機にのぞみました。すなわち虚偽を去り真実につくときがまいりました。よってこの手紙によりわたしは金力をもって女性の人格的尊厳を無視するあなたに永久の訣別を告げます」という公開絶縁状を掲載した。
新聞記者たちは、京都祇園の「伊里」へ殺到した。商用を終えた伊藤伝右衛門は妾が経営しているその料理屋にいた。「そんなばかなことがあるものか」事実を知らされた伊藤は怒り叫び、ただちに毎日新聞にその反論を載せ、世論はこの問題に沸いたという。白蓮の行動を勇気ある決断として声援すべきか、それとも、不道徳の名のもとに糾弾すべきか、白蓮夫人は揺れ動く世論の渦に巻き込まれた。この恋の結末は、白蓮の家族からの除籍と総べての財産没収により離婚が成立した。人妻の恋という奔放な行動で世間を騒がせたふたりの恋の結末は、幸福なものだったといえるであろう。
「小説の神様」といわれる志賀直哉が、ある座談会で太宰を「僕は嫌いだ。・・・あのポーズが好きになれない」と評した。これに対して太宰も何度かの応答の最後には、志賀を「薄化粧したスポーツマン」などと罵倒した。作家のなかには三浦哲郎のように太宰治に私淑する人もいるが、三島由紀夫や松本清張のように太宰を評価しない人も多い。しかし太宰治は生誕100周年を過ぎてもその人気は高まる一方である。
ネットエイジアリサーチが「太宰治に関する調査」(2009年)を実施した。男女553名。太宰治の認知率は97%、「走れメロス」を読んだことがある 92%、「あなたは太宰治が好きですか」は10代女性では54%だった。これは同時代の作家と比較すれば、異常に高い率であろう。たとえば「あなたは横光利一を知っていますか」「『旅愁』を読んだことがありますか」「あなたは横光利一が好きですか」と比べるとよい。(統計は存在しないが)太宰治と横光利一と文壇における地位、原稿料には歴然とした差があったと思う。太宰文学の魅力は志賀も三島も見抜くことできなかったが、卓越した時代性、普遍性、思想性、明朗性があった。自殺、女、酒、道化、薬物中毒、自嘲、デカダンス、あらゆるネガティブな要素がありながら、作品に暗さがない。戦中・戦後という現在とは対極の時代思想にありながら、聖書によって普遍的なテーマを問い続けている。太宰治も偉いが、一般読書もやはりいいものを見抜く目は確かである。現代ならば読者や時代に迎合したり、多くの情報が氾濫しすぎて本質をとらえることができずにいるが、太宰の時代は情報もかぎられており、ただ原稿料のためだけに書くという姿勢が作品の純粋性にとってよかったのではないかという気がしている。最近NHKの番組で太宰治の短編を映像化していた。民話や語りのよさがあり、声に出して読むと新鮮であることを発見した。
日本最古のVサイン。映画「億万長者」(昭和35年)中原ひとみ(右)
同じ身ぶりでも国が違えば意味するところは多様である。例えば、写真を撮られるときによくやる、ピースサイン。日本では全共闘の学生たちがピース(平和)の象徴としたり、グループサウンドの井上順が「ピース、ピース」と言っておどけていた。「サインはV」や「巨人の星」ではチャーチルの「勝利」(victory)の意味として使用している。だが西洋でのVサインの起源はチャーチルよりもずっと古い。三位一体(トリニタス)のシンボルである。だが三位一体という言葉や教理は聖書の中には出てこない。三位一体の教理はイエスやパウロには知られていなかった。キリストの時代よりも何世紀も前に、古代バビロニアやアッシリアには三つ組、つまり三位一体の神々がいた。キリスト教会は使徒たちの死後、それらの異教を破壊したのではなく、逆にれを採用した。聖なる三位一体は古代エジプトから来たのである。
月9ドラマ「流れ星」風俗店で働く梨沙(上戸彩)が自殺しようとするところを岡田健吾(竹野内豊)が助ける。そして、いきなりプロポーズ。実は健吾には難病の妹マリア(北乃きい)がいる。そして肝臓の提供者が必要だ。健吾は以前肝炎を患い、母も血液型が違うため不適合。そして親戚や婚約者にも断れた。6親等内の血縁、3親等以内の血のつながっていない人がドナーの候補者になれる。そこで健吾が結婚して配偶者をドナーにするという契約結婚を考えたのだ。梨沙もペテン師の兄のために借金がある。2人の偽りの愛が真実の愛にかわるのか。ところで気なる外来語のドナー(DONOR)。この語は千年以上も前に日本に入ってきた「だんな(檀那・旦那)」と語源は同じ。仏家が、財物を施与する信者を呼ぶ語。それが妻が夫を呼ぶ語になった。「♪わたしの大事な旦那さま」はドナーと同語だった。ドラマ「流れ星」も「ドナー」と「旦那」を求め合う2人が出会うストーリーが奇遇で面白い。
太田道灌は太田資清の子で、生地は相模、あるいは埼玉県の越生ともいわれるが明らかではない。戦国時代、卓越した大名を輩出しなかった武蔵では上杉謙信、武田信玄、北条氏康の抗争が繰り返された。豊臣秀吉の統一政権により、圧力が強まり、北条氏が惣無事令に違反して真田氏の名胡桃城を攻略したことから秀吉の怒りをかい、1590年小田原攻めによの小田原城が落城し、鉢形、岩村、忍などの武蔵の諸城もあいついで開城し、武蔵の統治は徳川家康によって成された。近代になると、渋沢栄一、渋沢喜作、大川平三郎、尾高惇忠ら実業家がいる。社会運動家の石川三四郎は本庄市。著述家には森村誠一(熊谷市)、石井桃子(さいたま市)らがいる。
瞻前顧後(せんぜんこご) 事に処するに、よく前後を顧慮すること。ことの終始をすべはかること。あまりあちらこちらを顧慮しすぎて態度の定まらぬことをいう。角川小事典「四字漢語」には収録されていない。「広辞苑」にもない。中国では使用頻度は高い漢語である。
永禄4年の川中島の合戦で、上杉謙信が鼻のさきにある海津城を攻めることなしに、ほとんど全力で信玄のいる本営を襲撃しようとした。いわゆる車懸りの陣法といわれる。それは最も速やかに決戦を強いる一か八かの戦法なのだ。だがこの車懸り戦法などというものは、孫子の兵法はじめどの兵法書にも書かれていない。戦国武将にあっては、作戦に関する妙用や戦場の駆け引きにいたっては、主将その人の一心に存するもので、それは記録されるものではなかった。むしろ徳川泰平の世となって、続々と雨後の筍の如く出るというのはどうしたことか。甲州流軍学、越後流、長沼流、荻生流、竹中流、道灌流など兵学全盛となったが、これらすべてが実践むきでないことは幕末維新戊辰戦争などで明らかであろう。
