因伯人国記
中国地方北東部、山陰地方の東部にあって日本海にのぞむ因幡・伯耆両国32万5000石。伯耆といえば富士山に似ているので伯耆富士の名がある大山(だいせん)。紀成盛は大山寺の再建に尽くした。また鎌倉時代に佐々木高綱が山陰守護となる。南北朝時代には名和長年(?-1336)は隠岐から脱出した後醍醐天皇を船上山に迎えて守護佐々木清高と戦う。山名氏は室町時代に強力であったが、戦国時代、山名豊国(1548-1628)や吉川経家(1547-1581)は豊臣秀吉の攻撃を受けて降伏。17世紀初めから池田長吉が封ぜられ、池田光政、池田光仲と江戸時代には池田氏が2国を統轄した。藩祖光仲から明治まで12代が続く。最後の藩主池田慶徳(1837-1877)は、将軍慶喜の異母兄。
近世初期には、大山寺の復興に努めた豪円(1535-1611)、米子城主・中村忠二の重臣・横田村詮(1552-1603)が知られている。また町人として元和年間(1615-1623)、竹島に漂着占拠、以後80年間、竹島から物資の採取を続ける端緒を開いた米子の大谷甚吉(?-1618)、村川市兵衛。また幕末多額の献金をおこない、藩の許可のもとに反射炉を設け、1857年から洋式大砲の鋳造を始めさせ、さらに私設の農兵隊も編成した八橋郡瀬戸村(大栄町)の豪農武信佐五右衛門(1805-1889)、弓ヶ浜半島出身の藩儒景山龍造(1817-1872)も知られる。文化人としては米子の歌人・竹内自安斎(1638-?)がある。近代には、生田長江、生田春月、伊良子清白、尾崎方哉がいる。
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