1577年、松永弾正、自害する
松永久秀(1510-1577)はもともと山城国西岡付近の商人だったという説もあるが、その氏素性は明らかでない。久秀が織田信長に仕えていたときの話である。徳川家康が信長に謁見した際、その席に一人の老人がいた。家康がその老人に、すこぶる慇懃に挨拶すると、信長がこう言ったという。
「この男は松永弾正という者で、そんなに丁重に挨拶する相手ではない。もともと小身であったのを、三好長慶に取り立てられたのに、主家に叛いたような、心のゆるせない男である。だいたいこの男は他人のまねのできないことを三つやってのけた。一つは主家の三好氏を倒したこと、二つは将軍足利義輝を殺したこと、三つは奈良の大仏を焼き払ったことである」
この信長の紹介を聞いて、さすがの久秀も赤面して、頭から烟を立てるた。天正5年の信長の石山本願寺攻めのとき、謀反した理由の一つは、この信長の侮蔑の言にあったという。信貴山城にこもった久秀は、織田信忠軍に攻められ、城に火をかけて自害した。この日、10月10日は、10年前、久秀が東大寺大仏殿を焼き払ったその同日、同時刻だったため、人々は春日明神の祟りだと噂しあった。(参考文献:「備前老人物語」)
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