ギグ・ヤング(1913-1978)は32年前の今日、マンハッタンの自宅で自殺した。ギグ・ヤングは戦後映画、テレビ、舞台に多数出演しているが、これといった代表作がなく、地味な二枚目なので印象がうすいかもしれない。「奥さまは魔女」のサマンサ(エリザベス・モンゴメリー)の実生活での旦那だったと日本では紹介される事が多い。ほんとうは名優である。むかしフジテレビで「泥棒貴族」(ザ・クロージャー)という番組があった。3人の男が交代で主役になる。オシャレな中年の紳士だが宝石や絵画をねらう泥棒の話。イギリスのデビッド・ニーブン、フランスのシャルル・ボワイエ。とくるとアメリカではケーリー・グラントがくるかと思いきや、ギャラの関係でギグ・ヤングとなった。いまアメリカの古いTVを見ていると、ギグ・ヤングがよく出ている。
「神は罪のない人間を殺してはならないと教えています。戦争は人を殺します。人を殺す戦争に参加することはできません」キリスト教の伝道師としての信条から入営を拒否し、会津若松の法廷で堂々と訴え、召集不応罪に問われた人がいる。日本で最初の良心的兵役拒否・矢部喜好(やべきよし 1884-1935)である。
矢部喜好は、明治17年福島県耶麻郡木幡村舟引の小学校長矢部喜一・ギンの長男として生まれた。県立会津中学で特待生になったが、明治33年中学3年のころ、会津若松の末世のキリスト教プロテスタントの福音教会(セブンスデー・アドベンチスト)のバイブル・クラスに入り、のちに神戸衛生病院長となった女医野間キクの熱烈な伝道に感銘を受けて入信した。その後東京末世福音教会伝道学校に学んだ。文書伝道にも歩き、本郷団子坂の幸徳秋水の家もそれと知らずに訪ねた。入信をすすめる矢部青年に、秋水は「きみのように単純に信仰ができたら幸せなんだがねえ」といったそうである。
日清戦争後も日本は、富国強兵・軍備増強を進める中、喜好は街頭で戦争反対を呼びかけた。日露戦争が始まった明治38年1月、21歳の矢部喜好は補充兵としての入隊の命を受けたが、徴兵拒否により投獄された。軽禁固2ヵ月。その年5月出獄した矢部に、軍側は「要するに殺さなければいいのだろう。それならば傷病兵の看護をする衛生兵になれ。人殺しの銃ももたずにすむし、キリスト教の愛の精神にも適うではないか」と巧妙に説得し、矢部もとうとう看護卒勤務を承諾させられた。この軍側のとった措置に関して『良心的兵役拒否の思想』を書いた阿部知二も、田村氏の伝記にある「その時代には軍にもそれだけのゆとりがあったのだろう」ということが気になっていたらしい。未亡人の春さんの話によると、日露戦争は英米のあと押しで戦われたので、矢部が英米系の教会所属のキリスト者であることを軍側も顧慮し、いわば遠慮した処置をしたのだろうという伝聞が、姪御さんを通じて阿部知二に伝えられ、同書第五刷のあとがきに加筆している。この件に関して作家の稲垣真美は「その処置がなされるに先立って、当時の福島県知事有田義資がわざわざ連隊長や管轄の仙台第二師団長と協議している。第二師団長も若松まできて矢部に会い、ノートブックに感想を書かせたのを読み、説得しがたいと思ったのか、父喜一を呼んで転向させるように求めた。が、その父も、「人を殺すことはたしかに悪いことにちがいない。いくら戦争とはいえそういう息子の主張をくつがえす論理は私ももち合わせぬ」とつっぱねた。軍側はそこで、再度県知事とも協議し、その間に、すでにアメリカでは南北戦争当時、クェーカーなどの良心拒否者に対し野戦病院勤務や食糧増産の代替勤務を与え、英国にも同様の事例があることを調査し、前述の処置をとったものらしい」(岩波書店「図書 1973年6月)とある。
矢部喜好は入獄と看護兵の軍役を課せられ黙々とそれを果たすと、明治39年、米国に渡ってハウスボーイなどをしながら、米国同胞教会の幹部だったライト(飛行機のライト兄弟の父)の知遇を得て、シカゴ大学の神学部を卒業。9年後の大正4年帰朝すると、東京原宿で同胞教会のオルガニストをしていた春さん(当時24歳)と知り合い結婚し、滋賀県膳所に同胞教会を開設して牧師となって宣教活動を行い、農村伝道を先駆けて行った。大津から琵琶湖畔一帯にかけての農村や工場に自転車伝道し、いつもユーモアに富む快活な牧師として若者や労働者に親しまれた。昭和に入り、満州事変が始まったころは、夜ふけて教会を訪れる者たちと、春さんのつくる握飯をほおばりながら、しきりに平和を説いた。その間の弟子の一人に、のちに同志社大学総長となり、平和憲法擁護で知られた田畑忍もいたという。矢部は地方伝道の無理がたたって倒れ、昭和10年8月、京都府立医大病院で腹膜炎のため昇天した。享年51歳。(参考:田村貞一『矢部喜好伝』日曜世界社 1937、『矢部喜好の生涯』キリスト新聞社 1967)
古代以来、西洋芸術において、詩と絵画は姉妹芸術であり、特にルネサンスからバロックの時代にかけての絵画論は詩学を基礎としていた。19世紀以降、この考え方は大きく変化するが、空間的要素である絵画と、時間的要素である詩を姉妹芸術として競合させようとする運動はラファエル前派にみられた。そして近代的芸術観を模索する若き夏目漱石も留学中ラファエル前派、あるいはアール・ヌーヴォーから影響をうけたことは、疑う余地はない。
明治33年9月漱石はロンドン留学のためドイツ汽船プロイセン号で横浜を出発した。10月21日パリに到着、パリに8日間滞在している。正木直彦(のちの東京美術学校長)の宿舎に行く。渡辺薫之助(文部書記官)の案内でパリ万国博覧会を見る。25日には美術館へ行きビアズリーの展観を見る。世紀末の退廃、幻想と現実との異様に交錯するビアズリーの芸術作品が漱石にどのような影響をもたらしたかは明らかではない。しかし、帰国後の明治39年5月に刊行された『漾虚集』にはパリ、ロンドンで得た芸術的感動の所産とみられるものがある。
NHK大河ドラマ「龍馬伝」福山雅治・龍馬暗殺まで6ヵ月。慶応3年4月23日、夜半。瀬戸内海でいろは丸(168㌧)は紀州藩の明光丸(887㌧)と衝突し、沈没した。紀州藩は御三家の権威を背景に長崎奉行を動かして、政治的圧力を加えようとしたが、龍馬は衝突のさいに甲板には責任ある仕官がひとりもいなかったことが事故の原因として、紀州側の責任であるとした。談判の結果、紀州藩は8万3000両余りの賠償金を払うことになった。世界に通用する公法をもって処置すべしということである。
