小便管から始まったフランス革命
フランス国王シャルル5世(在位1364-1380)がパリ防衛のため増城した城塞のうち、サンタントワーヌ郊外町につくられたものを特にバスティーユとよんでいたが、ルイ13世(在位1610‐1643)の時代から牢獄として使用されるようになった。投獄される者は政府を攻撃した文筆家などが多く、専制政治の象徴とみられていた。マルキ・ド・サドも筆禍のためこの牢獄の中で「ソドム百二十日または放蕩学校」をひそかに書きつづったといわれる。牢内には貴族やブルジョワが多く、だいたいにおいて、囚人の待遇は自由で快適なものであった。ただ一つの欠点は、この独房には便所がなく、小便はブリキ管の長い小便管で窓の鉄格子の外へ放出した。小便管は手前を漏斗状にした長いものであったらしい。サドは出獄したい一心で、その小便管を逆にもって、先の方を口へあて、つまりメガフォンの形にして、この牢獄内で非人道的な囚人虐待が行われていると、窓ごしに声をかぎりと放送した。ところが、この牢獄には厳重な城壁がなく、窓の外はすぐに街路だったので、サドの声は民衆の耳に響いた。当時食糧危機で不穏の形勢にあったパリの民衆はサドの言葉を信用し、バスティーユ牢獄を襲撃した。そして、この破壊が口火となって、フランス大革命というあれだけの大騒動がもちあがったというのである。(参考:田辺貞之助「西洋風流故事物語」)
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