イタリア教皇領(ピピンからガリバルディまで)
ローマを中心とし、ローマ法王を君主といただく独立国家は、いまはわずかにヴァチカン市国にその名残りをとどめるが、8世紀から19世紀までは独立国家としてイタリア中央部に君臨していた。
5世紀の西ローマ帝国の滅亡後、ローマ皇帝に代わって政治の中心となったのはローマ教皇であった。とくにグレゴリウス1世は世俗支配権を著しく強めた。8世紀前半には教皇は完全な独立君主としてロンバルディア王国と対立していた。教皇ステファヌス2世は、754年フランク王国に援助を求めた。ピピン(小ピピンともいう)は、教皇ザカリウスの承認のもとに敵対王ヒルデリヒを廃して、王位につき、カロリング朝をひらいた。そしてイタリアに遠征し、ランゴバルド族を破り、ラヴェンナおよびペンタポリス地方を教皇ステファヌス2世に寄進して、教皇権との結びつきを強めた。いわゆる「ピピンの寄進」(756年)により、教皇領が成立した。カロリング朝衰微の後は、神聖ローマ帝国の庇護の下に教皇領も成立した。15世紀以後のルネサンス教皇時代には、権勢欲の強い教皇により領土は拡大された。しかし宗教改革以後ふたたび領土は縮小したが、教皇の支配権はむしろ安定し、ナポレオンのイタリア征服により、1808年、一時まったく解消した教皇領は、ウィーン会議によって復活したものの、自由主義の波に押され、ついに1861年イタリア統一の犠牲として、縮小されて、1870年にはヴァチカン市のみを残して他の領土を失うにいたった。
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