ところで、尖閣諸島衝突事件で仙谷は、「政府の対応がどうだったかは長い目で見て判断する必要がある」として、自己を小村寿太郎になぞらえたり、柳腰外交などと言っている。では反日デモで壊れされた民間企業はどうするのだろうか。泣き寝入りするか、自前で修理するしかないのか。政治的な問題が背景にあるのだから、政府がきちんと対応すべきであろう。いま国家外交の姿勢が問われている。
ベルリンのドイツ歴史博物館でナチスのヒトラーをテーマとする展覧会が話題になっている。これまでドイツではヒトラー個人を取り上げることはタブーとされていたが、戦後初の大規模なヒトラー展として注目されている。わが国で東条英機展が行われるということはまず有り得ないだろう。しかし東条英機をヒトラーと並べて論ずることにも無理があるだろう。統制派の能吏ではあるが、独裁者とはいえない。またファシズムという概念も違和感がある。昭和16年10月18日の東条内閣成立から69年が経つ。
ファシズムとは高校世界史で重要な用語の一つだろう。もともと古代ローマの儀式用のファスケス(棒束)、転じて団結の意に由来するという。狭義では、イタリアのファシスト党の運動、並びに同党が権力を握っていた時期の政治的理念およびその体制をいう。広義に解釈すればナチス政権のドイツ、日本、スペインなど全体主義的で、議会政治の否認、一党独裁、対外的には侵略政策をとることを特色とする。ところで問題は、戦前の日本の政治がファシズムにあたるかどうか「日本ファシズム論」はなかなか難しい問題である。もっぱら何らかの対象を非難するための用語として使われることがしばしば見られたが、学問的な定義があいまいなだけに、ヨーロッパで見られた政治体制をそのまま日本に当てはめることには無理がある。戦後の一時期、戦前の軍国主義体制への嫌悪から、「ファシズム」とか「超国家主義」とか論文に頻繁に使われたが、もっと歴史の事実に即して分析すると、日本の軍部中心の支配体制は必ずしもファシズムとはいえないものである。既成の天皇制支配機構や議会体制も存続しており、東条英機をヒトラーやムッソリーニと同等に見なすことはあまりに単純である。ナチス・ドイツと比較して考えると、せいぜい戦時体制あるいは軍国主義にすぎず、政治体制としてのファシズムは日本においては成立しなかったという見方が今日では有力である。
巨人がファイナルステージの進出を決めた。阪神とは最後まで紙一重の勝負だった。ポイントは三つ。①シーズン不調の亀井を起用②第二戦の先発に内海ではなく朝井を起用③守護神クルーンをクローザーに使わなかった、これらすべて原監督の采配が的中したわけではない。ただ思い切った奇策を原は選んだのに対して、阪神の真弓は正攻法だった。選手に緊張感と堅さが裏目となり、大事なところで失策がでた。巨人は敵地の甲子園にもかかわらず、のびのびとしており功プレーがでた。勝利の女神がただ巨人に微笑んだだけかもしれない。高橋由伸のホームランが流れを大きく変えた試合だった。
最終ステージ(6試合)には中日に1勝のアドバンテージがあり、中日有利は動かない。ただ短期決戦はシーズンとは違う。クライマックス・シリーズを導入をしてからシーズン3位の球団が日本一になったことはおろか、日本シリーズに進出した例は一度もない。もし巨人が日本一になればCS制度の批判として、「3位チームが日本一」という矛盾が論議になりそうだ。一度死んだ巨人だが奇蹟を起こすことができるか、新たな興味がでてきた。
「茨城」は、古くは「茨木」と書き、『常陸風土記』には、土賊のたてこもった穴を茨でふせいで攻めたという伝説により「茨木」の名が出されたとある。江戸時代10余国の小藩がひしめく常陸国にあって水戸黄門で知られた水戸藩第2代藩主徳川光圀は観農政策の実施に努めた。『新編常陸国誌』の著者、中山信名、反骨の芸人、都々逸坊扇歌は水戸の出身。樺太探検の間宮林蔵は筑波郡谷井田村(現・伊奈村)。水戸藩の会沢正志斎は尊皇攘夷運動に大きな影響を与えた。尊皇攘夷派の藤田東湖、戸田忠敬、武田耕雲斎らは「水戸の三田」と称された。元治元年、筑波山に挙兵し、天狗党と称した藤田小四郎は東湖の子である。アララギ派の歌人、長塚節は結城郡岡田村国生(現・石下町)の生まれ。明治の詩人、横瀬夜雨は郷里の横根(現・下妻市)に取材した詩作が多い。「ソーセージの父」と呼ばれる飯田吉英(1876-1975)は新治郡戸崎村(現・かすみがうら市)の出身。雪印乳業の黒澤酉蔵(1886-1982)は、久慈郡世矢村(現・常陸太田市)の出身。早稲田大学野球部監督で「学生野球の父」と称された飛田穂洲(1886-1965)は水戸市出身。
「没年月日(命日)データーベース」というサイトをよく利用している。今日の命日に昨年亡くなった女優ロザンナ・スキアフィーノと記されている。あまりピンとこない。ああそうか。ロザンヌ・スキャフィーノのことである。(むかしはこのように表記されていた)戦後イタリア映画界はグラマラスな女優を世界に売り込んでいた。シルヴァーナ・マンガーナ、ソフィア・ローレン、ジーナ・ロロブリジータ、ジルヴァ・コシナ、クラウディア・カルディナーレ、そしてロザンナ・スキャフィーナもその一人だった。フランチェスコ・ロージ監督の「挑戦」(58)やマウロ・ボロー二監督の「堕落」(63)は名作だった。残念ながら古いイタリア映画はあまり放送されなくなった。昭和35年から40年くらいの間は、カンツォーネとともにイタリア映画は日本にも多数紹介された。そしてなせか女優といえばスクーターの宣伝によく使われていた。ソフィア・ローレンがラッタッタと宣伝しているのは今でも有名であろう。あのグラマーガールたちもかなりのおばあさんになっているだろう。ちなみにスクーターが世界的に大流行するのは1952年のことである。
天皇の御璽である八咫鏡、草薙剣、八坂瓊曲玉を「三種の神器」という。その起源は、天照大神の時代にまでさかのぼる。天照大神が天の岩戸にこもったとき、神々が八咫鏡と八坂瓊曲玉をつくって榊の枝に祈祷したところ、天照が岩戸から出てきたことに由来する。草薙剣は、スサノミコトが出雲で八岐大蛇を退治したとき、その尾から出てきたもので、天照大神へ献上された。天照がニニギノミコトを地上につかわす際、この「三種の神器」を授けた。
とくに鏡は、天照が「私だと思って、そばに置きなさい」と告げたので、歴代天皇は常に手元に置いていた。だが崇神天皇は、この鏡と草薙剣を、大和の笠縫邑に移してまつり、手元には模造品を残した。やがて本物の鏡と剣は、垂仁天皇の代に伊勢神宮へ移され、ヤマトタケルが遠征に向かうとき、倭姫命が彼に草薙剣を授けた。剣はのちに尾張国の熱田神宮に安置された。なお、八坂瓊曲玉だけは、そのまま天皇家が所蔵している。鏡は1005年、 1040年の2回の内裏の火災で焼けてしまい、かけらのみが現存するそうである。剣と玉は、安徳天皇が壇ノ浦入水する際、いっしょに海中に没してしまった。運よく玉は引き揚げられたが、剣は見つからなかった。そこで剣は模造品を作り、いまは皇居にある。つまり、本物の草薙剣は、今も海底に沈んでいることになる。
ロードショーの映画をみるとなんと時代劇が目立つ。「大奥」(二宮和也、柴咲コウ)、「雷桜」(岡田将生、蒼井優)、「武士の家計簿」(堺雅人、仲間由紀恵)、「桜田門外ノ変」(大沢たかお、坂東巳之助)、「十三人の刺客」(役所広司、山田孝之、伊勢谷友介、沢村一樹)、「最後の忠臣蔵」(役所広司、佐藤浩市)など。このような時代劇復活の背景は何か。①藤沢周平の映画化がみな高水準の作品だった。(「たそがれ清兵衛」「蝉しぐれ」「武士の一分」「山桜」「必死剣鳥刺し」)②大河ドラマで歴女ブーム(「篤姫」「天地人」「龍馬伝」)③「大奥」で若い女性も時代劇をみるようになった。(とくに浅野ゆう子の滝山は秀逸。菅野美穂、安達祐実、池脇千鶴も健闘)これらの要因で長い間、時代劇は年寄りの見るもの、という固定観念が払拭された。④「宮廷女官チャングム」など韓国時代劇の影響。
では、そもそも日本で「時代劇」が何時ころからシネマの王座となったのか。実は大正時代の全盛であった目玉の松ちゃんの映画(旧派)と阪妻などの「時代劇」とでは大きく異なることなっている。関東大震災によって、映画の中心が関西となり、急激に「時代劇」映画が発展した。旧派の尾上松之助映画が舞台的演出で、依然として女形を使っていたのに対して、新興の「時代劇」マキノ映画は、チャンバラがリアルで若い押し出しのよい男が出演して、女優を使っている。もう勝負は明らかであった。松ちゃんの人気も大正の終焉とともに過去のものとなった。変わって新しい時代劇スターが颯爽と活動写真に登場した。阪東妻三郎、月形竜之介、河部五郎、大河内伝次郎、高木新平、市川右太衛門、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、市川百々之助、羅門光三郎などが次々と頭角を現した。昭和初期の映画産業の隆盛のかげには農村不況による都市集中が映画人口を増大させるという社会的背景があった。平成時代劇の復活はなるであろうか。
図書学とは、あまり聞きなれない学問かもしれないが、図書を対象として、これを科学的に研究する学問をいう。大正13年に田中敬の著書に「図書学概論」というのがあり、書誌学と区別する意味で使用された。そのころの図書館員は図書館学が未発達だったので、書誌学をするものが多かった。古い図書館雑誌などを見ると、図書館の研究よりも、書物に関する研究のほうが多い。そして書誌というと英語のビブリオグラフィーやある主題に関する参考文献目録を意味するので、これらと区別するため図書学を長沢規矩也は闡明にした。
ところで「図・書」とは今日ではbookの意味で使われているが、漢籍を調べると、地図と書物という別々のものを指していたらしい。江戸時代の日本人もこのことは理解していたらしく、「圖・書」を「としょ」と読む事はなく、「ずしょ」と読んでいた。つまり「圖」(ず)とは地図のことである、「書」(しょ)が書物のことである。「圖」の「口」は「くにがまえ」で、囲むという意味である。啚は米倉を表した。米倉は耕作地の境界、それを表した地図を意味している。
明治のころ、自分の妻を「細君」と呼ぶのがはやった。「細君」という漢語は、元来、中国の古い言葉で、諸侯の夫人の呼び名が小君だったことから、漢の時代の東方朔が自分の妻を「細君」と呼んで、自分を諸侯になぞらえたのが起源とされる。このように日本人は知らず知らずに中国の言葉や風俗をとりこんでいることに気づかずに日常的に使っていることが多い。1973年の春、廖承志を団長とする友好代表団が来日したとき、折から端午の節句とあって、ある町では歓迎の鯉のぼりが飾られていた。日本側の一人が「中国にもこのような節句がありますか」とたずねたところ、中国の団員は「これはもともと中国の風習であり、それが古い時代に日本に伝わったのです」と言って破顔一笑した。
昨日の国会論戦で「柳腰外交」が取り沙汰された。山本一太が「官房長官が対中政策を柳腰外交とおっしゃいましたが、どんな趣旨か」と質問した。仙谷は「しなやかにしたたかに外交戦略を組んでいくということです」山本は「言葉の起源は唐の時代。女性のしなやかな腰を表現している。女性を表現するときにしか使わない。外交政策を表す言葉としては不適切だと思う。撤回して下さい」仙谷「撤回するつもりはない」として、討議は終わっている。
言葉狩りをするつもりは毛頭ない。そもそも仙谷のいう「柳腰外交」とは意味不明の日本語である。「しなやかな外交」というのであれば「やなぎ外交」か「柳と風外交」で十分であろう。「柳と風に受け流す」という意味ならば理解できる。なぜ「柳腰」なのか。「柳腰」とは「細くてしなやかな女性の腰つき」のことで美人のたとえである。国会で誤用を指摘されたにもかかわらず強弁している。「柳腰外交」を英訳しても正確に海外に伝わらず、誤解をうむ結果となり、国益を損なう。「柳腰」は唐代の語で、その昔は「細腰」と言った。『韓非子』二柄編に 「楚の霊王が細腰の婦人を好んで、国中に餓死者が多くなった」とある。政治家が淫乱になれば、民は苦しむたとえである。柳腰という表現は女性の妖しい美しさを讃えた隠語であり、寄席、茶屋、遊郭などで好まれた言葉だ。春信が描いた堺屋そで、笠森お仙を思い出す。仙谷はお仙が好きなのだろう。だがこのような華美淫楽な風潮が政治に蔓延すると国滅ぶことは韓非が忠告している。やはり中国四千年の歴史には勝てないのだろうか。
韓国ドラマ「楽園」を見る。キム・ハヌル、チ・ジニ。よかった。「天国への郵便配達人」ジュジュン、ハン・ヒョジュも見たい。夕刊をみると松嶋菜々子とソン・スンホンが共演。「ゴースト ニューヨークの幻」のリメイク。韓流はブームではなくて日本に一ジャンルとして定着した感がある。一週間に放送されるドラマの数は100本を越えるだろう。KBSワールドではドラマだけでなく、歌番組やバラエティ番組まで1日中放送している。日韓共同制作のドラマや日韓のスターが共演する夢のカップルも見ることができる。これまでウォン・ビンと深田恭子、チェ・ジウと竹之内豊、イ・ジュンギと宮崎あおい、などがある。共同制作は習慣の違いで大変だとは思うがもっと増えればいい。
ギリシア語でアタラクシア(ataraxia)とは、心の平静、不動の状態をいう。サモス島生まれのエピクロスはアテネで快楽主義を唱えた。すなわち人生の真の幸福は、快楽を味わう生活であり、健康な身体を、心のアタラクシアの中にこそ、永遠の快楽があるとする。ここでいわれる快楽とは官能的な、刹那的な快楽とは全くことなるが、ローマ帝政時代にストア学派の哲学が中心的勢力をえると、エピキュリアン(epicurean)は快楽主義者、享楽主義者としてみなされるようになった。
愛情はふる星のごとく(尾崎秀実)
愛のスイング(池真理子)
青バット(大下弘)
天照皇大神宮教(北村サヨ)
陰獣(小平義雄)
改正憲法私案要綱(高野岩三郎)
街頭録音(藤倉修一)
かへり船(田端義夫)
片岡仁左衛門一家惨殺(飯田利明)
カムカム英会話(平川唯一)
熊沢天皇(熊沢寛道)
経済安定本部(膳桂之助)
経済復興会議(鈴木茂三郎)
芸術祭(今日出海)
芸能人代議士(石田一松)
憲法調査会(鈴木安蔵)
公民館構想(寺中作雄)
国民の国語運動連盟(安藤正次)
児玉機関(児玉誉士夫)
サザエさん(長谷川町子)
産別会議(聴濤克巳)
璽光尊(長岡良子)
思想の科学(鶴見俊輔)
ストラディヴァリウス(諏訪根自子)
住友令嬢誘拐事件(樋口芳男)
青春のパラダイス(岡晴夫)
世界救世教(岡田茂吉)
旋風二十年(森正蔵)
創価学会(戸田城聖)
第二芸術(桑原武夫)
脱脂粉乳(近藤正二)
多羅尾伴内(片岡千恵蔵)
堕落論(坂口安吾)
東京裁判(東条英機)
東宝争議(大河内伝次郎)
都市文化協会(藤山愛一郎)
日本の悲劇(岩崎昶)
日本ローマ字会(田中館愛橘)
バターン死の行進裁判(本間雅晴)
二十歳のエチュード(原口統三)
話の泉(和田信賢)
婦人刑務所(三田庸子)
婦人民主クラブ(加藤シヅエ)
復興期の精神(花田清輝)
プラカード事件(松島松太郎)
偏奇館炎上(永井荷風)
マッカーサー暗殺未遂(荒井照成)
マレーの虎(山下奉文)
麗人の歌(霧島昇)
我が恋せし乙女(井川邦子)
別れても(二葉あき子)
赤旗復刊(徳田球一)
硫黄島(栗林忠道 西竹一)
一死大罪を謝す(阿南惟幾)
移動劇団さくら隊(丸山定夫)
お山の杉の子(吉田テフ子)
憲法改正(松本蒸治)
サイクロトロン(仁科芳雄)
青酸カリ(近衛文麿)
戦艦ミズーリ号(重光葵)
戦艦大和(伊藤整一)
特攻(大西滝治郎)
東京ローズ(アイバ・郁子・戸栗・ダキノ)
長崎の鐘(永井隆)
夏の花(原民喜)
日米会話手帳(小川菊松)
ポツダム宣言(鈴木貫太郎)
リンゴの唄(並木路子)
アラフォー(クルム伊達公子)
安打(マートン)
アンネ(赤染晶子)
改竄(前田恒彦)
奇兵隊(菅直人)
強制起訴(小沢一郎)
ゲゲゲ(向井理)
国会内撮影(蓮舫)
ザック監督(ザッケローニ)
3位優勝(西村徳文)
将棋ソフト(清水市代)
総裁(白川方明)
体外受精(野田聖子)
帝人(根岸英一)
伝書鳩(鳩山由紀夫)
投壊(原辰徳)
ドラフト(斎藤佑樹)
二宮金次郎(鈴木章)
日本女子オープン(宮里美香)
秘書落選(岡部まり)
不登校(愛子さま)
弁護(弘中惇一郎)
野球賭博(琴光喜)
郵政不正事件冤罪(村木厚子)
楽天(星野仙一)
龍馬(福山雅治)
連勝(白鵬)
Q10(前田敦子)
PK戦(駒野友一)
SPEC(戸田恵梨香)
二枚目俳優池部良が敗血病のため東京都内の病院で死去した。92歳だった。映画「海潮音」を観たが池部良は生涯二枚目を演じた俳優だった。これで大正生まれの二枚目スターは三國連太郎(大正12年生まれ)しかいなくなった。あとに続く昭和ヒト桁生まれは、若くして亡くなっている人が多い。昭和5年の二谷英明、昭和6年の宇津井健、高倉健、昭和7年の仲代達矢、昭和8年の宍戸錠、菅原文太、昭和9年の宝田明、長門裕之と続く。里見浩太朗(昭和11年生まれ)が水戸黄門に扮した時は驚いたが、若大将加山雄三(昭和12年生まれ)が老人役をする日がやってくるのだろうか。
NHK大河ドラマ「龍馬伝」。血なまぐさい幕末動乱の中で、健気にも志士と行動をともにする女性たち。真木よう子の「お龍」、中村ゆりの「おうの」。楢崎龍(1841-1906)は龍馬が近江屋で斬殺されたあと、嫁家坂本家にとどまらなかった。乙女と衝突したともいわれる。坂本家を去ったあと、明治6年、妹の起美の嫁ぎ先の菅野覚兵衛(海援隊隊士)を頼り奇遇(築地)。ここで商人の西村松兵衛と明治8年、再婚する。入籍時に「西野ツル」と改名している。晩年は横須賀の退職海軍軍人工藤外太郎の庇護を受け余命を送った。墓は横須賀信楽寺にある。おうの(1843-1909)は晋作が病死したあと、剃髪して梅処尼と称し、晋作の菩提を弔っている。このほか明治の顕官になった者たちは、遊里の名花を妻にしたものが多い。桂小五郎の幾松(木戸松子)、伊藤博文のお梅、井上馨の君尾、陸奥宗光の小鈴などである。龍馬の妻お龍だけは経済的に苦労したが、死ぬまで龍馬の妻だったことを誇りにしたといわれる。
シャルル・ボワイエ(1897-1978)というハリウッドとフランス映画に出演した往年の二枚目スターはいまでも語り継がれる人である。それは愛妻の死から2日のちに、あと追って自らの手で命を絶ったからである。シャルルがイギリスの女優パトリシア・パターソンと熱烈な恋愛のすえに結婚したのは37歳のころ、ようやくスターになりかけた頃だった。2人ははためにも羨む仲だった。ところがパトリシアは肝臓癌に冒された。医師はシャルルに病名を伝えたが、彼はとうてい妻に話す気にはなれなかった。それから半年、シャルルは片時も妻の傍をはなれず、彼女を慰め、励まし、献身的な看病をした。しかし、彼の誠意をもってしても医療の効はなく、妻は息をひきとった。シャルルがアリゾナ州フェニックスの自宅で自殺したのは妻の死から2日後のことだった。ところでシャルル・ボワイエといえば世界で一番多くの美女と共演したことのある男優としても知られる。クローデット・コルベール(白い友情)、キャサリン・ヘップバーン(心の痛手)、ダニエル・ダリュー(うたかたの恋、たそがれの女心)、マレーネ・デートリッヒ(沙漠の花園)、ジーン・アーサー(歴史は夜作られる)、グレタ・ガルボ(征服)、へディー・ラマー(カスバの恋)、アイリーン・ダン(最後の抱擁)、ベティー・デービス(風もこの世も天国も)、マーガレット・サリバン(裏街)、ジョーン・フォンティーン(永遠の処女)、イングリッド・バーグマン(ガス燈、凱旋門)、ジェニファー・ジョーンズ(ルービッチの小間使)、アン・ブライス(モナリザの微笑)、マルチーヌ・キャロル(女優ナナ)、フランソワーズ・アルヌール(幸福への招待)、ブリジッド・バルドー(殿方ご免遊ばせ)。これらの銀幕の美女と恋を演じたあと、私生活では妻一筋に永遠の愛を貫いた男も稀であろう。
透明人間ほど映画と相性のよう題材はない。特撮技術の効果で観客はビックリさせたり、創造を大きくふくらませられる。薬品によって姿が消えるという奇抜なアイデアは19世紀末のH・G・ウェルズのものだが、早くもトーキー初期クロード・レインズ(あのカサブランカでバーグマンの脱出を見逃した粋な警視)が包帯を巻いた透明人間に扮している。この映画を真似て大映が「透明人間現わる」(1949)を戦後つくった。当時の観客は透明人間(小柴幹治)がタバコを吸うシーンに驚いた。また占領下で剣戟映画のスターが出演している。月形龍之介が中里博士を、羅門光三郎が捜査刑事を演じている。宝石泥棒たちのアジトには神戸の移情閣がロケで使われている。孫文が亡くなる前年にここを訪れているので、孫文が消えてわずか25年後の移情閣の映像である。羅門光三郎はその後消息不明で没年すらわからない。夏川大二郎、喜多川千鶴、水ノ江滝子、上田吉二郎、杉山昌三九など出演者たちももうこの世にはいない。
今年のノーベル賞で一番の話題は獄中の劉暁がノーベル平和賞を受賞されたことだろう。これに対して中国政府が抗議している。かつてヒトラー政権下でオシエツキーが受賞したことや、ソビエト時代のパステルナーク(受賞を辞退)やソルジェニーツィンを思いおこさせる。村上春樹がノーベル賞を受賞すると期待している日本人は何やらとても暢気な国民のように思えてくる。どうやら花鳥風月を好む日本人は文学をいまだにファッションやブランドのように考えているフシがある。芥川賞、直木賞の作品に世界文学に比するものがないのも淋しい。最近の芥川賞作品に骨太で志のあるものが無くなったのも日本の状況なのだろう。売れることとトレンド、これしかないのが哀しい。ノーベル賞の選考は、物理学や化学賞のように学問研究の業績にかかわるものは一般人には公正なものかどうかわからないが、平和賞や文学賞になると委員会の気骨というか意思がみえてくるので注目されるところである。かつてイギリスの首相チャーチルが受賞したのが、平和賞でなくて文学賞だったのも、戦勝国側の栄誉を露骨に現すことを避けたためだろう。ちなみにノーベル賞に数学賞がないのはなぜか?一説によると、ノーベルが恋人を数学者に取られたからといわれている。
図書館を退職して、自宅で家庭文庫を開設してはや一年半。いまだ地域にどのようにとけ込み、人と本とをつなぐお手伝いができるか模索が続く。浪江虔さんの体験録を読んでも軌道にのるまで相当の歳月がいることは知っている。あるとき、「みんなの図書館」のバックナンバーを読んでいると、「文庫を訪ねて」というシリーズがあるのを知った。1982年11月号は大分県緒方町の「思惟の家」大分県立図書館の松尾則男の報告だった。緒方町は大分県の南西部に位置し、2005年の町村合併により現在は豊後大野市に編入されている。文庫は畑の中に普通の簡易住宅といった感じの建物である。松尾は農夫に場所を尋ねたが、知る人はいない。「思惟文庫」という名では知れ渡っていない。通りすがりの中学生3人が、口々に「あっ、あん家じゃん」と指をさしてくれた。文庫を開設した渡部幹雄さんの奥さんが案内してくれた。蔵書は約2000冊で、「世界の名著」「世界の歴史」といったシリーズ物が多い。机とストーブがある。貸出期間は2週間、1人2冊まで。隣の和室では町の青年たちの「たまり場」になっていて夜に勉強会のようなものがある。渡部さんの夢は雑学大学をつくること。町の青年だけでなく、国境を越えて世界に開かれたものにしたいらしい。ネーミングの「思惟」に渡部さんの「考える読書」というコンセプトがわかる。家庭文庫というと絵本を中心とした子ども文庫をイメージするかもしれないが、一般対象の「世界の名著」をメインとした蔵書構成に惹かれるものがある。もともと渡部さん個人の蔵書から成り立っているのであろう。あれから30年が経過するので、いまも継続されているかはわからない。自分が開設した「女性の書斎・ひとり好き」も渡部さんの心と通じるものがある。なにも冷泉家文庫だけが文庫であるとはおもわない。嘉禄2年の古今和歌集は貴重な文化遺産であるが、近所のスーパーのチラシは一ヵ月のちはどこで探しても保存されていない。むしろ古きものは大事にするが新しきものは保存しない。スーパーのチラシを国立国会図書館に保存せよといっても無理であろう。そういうことで新聞折込のチラシは地域資料ということで公共図書館が保存の役割を果たすべきという考えが1980年代に起ったが、いつのまにやら下火になってしまった。家庭文庫は1970年代から1980年代までは各地に開設されたが、土地の確保や利用者のニーズの多様化のため維持が困難になってきた。「国民読書年」という運動が掛け声だけに終わらないためにも、1980年代ごろあった小さな文庫活動を史的に検証することが必要ではないだろうか。
なお余談であるが、報告者の松尾則男は、あの日露戦争での広瀬武夫とのエピソードで知られた杉野孫七のことを後年調査している。「生きていた軍神杉野兵曹長の足跡を追う」(平成10年)の著作がある。
文学作品のモデルを詮索することは通俗的な趣味であろうが、ブログ記事としては面白い題材であろう。
鹿鳴館が開館したのが明治16年11月。アメリカから帰国した山川捨松が大山巌の後妻となったのは同年12月の事だった。若き大山夫人捨松は、名流婦人たちの中でも、ひときわ夜会服が似合った。だがこの大山夫人が後にはなんと徳富蘆花の『不如帰』では浪子をいじめぬく継母のモデルといわれるようになった。真相はわからないが。
森鴎外が漱石の『三四郎』に対抗して書いた小説『青年』。これをよめば明治末期の文壇がわかる。作家志望の青年・小泉純一が東京でさまざまな体験をする。このころ鴎外は歌人を観潮楼に招いて歌会を開いていた。医学生で西洋の文学に詳しい大村荘之助は木下杢太郎がモデルだといわれる。そして小泉純一は石川啄木だといわれる。裕福な小泉とは境遇が異なるものの、「スバル」の編集人だった啄木に鴎外が興味を覚えたことは十分に考えられる話である。
いまも個性豊かでエネルギッシュに活躍している俳優の赤塚真人。昨夜、夏木陽介の映画「でっかい太陽」(松森健監督)を見ていると、学生の一人で出演していた。小柳徹くんはその2年後に交通事故で早世している。同じクラスの生徒役で今も活躍している人はいないだろう。当時16歳。同じ頃テレビで高瀬昌弘監督「でっかい青春」「進め!青春」にもレギュラー出演している。赤塚は多数青春ドラマには出演していた記憶がある。そして中年になってから「高校聖夫婦」では偽装結婚したテンコとシュンをいじめる嫌味な教師を演じている。脇役人生だがいつもアクの強さを発揮してドラマを盛り上げている。古いドラマを見るとなぜか脇役に親しみを感じるのは自分だけだろうか。
江戸幕府は海外との貿易を統制し、キリスト教を禁止するという対外政策を進めた。いわゆる鎖国政策ということは小学生でも知っているが、実際は長崎をはじめ、薩摩・対馬・松前の「4つの窓口」を通して海外交流がおこなわれていた。
島原の乱後、寛永16年(1639)、幕府はオランダ人以外の西洋人が日本にくることを禁じ、オランダ人も長崎の出島だけに住まわせて、かつてに貿易することを禁じた。もともと鎖国は禁教を目的とするもので、貿易を縮小制限するものではなかった。「鎖国」という語は、1801年に長崎のオランダ通詞志筑忠雄がエンゲルベルト・ケンペル『日本誌』の一節「今日の如く、自国を鎖して国民をして国の内外において外国人と通商せしのないことが、日本にとりて利益なりや否やの検討」という項目を翻訳したとき、「鎖国論」と題したことにはじまる。ケンペル自身は日本の鎖国を国家の統治形態、君臣の安寧のために必要であったと説いている。「鎖国」は幕末にいわゆる「開国」が問題になってから、「鎖国は祖法なり」という意味で使われだした表現である。実際は、日本は朝鮮と国交を結んでおり、また朝鮮・中国とも通商していたから、厳密な意味では鎖国ではなかった。釜山には倭館が開設された。これは外交折衝の場であり、取引場は、はじめ豆毛浦に設けられたが、1678年に草梁倭館に移された。草梁倭館は広さ10万坪に及び、出島の約25倍である。対馬藩の朝鮮貿易は、17世紀後半に拡大し、長崎の海外貿易をしのぐ勢いをみせた。西洋事情や科学知識も長崎出島を通じて伝えられ、蘭学(洋学)がおこった。大槻玄沢は「新井白石に草創され、青木昆陽に中興し、前野良沢に休明し、杉田玄白に隆盛する」と評した。
鈴木章・北海道大名誉教授と根岸英一・米パテュー大特別教授がノーベル化学賞を受賞された。苦学されたお2人の受賞を心から喜びたい。鈴木さんはあるときブラウン博士のテキストを読んだ。それまで数学を専攻していたが、化学の世界にわくわくする喜びを感じた。本は700頁以上の厚いものだがアジア人向けのザラ紙でできた粗末なもの。鈴木さんはボロボロになるまで何度も読んだ。人の運命をかえた一冊の本というのは基本的なことが書かれているテキストや概説書のようなものが多い。いま書店に多く平積みされて売られている「あなたの運命を変える黄金の七つの法則」などという類の本で道を拓くことができるだろうか。もちろん鈴木さんは「北海道の二宮金次郎」といわれるほどいつも読書していたそうだが。ともかく一冊の本との出合いは大切である。
森鴎外は明治25年に本郷区駒込千駄木町21番地の団子坂の家へ越した。団子坂の別名潮見坂の名に因み観潮楼と呼んだ。その2階から眺めると、はるか彼方に品川沖の白帆が見えたという。この2階12畳の一間は、幸田露伴、斎藤緑雨、森田思軒、饗庭篂村、依田学海、上田敏、小山内薫らが集まり文学サロンとなった。休みの日は来客が多く、平日は陸軍軍医という多忙な勤務におわれている。あの膨大な著作は何時書かれたのであろうか。いきおい、睡眠時間を削って夜中まで著述したのであろう。こんな話がある。鴎外宅の前に下宿してきた学生が、鴎外の書斎の明かりを見るうちに、自分も勉強を続けてみようと試みたが、いつまでたっても明かりが消えないので、とうとう根負けして眠ってしまった。鴎外は深夜まで著作に励んでいた。あの名作は夜つくられた。
東北・仙台を本拠とする新球団・楽天イーグルスができのは6年前。以来、成績は6位、6位、4位、5位、2位、6位。今季は62勝79敗、勝率 0.440。マーティー・ブラウン監督はわずか1年で解雇。後任として星野仙一が噂されている。「仙一」とは験がよい名前だ。「仙台を一番にする」と。しかし来季、エースの岩隈がメジャー移籍するので、戦力低下は明白である。東北の悲劇は明治初期の失敗した野蒜築港を想起させる。士族の授産として、東北地方に近代的機能を備えた野蒜港が計画されたことがある。明治11年に着工したが、激浪と土砂による埋没が予想以上に激しく、明治17年の松方デフレによる農村不況のため工事費が予算化できず、築港は挫折せざるをえなかった。いまも鳴瀬川河口付近には当時の石積が残っている。
水滸伝説話が発生したのは、北宋の末年から南宋の初めにかけてであるが、これが講談になり芝居になって語り継がれていき、ほぼ現在の形の水滸伝にまとめられるようになったのは、明の初め頃といわれる。その編者である施耐庵の詳しいことは長く不明であったが、近年に墓碑銘が発見されたことにより、大体のことが明らかになった。本名を施子安といい、字を耐庵という。1331年に科挙に合格し進士となったが、2年ほどで役人生活を辞め、故郷の白駒に戻って著述に専念した。「水滸伝」は門人の羅漢中(1330頃~1400頃)と共作した。張士誠(1321-1367)に招かれたが固辞し、災いのおよぶのを恐れて淮安に移って同地で75歳くらいで没した。これらから推測すると、施耐庵の生没年は、1296年頃~1370年頃となる。
日本海に面する旧家に宇島理(池部良)と娘の伊代(荻野目慶子)が暮らしている。母親は娘の幼時に他界している。ある日、理が海岸で行き倒れになった女(山口果林)を助ける。女は忘れたい過去があるようで、記憶がもどらないまま理の家で暮らすことになった。理は女に妻の服を着せて、愛するようになる。ある夜、理が女を強姦するところを、伊代がみて猟銃を向けようとする。そのことがあってから、女の記憶はかすかに戻り、家を出て行く。荻野目慶子15歳、映画デビュー作といってよい。「海潮音」(1980)は「南極物語」(1983)よりも前。ATG映画なので一般には知られなかった。監督の橋浦方人もその後作品を残していない。この映画は荻野目慶子の少女期の代表作であり、南極物語よりも思春期の性が描かれている。一般的な評価は低いかもしれないが、ケペルとしては★★★★である。池辺良は「雪国」「暗夜行路」など日本的風土の文芸作品が得意なので、この作品も重厚な感じを与えている。それと日本海の荒波の暗い寂寥感。脇の泉谷しげる、烏丸せつこ等が個性を出している。脚本も橋浦のオリジナルだが、鶴女房譚を現代におきかえた発想は面白い。荻野目が猟銃を構えたところは、薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」と対比される。荻野目と薬師丸とは共通項が多い。①1964年生まれ②デビュー期もほぼ同じ③小柄で声質が高音④高倉健との共演でスターになった⑤猟銃と機関銃⑥女優としての意識が高い、ふたりが今後もどのような演技をするのか楽しみだ。
軌道の上を走る馬車を鉄道馬車、または馬車鉄道といった。いまから150年ほど前にイギリスで発達した。発祥地はイングランド北西部マージーサイドの工業都市バーケンヘッド。19世紀初めまでは一寒村にすぎなかったが、ウィリアム・レアードが造船所やドックを建設し、港湾都市として発展し、製粉工場もできた。このためアメリカのC・F・トレインがイギリスで初めて鉄道馬車を開設した。これに続いてロンドンに3つの路線が開設された。鉄道馬車が最初にアメリカに導入されたのは1850年代であるが、その後20年のあいだに、欧米で急速に広がった。日本では明治15年に東京市街鉄道馬車が新橋~日本橋間にまず開通し、つづいて上野~浅草雷門~横山町を通って本町で本線と連絡された。明治36年まで東京では営業され、東京以外の地では昭和のはじめまで残っていた。
ぴあシネマクラブという分厚い本がある。映画のデーターベースであり、あらすじや配役が記されている。そこには7段階★★★★の評価の「おすすめ度」も載っている。だがあくまで編集者の評価であって、個人個人がその映画を見て面白いか、つまらないかは必ずしも一致しないことがある。BS放送の「クリスタル殺人事件」(1980)を見た。評価は★1/2と低い。アガサ・クリスティ・ミステリー・シリーズの第3作ながら、真犯人がエリザベス・テーラー(78歳)というのは何となくネタバレの感ありで、老人ばかりの配役で若い人には退屈な映画かもしれない。しかしエリザベス・テーラーとロック・ハドソンの共演は「ジャイアンツ」(1956)を思い起こさせる。先日、85歳で亡くなったトニー・カーチスもでている。懐かしいキム・ノバク(77歳)。アンジェラ・ランズベリー(84歳)は「緑園の天使」でリズのお姉さんの役だった。芸能界の内幕も感じられてアイロニーのある映画だと思うのでわたしの評価は★★★。
「スピード」(1994)ヤン・デ・ボン監督 キアヌ・リーブス サンドラ・ブロック デニス・ホッパー わたしの評価は★★★★無名だったSandraはこの映画によって一躍スターになる。「デンジャラス・ビューティー」「クラッシュ」「イルマーレ」「あなたは私の婿になる」など。
「余命1ヵ月の花嫁」(2009) 榮倉奈々 瑛太 手塚理美 柄本明
「さよならみどりちゃん」(2004) 星野真理 西島秀俊
「タイヨウのうた」(2006) YUI 塚本高史
「かもめ食堂」(2006)萩上直子監督 小林聡美 片桐はいり もたいまさこ
いまの日本に正義などというものがあるのだろうか。ある日、あなたが全然身に覚えのない容疑で不当に逮捕されたとしたらどうするだろうか。信頼のおける弁護士を知っているだろうか。現代は自分の潔白は毅然と自分で守らないといけないことを痛感させられる。検察、警察への不信。政治への不信。冤罪といわれる高級官僚もバックに優秀な弁護士がいたから勝ったまでのこと。道義的なことは不問となった。松本清張の「霧の旗」は兄の弁護を引き受けてくれなかった弁護士への復讐の話だ。政治家、実業家、高級官僚、医師、弁護士、教師、聖職者。社会のエリートたちが互いにせめぎあいをするのが現代の構図だ。いずれも生産に直接たずさわることもなく、汗を流すことなく、高収入を得ている人たちである。その地位に対する執着ぶりは凄まじい。もしも裁判員制度にかけられて、あまり裁判に関心のない裁判員の心証だけで理非を決められとしたら理不尽なことであろう。それも短期間に。まだ裁判員を扱ったドラマは見たことないが、アメリカ映画やドラマでの陪審員というのは、いつも群衆心理が働くことを警戒しているようだ。公正な裁判をのぞみたい。
プロ野球ペナントレースも終幕が近づき、球団の売却、監督の更迭、主力選手の戦力外通告がスポーツ新聞を賑わしている。楽天の岩隈久志が海を渡り、ハンカチ王子斉藤祐樹がプロの世界へ。松井秀喜は何処へ。史記に「敗軍の将はもって勇を言うべからず」とある。リーグ4連覇を逃した原辰徳の胸中やいかに。同じく司馬遷の言葉に「四時の序、功を成す者は去る」とある。小沢一郎の秋がゆく。
1950年代の終わりごろ、豊かな経済フームの最中にポピュラー・アート、あるいは短かくしてポップ・アートがイギリスとアメリカで同時に生まれた。これまでのエリートの抽象美術ではなく、もっと広く大衆のための芸術の解放のようなものであった。リチャード・ハミルトン、トム・ウェッセルマン、クレス・オルデンバーグ、デイヴィッド・ホックニー、そしてアンディ・ウォーホルが現れた。音楽でも1966年、ロジャー・ミラーの「イギリスは時計の振り子のように揺れている」というフレーズのある曲が流行っていた。そしてイギリスの4人グループのビートルズはまたたくまに世界的な人気者となっていく。日本でも欧米の影響を受けて前衛美術は昭和初期から移入された。しかしそれらはいずれも模倣にすぎなかった。吉原治良(1905-1972)は藤田嗣治から「他人の影響がありすぎる」と批判され、20年後芦屋で具体美術協会を率いて活動を始めた。藤田の言葉「人のまねをするな」が吉原自身の言葉となって「誰もやらないことをやれ」が具体のモットーとなった。しかし、具体美術協会は吉原の死とともに解散する。なぜ日本では前衛運動が大きく展開しなかったのか。やはりポップアートのような大衆に開かれた芸術でなかったことに一因があるように思う。吉原治良は吉原製油の社長の子息であり、実業家である。ジョン・レノンの妻オノ・ヨーコが安田財閥の令嬢であるように、日本では芸術は有産階級のものであった。最近は吉原の出身校である関西学院や芦屋市が美術館で前衛美術を顕彰しているが、大衆に支持されたものでなければ大きなうねりとはならないであろう。
最近のコメント